魔獣、現る 01
アルクトドゥスが振り上げた手を窓ガラスに向かって振り下ろす。
時が止まったかのような一瞬の静寂が訪れた。
食堂に集っていた生徒たちは誰もが目を奪われてその場に凍り付いたように固まっていた。
次の瞬間、亀裂が走り、窓ガラスの一部が割れる。
更にアルクトドゥスはその身をガラスに打ち付け、残りのガラスを粉砕する。飛び散ったガラスの破片が、食堂の照明を反射してキラキラと輝きながら降り注ぐ。
あっという間に、獰猛な魔獣と生徒たちを隔てるものは何も無くなった。
食堂に生徒たちの叫び声と、魔獣の雄たけびが響き渡る。
トビアスは咄嗟にメルヴィの上に覆いかぶさった。
「キトリ! 皆のパニックを押さえて! 出来るだけ安全な方へ誘導を! ミラン、行くよ!」
誰よりも早く飛び出したルートが大声で叫ぶ。
キトリは素早く頷くとすっと立ち上がり、すうっと息を吸い込む。
普段の小さな声からは想像も出来ないようなよく響く声が、キトリの小さな体から発せられた。それは美しい旋律となって奏でられる。
緊迫した状況に不釣り合いな程澄んだキトリの歌声は食堂全体に響き渡った。生徒たちはその歌声にぼうっとしたような恍惚の表情を浮かべ、まるで指揮をするようなキトリの手の動きに合わせて壁際へ導かれていく。
セイレーンの司る幻術は、その美しい歌声で人の心を操ることが出来る。
キトリの歌声を聴いた生徒たちは、キトリに導かれるままに動いていた。
食堂にいた者の中で正気を保っていたのは、ルートとミラン、そしてメルヴィとトビアスだけだった。
キトリが奏でる美しいメロディをBGMに、ルートとミランがアルクトドゥスの方へ駆け出す。
「何でこんなところに!? こいつらは人間を積極的に襲うような奴らじゃないはずだぞ」
「今朝の個体よりも一回り大きい。おそらく、親なんじゃないかな」
「……子供を殺された復讐か? ったく、だから殺さずに捕獲して森に帰せって言ったのに!」
「そんなことを言ってる場合じゃないよ。今は剣も手元にないんだ――――」
ルートが言い終わらないうちに、ミランの足が地面を思い切り蹴り、宙へと飛び上がった。常人にはあり得ない跳躍力だった。
ミランは空中でくるりと一回転しながら、人間体の時には隠している鋭い爪を露わにする。そして、その爪を立てて空中からアルクトドゥスに切りかかった。
「アルクトドゥスは目が殆ど見えないんだ! だから死角にまわれっ」
ミランの声が上から響く。
生物科に属するミランは、魔獣の生態に関してはルートよりも詳しい。
「目が見えない……ということは嗅覚に頼っているのか」
ミランの声に、地上のルートは独り言のように呟くと、小声で何かを呟く。
ルートの指先から白い靄のようなものがふわふわと漂い始めた。
「ミラン、煙を吸い過ぎるなよ」
「……ケホッ」
せき込みながら、トビアスの大きな体の下からメルヴィは這い出した。そして、周りの様子を確認した。
食堂の前方のガラスは全て割れていて、辺りにガラス片が散乱している。
食堂に居た三、四十名程の生徒たちは壁際に避難しており、ぽっかりと空いた中央部では巨大なアルクトドゥスが低いうなり声をあげていた。
アルクトドゥスの後頭部の上の方、天井から吊るされたシャンデリアの上にミランが乗っている。斜め後ろの足元の方では、なぎ倒されたテーブルの陰にルートが身を潜めて様子を伺っていた。
ルートの指先から流れ出る白い煙が、アルクトドゥスの体にまとわりつく。アルクトドゥスは煙を吸ったのか大きく鼻を鳴らし、苦しそうにブンブンと頭を振って暴れた。
「うっわ、っと。 あぶねっ! くそっ、俺まで鼻が利かなくなる……っ」
暴れるアルクトドゥスの頭がシャンデリアにぶつかる。激しく揺れるシャンデリアに振り落とされそうになりなったミランは慌てて体勢を立て直した。
「ルート! こいつはアルクトドゥスの群れのボスだ。殺したら今度は群れで襲撃されるぞ!」
ミランの声が天井から響いた。
「殺さずに捕らえろと? ……難しいことを言わないで欲しいな」
アルクトドゥスは闇雲に手足を振り回して暴れている。ミランが乗っているのとは別の天井の照明が落ち、テーブルやイスがなぎ倒されて飛ばされた。
ルートはアルクトドゥスの動きをかわしながら、それらが避難している生徒たちに当たる前に燃やして灰に変えていく。
感覚を失っているらしいアルクトドゥスの攻撃は出鱈目で、ルートは見事に避けている。しかしあくまで防御に特化した動きのため、アルクトドゥス自体を止めることが出来ずに苦戦を強いられていた。
メルヴィはぎゅっと唇を噛むと、決意を固めるように拳を握り締め、目を閉じた。
それから、その大きなサファイアの瞳を一際大きく開いた。
「……トビアス、どいてちょうだい」
メルヴィを守るように覆いかぶさっていたトビアスの腕を押して引き離す。
「お嬢様……っ」
「私も行くわ」
戦うことが、怖くないと言ったら噓になる。
つい先日まで、魔法を使って戦うことなど全く考えたこともなかった。
自分の中に流れる魔力の力は、自分のものの筈なのにどこか得体の知れない未知のもののようで恐ろしい。
自分でも理解出来ないものの力に頼って戦おうとすること。
失敗するかもしれない、上手く使えないかもしれない。正しいやり方なんて何も知らない。
怖い。正直に言えば、怖いと思う。
けれど目の前で、戦っている人が居る。
私も戦わなければいけない、とメルヴィは思った。
「殿下!」
メルヴィは飛びだして行った。
「メ……ユーリ!」
アルクトドゥスの攻撃を避けているルートと背中合わせのような形になる。
「わた……俺も手伝います!」
ルートに倣い、食堂の崩落から生徒を守るために火を飛ばす。けれど二人に増えたところで、防御だけでは事態は進展しない。
「ユーリ、……君は稲妻が打てるね? 一時的に感電させて仮死状態にしたい」
背中越しにルートの声が聞こえた。
何故それを、とメルヴィは一瞬思ったが、緊迫した状況に飲まれて深くは考える余裕がなかった。
「出来ます!でも、この状態では正確に狙えるか……、せめて一瞬だけでも止まってくれたら」
他の生徒たちに危害を加えないためにも、これ以上の建物の崩落は避けなければいけない。アルクトドゥスに正確に当てなければ、逆に多くの被害を生んでしまうことになる。
「ミラン! こっちに」
ルートの声に、ミランが高く飛んで二人の前に着地した。
「ミラン、アルクトドゥスの動きを一瞬だけ止められるかな」
「ああ。でもこっちに注意を向けさせることになるぞ」
「構いません」
メルヴィははっきりとした口調で言った。
「俺が出ていくので、注意を向けさせてください」
「ダメだ、ユーリ! お前が危ない! そんなことさせられない、なあルート?!」
今にも飛び出そうとする姿勢でアルクトドゥスの方に向き直ったメルヴィの肩をミランが掴む。引き戻そうとするミランを制止するように、その腕をルートが抑えた。
「……ユーリ」
少し癖のあるハスキーボイスがメルヴィの名前を呼ぶ。赤いルビーの瞳がメルヴィを捕らえていた。
「君に何かあったら、必ず僕が助ける」
メルヴィは小さく頷いて、ルートに微笑みかけた。
「信用してますよ、殿下」
「君の信用に応える、そう約束したからね」
二人はしっかりと目を合わせて、お互いにもう一度頷いた。
「……分かったよ、俺があいつを呼ぶ。動きが止まるのはたぶん一瞬だけだ。すぐに向かってくるだろうから、絶対に気をつけろよ」
小さく舌打ちをしてからミランが言った。
そして目を閉じて、小さな声で何かを呟く。
それに伴い、ミランの体が、段々灰茶色の毛に覆われていく。片膝をついてしゃがんでいた姿勢が、四足歩行の生き物の姿勢に変わる。オレンジ色だった髪からは獣の耳が生えてくる。
ミラン・オースターという一人の青年は、一匹の狼に変化していた。
「準備はいいか」
狼の姿になっても人の言葉は話せるらしいミランがメルヴィに尋ねる。
メルヴィは頷き、アルクトドゥスが暴れたせいで食堂の中央にあいた空間の真ん中にそっと立った。
アルクトドゥスに向かって真っ直ぐに立つメルヴィの傍らで、ミランが大きく息を吸う。
そして、獣の声でけたたましく雄たけびを上げた。
聴覚は生きているらしいアルクトドゥスの体が、ピクリと反応する。
アルクトドゥスはのっそりと向きを変え、メルヴィとミランの方に向き直った。
殆ど見えないという目を凝らし、煙で麻痺している鼻を澄ますかのように、じっと集中する。それは攻撃対象へ照準を合わせるための準備の一瞬だった。
その一瞬を逃さず、メルヴィは指先に力を送る。
体中に流れる血に力を込め、指先から放つ。
パラヴァの街で、ルートに初めて会った時と同じように。
指先から放たれた力は、稲妻の形になり、真っ直ぐにアルクトドゥスに向かって走る。
アルクトドゥスの暴走によって照明が落ちたことで薄暗くなっていた食堂に、眩しい閃光が光った。
「すげえ……」
メルヴィの足元に居たミランが思わず漏らした呟きは、地震のような振動と共にアルクトドゥスの巨体が倒れる音にかき消された。
「ユーリ!」「お嬢様!」
アルクトドゥスが倒れるのを見届けると同時に、メルヴィは急に力が抜けて足元から崩れ落ちそうになった。
ルートとトビアスが駆けつけるより早く、人間体に戻ったミランがその体を抱きとめる。
「成功……した?」
「ああ! すげえよ! すげーなお前!!」
ミランはメルヴィを抱きしめ、そのまま髪をくしゃくしゃと勢いよく撫でた。
「……ミラン」
ルートが静かに、しかし強い力でその手を掴み、メルヴィからミランを引き離そうとする。ぐぐぐ、と力を込めて、ミランの腕を持ち上げていたルートの視線が、ふと何かに気が付いて止まった。
「――――あぶないっ!」
ルートの視線の先で、壊れかけたシャンデリアが、ぐらぐらと揺れている。
その下には、朝からメルヴィたちを取り囲んでいたご令嬢のうちの一人が立っていた。




