プロローグ
一体、誰がこの展開を想像しただろうか―――
目の前で繰り広げられている光景に、辺境伯令嬢メルヴィ・マルヴァレフトは目を見開いた。
メルヴィ・マルヴァレフトはこげ茶色の髪をショートカットにして、白いシャツに黒いパンツ、丈の短い黒いジャケットを身に着け、手には白い手袋を嵌めている。
その姿は、誰が見ても貴族令嬢には見えない。
それもそのはず、今この瞬間、メルヴィは貴族令嬢ではなく、貴族令嬢付きの従者としてこの場に立っているのであった。
目の前には、メルヴィよりも遥かに大きいごつごつとした背中が、その巨体を無理やりショッキングピンクのドレスに押し込んで、金髪縦ロールの髪を揺らしながら、緊張した面持ちで額に浮かんだ汗をぬぐっていた。
フリルいっぱいのドレス越しにも分かる程筋肉質な体を縮こめているこの“ご令嬢”こそが、今この場では“メルヴィ・マルヴァレフト”である。
両手両足を硬直させて、まるで大きな岩のようにソファに鎮座する偽物の“メルヴィ”の隣では、はっとする程に美しい黒髪の青年が長い脚を組んで優雅にソファに腰をかけていた。
青年は妖艶な赤い瞳を細めて上品に微笑み、“メルヴィ”を真っ直ぐに見つめている。
メルヴィと入れ替わって“偽物のメルヴィ”を演じているのは、本物のメルヴィの従者で、本来は男性のトビアス・ニーニマーである。
そして、その隣で微笑む美青年は、漆黒の貴公子として名高いこの国の第二王子ルート・メーレンベルフであった。
メルヴィはサービングカートから紅茶のポットを手に取ると、手元のカップに紅茶を注ぎ入れようとした。
けれど目の前の2人の様子が気になって、手元にまるで集中出来ない。
フリルとリボンをこれでもかというほどにつけたショッキングピンクのドレスを身を包んだトビアスのゴツゴツとした大きな手に、ルートは白く細い指をそっと重ね、指を絡ませた。
微笑みの形に緩んだ目元には長い睫毛が影を落としている。
その赤い瞳はルビーのように美しく、その瞳に見つめられればどんな女性も恋に落ちてしまいそうに魅力的である。
……例えその瞳に映っているのが女装した大男だとしても。
ソファに隣り合って座り、仲睦まじく顔を寄せて笑い合う二つの人影は、後ろから見れば一つの塊のようにぴったりとくっついている。
想像とは全く違う展開に、動揺のあまり紅茶を淹れるメルヴィの手が震えた。
カップがソーサーにぶつかる音がカタカタと小さな音を立てる。
何とか震える手を押さえて、並んで座る2人の前へ紅茶を差し出そうとしたときだった。
「―――ほんとに、君みたいなご令嬢は初めてだよ」
笑いを含んだルートの甘い声が、メルヴィの耳に飛んでくる。
メルヴィはぶっと吹き出しそうになり、その反動で躓いて危うくカップから手を滑らせそうになった。
熱い紅茶がなみなみとつがれたそのカップを落とすまいと、咄嗟に魔法をかけてカップを浮かせる。
無事にソーサーの上に戻ったカップを見て、メルヴィはふう、と一安心して息を吐くと、素知らぬ顔でそれをルートの前に置いた。
……こんなゴリラみたいな令嬢が、他に居てたまるかーーーーー!
と、大声で言いたい気持ちを抑えながら。
もしかして、もしかしなくても……私は選択を間違ってしまったのかもしれない。
自分の計画とは違った方向に運命の歯車が回り始めていることに、メルヴィは気が付き始めていた。
メルヴィが眉間に皺を寄せてチラリと目を上げた先では、ぱつぱつになったメルヴィのドレスを屈強な体に纏い、金髪縦ロールのカツラをつけた従者が、相変わらず額の汗を拭いている。
ルートはトビアスの手に指を絡めながら、にっこりと微笑んでいた。
メルヴィは居たたまれない気持ちになりながら、くるりと踵を返して足早に立ち去ろうとする。
メルヴィもトビアスも、この時にはまだ、理解していなかった。
優雅にカップに口をつけるルートの、赤い瞳に宿った光の意味を――――
先ほどメルヴィが咄嗟に魔法で浮かせたカップを視線の高さまで掲げると、ルートは興味深そうにしげしげと眺める。
そして、何かに納得したかのように頷き、人知れずにやりと微笑んで、言った。
「メルヴィ嬢、僕の婚約者になってくれませんか?」
メルヴィとトビアスは、同時にびくっと体を硬直させてルートを見た。