令嬢の勉強会 02
その日の午後、図書館に併設された貴族専用の自習スペースに、メルヴィ、トビアス、キトリ、オルガの四人は集まっていた。アカデミーの中には、このように平民には入れないエリアが幾つかある。平民である“ユーリ”(メルヴィ)は今回はルートの口添えをもって特別に入室を許可されている。
ルートは当然のように自分も勉強へ参加する気でいたのだが、オルガからの猛反発を受けて苦笑いをしながら引き下がった。曰く、「ルート様が居るとユーリくんとの仲を邪魔されるから!」とのことであるが、王子様に対してあれだけ強気で接することの出来るオルガはなかなかの大物である。
ルートにとって“ユーリ”は男で、婚約者の従者という存在にすぎないので、ルートが“ユーリ”とオルガの仲を邪魔するわけはないのだけど……オルガ嬢は思い込みが激しいタイプなので、何か勘違いをしているのかもしれない、と、メルヴィはオルガの横顔を見ながら思った。
アカデミーの図書館は校舎とは別の独立した大きな二階建ての建物で、王国の知の結晶の名に恥じない豊富な蔵書を備えている。
1階部分は一般にも開放されているので、アカデミーの生徒以外の人の出入りもあり、王都の図書館としての役割も兼ねている。2階部分は貴重な本や資料を保管するアーカイブとしての役割を果たしており、2階部分全体が貴族しか入れないエリアとなっている。
つまり、たとえアカデミーの生徒であったとしても、平民は図書館の2階へは入ることが出来ない。
こんなところにも階級差別があるのだから、アカデミーに根差した差別意識というものは根深い、とメルヴィは思う。果たして、自分が本当の身分、辺境伯令嬢としての身分でアカデミーに入学していたら、こうした差別の存在に気が付くことが出来ただろうかと思うと、平民として入学出来たことは良かったのかもしれない。
とはいえ、普通の授業で使う範囲の資料であれば1階の蔵書で事足りてしまうので、貴族であっても2階へ立ち入る人はごく稀にしかいなく、フロア全体が人気がなく閑散としていた。
オルガが勉強会の場所に図書館の2階に併設された自習スペースを選んだのは、人目を避けるためだった。
メルヴィとトビアスがアルクトドゥス捕獲の英雄であったとしても、それはあくまで一過性の熱狂であり、イロモノのヒーローに対する物珍しさからの称賛である、ということは否めなかった。生徒たちはメルヴィ達をもてはやしはしたが、心の底から受け入れているわけではない。
むしろ、“異種族との混血”の“メルヴィ”や、“平民”の“ユーリ”が、“貴族”である自分たちを守るために戦った、というストーリーに酔っている。
決して、メルヴィやトビアスのことを、自分たちと同じだけの価値がある人間であると認めたわけではないのだ。
身分や生まれによる差別意識は、そう簡単に覆されるものではない。
それはこの国の奥深くに根深く根差していて、社会を築き上げる根幹を成している。個人の活躍やたった一つの事件によってひっくり返るような価値観ではない。
だからこそ、いくら“メルヴィ”や“ユーリ”に対して彼らが好感を頂いたとしても、異種族や平民に対する根本的な差別意識は消えることがないし、メルヴィ達を真に同等の存在として受け入れることには繋がらない。
それはオルガにとっても同じなのだろう。
異種族のキトリ、平民の“ユーリ”、異種族と混血の“メルヴィ”という3人と共に行動するということに対して、オルガはある種の後ろめたさを感じていた。そして同時に、周りの目が怖くもあった。
オルガ・フランセンは、名門貴族フランセン伯爵家に生まれた令嬢である。
三人兄弟の長女で、二つ下の弟と、六つ下の妹がいる。愛情深い両親の下、幼い頃より何不自由なく育ち、やや感情的で思い込みが激しく、向こう見ずではあるものの、正義感が強く、明るく素直な少女となった。
魔力は一般的な貴族程度には保有しており火のエレメントを使うことが出来るが、得意という程ではなく、また積極的に魔法を使うことを好まないため、アカデミーでは政治経済科を専攻している。不真面目というわけではないが、それほど熱心に勉強している素振りも見られず、昨年度末の政治学のレポートで彼女が最高得点を取得したことは全く知られていない。本人でさえも自分が最高得点であることに気が付いていない有様だった。
オルガは年頃の娘らしくオシャレと噂話に夢中で、恋愛小説に出てくるような恋に憧れている。
黒髪の美貌の王子様と、その幼馴染で完璧な侯爵令嬢の恋物語を彼女は応援していたし、二人の仲を引き裂く悪役令嬢は成敗しないといけないと思った。
だからこそ、ルートとアンリエットの婚約の直前に突然現れた、いかにも凶悪そうなゴリラ系令嬢“メルヴィ”を、幼い正義感をもって排除しようとしたりもした。
伯爵家の令嬢のオルガにとって、身分制度や人間・異種族間の差別こそが、幼い頃より正義として教え込まれてきた価値観である。
オルガは今、困惑していた。
自分の行動に自信が持てない。何をすべきか。何が正しいのか。
――――ユーリやメルヴィ、キトリと親しくすることは、果たして本当に、悪なのだろうか?
直情的で物事を深く考えることが苦手なオルガは、自分の中にある二つの相反する正義に戸惑っていた。
「へえ~。すごいですね! 広いし、人も居なくて静かで集中できるし。オルガさん、素敵なところを教えてくださってありがとうございます!」
オルガに案内されて自習スペースに入ったトビアスは、キョロキョロと辺りを見回しながら笑顔でそう言った。
「え、ええ。……そうなの、穴場なの……」
オルガの葛藤など露知らず、心から感謝しているトビアスから、オルガは気まずそうに目を逸らした。
オルガの言葉に“嘘”を感じたのだろうか、キトリはじっとオルガを見ているが、敢えて何も言いはしなかった。
「俺たちはこれまでちゃんとした教育を受けてこなかったから、本格的に授業が始まる前にこうやって勉強会が出来るのは助かります」
支給された教科書を広げながら、メルヴィは言った。
「学校、初めて?」
キトリが意外そうにこちらを見る。
貴族の子供たちの多くは、10歳から14歳までプレスクールに通ってから、15歳になる歳にアカデミーに入学する。
「うん。今まではおとう……旦那様に教えてもらったりとか、自分で本を読んだりしてたんだ。だから正直、ちょっと緊張してる。アカデミーの授業って、難しい?」
「難しい……かどうか、私にはわからない」
「さすがー! キトリは頭いいんだもんね? キトリにとっては簡単なことでも、俺には難しいかも。いいなあ、キトリは頭が良くって」
オルガが「キトリは成績が良い」と言っていたことを思い出しながら、メルヴィは言った。
「私は……別に頭がいいわけじゃない」
キトリはそう言うと、そのまま黙り込んだ。
キトリが突然黙ってしまったので、急にその場がシンと静まり返る。オルガはいつもの勢いがなく下を向いているし、キトリは無言のままなので、メルヴィはどうしたらいいのか分からずに慌ててしまった。
「……キトリは、たくさん勉強したんだね」
ふいに、トビアスの声がした。振り返ると、トビアスが顔に優しい笑みを浮かべている。
「キトリの教科書、ボロボロになってる。きっとたくさん勉強して、努力してきたんだね」
トビアスの言葉に、メルヴィはキトリが抱えている教科書を見た。
キトリの教科書はどれもボロボロで、使い込まれた跡がある。何枚もの栞が挟まっていて、メモのような紙を貼っているところもあるのが分かった。
キトリは自分の教科書に視線が注がれているのに気が付くと、恥ずかしそうにぎゅっと抱きしめて腕の中に隠そうとした。
「……学校、私も、ここが初めてだから。通えるなんて、思ってなかったから」
キトリがポソリと小さな声で話し始める。
「伯爵夫妻が、養子にしてくれて、アカデミーに通わせてくれた……だから、それを無駄にしないように、いっぱい、頑張らないと……」
キトリは、純血のセイレーンである。
異種族に生まれた者は、通常であれば人間の貴族社会に加わることが出来ない。
ライカンの王子であるミランが、アカデミーでは一平民として扱われているのがその証拠である。
異種族とは言え王子ともなれば、ミランのように独力でアカデミーに入ることも出来るが、ただの異種族の一少女となると、アカデミーに入るなど夢のまた夢である。
異種族の子供の殆どは、教育を受ける機会を一切持たないまま大人になる。
そのためにロクな仕事に就くことも出来ず、社会の食い物にされたり、逆に犯罪に走ったりする者も多い。それが更に異種族に対する差別を助長していくという悪循環が起きているのが、今のこの国の現状だ。
セイレーンとして生まれたキトリも、そうした子供の中の一人だった。
けれど、ヘイノーラ伯爵夫妻と出会い、子供の居ない彼ら夫婦の元に14歳の時に養子として引き取られたことで、伯爵令嬢となったキトリはアカデミーに入学することになった。
伯爵家に引き取られるまで何一つ学問に触れることなく生きてきたキトリにとって、アカデミーでの授業は決して易しいものではなかった。
始めは、四則計算や正しい単語の綴りといった基礎的なことから躓いていたが、毎日毎日、死に物狂いで勉強をした。
養子に迎え入れてくれ、アカデミーに通わせてくれた伯爵夫妻の厚意に報いるために。
気が付けば、キトリは教養科目の成績は学年一位、研究科目の魔法科の成績は二位にまで上り詰めていた。
「……あの……っ!」
それまで黙っていたオルガが、急に大きな声をあげた。
三人は一斉にオルガの方を見る。
「キトリさん、ごめんなさいっ!」
オルガはそう言って立ち上がると、キトリの前に進み出て深々と頭を下げた。
「私、前にキトリさんにひどいことを言いました……セイレーンの術を使ってテストで不正をしてるんじゃないかって……アカデミーのテストでそんなこと出来るわけないって分かってるのに……そのほかにも色々、いやなこと言ったり、無視したり……キトリさんは、本当はずっと、頑張ってたんですね……私なんかよりずっとずっとたくさん。それを知らず……ううん、知ろうとせず……本当にごめんなさい……」
オルガの栗色の髪が、小さく震えている。
キトリはしばらく無表情でオルガの姿を見つめていたが、やがて口を開いた。
「別に、気にしてない。……今の言葉が本当だっていうのも、分かった」
嘘が分かるキトリは、オルガが心から反省していることが分かったのだろう。
オルガはばっと顔を上げると、キトリの肩を両手でつかむ。
「許してくれるの?! 私、ひどいことをしたのに……キトリさん、優しいのね……。こんな人をいじめてたなんて恥ずかしいわ……! ねえ、キトリさん、改めて、私とお友達になってくださる?!」
オルガの言葉は、後半につれてだんだんと力強くなっていった。
その様子を見ながら、食堂でオルガを助けたときのことをメルヴィは思い出していた。
オルガ嬢は本当に、感情のままに全力疾走をする人だ、と思う。
両肩を掴まれたキトリがもぞもぞと身じろぐも、オルガは全く動じないで目を輝かせてキトリに迫っている。経験者だからこそ、メルヴィは分かる。オルガの握力は、かなり強い。
「……友達……になるかどうかは、これから考える……」
キトリは迷惑そうな目でじろりとオルガの方を見る。
そんなキトリの引いた態度も全く意に介さない様子で、オルガはフンフンと鼻を鳴らしてぐいぐい顔を近づけた。
オルガの中にも、キトリの中にも、これまで見てきた世界の価値観が深く根を張っている。
今は同じ伯爵令嬢という立場でアカデミーで机を並べる二人が、ここに至るまでに過ごしてきた世界はまるで相容れないものである。
けれど、今、二人の中に、小さな芽が新たに生まれようとしていた。
やがてその芽が大輪の花を咲かせるとき、この国には新たな歴史が作られることになる――――