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魔女の血を引く辺境伯令嬢、男装して婚約破棄を試みる 〜恋と魔法と革命の物語〜  作者: 狸穴むじな
第三章 王立アカデミー マッチ編 
43/69

満月の夜の再会

 メーレンベルフ王国の紋章は、太陽と月を表す。

 燦然と輝く太陽の中心に、細く鋭い三日月が組み合わされた文様である。


 けれど常にその姿を変えることのない太陽と違って、月は満ち欠けを繰り返している。

 三日月は新月となり、新月は満ちて満月となる。満ちた月は時間と共に欠け、また再び満月が訪れる。


 メルヴィとトビアスの前にルートが現れた日から、ひと月が経とうとしていた。

 あの日と同じように、今夜も月は丸く、やけに明るい満月だった。


 

「ねえっ、ちょっと、降ろしてって!」

 メルヴィはルートの肩に担がれるように抱きかかえられて寮の廊下を進んでいた。


「降ろさない。あんなに忠告したのに、目を離すとすぐにこれだ。君は一体何を考えてるの」


 ルートの声は低く、怒っているように聞こえる。まるで荷物のように肩に担がれているため、メルヴィからはルートの顔を見ることが出来なかった。


 ヒューに押し倒されたところに現れたルートは、ヒューの目の前でメルヴィを抱きかかえると、そのまま黙って部屋を出た。

 驚いて声を上げるメルヴィに構わずに歩き出したルートに、ヒューもミランも何も言うことが出来ないままその背中を見送った。


 廊下の突き当りの一際大きな自室の前にたどり着くと、ルートは鍵を開けて中に入る。

 開け放したままだった窓から入る夜風が、窓を覆うカーテンを吹き揺らしていた。暗い部屋の中に満月の月明りが差し込み、マホガニーの床に窓枠の影を落としている。


「ねえってば、ルート! 怒ってるの?! 何で? 俺ルートに怒られるようなことしてな――――……」


 視界が揺れ動き、背中に衝撃が走る。

 ルートはメルヴィを乱暴にベッドの上に降ろした。薔薇の花のような、甘い匂いが鼻先をくすぐる。ルートの匂いがする。

 メルヴィは、メルヴィの部屋ではなく、ルートの部屋の、ルートのベッドの上に降ろされていた。


「何で、って? こんな夜中に、男の部屋で二人きりになって、酒を飲んで酔って、ベッドに押し倒されて? それを何で怒らずにいられると思うの?」


 明かりをつけていない真っ暗な部屋の中、窓の外の満月の月を背負って、ルートの影がメルヴィの視界を塞ぐ。

 両足の動きを封じるように、ルートはメルヴィの上に身を乗り出した。掴まれた両手がベッドのシーツに押し付けられる。上質なマットレスが、二人分の体重を受けて深く沈んだ。


「痛い、離して! 別に、俺とヒューはそんなんじゃ……っていうか、ルートには関係ないっ! 何でそれで俺がルートから怒られなきゃいけないの」


 メルヴィはルートの手を振りほどこうともがいたが、幾ら力を込めてもその拘束を解くことは出来なかった。逆光になっているせいで、ルートの表情が分からない。

 ヒュー達の部屋を出て以来、ずっとルートの顔が見えずにいるために、何だか知らない人を前にしているような気持ちになる。


「しかも……何でよりによって、今夜なんだ」

 そう呟いたルートの声は、わずかに震える、うめき声にも似た声だった。


「僕だって、こんなことをしたいわけじゃない、……だけど今夜はダメだよ……耐えられない。……君が他の奴に触られるなんて、我慢できない」

 

 ルートの体がメルヴィの足を押さえつけ、ルートの手がメルヴィの手の自由を奪っていた。


「……君は僕のものだ……絶対に誰にも渡さない。……君は、僕のものだ……」


 うわごとのように、ルートは繰り返した。


 ルートは頭を垂れると、メルヴィの胸に額を当てる。それはまるで、懇願するようでもあり、祈るようでもあった。


 月明りが、ルートの輪郭を照らし出す。長い睫毛が月光に輝く。


 ルートが、ゆっくりと顔を上げた。

 伏せられた瞳がやがて開かれ、赤い瞳に光が差し込む。


 ようやく露わになったルートの顔を見た瞬間、メルヴィははっと息を飲んだ。全身が、呼吸をするのを忘れたように動かなくなる。


 闇のように深い漆黒の髪が波打ち、その間から赤い瞳が真っ直ぐにメルヴィを捕らえている。濡れた唇がわずかに開いている。


 その顔は、この世ならざるもののように美しかった。


 この顔を、見たことがある、とメルヴィは思った。

 メルヴィの脳裏に浮かぶのは、メルヴィとルートが初めて会った日の夜。寝ているルートの部屋に、メルヴィが忍び込んだ時のこと。

 あの日も今日のように、満月の夜だった。


 体がふわふわと宙に浮くような感覚に襲われて、全身から力が抜けそうになるのを、メルヴィは必死に引き戻そうとした。ルートに押さえつけられた体の、唯一自由になる頭を強く振って意識を保つ。


「……ルート……ッ」


 メルヴィはルートの名前を呼んだ。

 一か月前には、こんな風に呼ぶことのなかったルートの名前を、喉の奥から絞り出すような声で呼んだ。


 その声に、一瞬だけ、ルートがびくっと体を震わせたような気がした。

 ルートの赤い瞳に動揺のような揺らぎが走る。


「ごめん……ダメなんだ、君と居ると……。……君の匂いが、僕を狂わせる。君が欲しくて……正気で居られなくなる。君が欲しくてたまらなくなる」


 ルートは眉間に皺を寄せて、苦しそうに頭を振った。

 自分でも制御することの出来ない衝動に抗うように、ルートは何度も頭を振った。


「ルート……」

 メルヴィはルートを見た。


 顔を上げたルートが、泣きそうな顔をしたように見えたのは、束の間のことだった。


「!」

 メルヴィを押さえつけていたルートの手に、一際強い力が込められる。


 身を乗り出した体に遮られて、月が隠れた。

 メルヴィの視界に刻まれたのは、ただ一つの、黒い影。


 ルートはメルヴィの首筋に唇を這わせる。温かい感触だけが、暗闇の中でやけにはっきりと感じられる。

 そして次の瞬間、鋭い痛みが走った。


 首筋に歯が立てられている。

 体から力が抜けていくのが分かる。頭が働かなくなる。暗闇に浮かんだルートの後頭部の影が、段々と輪郭を曖昧にして闇に溶けだしていった。

 あとはもう、どこまでも広がる、暗闇。


 メルヴィはそのまま、ゆっくりと意識を失った。


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