VS トラップネイル 06
左腕がずきずきと傷む。メルヴィは出血を止めようと、ウォーレンに切られた部分よりも少し上を握り締めた。幾ら力を込めて押しても、次から次へと流れ出る血は止まらない。
「……皮膚の水分量で、電気抵抗は変わる」
観覧席のキトリが、誰にともなく呟いた。
「セイレーンのネスターと、人間のウォーレン・タイマーじゃ、同じ電圧に触れたとしても体内に流れる電流の大きさが変わる。ユーリの攻撃は、ウォーレンには大して効かなかったんだ」
キトリはフィールドの様子をじっと眺めていた。
ネスターは感電のショックで気を失ったまま倒れている。試合は一時中断され、担架を持った救護班がネスターとメルヴィの下に駆け寄っていく。
メルヴィが雷電を放った瞬間、一瞬だけ膝をついて倒れたウォーレン・タイマーは、すぐに意識を取り戻して立ち上がっていた。そして即座に剣を振り上げ、メルヴィの腕輪を切ることに成功したのだった。
意識を失っているネスターが担架で運ばれていく横で、メルヴィは自力で立ち上がった。負傷しているとはいえ、傷を負ったのは左腕だけだ。腕から流れた血が手を伝ってぽたぽたとフィールドに落ちていくが、1人で歩けない程ではない。
「ヒュー、ありがと。……ごめんね。せっかく助けてくれたのに、ヘマしちゃった」
メルヴィは後ろを振り返って言った。
「なっ……、そんなことより、お前、大丈夫か?!」
咄嗟にウォーレンを攻撃したままの状態で立ち尽くしていたヒューが、我に返ってメルヴィの下へ駆け寄ろうとする。
ピーッ、と、ホイッスルが鳴った。
「ヒュー・ベイカー、試合は一時中断中です。退場する選手以外はその場から動かないこと」
アナウンスが流れる。
悔しそうに唇を噛みしめながら、ヒューは踏み出そうとした一歩を元に戻した。
「大丈夫だから、心配しないで。……それより、置き土産があるんだ。俺が書けるのはこれくらいだったから、役に立つかは分からないけど。後はよろしくね」
メルヴィはそう言って、ヒューに微笑みかけた。
これだけ言えば、ヒューなら分かってくれるだろう。
メルヴィが仕込んだのは、電気を流すための導火線だけじゃない。
きっとヒューなら、気が付いて、上手く使ってくれる。図らずも置き土産となってしまった、もう一つの仕掛け。
声を出したせいか、ふっと目の前が暗くなって、視界にノイズのようなものが走る。今にも倒れそうなふらつく足取りで、メルヴィは何とかフィールドの出入口までたどり着いた。
「ニーニマーさん! 大丈夫ですか?! 医務室にお連れします。無理して歩かないでください、今担架をお持ちしますから……!」
「救護班」と書かれた腕章を身に着けた生徒が駆け寄ってくる。マッチの運営に救護スタッフとして入っている医学科の生徒だ。魔法科と医学科合同の授業で見たことのある顔だった。
「大丈夫です、大丈夫なので……っ! 医務室には……行かない、です……」
メルヴィは何とか呼吸を整え、出来るだけ平気な振りをしようとした。けれど、笑顔を作ろうとした口元はどうしても痛みに歪んでしまう。
「そんなっ! かなり深い傷ですよ! 今すぐ処置しないと!」
「でも……」
真っ直ぐ立っていることさえ出来なくなったメルヴィが、通路の壁に寄りかかりながらなおも抵抗しようとした時だった。
「僕が連れて行く」
ふわっ、と、体が持ち上げられる。
押し付けられた肩から、覚えのある匂いがする。薔薇の花のような、甘い匂い。
「ルート……?」
目を上げた先にあったのは、顔を半分隠したルートの姿だった。正装のマントを無造作にまるめて、顔の下半分を覆うように巻き付けている。
「ルート様!? で、でも……」
「僕がユーリを医務室に連れて行くから、君は心配しなくていい」
ルートはにっこりと微笑みながら、救護班の生徒に向かって言った。殆ど目しか出ていないのに、ルートがどんな顔で笑っているのかが分かる。いつもの、隙のない笑顔――――ルートが幻術を掛ける時に使う笑顔だった。
救護班の生徒は、ぼうっとした顔でルートにお辞儀をして道を開けた。にこにことお礼を言いながら、ルートはメルヴィを抱えて歩き出す。
「ルート?! どうしたの? なんで、いきなり……っていうか、俺、医務室には行かないから! 大丈夫だから、降ろして……っ」
メルヴィは目を上げて、ルートの顔を見ようとした。
女だということがバレる危険性があるので、医務室には行かないと決めている。このまま医務室に連れて行かれてはいけないと、メルヴィは痛みを堪えながらルートの腕の中で身をよじった。
抵抗するメルヴィに、ルートは抱き上げている腕にぐっと力を入れる。頭がルートの肩に押し付けられて、体がぴったりと密着するのが分かった。
「……黙って。医務室には行かない、ディディエのとこに連れて行く、それでいいね? お願いだから、ちょっと黙って。暴れないで。何も言わずに、僕の言う通りにして。 ……これ以上話してると、耐えられなくなりそうだから」
「え?」
ぐるぐるに巻かれたマントの向こうに見える目は、さっきまでの笑顔が嘘のように、眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいるように見えた。前髪の隙間に覗く額に、汗が浮かんでいる。
「ルート……?」
「だから黙れって!」
ルートが突然声を荒げた。
メルヴィはびくっと体を震わせて、困惑の目をルートに向ける。ただでさえ怪我の出血で意識が朦朧としているというのに、いきなり怒鳴られる意味が分からなかった。
「……ごめん、大声出して。その……ダメなんだ、……君の匂いにあてられそうになる」
メルヴィを抱き上げているルートの腕が、かすかに震えている。
メルヴィははっと気が付き、自分の左腕を見た。
濃い紺色のマッチの選手用のユニフォームが、左腕の部分だけ更に濃く黒く色を変えている。切れた布地の合間からは、腕の傷から溢れ出る鮮血の赤が覗いていた。
「君の匂いって……つまり、血の、匂い……?」
メルヴィは恐る恐る尋ねる。
無理やりマントを巻き付けて鼻と口を覆い隠したルートが、眉間に皺を寄せたまま短く頷いた。
不自然に巻き付けたマントの意味は、血の匂いを嗅がないようにするためだったのか、とメルヴィは初めて気が付いた。
ルートは、ヴァンパイアだ。
ヴァンパイアであるということを世間に隠していることもあって、ルートは普段はまるで普通の人間のように振舞っている。けれど、これだけの新鮮な血液を目の前にして理性を保ち続けられる程、ヴァンパイアの本能は弱くないはずだ。いくらルートが混血とはいえ、吸血衝動という生命の根幹に関わる本能的な衝動に抗おうとするのは、無理がある。
「お、俺っ、1人で歩けるから……! 怪我してるのも腕だけだし、大丈夫だよ!」
メルヴィは地面に下りようと、再び身じろいだ。
「…………僕が、怖くなった?」
その声は、いつものルートからは想像もつかない程、小さく、弱弱しく聞こえた。
メルヴィはルートを見上げる。
赤い瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。それは、まるで今にも泣きだしそうな子供のような目に思えた。傷つくことを恐れて、すがるような瞳。
マントで顔を覆っているために、目元だけが見えているせいだろうか。無防備な瞳が、いつもよりも強く、ルートの心の内を露わにしているように思えた。
「違う! そうじゃなくて……ただ、ルートを苦しめたくないんだ。無理して俺を運ばなくていいんだよ。ルートが我慢して、つらい思いして、苦しむのは、いやだよ……」
「もし、君が僕を怖くなければ……出来たら、このままで居てほしい。これは、僕のワガママなんだ」
ルートが目を細めてメルヴィを見つめる。
「こんな怪我してる君を1人で歩かせたくないのは、本当だよ。でもどこかで、ズルいことを考えてる。……血の誘惑に耐えてみせたら、失った信頼を取り戻せるんじゃないかって。この忌まわしい本能に打ち勝って、もう二度と君に危害を加えないと証明したい」
メルヴィを抱いている腕が強張っている。
メルヴィはとん、とルートの肩に、頭を預けた。ゆっくり目を閉じて、力を抜く。
恐怖など、始めから感じたことはない。
それが何故なのかは、自分でも分からなかった。
もしかしたら、再び襲われるかもしれない。今度こそ、全身の血を吸いつくして、食い殺されるか、ヴァンパイアにされてしまうかも知れない。そう思ってもおかしくはないはずなのに、何故かルートを怖いとは思わなかった。
「今でも、ずっと、信頼してるよ。怖いと思ったことなんてない。……本当に、ありがとう」
目を閉じたまま、メルヴィは呟いた。
自らの胸に沸き起こる気持ちが、少しでもルートに伝わればいいと思った。
ヴァンパイアに抱きかかえられているにも関わらず、とても安心していること。
ルートの腕の中が、心地よいと感じていること。
「それは僕の台詞だよ」
ルートはそっと顔を傾けて、メルヴィの頭に頬を寄せる。自らの腕の中の存在を慈しむように、ルートはぎゅっとメルヴィを抱き寄せた。
ルートの唇が髪に触れたような気がしたけれど、それは何重にも顔に巻かれたマントの感触だったのかも知れない、とメルヴィは思った。