メーレンベルフの天使
王立アカデミー男子寮3階、貴族用の部屋の一室。
コルネリオ・ネイハウスは鍵穴に鍵を差し込んで回し、その違和感に顔を強張らせた。
メーレンベルフ王国の宰相エルネスト・ネイハウスの息子であるコルネリオは、神経質で用心深い性格である。朝は毎日同じ時間に起床し、決まったルーティーンをこなしてから部屋を出る。ベッドメイキング、洗顔、歯磨き、着替え、一杯のコーヒーを飲みながらその日のスケジュールを確認し、必要があれば、彼が側近を務める第二王子ルート・メーレンベルフの動向についてのレポートを作成する。そして忘れ物がないかの確認をしてから、部屋を出て、鍵を閉める。
国家の機密に関わる情報を扱うこともあるため、施錠の確認は必ず二度行う。
今朝もそのようにして部屋を出たはずだ、とコルネリオは記憶をたどる。
鍵が開いている。
コルネリオはさっと懐に手を入れ、常時持ち歩いている短剣を握り締めた。そして、いつでも飛び出せるように身構えた。
「やあ、コルネリオ」
少しだけ開けた扉の隙間から、ヒュウッと風が吹いて扉が強制的に開かれる。風の魔法だ。
開いた扉の先の部屋の中に視線を送れば、家主のいない部屋のソファに堂々と脚を組んで座る、愛らしい顔の第三王子の姿があった。
「エルウィン様……どうしてここに」
「ボクが居ちゃいけない? 今年からボクもアカデミーの生徒なんだよ?」
第三王子エルウィン・メーレンベルフは、父王と同じアッシュブロンドの巻き毛の頭を少し傾げて、可愛らしい仕草でコルネリオを見上げた。
その姿が人からどのように見えるかということを、エルウィンはよく分かっている。特にこの男に対してはそれが絶大な効果を発揮するということも。
「それは存じておりますが……エルウィン様は寮には入らず、特別対応で王城から通われるとのことでしたので」
エルウィンに上目遣いで見つめられて、コルネリオは顔を赤らめる。
たったそれだけで、エルウィンがどうやって鍵のかかった部屋に入ったのかということはうやむやになってしまう。もっとも、普段からエルウィンはコルネリオに対して傍若無人な態度を取っているため、今更部屋への不法侵入くらいではコルネリオは何かを言うつもりもないのであるが。
「そうだよ。ボクは寮には入らない。だって、王子であるボクが、平民や異種族と同じ寮で生活するなんておかしいじゃない?」
「兄君のクラース様もルート様も寮で暮らしてらっしゃいますが……国王陛下もアカデミー時代は寮生活をされていらしたかと」
「だから何?! ボクがイヤなんだからそれでイイでしょ。父上もイイって言ってくれたもん」
エルウィンは口を尖らせて、いかにも不機嫌を露わにした顔をする。
「陛下が許可されたことであれば、私には何も言うことはございません」
コルネリオは頭を下げた。
「当たり前だよ。何でボクがお前に説教されなきゃいけないの! お前からの嫌味を受けるのは、ルートの仕事でしょ? ボクは違う。お前がボクのすることに口出しする権利なんてないんだよ!」
エルウィンは立ち上がって、入り口に立ち尽くしているままだったコルネリオの前までつかつかと歩いていく。
そしてコルネリオの首に下がっているネクタイを掴み、ぐいっと乱暴に引き寄せた。小柄なエルウィンに思い切り引っ張られて、コルネリオの体が大きく前に傾く。絞められた首が苦しかった。
「ボクはアイツとは違う。王家の正統な血筋の王子だ。だからボクには何でも許されるんだ」
コルネリオの首元を掴んだまま、エルウィンはその可愛らしい顔に笑みを浮かべている。長い睫毛、つんと尖った顎、薔薇色の唇。それはどこから見ても可憐で愛らしく、悔しいほどに魅力的だ。
人は彼を、“メーレンベルフの天使”と呼ぶ。けれどその中身はまるで天使とは程遠いと、コルネリオは思う。
コルネリオの同級生で友人でもある第一王子のクラースは、実に聖人君子といっても差支えのない人物である。クラースは純粋で、誠実で、常に周囲の期待に応えようと努力している。彼ならば、この国を治める良き王となることは間違いないだろう。
それに引き換え、クラースの二人の弟は、どちらも違った意味で問題が多い。
異母弟のルートはともかくとして、エルウィンはクラースと同じ両親から生まれたにも関わらず、クラースとは似ても似つかない性格をしている。
我侭で傲慢で、自らの欲を叶えるためなら手段を選ばないエルウィンの性格は、まさしく彼の母親、現王妃から受け継いだものだろう、とコルネリオは思いながら、目の前の第三王子の顔に王妃の面影を重ねた。
“王家の正統な血筋”、という言葉を、迷いもなく口にして見せるこの王子は、あの王妃によく似ている。
勿論、異種族の血を引くルートのことを、認めるわけではない。異種族は異端で劣等で、忌み嫌うべきものだという信念は決して変わらない。けれどその一方で、そもそもルートに異種族の血が入る原因となった事件のことを、無かったことには出来ない、とコルネリオは思う。
現王妃が、ルートの母親――かつての王妃に対して起こした事件を。
代々王族に仕える家に生まれ、この国家に誓う忠誠の気持ちは嘘ではないはずなのに、どこかで、現王妃とその息子エルウィンのことを信用してはいけないと思う気持ちがくすぶっている。
それなのに、エルウィンがその可愛らしい顔に笑みを浮かべる度に、その瞳が自分を映す度に、コルネリオは何も言えなくなってしまう。
“メーレンベルフの天使”は、まるで悪魔のように、コルネリオの心を弄んでは意のままに操るのである。
「……そういえば、魔法科に進学されると、伺いました」
話を逸らすように、コルネリオが言った。
エルウィンはコルネリオのネクタイから手を離すと、にこっと可愛らしく微笑んで頷いた。
「そうだよ。父上はそれでいいって言ってくれたんだ。ボクはルートと違って、卒業しても騎士団なんて野蛮なところに入る気はさらさらないからね」
騎士道科を専攻している生徒の多くは、アカデミー卒業後には王国の王立騎士団へと就職する。
第一王子であり、このまま行けば王位を継ぐことになるクラースについては、騎士道科を所属してはいるものの、卒業後は王城に戻って国王の補佐をしながら次期国王としての務めを果たしていくことになるだろう。
それに対し、第二王子であるルートの進路のことを国王がどう考えているかというのは、ルートの側近であるコルネリオにも図りかねるところがあった。
“王子は代々騎士道科を専攻する”という理由で国王はルートの専攻を変えさせたが、そんなしきたりは存在しない。確かに殆どの王子が騎士道科を卒業していることは間違いないが、絶対という訳ではなく、例外も何人もいることをコルネリオは知っている。
「……国王陛下は、ルート様を騎士団へ入れようとされてるのでしょうか」
「たぶんね」
エルウィンは可愛らしい表情をしまい込んで、珍しく年相応の少年らしい顔付きになった。唇をきつく噛んで、眉間に皺を寄せている。
「……アイツの首に何重もの鎖を掛けて、飼い慣らそうと必死になってる」
宰相の息子をわざわざ側近につけ、国一番の伝統のある侯爵家との婚約を進め、国王直下の王立騎士団に入れることで、ルートを御せると思ってるんだ、とエルウィンは言った。
「どうして……」
そこまでのことを、とコルネリオは言いかけた。
何故自分が側近となったのか。何故アンリエットと婚約させようとしていたのか。深く考えたことがなかったが、冷静に見ればおかしな話である。
何故、次期国王となるクラースではなく、それらがルートに与えられていたのか。
「父上はたぶん、恐れてるんだ」
何を、ということを、エルウィンは言わなかった。
エルウィンはふっと笑うと、再び天使のような可愛らしい笑みを浮かべて、首を傾げる。
「ねえコルネリオ、お前はこれからもボクと仲良くしてよね。そうした方が、きっと将来お前にとってもイイコトがあるよ。
せいぜい、父上とルートはお互いのしっぽを追いかけ合っていたらいいんだ。ぐるぐる回って回って、二人が溶けてバターになったら、ボクがそれをふわふわのパンケーキの上に乗せて美味しく頂くよ」
細い指が、コルネリオの頬に添えられる。
エルウィンは両手でコルネリオの頬を包み、見上げた瞳いっぱいにコルネリオを映して、言った。
「最後に、ごちそうさまって笑うのは、きっとボクだよ」