水は知性 火は情熱 02
男子寮の一室でルートとメルヴィが言い争いをしていた頃。
時を同じくして、対になって並ぶ女子寮の一角にも不穏な空気が漂っていた。
「見て、彼女がきたわ。静かにしないと、何でも聞かれちゃうわよ」
「異種族と隣の部屋なんて、私イヤだわぁ。あぁこわい。平民の方の部屋に行けばいいのに」
「仕方ないじゃない、素性がどうであれ、今は伯爵令嬢よぉ。上手くやったわよね。異種族の癖に伯爵家に入るだなんて、一体どんな手を使ったのかしら」
「ふふふ、彼女はセイレーンですもの、お得意の色仕掛けでもしたに決まってるわ」
キトリが向こうから一人で歩いてくるのを見つけると、廊下で立ち話をしていた生徒たちがひそひそと話し始める。
それらの話し声はキトリの耳にも届いていたが、もう慣れたことなので聞こえないふりをして足早に自室に入ろうとする。
「ねえ知ってる? 彼女、オルガのことを殺そうとしたらしいわよ」
「聞いた聞いた! 幻術で操って動けなくしたんでしょ」
「恐ろしいわ、そんな人が何でまだアカデミーに居るのかしら? 退学にすべきじゃなくって?」
「……!」
これにはさすがにキトリも腹が立ったのか、振り返ってキッとご令嬢たちを睨みつける。
アルクトドゥスに食堂が襲われた際、キトリが他人の行動を操る幻術を使ったのは本当だ。
けれどそれは、その場に居た生徒たちがパニックを起こさずに安全な場所へ避難するために行ったことだった。
しかし、勿論わざとではないが、そのせいでオルガを危険な目に遭わせてしまった。
あのときにすぐにオルガの危険に気が付けなかったことをキトリは深く後悔している。ユーリやメルヴィ、ルートが居なければ、本当にオルガを殺してしまっていたかもしれない。そのことを想像すると、誰よりもキトリ自身が、自分の力を恐ろしく感じてしまうのだった。
セイレーンが使う幻術は、人の精神に作用する魔法だ。
セイレーンは歌を歌うことで、人を思うままに操ることが出来る。
誰かを思い通りに動かす力なんて、別に望んで持って生まれたわけじゃない、とキトリは思う。
この力のせいで、恐れられ、忌み嫌われて生きてきた。
自分でも持て余す程の、強大な力。
それでも、自分は恵まれている方なのだ、と、キトリは唇を噛む。言い返したい気持ちをぐっと堪えて、言葉を飲み込んだ。
セイレーンは皆、海の中で生まれる。
多産な種族のため、一度の出産で複数の子供が産まれるようになっている。
けれどその体は弱く、生まれた子供のうちの殆どは成長することなく死んでいく。それどころか、子を産んだ母体さえも出産に耐えきれずに命を落としてしまうことが多い。
成長することの出来た個体であっても、その多くが年頃を迎える頃になると、密猟者や不法な組織、犯罪者たちによって捕らえられ、売られたり、非合法的な場所で働かされたりするようになる。
それらの危機を運よく生き延びたとして、待ち受けているのは、この国の社会の底辺で貧困に苦しみながら生活するという一生に過ぎない。それでも、無事に生きていられるだけで幸せだ。
そうした環境の中から、キトリはヘイノーラ伯爵夫妻によって救い出された。
豊かで何不自由のない生活が与えられ、アカデミーにまで通わせてもらっている。
こんなことで揉め事を起こすわけにはいかない、とキトリは拳を握り締める。ここでトラブルを起こせば、伯爵夫妻にも迷惑が掛かる。異種族であるというだけで不利なのだから、トラブルになった場合に一方的に悪者にされるのはキトリの方に決まっている。
キトリに睨まれて、ご令嬢たちがひっと怯んだ。
キトリはそのまま、何も言わずに自室の中へ入ろうとする。
その時だった。
「……それは違いますよ」
野太い声が、キトリの何倍もある大きなシルエットと共に現れた。
「キトリは、皆さんを守ろうとしたんです。術を掛けている間は自分の身も無防備になるのに、それにも関わらず、出来るだけ多くの人を助けようとした。キトリが居なかったら、あの場はもっと悲惨な状態になっていたに違いありません」
筋肉質な体をアカデミーの制服に詰め込んだ、金髪縦ロールの巨大なご令嬢が、廊下の真ん中に立っている。本人はごく普通に立っているつもりなのだが、その体躯が回りのご令嬢と比べてあまりに立派であるために、仁王立ちになってそびえ立っているように見えてしまう。
「メルヴィ……」
キトリは驚いたように小さくその名前を呟いた。
“メルヴィ”ことトビアスはキトリの方へ歩み寄り、キトリを守るようにその前に立った。そしてご令嬢に向かってにっこりと微笑むと、その立派な体には似つかわしくない、人の良さそうな笑顔を浮かべて、言葉を続けた。
「セイレーンの力は、たしかに大きなものです。でもキトリは、その力を人を守るために使った。大切なのは、どんな力を持っているかじゃなくて、何のためにそれを使うか、なんじゃないでしょうかね」
……なんて、ちょっと偉そうですかね? と、少し照れたようにトビアスが笑う。
「で、でも、その方はオルガ様を殺そうとしましたわ!」
「それについては、本人から聞いた方がいいんじゃないでしょうか? ね?」
トビアスは廊下の隅の方に視線を送る。物陰になっているところで、一つの人影がびくっと驚いたように飛び上がった。
皆の視線がそちらに注目する。
そこには、オルガ・フランセンが、物陰から様子を伺うように顔を覗かせていた。
「えっ、いや、その……っ!」
オルガはしどろもどろになりながら、それでもそろそろと物陰から前へ進み出る。
「……あれは、事故でした……っ ……キトリさんは、私に危害を加えようとしたわけじゃありません! 私はこの通り怪我もしていませんし……それに、あの……っ」
オルガは一瞬言葉を切って、何かを言いかけて辞めた。
しかしすぐに決心したようにその若葉色の大きな瞳を見開くと、真っ直ぐに前を見て、はっきりとした声で言った。
「……私とキトリさんは、友達なんですっ!!」
ぐっと両手を構えて、可愛らしい顔をキリッと整え、オルガは大声で宣言する。
だから何だ、と言われてしまえばそれまでなのだが、「どうだ!」とばかりに、フンッという荒い鼻息さえも聞こえてきそうなオルガの迫力に、ご令嬢たちは思わずあっけにとられて何も言い返せないでいる。
その様子を苦笑いしながら見ていたトビアスの後ろから、キトリが顔を出す。
そして、トビアスにしか聞こえないような小さな声で呟いた。
「……友達になるとは、まだ言ってない……」
キトリの言葉に、トビアスは眉を下げて笑う。
「友達って、なるって決めてなるものじゃなくて、気が付いたらなってるものなんじゃないかな」
キトリは自分よりも遥かに大きなトビアスを見上げた。
その視線に気が付いて、トビアスはにこっと微笑みを返す。
何故か得意げなオルガの方にチラリと視線を送ってから、キトリはもう一度改めてトビアスを見た。
「……そう、かもね」
ふふっと口元を緩ませる。
「初めて笑った」
キトリの笑顔に、トビアスは嬉しそうに顔をほころばせて、言った。
「キトリは笑顔の方が、絶対にかわいいよ」
キトリの頬が一気に赤く染まった。