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令嬢は男装する

 朝の訪れを告げる鳥の鳴き声が聞こえる。街の外れの蔦の絡む洋館の窓に、朝日が柔らかく差し込んでくる。

 昨日の出来事がまるで嘘のような、穏やかな朝。


「トビアス!」

 サーヴィングカートの車輪が立てるカラカラという音を聞きつけると、メルヴィは待ちかねたように扉からぴょこりと顔を覗かせた。


「おはようございますお嬢様……、って、その恰好は一体……」


 扉から見えるメルヴィの半身は、丈の短い黒のジャケットと白いシャツ、黒い細身のパンツに包まれている。それはトビアスが今身に着けているのと同じ、使用人の服装であった。

 メルヴィの姿をつま先から頭までじっと眺めてから、トビアスはため息をついた。


「今度は何を企んでるんですか……?」


 日々屋敷の中で退屈を持て余している彼の主人は、いつも思いつきでトビアスを困らせる。だから今更メルヴィが使用人の服装で目の前に現れたからといって、さほど驚きはしなかった。

 

 それにしてもこれはこれで……、と、思いながら、トビアスは改めてメルヴィに視線を送った。

 男性用のシンプルなシャツとパンツは、どこか少年っぽく中性的なメルヴィによく似合っている。そして同時に、近頃突然顔を覗かせるようになった女性らしさの片鱗が、男装であるからこそ逆に引き立って見えてくるから不思議である。


 そんなトビアスの視線にはまるで気が付かないで、メルヴィは自らの美しいプラチナブロンドの髪に触れると、小さく呪文を唱えた。指先がほのかに光り、髪がするすると短くなっていく。

 その様子を見ながら、いつ見ても不思議な魔法だ、とトビアスは思う。程なくしてメルヴィの髪は、昨日街に出た時と同じ茶色の、長さは昨日よりも短いショートカットに変化していた。


 髪が短くなり男性用の従者の服装に身を包んだメルヴィは、普段の姿を見慣れたトビアスから見ても違和感のない仕上がりだった。低い身長や華奢な体つきは男性というよりもどちらかと言えば“少年”といった様相ではあるが、メルヴィが元々父親似の顔立ちであることを思い出させる。


「今から殿下のお部屋に行こうとしていたのよね? 私が代わりに行くわ」

 メルヴィはトビアスの手からカートを取って歩き始める。


「えっ、ちょっと、待ってください! ダメですよ、そんな! 年頃の女性が男性の部屋に入るなんて……」

 トビアスがメルヴィを制止する。


……もう昨日、入ってしまったのよ……

 心の中でメルヴィは呟いた。

 淑女に対する当然の忠告を当たり前のように口にするトビアスを横目に、ため息まじりに下を向く。

 

 この忠告を、昨夜の私に聞かせてやりたい。

 そう思いながら、メルヴィは昨夜の出来事を思い出していた。

 

 昨夜、メルヴィはあろうことか、深夜に男性の部屋に忍び込むという暴挙を犯した。

 そして捕らえられ、ベッドに押さえつけられ――――……首を噛まれた。


 何故あの時部屋に入ってしまったのか、自分でもよく分からない。何かに導かれるように、気が付いたら足が動き、眠るルートの傍に寄ってしまっていた。

 満月がやけに明るい夜だった。

 

 朝起きて昨日の出来事が全て夢なのではないかとも思ったが、首筋に残る傷跡が、あれは夢ではないことを告げている。


 無意識に首に触れたメルヴィの動きに導かれて、トビアスの視線が首筋の傷に向けられる。


「これ……どうしたんですか」

「……さぁ……。……昨日の戦った時にでもついたんじゃないかしら?」


 その傷に触れようと伸ばしたトビアスの手を拒むように、メルヴィはシャツの襟元をぐっと持ち上げた。


 視線を逸らして、これ以上の追求を避けるようなメルヴィの仕草に、トビアスは口を噤む。


 だがトビアスは知っていた。

 昨日、気を失ったメルヴィをマルセルが抱きかかえて屋敷に戻ってきた後、そのまま眠り続けるメルヴィの枕元にトビアスはずっと控えていた。「ただ消耗しているだけなので心配ない」とマルセルには言われたが、万が一メルヴィが目を覚まさなかったらどうしようと思うと不安で居ても立っても居られなかった。汚れた服の着替えや体を拭くことはさすがに女性の使用人に任せたが、腕や足についていた細かな傷や痣の手当はトビアスが行った。


 だから分かる。

 夜になってトビアスが寝室を離れるまで、彼女の首にこの傷はなかったことを。



「とにかく、どうしても確認したいことがあるの。男の使用人だったら部屋に入っても問題ないでしょう?」


 理由の分からないモヤモヤとしたものを胸の内に感じながらも、従者という立場である自分が主人であるメルヴィを止めることが出来ないことを、トビアスは弁えている。


 何も言えないまま、トビアスは客間の扉をノックして入室の許可を得るメルヴィの後ろ姿を見つめていた。




「どうぞ」


 ノックの音が響いたすぐあとに、部屋の中から声が返ってくる。

 少し癖のあるハスキーボイスは、昨夜耳元で囁かれたものと同じだった。


 メルヴィが開いた扉の先に居たのは、端正な顔立ちの青年だった。

 少し長めの黒髪は柔らかく弧を描いている。生まれつきの癖毛だろうか。白い肌に、深く赤いルビーの瞳。その瞳は、顔も覚えていないメルヴィの母が残した宝石――“鳩の血”と呼ばれる、赤色の宝石――を思わせるような美しい色をしていた。やや垂れ目の目は長い睫毛に縁どられて、目元だけみれば女性のようにも見えるかもしれない。その目元の甘さを、真っすぐの眉とすっと伸びた鼻筋が引き締めて、美青年の顔を完成させている。


 ルート・メーレンベルフは窓枠に軽く腰を掛けて、長い脚を片方だけ窓に乗せて座っていた。

 

 開かれた窓から入る風がルートの髪を揺らす。

 メルヴィが扉を開けたにも関わらず、ルートは窓の外を向いたまま振り返らなかった。


 目の前の青年は確かに昨夜この部屋に居た人物と同じ見た目なのだが、受ける印象は随分違う。

 昨夜は確かに感じたこの世ならざるもののような気迫と冷たさは消え失せて、どこか寂しげに遠くを見つめる一人の青年の姿が、そこにあった。


「おはようございます。昨夜はよく眠れましたでしょうか」

 ミントを入れた水を水差しからグラスに注ぎながら、メルヴィは声を掛けた。

 

 メルヴィの声に、ルートが視線だけをこちらに向ける。


「……」

 ルートは質問には答えなかった。


 それでもメルヴィは、ルートの視線がじっと自分に注がれていることを感じた。

 体がこわばる。目を上げることが出来ず、水差しを傾ける自らの手を凝視した。今目を上げれば、こちらを見つめているルートと目が合うだろう。何故だかそれが怖い気がして、メルヴィはその視線には気が付かない振りをした。


「ねえ君」

 ふいにルートが口を開いた。


 メルヴィが顔を上げると、ルートはとん、と窓から降りて、今度は窓枠に少し体重をかけて腕を組む。


「君のご主人様について、少し教えてくれないかな」

「えっ?」

 予想していなかった言葉に、メルヴィは思わず聞き返した。


「マルセル伯には、16歳になるご令嬢が居ると聞いてる。名前はメルヴィ嬢といったかな。彼女はどんな人? 何でもいいから、ご令嬢のことを教えてほしい。これまで全く人前に出たことがないから、ご令嬢がどんな顔なのかも誰も知らないんだ。だから是非、この機会にお会いしたいんだけど、ご挨拶することは可能かな」


 先ほどまでの物憂げな様子はいつの間にかなくなって、いまやルートはにっこりと穏やかな笑顔で微笑んでいる。

 そして、驚く程流暢にぺらぺらと言葉を繋げて喋っていた。


 見る度に表情が変わる。受ける印象が全く違う。

 捉えどころがなく、何を考えているのか全く分からない人だ、と思った。


 にっこりと微笑んだその笑顔は、いかにも王子様のような優雅な微笑み。

 ただ、それが今まで見たどの表情よりも芝居掛かっていて作り物のように見えるのは、気のせいだろうか。


 ……それで、ええっと、なんだっけ。


 突然の“よそ行き”のような嘘くさい笑顔と饒舌な話し方にびっくりして思考が停止してしまったが、何を言われたんだっけ、とルートの言葉を頭の中で反芻する。


 ……ご令嬢?!


 ルートの言葉の意味を理解すると同時に、メルヴィは固まった。


 ……それは、あなたの目の前に居ますけど……


 なんてことは、言えるわけがない。自分は今、男装して使用人の振りをしている。


 何故いきなりルートが自分のことを聞いてきたのかが分からず、メルヴィは言葉に詰まる。


「どんな人、というのは……」


「何でもいいよ。見た目、性格、趣味、嗜好。好きな食べ物、好きな花。何故人前に出ようとしないのか、とか。――――それから、恋人はいるのか、とかね。何しろ顔も分からないんだから」


 ルートの言葉に、メルヴィはぴくりと反応した。


「え……えっと、つまり、殿下はお嬢様の顔をご存知ない、ということ……ですか?」


 念を押すように、メルヴィは尋ねる。


「うん。僕はメルヴィ嬢の顔は知らない、ね」


 ルートは何かを考えるように顎に手を当てながら、そう答えた。


 

 もしかして、とメルヴィは思う。

 ――――この人は昨夜のことを覚えていないのではないだろうか?

 


 そう思ったら、全てが納得できるような気がした。

 考えてみれば昨夜は明らかに様子がおかしかった。そもそも、王子様ともあろう人がいきなり女性の首筋に噛みつくなんて行為をするわけがないではないか。


 昼間に魔力を吸い取られて気を失った後だったし、あれはもしかしたら寝ぼけていたのかも知れない。


 寝ぼけていたからといって突然噛みつくのもどうかと思うが――――それはまあ、普段からそういう指向の趣味があるのかも知れないし。

 人の趣味は、人それぞれ。うん、口を出すことではない。


 綺麗すぎる笑顔がいささか胡散臭いとは言え、今ここにいる第二王子は少なくとも昨夜のように殺気立ってはいないし、突然噛みつくような危ない人にも見えない。


 きっと昨日は、寝ぼけていただけ。


 そしてうっかり、ちょっとした猟奇的な趣味(?)が表に出てしまっただけ。



 メルヴィは自分に言い聞かせるように、その結論を何度も頭に刻み込んだ。


 まあもうきっと二度と会うことのない人だろうし、本人が昨日のことを覚えていなくて、ただ寝ぼけていただけなのだとしたら、これ以上深く考えるのは辞めにしよう。

 それこそ犬にでも噛まれたと思って(随分高貴な生まれの犬だ)忘れることにしよう、とメルヴィは思う。



「それで、メルヴィ嬢はどんな人なのかな」


 一人でぶつぶつと思案をしていたメルヴィに、ルートのハスキーボイスが飛んでくる。


 ルートが昨夜のことを覚えていないのだとしたら、何かボロを出す前にさっさとこの部屋から退散したいのに、何故かこの人はどうしてもメルヴィのことが知りたいらしい。


「ど、どうしてそれを知りたいんですか?」


 恐る恐る、メルヴィは質問に質問を返す。



「あぁ、メルヴィ嬢に婚約を申し込もうと思って」


「!?」


 顔を上げれば、窓に寄りかかってまっすぐにこちらを見つめる、ルート・メーレンベルフのにっこりと微笑んだ隙のない笑顔があった。


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