いざアカデミーへ 01
王立アカデミーは全寮制で、生徒は全員敷地内の寮で生活している。
領地から出たことのない(というよりも屋敷からも殆ど出たことのない)メルヴィにとって、王都へ行くことも、他人と生活を共にすることも、全てが初めての経験となる。
ましてや、メルヴィは”ユーリ・ニーニマー“という男子生徒として、トビアスは”メルヴィ・マルヴァレフト”という女子生徒として、素性を隠してアカデミーに入学するのだ。
アカデミーの卒業生であるマルセル曰く寮の部屋は個室だということが救いではあるが、それでも細心の注意を払わなければいけないだろう。
王都への出発前夜、持ち物の最後の確認をしながら、メルヴィとトビアスは二人で誓い合った。
――――出来る限り、目立たないようにしよう、と。
地味に、ひっそりと、誰からも注目されずに二年間を過ごそう、と。
しかしながら、その誓いは、二人を乗せた馬車(メルヴィにとっては初めての馬車での旅である)が王立アカデミーの正門に到着した瞬間に、脆くも崩れ去ることになる。
「おはよう、メルヴィ、ユーリ。馬車の旅はどうだった?」
少し癖のある黒髪が、朝の光を受けて輝いている。白い肌に、長い睫毛に縁どられた妖艶なルビーの瞳。
正門前で二人を待ち受けていたのは、この国の第二王子の優雅な微笑みだった。
ルートは正門前で二人を出迎えると、馬車のステップに脚を掛け、中に居るトビアス扮する“メルヴィ”に向かって手を差し出した。
そんなルートの姿に、周囲にざわめきが起こる。
「殿下……っ、あの、大変有難いのですが、こんなことはして頂かなくても……!」
従者の“ユーリ”に扮するメルヴィは慌てて言った。
馬車の窓から、多くの生徒たちが足を止めてこちらに興味津々な目を向けているのが見える。
王子であるルートがわざわざ出迎え、手を取ってエスコートしようとするご令嬢の存在に、注目が集まっている。
窓の外を見たメルヴィは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「何故? メルヴィは僕の婚約者なんだから、こうして迎えるのは当然だよ」
馬車の中に乗り込んできたルートが、にっこりと微笑んで言った。
「それから、僕のことはルートでいいよ。殿下と呼ばれるのはあまり好きじゃないんだ。様も要らないし敬語も使わなくていい」
「……そういうわけにはいかないかと。婚約者であるお嬢様はまだしも、わた……俺、は一平民ですので」
メルヴィが言葉を返す。
従者としてのメルヴィ、すなわち“ユーリ・ニーニマー”は、平民ということになっている。突然現れた婚約者の従者がいきなり王子に対して馴れ馴れしく接するのは、対外的に良く映らないだろう、と思った。“メルヴィ”の悪評に繋がりかねない。変な憶測で注目されるのは避けたかった。
「僕は別に構わないんだけど……まあ、君には君の立場があるしね、強要はしないよ。
……じゃあ、せめて、二人きり、いや、三人だけでいる時には、呼び捨てにしてくれる?」
何かを少し考えてから、ルートがそう言った。
はあ、とメルヴィは気の抜けた返事をする。
そんなメルヴィをよそに、ルートは恭しくトビアスの手を取ると、にやりと微笑んで言った。
「さあ行こうか。君が僕の婚約者だっていうことを、皆に見せつけないとね」
ルートの笑顔が眩しいくらいに輝いている。その言葉に、メルヴィとトビアスはピシリと固まった。
この人はわざわざ目立つように迎えに来たのだ、ということに気が付かされる。
新入生や、休暇明けの在校生たちで賑わう正門の前で二人を待ち構え、王子自ら手を取って“メルヴィ”を登場させる。
それは、これ以上ない程の婚約者のお披露目になるだろう。
何のために、という疑問は、隙のないルートの笑顔の前に飲み込まれてしまう。
こんなゴリラを大衆の前に引っ張り出して、何を企んでいるというの……?
それとも、もしかして、本当に単に自慢したいだけ……?
ルートが差し出した手に、トビアスがそっと手を重ねる。
ルートの細く長い指に比べて、トビアスの手は大きくて肉厚である。
しかしそれさえも愛おしいものを見るような目でルートの赤い瞳が見つめているので、メルヴィはもう何も分からなくなってしまった。
ひっそりと生活するという計画が始めの一歩で崩れてしまったことを嘆きながら、メルヴィは手を繋いで馬車を降りるルートとトビアスの後ろについて馬車を出る。
ルートはトビアスから目を離さず、甘い笑みを浮かべてその手を握っている。
……やっぱり……王子ってトビアスに対してまんざらでもない感じ……なのかしら……!?
二人の様子を後ろから眺めながら、メルヴィは思った。
そうでなければ考えられないくらい、ルートの醸し出す雰囲気が甘い。
ルートに手を引かれて歩くトビアスの顔を、信じられないという気持ちでじっと見つめる。
トビアスは真っ直ぐに自分を見つめるメルヴィの視線に気が付くと、少し照れたような微笑みを返した。メルヴィの大きな瞳が自分の姿を映すとき、トビアスの頬はいつも赤く染まってしまう。
……えっ、なんで照れてるの?! 王子に手を握られてるから?! あぁもう、バカ! ほだされないで! しっかりしてよトビアス!!!
トビアスの赤面の理由がまさか自分にあるなどとは想像もしていないメルヴィは、心の中で罪なき従者を叱りつけた。
王立アカデミーの新学期が始まる。
それぞれの思いを抱えながら、メルヴィとトビアス、そしてルートは、新たな門出の一歩を踏み出した。
突然現れた異色の転校生の噂は、瞬く間にアカデミー中を駆け巡った。
遠巻きに眺めるギャラリーの視線を受けながら、まるで針の筵のようなランウェイを三人が歩いていた頃。
王立アカデミーの正門から少し離れたところには、一組の兄弟が立っていた。
「うっわ、誰も見たことがない幻の辺境伯令嬢っていうからどんなご令嬢かと思えば、まるでゴリラじゃん?! あれに向かってあんな笑顔作ってエスコートなんて、ほんとルートはよくやるよね。ボクには絶対ムリ」
木に寄りかかり、目前の光景に対して辛辣な暴言を吐いているのは、ルートの弟にあたる第三王子エルウィン・メーレンベルフである。エルウィンはその天使のような可愛らしい顔を歪めて、王族の証とも言えるアッシュブロンドの巻き毛を指で弄んでいる。
そしてその隣に立っている、絵本の中に出てくる王子様を体現したかのような端正な顔立ちの長身の青年は、この国の第一王子であり、アカデミーの生徒会長を務めるクラース・メーレンベルフである。
「エルウィン、ご令嬢に対してそんな風に言ったらダメだよ。健康そうだし、性格も良さそうな子じゃないか」
窘めるようなクラースの言葉に、エルウィンは眉を顰める。
「まさかとは思うけど、兄さんはルートの“一目惚れだった”なんて言葉を信じてるの?」
「信じるも何も、ルートがそう言ってるんだからそうなんだろう?」
心からそう思っているような顔で、クラースが言った。その瞳には微塵も疑いの色がない。
エルウィンはため息を吐いた。
幼少より第一王子として王城で大切に育てられたせいか、クラースは驚く程に真っ直ぐで清らかな性格をしている。
この清廉潔白な兄が母の胎の中に置き忘れた汚いもの全てを、自分は持って生まれてきたのではないか、と、エルウィンは時々思うことがある。
「信じられない、あんなの嘘に決まってるじゃん。大体あのゴリラのどこに一目惚れする要素があるのさ?! しかもあのルートだよ? 一目惚れなんてするとは思えないし、万が一一目惚れしたからって、その場でいきなり婚約を申し込むなんてことするわけないじゃん」
異母兄であるルートのことを、エルウィンは良く思っていない。
――――異種族の血の入った王子。王室に交じった穢れた血。
クラースはルートのこともエルウィンのことも同等に弟として扱うが、エルウィンにとって兄だと思えるのはクラースだけである。
「エルウィンはまだまだ子供だなあ。恋をすると、人は時に信じられないようなことをすることがあるんだよ。そのうちきっとエルウィンにも分かるときが来るよ」
ははは、とクラースが笑いながら言った。くしゃりとエルウィンの柔らかい髪を撫でる。
「そういうことを言ってるんじゃないってば……。全く、兄さんはもっと人を疑うことを覚えた方がいいよ」
子供にするように頭を撫でられてエルウィンは憤慨する。
そんな弟の様子さえも可愛くて、クラースはもう一度頭を撫でた。
「……急いで婚約したのは、十中八九、来月の予定だったアンリエットとの婚約を避けるためだろうけど……。何でわざわざあのご令嬢? これまで人前に全く出てこなかった、マルヴァレフト辺境伯令嬢、かぁ……。……彼女は一体、何者なのかなぁ?」
弟の独り言は、兄の耳には届かなかった。