温室の魔女 01
長い一日が終わった。
メルヴィは寮の入り口でキトリとトビアスと別れ、階段を上ったところでミランと別れた。
ミランはライカン族の王子という立場であるものの、ここアカデミーにおいては平民と同じ立場とされているため、ミランの部屋は平民と同じ大部屋である。もっとも、本来は四人部屋の部屋を二人で使っているとのことだったので、普通よりはやや良い待遇なのかも知れない。
ちなみに、ルームメイトはミラン曰く「去年一年間で一度も声を聞いたことがない無口なガリ勉」らしく、ほぼ一人部屋状態で悠々自適に過ごしているとのことだった。
ルートと二人きりになると、二人の間には沈黙が訪れる。何を話せば良いのか分からず、メルヴィは隣を歩くルートを見上げた。
鼻筋はすっと通って高く、長い睫毛が影を落としている。艶やかな黒髪は緩くウェーブが掛かっていて、それが頬に落ちている様は何とも言えない色気がある。何度見ても美形だ、と思った。
じっと見つめるメルヴィの視線に気が付いたのか、ルートがちらりと視線を送る。しかしすぐにその目を逸らして、言った。
「……君のそれは、癖なのかな」
「え?」
意味が分からずにメルヴィは首を傾げる。
「無自覚なのか……タチが悪いね。……人のことを、あまりじっと見ない方がいいよ」
ルートがため息を吐く。
「あっ、ごめんなさい……失礼ですよね。気を付けます」
ルートの言葉を苦言と受け取ったメルヴィが謝ると、ルートは苦笑いにも似た顔で笑った。
「いや、そういう意味じゃないんだけど……、まあいいかな、うん。君のそれが男女関わらず効果があるってことは、今日のオルガの件で良く分かったしね」
「……?」
その言葉の意味は分からなかったが、ルートがまるで独り言のように言って話を終わらせてしまったので、それ以上聞けないままメルヴィは黙った。
そう言えば、屋敷に居た頃もよくトビアスから「そんな顔で見ないでください」とか「その目はズルいです」というようなことを言われていたことを思い出す。
そんなに不躾に人の顔を見る癖があったのか、と改めて反省する。きっと失礼なくらいにじっと見てしまっているのだろう。これからは気を付けなければいけない。
そうこうしているうちに廊下の突き当りの角部屋にたどり着いた。メルヴィの部屋へはルートの部屋を通らないと行けないため、ルートが自室の鍵を開ける。
「一つだけ確かめたいことがあるんだ、ユーリ」
ルートの後についてメルヴィが部屋に入り扉を閉めたところで、ルートがくるりと振り返って言った。
思いのほか距離が近い。
メルヴィの体はルートと扉の間にすっぽりと挟まっていた。
「……手首を見せて」
メルヴィはびくっと体を反応させた。咄嗟に手を背中の後ろに隠し、「なんでしょう?」と素知らぬ振りをする。視線が泳ぐ。それを捕らえるように、ルートは顔を近づけて覗き込んでくる。
メルヴィは背中の後ろで、右手で左の手首を掴んだ。
何となく違和感を覚えていたそこは、ぎゅっと握ればジンジンと痛み、熱を持っているのが分かる。
……さっきよりも、痛くなってるわ。
昼にオルガを助けた時から、メルヴィの左の手首は痛みを感じていた。始めは気が付かないほどの違和感だったのに、時間の経過と共にじわじわと痛みが増している。
「ええっと……」
メルヴィは口ごもる。
自分でも薄々感じてはいた痛みだが、敢えて目を逸らしていたのには理由がある。
「隠しても無駄だよ」
ルートは片手を扉についてメルヴィが逃げられないようにすると、もう片方の手でやすやすとメルヴィの左手を前に出した。
その動作は強引なのに、取られた左手には全く痛みを感じない。ルートがメルヴィの手首に負担を掛けないように気を使って触っていることが分かった。
ルートが素早くメルヴィのシャツの袖元のボタンを外す。
露出されたメルヴィの左手首の肌は、いつの間にかすっかり青紫色に腫れあがっていた。
「何故ここまで放っておいたの」
「……その……医務室とかには、行きたくなくて……」
メルヴィが痛みから目を逸らしていた理由。
幾ら魔法で髪型を変えて男子用の制服を着ていたとしても、体を見られればメルヴィが女であることは明らかになってしまう。手首の治療だけだったとしても、医者が見れば骨格や肉付きで分かってしまうかもしれない。
そう思うと、医務室へ行くことは出来るだけ避けたかった。
「……分かった」
ルートはしばらく黙ってメルヴィのことを見つめた後、ゆっくりと扉についていた方の手を離した。
そして、メルヴィの左手を掴んでいる手はそのままに、部屋の中へと誘導した。
「おいで」
ルートはメルヴィの手を取ったまま、ソファの上に乱雑に置かれていた何冊かの本や脱いだままの服を片手でぽいっとベッドの方に投げる。服が鼻先をかすめたとき、ふわっと、ルートの匂いがしたのが分かった。薔薇の花のような、甘い匂い。
メルヴィは手を引かれるままにソファに腰を下ろした。器用に片手でソファの下から箱を取り出したルートは、その中に入っていた薬瓶を開けてメルヴィの腫れた手首に塗り始めた。
「痛くない?」
塗られた薬のスーッとするような清涼感が手首の熱を冷やしていく。その冷たさは心地よいのに、握られた手が熱くて、そちらにばかり意識がいってしまいそうになる。
薬草から作った薬だろうか。痛みが徐々に和らいでいく。
ルートは薬を塗り終わると、手慣れた仕草でメルヴィの左手首に包帯を巻いた。
「……殿下は、傷の手当も出来るのですね」
「ルート」
「え?」
「ルート、と呼んでほしい。敬語も要らない」
ルートの赤い瞳が、メルヴィを映していた。
「……ルート?」
メルヴィは小さな声で、そっとその名前を呼んだ。
真っ直ぐに、じっとルートを見つめる。
「ありがとう、……ルート」
「……だから、そうやって人の顔を見る癖は辞めた方がいいってば」
ルートは顔を逸らしながら言った。心なしか、その白い頬に赤みが差しているようにも見える。
そこには、いつものルートの隙のない貴公子然としたにっこりとした微笑みはどこにもなく、いつもよりも少しだけ子供っぽい口調で話し、照れたように笑う一人の青年の姿があった。