第二王子の告白 03
「お前、昨日大丈夫だったのかよ。……その、色々と」
席につくと、既にクラスルームに来ていたミランが前の席から振り返って言った。
「心配してくれたの? ありがとう。俺は全然大丈夫だよ」
「そりゃするだろ……一応、ヒューの方は俺がきつく絞めといたから」
ミランは片方の眉を上げて、苦笑いのような表情を浮かべる。
「えっ、そんなことしなくて良かったのに――――……っと、ヒュー!」
教室の入り口にヒューの姿を見つけたメルヴィは、立ち上がってヒューの名前を呼ぶ。
いきなり声を掛けられたヒューは驚いたように身じろいだ。そして気まずそうな顔をしてメルヴィに軽く頭を下げると、そのまま一番前の席に向かって歩いて行ってしまった。
「うっわ。俺はちゃんと謝れって言ったのに、何だあの態度。ホント根暗なヤローだな」
ミランが悪態を吐く。
「何でそんなことばっかり言うの。確かにお酒を進めたのはヒューだけど、俺は自分の意志で飲んだんだよ。ヒューだけが悪いわけじゃない」
勢いよく立ち上がったはいいもののヒューに通り過ぎられてしまったので、メルヴィは仕方なく再び椅子に腰を下ろす。
「いやいや、酒だけの話じゃないっていうか、その後の方が問題っていうか……」
「そのあと?」
「えっ。……ユーリ、もしかしてお前、自分が何されかけたか分かってねえの?」
「?」
メルヴィのきょとんとした表情に、ミランが盛大にため息を吐いた。
昨夜、メルヴィはヒューに勧められるままにビールを飲んで2人で酔い、じゃれ合っているうちにベッドに倒れ込んだ。
色事に疎いメルヴィにとって、認識している事実はただそれだけのことだった。
メルヴィに覆いかぶさったヒューの欲に駆られた表情のことも、絡めた手の動きが示す意味も、メルヴィは理解していなかった。
……あの時、ルートとミランが現れなければ、何が起こっていたのかということも。
「ちょっと俺、ヒューのとこ行ってくるね」
「えっ、ちょっと、お前……っ!」
メルヴィは再度立ち上がり、ミランの制止の声も聞かず、階段状になっている教室を前方に向かって早足で降りていく。
「ヒュー」
一番前に座るヒューの後ろ姿に声を掛ける。ヒューはびくっと肩を震わせて反応したものの、メルヴィの方を振り返りはしなかった。
「ヒュー!」
メルヴィは腰に手を当てて、もう一度名前を呼ぶ。
「……ユーリ」
観念したように、ヒューがそろそろと顔を向けた。
「ヒュー、おはよう」
「……おはよう……」
ヒューは顔こそメルヴィの方へ向けているものの、その目は気ぜわしく左右に泳いでいる。
「ヒュー。ちゃんとこっち見て。俺の顔見て」
メルヴィはヒューの頬に両手を当てると、ヒューの顔を固定して自分の顔をぐっと近づけた。正面からじっとヒューの目を見つめる。
「なんだよっ、……っ、痛っ!」
「あっごめん。って、ここ、赤くなってる。昨日火が当たったところ?」
「あ? ……あぁ、うん。大したことないから」
「ダメだよ、火傷を放置したら痕になっちゃうよ。ちゃんと手当てしなきゃ」
メルヴィの手を振り払おうとするヒューの手を掴んで、そのまま強く引いて立ち上がらせる。ヒューは顔を真っ赤にして硬直したまま、メルヴィにされるがままになっていた。
「俺が手当てしてあげる。ほら、医務室行こ」
メルヴィはヒューの手を引いて、クラスルームから出て行った。
そんな2人の様子を、ミランが呆れたように見つめている。
「うわぁ……何あれ。無自覚っていうかなんて言うか。あいつ天然なの? ったく、お前のとこの教育はどうなってんだよ。お前の従者に鏡の一つでも渡して、あのおキレイな顔にどんだけの破壊力があるかを分からせてやれよ、メルヴィ――――」
そう言いかけて振り返ったミランは、目の前に広がっていた光景に、肩からアカデミーの制服のジャケットがズリッと落ちた。
「メルヴィ、昨日はお疲れ様! 歓迎会楽しかったね」
「はい! ありがとうございました!」
「おいっ、メルヴィ、今日こそは俺たちの方の歓迎会に出てもらうからなっ!」
「はい! 楽しみにしてますね!」
“メルヴィ”の周りに、男女問わずたくさんの生徒が集まっている。生徒たちに囲まれて、大柄な体で頭一つ出ている“メルヴィ”はにこにこと微笑みながら次々に掛けられる言葉に笑顔で対応していた。
「あっメルヴィ~、明日空いてるー?」
「なあメルヴィ」
「メルヴィ!」
「メルヴィ」
誰もがその名前を口にする。
「……従者が従者なら、主人も主人、か……。2人揃って、ド天然っていうか、人たらしっつうか……」
ミランは頭痛がするとでも言いたげな仕草でこめかみを押さえると、再び大きくため息を吐いた。
その日、ルートはそのまま授業には現れなかった。
場所は変わって、教養科目の授業が行われる中央棟から少し離れた、研究棟に隣接した温室の中。
ルートがしゃがみ込んで膝を抱えている。その斜め後ろではディディエが植物たちの世話をしながら、ポツリポツリと紡ぎ出されるルートの言葉に耳を傾けていた。
「……まったく、ルートちゃんもユーリちゃんも朝のレッスンに来ないと思ったら、そんなことになってたとはねぇ」
ディディエが茎を撫でると、薬草が喜んでいるかのようにピンと力強く葉を広げる。その様子に「いいこ、いいこ」と優しく声を掛けながら、ディディエはチラリとルートの方へ視線を送った。
「……ほんとに、あんなことするつもりじゃなかったんだ……だけど止められなくて。彼女と居るといつもそうなる……コントロールが効かないっていうか……彼女、魔力が高いからか、血がすごく美味しいんだ。その匂いにあてられると、頭に血が上ったみたいになって……すごく高揚感を感じて幸せな気分になるときもあれば、時々無性に彼女が憎くなったりもする。彼女が欲しくてたまらくなって、自分のものにしたいって思って……最悪だよ、ホントに。これがヴァンパイアとしての本能なのかと思うと、自己嫌悪だ」
抱え込んだ膝に額をつけて、ルートは顔を伏せたまま、ぼそぼそと言った。
ディディエはしばらく何かを考えるように黙っていた。
そして、近くに咲いていた薔薇の花を一輪手折ると、まるで置物のように丸まってしゃがんでいるルートの背中に向かって差し出した。
「ねえルートちゃん、ちょっとコレ食べてみて」
ようやく顔を上げたルートが、差し出された薔薇を恐る恐る受け取る。
「……温室の花は食べるなって言ってたのに、どうしたの」
「当たり前よ。ここの子たちはね、研究のために、あたしが精魂込めてお世話してんのよ。あんたのオヤツを作ってんじゃないから、おいそれとはあげられないわよ。だけどいいから、ちょっと食べてみて」
薔薇の花から花びらを1枚もいで口に入れる。
ヴァンパイアは、人間の生き血を啜って生きる生き物である。
けれど昨今、最低限の血液摂取で生きていけるよう進化した個体が現れつつあった。
ヴァンパイアのみならずライカンやセイレーンでも、一部の先進的な個体は人間社会の生活に適するように進化をしている。
例えば、本来は満月の夜に強制的に狼となるはずのライカンのミランは、月の満ち欠けや昼夜に関係なく狼の姿に自在に変身することが出来るし、獣体の時でも意識をはっきりと保ち言語まで話すことが出来る。水陸両生とは言え基本的には水中で生活するはずのセイレーンであるキトリも、問題なく陸上のみでの生活を送っている。
このように、異種族の中でも先進的な一部の個体は、より人間に近づくように生態を進化させてきた。
街や人間社会から遠く離れたところで暮らしている異種族の中には、原始的で本能に従った生き方をしている者も居るが、人間優位のこの国においてはそうした原始的な個体は次第に淘汰されつつあり、より人間に近い体を持つ者が生き残ってきた。
アカデミーに通うことが出来るような異種族は、この進化した個体の者たちである。
進化を遂げたヴァンパイアが血の代わりに摂取するようになったのは、薔薇の花だった。
ヴァンパイアが食しているのは、人の血そのものというよりも、そこに含まれる魔力である。魔力の配合が血液と似ている薔薇を血の代わりに口にすることによって、むやみやたらに人間を襲わずとも栄養補給が可能となるのだった。
ルートはディディエから手渡された薔薇の花を全て食べ終えた。
「どう?」
「どうって……、美味しかったよ」
「そりゃそうよ。このあたしが育ててるんだもの、その薔薇はとびっきりの一流品なのよ。この国に存在する中で一番美味しい薔薇と言っても過言ではないわね」
「うん、そうだね。とても美味しかった、ありがとう。……なに、これは単に僕を励ますためにくれたの?」
上質の薔薇を口にしたことで少しだけ元気が出たのか、ルートは立ち上がってパンパンと服についた砂を払った。
「違うわよ。ねえルートちゃん、あたしは一流の魔女なのよ。あたしの魔力がいかに多くていかに上質か、今それを食べたルートちゃんなら分かるわよね? あたしの血は極上のご馳走、最高級品よ」
ディディエはルートの方へ向き直り、正面に立って手を広げる。ハグを待つかのように手を広げて首を傾けてみせるその仕草に、ルートはげんなりしたような顔を見せた。
「だから何。そんなことは分かってるよ。今度は薔薇じゃなくて血でもくれようっていうの? 別に僕は君の血を吸いたいわけじゃないから、そんなことはしなくていいよ」
横目でじろりとディディエに視線を送る。
ふふ、とディディエが笑った。
「それが答えよ、ルートちゃん。もしもあんたがただ単にヴァンパイアの本能に惑わされているだけなんだとしたら、あんたは今この場であたしに襲い掛かったっていいはずなのよ。でも違うんでしょう? ……だったら、一度、自分がヴァンパイアってことは抜きにして考えてみなさいよ。
ルートちゃんはきっと、ヴァンパイアじゃなかったとしても、ユーリちゃんと一緒に居るとドキドキしたり、イライラしたり、感情のコントロールが効かなくなって……彼女が欲しい、自分のものにしたい、って、思うんじゃないの」
「……つまり……?」
ディディエの言葉に、ルートは眉を顰めて目を細めた。
温室には真っ赤な薔薇が咲いている。
ディディエの魔法によって育てられた薔薇は瑞々しく色鮮やかで、花びらの一枚一枚まで栄養が行き届いているかのようにピンと張っている。色も形も大きさも、何もかもが完璧な薔薇だった。
けれどルートは、自室のデスクの花瓶に飾ってある一輪の薔薇のことを思い浮かべていた。
その薔薇を口に含んだ時に広がる香りを、舌に残る甘さを、胸を締め付けるようなあの苦さを、思い出していた。




