2つの手
「そろそろユーリは次の試合の時間だね。ごめんね、時間を取らせて。僕も戻らないと」
ルートはそう言うと、いつものにっこりとした隙のない笑顔を浮かべて微笑んだ。
誰も何も言わないまま3人で並んで歩いていると、すぐにフィールドに続く選手用通路の入口に着いてしまう。「じゃあ」とルートが言って、その場を離れようとした。
その瞬間、メルヴィは思わず、ルートのジャケットの裾を掴んでいた。
「?」
振り返ったルートが、少し困ったような、それでも優しい目をメルヴィに向ける。
「えっ、あっ……いや、ごめん……」
どうしてそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。
ただ何となく、もう少し一緒に居たいと、思ってしまった。
マッチに対するものなのか、王妃に対するものなのか分からない不安が、じわじわと足元からせり上がってくる。心が落ち着かなくて、何かに頼りたくて。
思わず掴んだ裾の先で、ルートが足を止めて振り返ってくれたことが、嬉しくて。
その目が真っ直ぐにメルヴィに向けられただけで、恐怖に飲み込まれそうになる体が、ぎゅっと引き戻されるような気がした。
その気持ちを上手く言葉に出来なくて、メルヴィは裾を掴んだまま下を向いて唇を結んだ。
「……フィールドまで、一緒に行こうか」
ルートは何も聞かずに優しく微笑んだ。そして、メルヴィに向かってそっと手を差し出す。メルヴィはほっと安心したように息を一つ吐いて、差し出された手に自らの右手を重ねた。
「“メルヴィ”も。ほら」
ルートはトビアスに視線を送り、メルヴィの方を示すように眉を上げる。ルートに促されるまま、トビアスは慌てて逆の手をメルヴィに差し出した。
トビアスから差し出された手に、今度は左手を乗せる。
フィールドに続く暗い通路を、メルヴィは2人に手を引かれながら歩いた。
それはたった20メートル程度の距離だったが、一歩ずつ歩を進めるごとに、気持ちがすうっと静まっていくのが分かった。そわそわと落ち着かなかった心臓が、体の中心に戻っていく。一つ一つの臓器が正しい場所で規則正しくリズムを刻み始める。
今、自分がするべきことがクリアになっていく。
いたずらに不安がっていても仕方がない。
今メルヴィがするべきことは、目の前の勝負に勝つことだけだ。
右手には、ルートの細くて長い指と、少し冷たい体温を感じる。
左手は、トビアスの大きくてごつごつとした手に包まれて、温かい温度を感じる。
2つの手に支えられているからこそ、メルヴィは真っ直ぐに前を向くことが出来る。
「……ありがとう、2人とも」
メルヴィはそっと呟いた。
振り返った2つの笑顔は、どちらもとても優しい。2人に応えるように、メルヴィは握った手に力を込めて、にこっと微笑みを返した。
「遅えぞ、ユーリ」
気が付けば、もう通路の終わりまでたどり着いていた。
通路の先に広がるフィールドからの光を受けながら、ミランとヒューがメルヴィを迎え入れる。
フィールドの上では、前のチームの試合が行われている。激しくぶつかり合う剣の音、叫び声、歓声や怒声が音の波のように襲い掛かってくる。
ここは、静かで安全に守られた屋敷の中とは、まるで違う外の世界だ、とメルヴィは思う。
差別や偏見に晒され、人の悪意に触れ、つらいことも苦しいこともたくさんある世界。戦い続けなければいけない世界。
けれどここには、共に戦う仲間が居る。
いつまでも怖がって下を向いているわけにはいかない。
この先に待ち受ける運命がどんなものだとしても、戦い続ける。後戻りは出来ない。
私はもう、あの屋敷から出てしまったのだから。
メルヴィはぐっと唇を噛んで、顔を上げた。
本日のお昼にもう1話投稿予定です




