令嬢と従者は屋敷を抜け出す 03
使用人の少ない屋敷は、マルセルさえ外出してしまえば抜け出すのは容易である。これまでに何度も実行していることもあって、あっさりと家から出ることが出来る。
半年ぶりに下りる街の様子に、メルヴィの足取りも軽くなった。
街は活気に満ちていて賑やかだ。
すれ違う人は髪や肌の色も様々で、異国の民族衣装を身に纏う人も多い。
市場には様々な珍しい品物が溢れ、商人も客も生き生きとした顔をしている。
「お嬢様、楽しそうですね」
あちこちをきょろきょろと見渡しては目を輝かせるメルヴィの横顔を、トビアスが目を細めて見つめる。
「もちろんよ! あなたにとっては見慣れた街かも知れないけれど、私にとっては面白いものばかりだわ」
露店に並ぶ色とりどりのガラス細工を覗き込みながら、メルヴィが言った。
太陽の光を受けてキラキラと輝くガラス細工は、小さな珠をいくつも並べてアクセサリーに加工されて売られている。
きれい……とつぶやきながら、メルヴィはそれらを夢中になって見ていた。
「これなんてどうだい、あんたの瞳の色にぴったりだよ」
露店の店主の男が、ひょいと商品の一つを取って掲げて見せる。それは、鮮やかなブルーのガラスがあしらわれた髪飾りだった。
店主は髪飾りを勧めようと、「ほら」と言いながらメルヴィの髪を手に取って当てて見せようとする。
「……!」
店主の手がメルヴィの髪に触れそうになった瞬間、トビアスは思わずその手を掴んでいた。
メルヴィが驚いてトビアスを見上げる。
トビアス自身も、咄嗟の自分の行動に驚いた顔をしている。
屈強な体つきに似合わず穏やかで人の好い性格のトビアスは、不躾に他人の手を掴むなどということはこれまでしたことがなかったのだ。
「あっ……、すみませんっ! えっと、これ、買います!」
トビアスは取り繕うように慌ててそう言うと、あわあわと焦りながら懐から小銭入れを取り出した。
「えっ、ちょっと、トビアス、どうしたの……?!」
突然のトビアスの行動に戸惑うメルヴィをよそに、トビアスが代金を支払うと、店主が呆れたように笑った。
「やれやれ、嫉妬深い恋人を持つと苦労するね、お嬢さん? こっちとしてはありがたいけどね。 まいどあり!」
「……嫉妬? ……恋人……?」
店主の言葉の意味が分からず、メルヴィは顔中にはてなを浮かべながら首をかしげる。
「……これは差し上げます」
メルヴィの言葉には何も答えず、トビアスは真っ赤になって顔を逸らす。
明後日の方向を向いたまま、手に入れたばかりの髪飾りをぐいっとメルヴィの手に押し付けた。
「ダメよ、トビアス。もらう理由がないわ」
「きっと似合いますよ。……あとで家に帰ったらつけさせてくださいね」
メルヴィの言葉を遮るようにそう言うと、精一杯に“いつも通り”の笑顔を作って微笑みかける。
トビアスはどちらかといえば感情がそのまま顔に出るタイプの人間であるため、慣れない作り笑いの不自然さはメルヴィも気が付いていたが、何故かこれ以上は何も聞けない気がして言葉をつぐんだ。
手のひらに押し付けられた髪飾りに躊躇する視線を向けるメルヴィの頬に落ちる一筋の髪を、トビアスはそっとつまんで耳にかける。
ちらりと横目でメルヴィを見れば、しばらく飾りを眺めていたメルヴィが、少し悩んでから「ありがとう」と笑顔を見せた。
「お嬢様、どこか他に行きたいところは―――」
気持ちを冷静に戻すためにコホンと一つ咳払いをしてから、トビアスはそう言いかけて、
「―――……おさがりください」
と低い声で言った。
トビアスの目に、さっと鋭い光が灯る。
トビアスはメルヴィの腕をつかむと、守るように自らの後ろに引き入れた。
視界いっぱいに広がるトビアスの大きな背中の陰から少しだけ顔を出して、メルヴィは辺りの様子を伺う。
トビアスの視線の先を追いかけると、見慣れた馬車が目に入ってくる。
マルヴァレフト辺境伯家の紋章の入ったよそ行きの馬車。
「お父様……?」
その馬車の陰で、いくつかの人影が揉みあうように動いているのが見えた。遠くからでははっきりとは見えないものの、嫌な予感が走る。
人波を掻き分けて近づくにつれ、馬車の陰になって見えなかった様子が見えるようになる。
父マルセルを囲むように、黒いフードをかぶって顔を隠した5、6名の男が剣を構えていた。
派手な動きや音がないせいか、道行く人は状況に気が付いておらず、往来は賑やかなままだ。
馬車のすぐ後ろを、ボールを追いかけて小さな子供が走っていく。
静かな緊張が走る。
じりじりと間合いを詰めるフードの男たちの中央で、俯いたマルセルの口が動き、ゆっくりと何かを呟いた。
次の瞬間、チカッ、と一瞬だけ閃光が光る。
それはあまりにも短い一瞬で、道行く人の何人かは不思議そうな顔で一瞬目を上げたものの、すぐに何でもないように日常に戻っていった。
ドサッ、という鈍い音ともに、道路に黒い影が落ちる。
中央に立つマルセルを残して、囲んでいた男たちが崩れ落ちていた。
たった一撃で無残に倒れた男たちを一瞥した後、呆れたようにため息を吐いてから顔を上げたマルセルは、はっとしたように目を見開いた。
マルセルの目に、立ち尽くす一人の少女の姿が映る。
「お父様……」
「メルヴィ! どうしてここに! 家から出てきたのか?」
髪色と髪型を変えている娘の変装をすぐに見抜いた父親が、駆け寄ってくるメルヴィの腕を勢いよくつかんだ。
「お父様、ご無事ですか?!」
「私は大丈夫だ、こんなことは何でもない……それより何故ここに居る!? 家に戻りなさい!」
マルセルがメルヴィの両腕を掴み、強い口調でそう言ったときだった。
ガタン、とかすかな音がして、二人の後ろで馬車が揺れた。
「……しまった!」
マルセルがはっとした顔をして馬車を振り返る。
「殿下!!」
マルセルがそう言ったときには、いつの間にか現れた黒い外套の男が、馬車の中から黒髪の青年を運び出すところだった。
黒髪の青年は力なくぐったりとした様子で、男の腕に抱えられている。
マルセルが駆け出すよりも早く、青年を抱えた男はあっという間に人波の中に消えていった。
「私としたことが、迂闊だった……!」
マルセルが舌打ちをする。
「……メルヴィ、私は……殿下を助けに行かなければいけない。 ……いいか、お前は屋敷に戻るんだ」
呆然と立ち尽くすメルヴィの耳に、マルセルの声が届く。
――殿下。
マルセルの言葉が、頭の中で反芻される。
今メルヴィの目の前で連れ去られたのは、お忍びでこの街を訪れていた第二王子だというのか。
最初にマルセルを取り囲んでいたフードの男たちも、王子を狙った者なのだろうか。
王子が連れ去られる隙を作ってしまったのは、突然現れたメルヴィにマルセルが気を取られていたからだ。
男が消えた方に向かって走り出すマルセルの背中を見ながら、メルヴィの体は小さく震えていた。
どうしよう。私がお父様を呼ばなければ、こんなことには……
俯いて視線を泳がせていたメルヴィは、しばらく何かを考えていた。そして、決心したようにぐっと唇を噛むと、大きなサファイアの瞳を見開いて前を向いた。
「……私も行くわ」
「お嬢様?!」
驚く従者の声を背中に受けながら、メルヴィはスカートの裾を翻すと、マルセルの後を追うように大通りへ飛びだしていった。