第三話
昔々の特撮ドラマ「ウルトラQ」あたりをモチーフに話を考えています。
あと、古い特撮映画とか「ゾンビ」などホラー映画も参考にしています。
今回は少し長い話になってしまいました。
病院内での話になっていますが、知識が今一つ足りません。
うまく表現できていなかったら、ごめんなさい。
(2021年3月29日一部修正しました。)
第三話
「あっ、山崎くん、お母さんに会えた?」
「…うん、母さん無事だった。」
母の無事を確認して戻ってきた山崎は、綾子に声をかけられたので、一様の報告をした。
でもみんなの様子がおかしいので、表情を曇らせた。
「…なにか、あった…?」
明日の遠足が中止になった時の小学生みたいに、膝を抱えてぼんやりと遠くを見ている感じだ。
「車、乗らないように、って、警察の人が…。」
「えっ?」
「なおくん、無免許だからねぇ…。」
「えっ?!」
「でもここまでのことは、人命救助のこともあるから、大目に見てくれるんだって。」
「……そうなのか。」
「ついでに子供たちだけだと危ないから、ここに居なさいって…。」
真由美は、なんだかふて腐れているようだ。
落ち着いて考えてみれば、当たり前でった。非常時であるとは言え無免許で、これまた持ち主が死亡している(一人は生きているかすら不明)とはいえ、勝手に車に乗っていたのである。
「…じゃあ家の人に連絡は?…携帯使えないじゃないか?」
「それがね、どうやら固定電話は使えるらしいのよ。」
綾子がそう言って、待合室の一画を指さす。
そこには公衆電話が5台ほど設置されており、各々の電話の前でたくさんの人が順番待ちをしている。
「…並ばないのか?しばらく待てば使えるんだろ?」
そう言って山崎も、しゃがみ込む。
「しばらく待てばねぇ…。」
真由美がそちらの方を見て、ため息をつく。
順番待ちの列はかなりの人がいるうえに、一度公衆電話にたどり着いた人は、なかなか離れないようだ。電話の前で揉めている人がいるのも、この渋滞に拍車をかけていた。
真由美は両親の携帯電話の番号を(携帯の電話帳に)控えているが、勤め先の北大の電話番号は登録していなかった。スマホの電源は切ったままだし、電源を入れても検索機能は使えないだろう。電話帳を調べればわからなくもないが、順番がいつ回ってくるのかわからないこの行列に、並ぶのはちょっと嫌だった。
「最近はみんな、スマホだしねぇ…。」
綾子も必要な電話番号をスマホに入れているので、家族の勤め先の電話番号は、覚えていないらしい。
直哉は母親の勤め先の電話は知っていたが、千佳が我慢していたので自分も我慢していた。
「すごく混雑しているし、もう少し、待ってからにしましょうか?」
千佳の意見に、みんな賛成した。
「校庭に出る前に職員室に行ければ、電話使えたかなぁ…、あぁ、ダメだったか。」
千佳の話からすると、既に襲撃を受けた後だったらしい。
「ほかのみんなは、ちゃんと逃げたかなぁ。」
「どうだろうねぇ…。」
校内にはたくさんの人が入って来ていたし、出遅れた真由美には確認する術もなかった。
「田代たちは、どうしたんだろう?」
山崎は普段おちょくられているとはいえ、彼なりに気にはしていたようだ。
「わかんない、私がいない間に保健室に行ったらしいけど…、でも山崎はいいじゃない。お母さん無事だったんでしょ?」
「うん、父さんも無事らしいって、母さんが…。」
浮かれていたのか、にこやかに話していたが、真由美と目が合ったところで、話が停まる。
なんだか機嫌が悪いのか、顔をしかめている。
真由美は山崎が、ことのほか嬉しそうに答えたので、ちょっとイラッとしてしまったらしい。
「こんな時は、少しヘタレな感じで答えて!」
「…え?」ちょっと引いてしまった。
「あんたはいじめっ子か!」
すかさず綾子が、真由美の頭を軽く小突く。
「良かったわねぇ、無事が確認できて。」
そんな新喜劇みたいな小芝居を横目に、千佳が年上らしく、にこやかにフォローする。
山崎は礼を言いつつ、母から聞いた、病院であった朝の騒ぎについて話し始めた。
看護師をしている山崎母の情報によると、昨日の夕方から夜にかけて、たくさんの人が診療に訪れたという。この中には真由美たちの高校の生徒や、教師も入っている。
真由美たちの高校だけではなく、ほかの場所でも蜂に襲われる騒ぎがあったので、事のほかたくさんの人が受診に来たという。中には普通の蜂とか、別の虫に刺されたという人も訪れていたらしい。
病床が足りなくなり、対処できる人数を超えてしまったので、しかたなく他の病院に向かってもらった人も、多数いたと言う。
蜂に刺されたが、症状が出ていない人が何人かおり、この人たちは異常が出た場合に連絡することとして、一度家に帰ってもらったらしい。
この病院はこの辺りではいちばん古く、病床の数も多くはないのだ。
結局50人近くの人が入院したが、朝までに十数人が亡くなったという。
“アナフィラキシーショック”が疑われているが、まだはっきりとはわかっていないそうだ。
明け方、巡回中の看護師が、入院していた患者に噛みつかれるという事態が発生した。
この騒ぎをきっかけになったのか、他の患者たちも起き上がり、看護婦や医師、警備員、付き添いの家族、果ては比較的健康な入院患者まで襲い始めた。
しかし、ここは病院である。
ケガをしながらも、ほぼ全員を拘束し、病室に閉じ込めたのだと言う。
残念ながら、何人かの医者や看護師、手を貸してくれた人達に、けが人が出てしまったと言うことだった。
「もちろん消防隊や、我々警察の協力があってのことだ。」
いつの間にやら、先ほどの関巡査が後ろに居て、会話に加わって来た。
なんだか誇らしげだ。
警察署はすぐ近くにあるので、通報を受けて間もなく応援に駆け付けた。
その後、消防隊の人も応援に来てくれたので、何とか収束したらしい。
「ほぼってことは、何人か逃げちゃったんですか?」
「いや、窓から落ちたんだ。」
「え!?」
今回の騒ぎで入院した人は皆、4階に収容されていたのだが、逃げ出そうとしたのか、窓から飛び出してしまった人がいたらしい。まるで空が飛べるかのように、窓から出て行ったという。
他には過剰な抵抗にあい、命を落とした人もいるらしい。
「病気とはいえ、ああも暴れられると対処が難しいよ。」
「そんなことを一般人の、しかも高校生に話しちゃっていいんですか?」
公務員なのにぶっちゃけた話し方をする関巡査に、真由美がもっともな意見を言う。
「これは失礼。」と巡査は苦笑いをして答えた。生来の性格なのだろうか?
医療側としては“蜂毒アレルギーによる異常行動”と公表しているため、暴徒と化した人たちは病人扱いである。
しかしながら、一人を確保するのに数人が噛まれたり、変形した爪で体をケガをしたりして、多くの負傷者が出てしまった。
特に噛まれた人は血が止まらず、程度のひどい人は30分もしないうちに、行動不能になってしまったという。
なお、他の病院に入院した人たちも、同様に発症した。
対応は病院によってまちまちだったらしいが、ほとんどの病人が逃げ出してしまったらしい。
「蜂の調査をしているのは、神崎さんのお父さんなんだって?」
巡査の様子が、なんだか楽しそうに見えるのは、気のせいだろうか?
明らかに何かを期待しているように見える。
「そんなに期待されても、たかだか大学の教授程度ですから、原因究明できるかなんて、わからないですよ?」
真由美としては嬉しかったのだが、ここは慎ましやかに謙遜してみた。
「…父親のことを、信用してないのか?」
しかし、山崎が空気を読まない発言をしたので、口を尖らして睨む。
山崎としては間違ったことは言っていないつもりだったのだが、予想外に威圧されてビビっていた。
「いやいや、こういう時は名もない学者の先生が活躍して、事件を解決に導くと決まっているんだ。」
楽しそうに見えたのは、そういうドラマみたいな展開を期待していたか、真由美の表情がころころ変わるのが面白かったからか、どちらからしい。
その関巡査は「コホン。」と軽く咳払いをした後、メモ帳を取り出した。
「さて、君らに伝えなければならないことが、幾つかあります。」
関巡査がメモ帳を見ながら、真顔で読み始めた。
「まず君らが言っていた“複眼人”という呼称はNGです。」
「えっ、ダメですか?」
「だから言ったじゃないかぁ。」
直哉の“複眼人”という呼び方には、山崎はここへ来る前から、反対していたのだ。
「確かに異様な風体になっているけど、病気でああなっているだけだからね。それに身内の人もいる訳だから、その人たちの気持ちも察してあげて下さい。いいね!」
「カッコいいと思ったんだけど…。」
直哉が残念そうな顔をしていたが、病気の人を差別することになってしまうので、仕方ないだろう。
「それと、“携帯電話の電波に病気の人たちが反応して攻撃してくる”って話だけど、検証してからでないと、公表は出来ないってことだ。」
他にもおかしくなった人がたくさんいるのなら、スマホの電源は切っておいた方がいいと思って、巡査に伝えておいたのだった。
「蜂毒でおかしくなった人に、襲われる人を減らすためにも、早めに伝えた方がいいと思うんですが…。」
「確実な情報を発信しなければならないから、検証は大事なんだ。君たちのように特殊な境遇に置かれた人は、そうそういないからねぇ。」
真由美は納得できなかったので、不満そうな表情を作ってみたが、それは無駄な事だと諦めた。
「そうですか…。」不服そうに黙り込んだ。
不確かな情報で振り回されるのは、誰にとっても迷惑でしかない。
ましてや情報源が子供たちというのでは、信憑性も低いのだろう。
「まぁ、警察のする事だからな。」
山崎が誰に言うとでもなく、警察の批判をする。
「大事になってからでないと、動かないのはいつもの事よね。」
千佳も同感なのか、山崎に合わせている。
直哉がその様子を見て、意外そうな顔をしていた。
良くある話だと真由美を慰めるようとしているのだが、警察側には嫌味にしか聞こえない。
「そう言えば、そうですよね。」綾子も乗っかった。
「君たち、もう少しオブラートに包んでくれないか?」
“歯に衣着せない”意見の応酬に、関巡査は困り顔だ。
「怖い思いをして何とか逃げてきたのに、信じてもらえないのは悲しいですよね。」
千佳は、真由美の気持ちを代弁しようとしたようだ。
「僕だって頑張って食い下がったんだよ、…でも警察は組織で動いているからね。」
しゃがみ込んで、目線を合わせて説明する。
周りを気にしてか、後半は小声になっている。
慌てているところを見ると、多少なり良心の呵責があるらしい。
「…北大からの検証結果も、すぐに入るだろうし…。」
「大学と連絡取れるんですか?」
塞ぎこんでいた真由美が、シャカシャカと音がしそうな勢いで、巡査の前に寄ってきた。
巡査との顔が近い。
勢いに押されて関巡査が、尻餅をついていた。
「そりゃ、当たり前だよ。」
「どうやって?」なおも問いただす真由美。
「パソコンで…。」
「えっ!」
双方で電話回線を使えば、問題なくスカイプ通信や、メールのやり取りができるらしい。
警察と病院と大学とで、情報の交換を行っているとのことだった。
携帯電話が当たり前になっていたので、有線による通信手段については、抜け落ちていたみたいだ。
「そのパソコン、個人的に使わせてもらえないでしょうか?父に連絡取りたいので!」
「ああ…、そう言うことならあとで頼んで見るよ。それでいいかな?」
「はい!」
交渉は成立したみたいだ。
一気に活力を取り戻した真由美を見て、山崎が「現金なやつだなぁ。」と、ぼやいていた。
逆に一方的に押し切られた感じの関巡査は、「また仕事が増えた。」と、ため息をついていたが、脱線していた事に気づいて、次の話を切り出した。
「あと、君らの高校に調査隊を送るから、あらためて話を聞かせてもらいます。しばらく、ここを動かないように!いいね。」
今もそこに凶暴化した人たちがいるのか、生存者はいないのか、確認するためらしい。でも、ここの警察署員だけでは人手が足りないので、県警に応援を頼んでいるところだと言う。
高校の異変については110番通報が多数あり、何件かは生徒達からのものだった。朝から複数ヶ所(主に病院)で騒ぎがあったため、警官たちはこれに対応していた。結果、連絡の遅かった高校に、回せる人員が足りなかったとのことだった。
「無事に逃げられた人も、いたみたいねぇ。」
「…そうだな。」
千佳はホッとして、胸をなでおろしたが、直哉は硬い表情をしていた。
“複眼人”という呼び方を禁止されたことに、不満があるのかも知れない。
「それとこれは個人的な興味で聞くんだけど…、木刀はともかく、何でデッキブラシを持っているの?」
関巡査が真由美の持っているソレを訝しげに思ってか、声のトーンを落として聞いてきた。
ここに乗ってきた工事業者の車は、警察が移動させてしまったので、中に置いてあったものを引き上げて来たのだった。
直哉は木刀、真由美はデッキブラシを抱えていた。
「お守りです。」
このデッキブラシは学校の備品で、校庭で直哉に加勢した時に使ったものである。体育館を出る時に、もっと強力な物を探したのだが、非力な彼女に簡単に扱える得物は無かったのだった。
「そうか、変わったお守りだねぇ…。」
関巡査は苦笑いをした後、木刀とデッキブラシを交互に見比べて「まぁ。仕方ないか…。」と、小声でつぶやくと「むやみに振りまわさないようにね。」と、釘を刺して警察署に戻って行った。
「金属バットのほうが、様になったんじゃないか?」と、山崎がつぶやいていた。
「宇宙から来たんじゃないかと思うんだ。」
関巡査が子供みたいに、楽しそうに話している。
「あの蜂が、ですか?」
それを聞いて真由美が、胡散くさそうに答えている。
関巡査は警察署に報告とかに行った後、また病院に戻ってきた。
学校から逃げ出した経緯を聞きに来た、婦警さんと一緒だった。
石田が暴れたところから、体育館に立て籠もり、屋上工事の作業車を拝借して、病院に来るまでの説明をした。校舎や体育館の様子も聞かれたうえで、先生たちはどうしたかとか、ほかに残っている者はいなかったかも尋ねられたが、逃げてくるだけで精一杯だったことを説明した。
婦警さんは署へ戻ったが、関巡査は残り、真由美たちと妄想話をしている。
交通課の巡査で、普段はパトカーで巡回や取り締まりをしているという。穏やかな顔立ちをしていて、年齢を聞いたら29歳だと答えてくれた。
ちょっと砕けた感じの人だと思っていたが、やんわりと真由美たちを監視しているのかも知れない。
パソコンを使わせてもらう話は、まだ交渉中らしい。
「電波に反応するなんて、おかしいだろう?」
「そんな怪獣映画が、ありましたよね。」
「あ、見た事がある。」
綾子の事だから、兄に見せられたのだと思われる。
「私たちが知っているモノの中には、そんな虫はいませんからねぇ。」
確かに、真由美たちの知る限りではそんな昆虫はいないし、進化を極めたとしても極端すぎる気はする。
「あの蜂は、実は宇宙人が送り込んだ生物兵器で、我々地球人を混乱に陥れようとしているんじゃないかな?で、混乱がピークに達した時、彼らは地上に現れて降伏を迫るんだよ!」
「いつの時代のSFですか…?」
ドヤ顔で語る関巡査を、真由美がジト目で見ている。
確実に自分たちより一回り年上の人が、中二病のような妄言を吐いていた。
「与太話をしに、来ているだけじゃないか?」
山崎がぼやいて、直哉と千佳が小さく笑っていた。
確かに高校生相手に、“宇宙人侵略説”をぶちまけている。
直哉と千佳も“気の毒な人”を見る目で巡査を見ている。
「でも、考えられなくはないだろう?」
「狙うなら、もっと大都市でしょう?」
「こんな地方の都市をどうにかしたって、地球侵略には程遠いですよ!」綾子も呆れ顔だった。
「いやぁ、ほら、よくある侵略ものの映画だって、田舎の小さな町から始まることって多いじゃないか。」
「無駄話の相手に丁度いいと、思われてるんじゃないか?」
山崎がぼやいていたが、真由美は苦笑いをしていたから、否定できないのだろう。
確かに、某有名作家のSF小説には、地方の町が舞台だったりする話が多いのを、真由美は知っている。
「じゃあ、最後にタコみたいな宇宙人が、出てくるんですね?」
話がわかっていたかどうかはわからないが、綾子が妙な事を言いだした。
「・・・・・・」
みんな黙り込んでしまって、突っ込むものは誰もいない。
「やぁ、真由美、置いてかないでぇ!」
真由美の手を取って、泣きついている。
「それはないわぁ。」
抑揚のない声で、真由美はそう答えるのだった。
「私たちの学校みたいに、蜂に襲われた場所があるって聞いたんですが、本当ですか?」
宇宙人の侵略説に入って来られなかった千佳が、別の場所であった事件の事を巡査に尋ねた。
「久能宮神社らしいよ、知ってるかい?」
「海沿いの、丘陵地にある神社ですよね?」
「中学の時に、ハイキングで行ったことがあります。」
小中学校のハイキングでは、メジャーなランドマークだった。
参拝客とか、ハイキングに来ていた人達が襲われたらしい。
「やっぱり、人が多い場所を狙ったのかしら?」
千佳はそう言って、真由美を見た。
何らかの返答を求めているらしいが、明確な答えは持っていない。
「蜂が集団で移動するのは、巣別れとか、環境に変化があってそこにいられなくなった時なんですよね。でも、わざわざ他の生き物に攻撃を仕掛ける、というのは考えられないんです。」
真由美たちの高校に来襲した理由も、いまだに検討がつかないでいた。
「勢力圏争いをする、アリの話を聞いたことがあるぞ?」
山崎が言っているのは、グンタイアリの事だ。
巣を作らず、大軍で移動し、移動範囲にいた動物はもれなく襲われる。他の蟻を、相手の巣ごと滅ぼしてしまうこともあるという。餌をとるための行為であって、ほかのアリのテリトリーを侵略するというのではない。
「それはアリの話で、ハチの事じゃないから。」
「…そうなのか。」なんだか残念そうだ。
スズメバチがミツバチの巣を襲うことは知られているが、捕食のためであって、勢力圏争いは蜂の間には見られない。大きな魚が、小さな魚を捕食するようなものである。
あと考えられるのは、独自の習性的なことしかなかったので、お茶を濁すようなことしか言えなかった。
「ただ“人を襲うため”…とかじゃ、納得いかないですよねぇ?」
「それだと、“宇宙人侵略説”もありうる、ってことになるんじゃないか?」
直哉の意見はもっともだった。何者かが蜂を意のままに操れるのなら、あり得る話だ。
関巡査を見ると、嬉しそうに笑っている。
自分の想像力の限界を感じてしまったのか、真由美が頭を抱えて唸る。
「うぅ~、認めたくない~。」
「なんでだよ!」
「若さゆえの過ちかな?」
山崎がツッコミを入れて、綾子がへんなボケをかましていた。
学校を襲った後の、ハチの動向は見当がつかない。裏手はすぐ山になっているので、そっちの方へ向かったかも知れなかった。神社の方も周囲には参道以外は樹木が茂っているので、どこかに巣を作っているのかもしれないが、種類によってどんな場所に巣を作るのか違うので、見当もつかない。
地中とか、建物の軒下とか、木の枝とか、様々である。
「そういえば、参道の脇道を降りて行った先に、洞窟がありましたよねぇ。」
「神社へ行く途中の?」
「なんでそんなこと、知ってんの?」
千佳と直哉は知らなかったようで、驚いていた。
「前に入ったことがあります。」
中学でのハイキングの時の話である。
「恐いもの知らずだな、神崎さんは…。立入禁止の看板、見なかった?」
関巡査は呆れていたが、場所は知っていたみたいだ。立入禁止の看板は、脇道の入口に置いてある。
「見つからなければ平気だって、真由美が…。」
「大原さんも一緒に?」
「強引に引っ張られて…。」
「すごい数のコウモリが飛び出してきたので、逃げ帰ってきました。」
「先生にすごく怒られました…。」
楽しそうに答える真由美と、伏目がちに吐露する綾子の落差がすごい。
「コウモリ…。」
山崎がなんだか興味ありそうだった。
「あ、そうだ、お年寄りとか、体の悪い人が襲われなかったのは、なにか意味があると思うかい?」
「えっ?」
「いや、君らの学校はともかく、神社で襲われた人たちは、健康な人ばっかりだったんだけど、どういう理屈なのかと思ってね。」
それはまるで、“襲う人を選んでいる”という事に相違なかった。未発見の生き物だとしても、そもそも蜂にそんな知能があるのだろうか?そして、その目的が“人を操るためだ”というのは、穿った考えだとも思った。
「父と、相談してみないと何とも…。」
「そうか、そうだよなぁ。」
巡査も実は、同じようなことを考えていたのだが、さすがに突飛過ぎる、と思っていたようだ。
「そこで襲われた人達も、4階に収容されているんですよね。」
真由美は気になることを思い出しかけたようで、巡査に聞いて見た。
「まあ、皆ベッドに括りつけられているんだけどね…。」
暴れて手がつけられないので仕方なく、と付け加えられた。
「それで、あの人たちの治療は、なんとかなりそうなんですか?」
「それは…、治療方法については、病院の先生方が調べているけど、こっちには情報がすぐには来ないんだ、警察は治安を守るのが仕事だからね。」
治療方法が確立して、暴れていた人達が正気を取り戻したり、ケガで動けなくなっている人達が回復すれば万々歳である。が、あの、目が変異してしまった人達を、元に戻すことができるのだろうか?
ベッドに括りつけられて、動きを封じられている患者たちの姿を想像する。
「あれっ、なんだっけ?」
そんな感じのモノを、見たような気がする。
「デジャビュー…?」
首を傾げ、ぶつぶつ言いながら、何事か考え込んでいる真由美の頬を、綾子が指先でツンツンしているが反応がない。
なにかしら考えに没頭している時の真由美は、些細な事は気にしなかった。
その時、彼女らの前を若い女性看護師が通り過ぎて行った。
なんだか妙にスタイルが良い。
気のせいか、いい臭いがしているような気もする。
男子二人と巡査が、その看護師を目で追いかけている。
「フェロモン…。」
女性看護師を目で追っている直哉を見て、千佳がムッとしたようにつぶやく。
ハッとして視線を戻す直哉は、少し焦っているようだ。
他の二人はまだ彼女を目で追っている。
「いいフェロモンだねぇ。」
「…そうですねぇ。」
うつつを抜かしている男二人を、女子三人がジト目で見ている。
ガラガラガラッと、ストレッチャーの移動する音が響き、周囲のざわめきが一瞬止んだ。
重症の患者が運び込まれたらしい。
病院の玄関から入って来た救命士達は、真由美たちの目の前を通って、奥のエレベーターへと向かった。
運ばれてきた人の様子は、酸素マスクをつけている以外は、どうなっているかはわからない。なにか、焼け焦げたような臭いがした。
なぜ玄関から来たかと言えば、救急搬入口の自動ドアが朝の騒ぎで壊れてしまい、開けっ放しにしておくわけにはいかないので、シャッターが下ろされていたからだ。
「体育館に隠れていた時、黒い目になった女子がいて、毛布でグルグル巻きにしましたよねぇ。」
何かを思いつきかけたが結論が出ず、モヤッとした真由美が綾子たちに話しかける。
千佳が「ああっ、下着姿のあの子ね。」と、うなずく。
「下着姿?」
山崎が“下着姿”のところに反応している。
関巡査も興味津々と言った感じだ。
直哉は顔を赤くして、よその方を向いている。
「その子は放置してきたのか?」
事情を知らない山崎が、ひどいなぁっと言わんばかりの顔で聞いてくる。
「どうせなら、駅前のショッピングモールで、籠城したいって妄言の話?」
「綾ちゃん、その話はどうでもいい…。まあ、その時の話だけど。」
ショッピングモールでの籠城は、ゾンビ映画だと定番だが、人に言われると欲望が駄々漏れしているみたいで、なんか恥ずかしい。
「黒い目の人が、いっぱい集まって来た話でしょう?」
千佳が助け船を出してくれた。
「ええっ、そう!あの時も言ったと思うんですけど、蜂とかって危険な目に遭うとフェロモンを出して、仲間を呼ぶんです。」
「どういうことかな?」
関巡査も話しに加わる、まじめな顔をしている。
さっきまで美人看護師を眺めてニヤけていた人と、同一人物である。
「襲ってきた女の子を、毛布でグルグル巻きにして動けないようにしたら、体育館の周りに黒い目の人たちが集まって来たんです。」
「つまり、蜂に刺されておかしくなった女子を拘束したら、同じように蜂に刺されておかしくなった人達が集まって来た、と?」
「…石田が暴れた時も、校庭に人が入って来てたけど…。」
山崎は意外とよく見ていたみたいだ。
「じゃあ、あれは真由美が、石田君に花瓶をぶつけたせいね。」
「…ひどい奴だなぁ。」
棚上げにしていた問題を、綾子と山崎にぶっちゃけられてしまった。
「そのあと屋上から、落としたのよねぇ?」綾子がさらにぶっちゃけた。
「違う!花瓶をぶつけたのは間違いないけど、屋上から落ちたのは事故よ、事故!」
つい大きな声を出してしまったので、周りの注目を浴びてしまった。
恥ずかしかったので、顔を赤くしてうつむいた。
田代が危なかったから、花瓶をぶつけたわけだし、石田においては、工事中のフェンスに飛びついて、そのまま落ちて行っただけだと、一応弁明しておく。
「そんなことが、ほんとに?」
関巡査は確認するように、真由美たちの顔を見回す。
山崎は体育館での出来事を知らないので、一人だけ首を横に振った。
むしろ、一緒に逃げている時に、真由美だけ女子トイレに隠れてしまったから、ちょっと僻んでいたかも知れない。
「助けに来たかどうかはわかりませんが、彼女に惹かれて来たのは間違いないと思います。」
事実、彼女を移動させた方に集まって行ったのだから、間違いはないと思う。
「俺も見ました。間違いじゃありません。」
「ここにも蜂に刺された人達…、が押し掛けて来るってことか?」
「携帯の電波の件も含みで、推測ですけど…。」
「君らが居るのを知ってて、集まって来たんじゃないのか?」
山崎はまだ疑っているようだ。
「それなら山崎が隠れていた車の周りにも、集まっていたんじゃないかな?携帯持ってなかったんでしょう?」
真由美がジト目で山崎を見る。山崎が車から転がり落ちた時に、スカートの中を覗かれたと、今でも思っているらしい。
「僕はほら、おとなしくしていたから、そんなことはないよ…。」
「え~っ、そう?」真由美が不穏な笑いを浮かべて、山崎を見ている。
山崎は蛇に睨まれたカエルのように、冷や汗を浮かべていた。
その時、玄関の方でざわめく声が聞こえた。
ふと見ると、男の人が二人、自動ドアを開けて入って来るところだった。
一人は作業着、一人はスーツを着ているが、見るからに怪しい。
作業着が汚れているのはわかるが、スーツも薄汚れているうえに、かなり破れている。
血の跡なのか、赤黒い汚れもある。
中に入ったところで、近寄って声をかけた警備員を、黒い手がはたき飛ばした。
上着から飛び出した手は、どういうわけか真っ黒だった。
衝撃で床を転がって行く警備員は、壁にぶつかって止まった。ぐったりとしている。
待合室にいた人たちの中から、悲鳴が上がった。どよめきとともに、建物の奥に逃げ始めた。
「あの手、校庭で襲ってきたヤツとそっくりだ。」
「体育館に居た女の子も、手があんな感じだったよね。」
目も黒くなっているのだろうと思っていたが、目どころではなく、顔全体が黒かった。
黒いマネキンに被せたマスクが、かなり破れてしまって、黒い内側が顕わになっている、そんな感じだった。
「どういうことかな?」
「蜂に刺されて変異した人と、特徴が似ています。」
関巡査が、直哉と真由美の会話について尋ねて来たので答えた。
「別の種類の蜂に刺されたとか、じゃないよな?」
「混乱する子がいるので、冗談はやめて下さい!」
関巡査は冗談のつもりで言ったかも知れないが、なにか思い当たるところがあったらしい。
「…そうか、よくわからんが危ないから、何処かに隠れていなさい。」
関巡査はそう言って立ち上がり、シャキッと音を立てて、警棒を準備する。この警棒は伸縮式のものだ。
待合室にいた人達が、足早に建物の奥へと移動する中、玄関に向かい進んでいく関巡査は、なんだか、カッコいい。
「私達も逃げましょう。」
千佳が先頭に立って、奥へと移動する。
待合室にいたほとんどの人が、奥のエレベーターの方に向かっているので、通路は既に渋滞中で、真由美達は最後尾だ。看護師の人が、エレベーターと非常階段へ誘導しているが、慌てている人が多いので、なかなか進まない。
事務室の中に隠れている人もいるが、ブラインドが降りているとはいえ、通路から覗けてしまうので、ほとんどの人は奥へと進んでいる。受話器を取っている人がいるから、警察へ連絡をしているのだろう。
病院の警備員と関巡査を含む3人の警官が、異様な不審者を取り押さえにかかっているが、状況は芳しくないようだ。
なにせ黒い手の先が、ほとんど凶器である。
まともに当たると重傷は必至だ。
かわしたり、警棒で受け流したりしているが、迂闊に近づけないようだ。
腕力も常人離れしているのか、組み付いた警官たちを軽く振り払っている。
警棒で打ちつけても、あまりダメージがないように見える。
あらためて不審者を見てみると、やはり目が複眼になっている。頭全体が黒い殻に覆われたような、例えるならできそこないの仮面ヒーローみたいにも見える。顔だけでなく両手の露出部分も真っ黒だし、靴は履いておらず、黒い素足が丸出しである。露出している手足の関節部分は、外殻が別れていて、甲虫の手足みたいになっている。
困ったことに動きも早い。
不審者を取り押さえるべく奮闘していた関巡査だったが、健闘むなしく吹っ飛ばされて来た。黒い手の打撃を両手で受けたものの、衝撃に耐えきれず待合室の床を転げて、長椅子にぶつかって止まった。
逃げようとしている、真由美たちのすぐ後ろだった。
直哉が手を貸して、巡査が立ち上がった。
肩を打ったようで、かなり痛そうにしている。
「ゾンビみたいに、動きは遅いと言う話じゃなかったか?」
ちょっと恨めしげに、巡査が愚痴っている。
「蜂に刺された人が、さらに変異した姿だと考えられませんか?」
「なんでそう思える?」
「目の黒くなった人たちと特徴が似ているし、…病気の進行が進んだから、早く動けるようになったのかも知れません。」
「どういうことかな、それは?」
「虫で例えるなら、変態し終えたからかも…、知れません。」
その想像は、少し怖いと思った。
「…変身が完了した方が、強いってことかな?」
関巡査は最初怪訝な表情をしていたが、厳しい顔つきに変わった。
「ハイブリッドだ!」っとか、山崎がボソッと言っていた。
“ソレを言うならリブート版でしょ”と、真由美は言おうと思ったが、それより先に直哉が声を上げた。
「“甲殻人”みたいだ。」
“甲殻人”というのは、テレビの戦隊物に出てくる、ザコ怪人の名前だ。
確かに顔や体を覆っている黒いものは、甲虫の外骨格に見える。
でもテレビに出てくる怪人は、これほど不気味な存在ではない。
「なお君、そんなのどうでもいいから、早く逃げましょう!」
千佳がみんなを急かした直後、バンっという音が響いて、一瞬周りの時間が停まった気がした。
対応していた警官の一人が、けん制に空砲を撃ったのだった。
それに気づいた侵入者の一人が、警官の方に向かってくる。
ボロボロスーツを着た方だ。
まるで拳銃など眼中にないように近づいてくる。
「なにしてる、坂口!発砲許可は出ていないぞ!」
関巡査が発砲した警官に怒鳴る。
「しかし、これでは勝てません!」
「勝たなくていいんだ、勝負じゃないんだから!」
そう言って警棒を構える関巡査も、少しふらついている。
注意された坂口巡査もあわてて銃を収め、警棒を構えた。
そこにボロボロスーツの男が、黒い腕を振り降ろす。
間一髪、警棒でその一撃を受けとめたところに、関巡査が男の首元をめがけて警棒を叩きつける。しかし、たいしたダメージも無かったらしく、警棒を掴んで二人の攻撃を押し返している。関巡査は先ほど吹っ飛ばされて、肩を長椅子にぶつけているので、かなり辛そうだ。
男がその口を大きく開けて、関巡査に噛みつかんとばかり迫ってくる。
関巡査は今にも押し負けそうだが、歯を食いしばって耐えている。
「グガァー!」と、男がうなり声を上げる。
大きく開けられた口の中は、普通の人と同じ色をしていた。
その口の中に木刀が突っ込まれた。
声にならない唸り声を上げて、男はのけ反った。
直哉が飛び出して、二人の間から、木刀を突き入れていたのだ。
普通の人間なら致命傷になり兼ねないが、そいつは強力な歯で木刀に噛みついていた。
いまにも木刀を喰いちぎらんと、すごい力で押し返してきた。
木刀をさらに押し込もうとする直哉だったが、男は首を横に振り、押し込まれた木刀を後方へとそらした。
直哉は前方につんのめり、そこへ男の黒い爪が迫って来た。
男の腕をささえていた関巡査は、後方へと放り出されていた。
「なお君!!」千佳が悲鳴を上げる。
“危ない!”と、思った瞬間、直哉の体は横方向に押され、倒れ込んだ。
あわてて立ち上がり振り返ると、坂口巡査の胸を黒い腕が貫いていた。
マンガとかで見たことのある、空手の抜き手のようだ。
「ぐっ、はっ…。」
坂口巡査の口元から、血がこぼれ出る。
「うっ…、あぁっ…。」
うめき声を漏らしながら、直哉は立ち上がって木刀を構えたが、かなり動揺している。
額を汗が流れ落ちる。
息も荒く手も震えていた。
ボロボロスーツの男は、直哉の方に向き直った。
巡査の胸から腕が抜かれ、支えを失った巡査の体が崩れ落ちる。
おびただしい量の血が、床に広がって行く。
巡査の目には既に生気がない。
黒い顔の男が、直哉の方に近づいてくる。
「なお君!」心配する千佳の声が響いた。
その声に気付いた直哉は、木刀を握り直し、奥歯をかみしめて男を睨んだ。
バンッ、その時銃声が響いた。
黒い目の男の動きが止まった。
胸のあたりから出血している。
関巡査が回り込んで、拳銃を撃ったのだ。
男は膝をつくと、傷口に触れ、出血を確認する動作を見せる。
そして直哉の方を一瞥して、悲しげな声を上げると正面に倒れた。
絶命したようだ。
直哉も力が抜けたのか、へたり込んでしまった。
「坂口ーっ!」
巡査は投げられた時に、膝を打ってしまったらしい。
片足を引きずりながら、坂口巡査のもとに向かっている。
しかし、もう一人の黒い顔の男が、こちらの様子を窺っていた。
仲間の一人が倒されたことに、気が付いたのだろうか?
作業着の男を囲んでいた警官や警備員たちは、男の周りから逃げ始めた。
かなり傷を負わされていた上に、坂口巡査の惨状を見て腰が引けてしまったようだ。
ある者は肩を借りつつ、ある者は床を引きずられながら、真由美たちの方へ逃げて来る。
「たいへん!」
真由美は関巡査の手助けに走った。
関巡査は、坂口巡査の傍にしゃがみ込んでいた。
「俺が、発砲を止めたりしなければ…。すまない…。」
亡くなった巡査とは親しい間柄だったのか、かなり消沈しているようだ。
血の海に倒れている坂口巡査を見て、真由美は教室で、やはり血の海に倒れていた深見さんを思い出した。
「あ、あぁ…、」足がすくんだ。
足が、何かに縛られているように重い。
手先がしびれているように感じる。
空気が重く、声を出そうにも口が思うように動かない。
「うわぁ!」
その叫び声を聞いて正気に戻った。
「!」逃げ遅れた警備員が、黒い目の人達に掴まってしまったようだ。5、6人が取り付いていて、助けに行くのは難しい。ほかにも数人が病院の中に入って来ていた。“甲殻人”が暴れている間に入って来たらしい。
真由美の推測は、当たってしまったらしい。
「関さん!もう一人が来ます。危ないです!」
関巡査に近づくと、シャツをつかんで引っ張る。
少し遅れて千佳が直哉に歩み寄り、立ち上がらせている。
直哉は入口の方から近寄ってくる、もう一人の男を見ていた。
その男は足が悪いのか、走ってはいないが、ゆっくり近づいてくる。
うつむいている真っ黒い顔から、表情は読めないが、なにやら威圧感を感じる。
仲間(?)を殺されたから、怒っているのだろうか?
関巡査は真由美に肩を借りて立ち上がると、彼女に離れるように促して銃を構えた。
近づいて来る黒い顔の男を睨みつけると、銃を撃ち放った。
「ウオォー!」
気合いをこめて撃たれた銃弾は、甲殻人の左腕をかすめて、後方の壁に当たった。
続いて3発の銃弾が撃たれた。1発はわき腹、1発は太ももに当たり、1発は外れた。巡査が肩や足を痛めていたからなのか、距離があったからなのか、急所には当たらなかったようだ。2発の銃弾を喰らった作業着の男は、一度は膝をついたものの、ゆっくりと立ち上がった。銃弾の当たったところからは、血が流れ出ていた。
「すまない、弾切れだ。」
関巡査はすまなそうに言うと、逃げるように促した。
「早く逃げよう!」
ふと見ると、綾子が足を竦ませて動けなくなっていた。真っ青な顔でガタガタと震えている。彼女の手を強く掴んで、引っ張る。
「早く!」
「ご、ごめん…。」声も震えている。
恐怖からなのか、軽くパニくっているようだ。
病院に来る前、学校でも同じようなことがあったのを思い出した。
山崎が、綾子の反対側の手を引こうとしていたのだが、綾子が嫌がる仕草を見せたので、彼の手は空気を掴んでいた。照れ隠しのように、エレベーターのボタンを押しに走った。
通路の突き当たりにはエレベーターが2台ある。ストレッチャーごと病人を乗せる物なので、扉の幅が広い。
その扉はどちらも閉じていて、表示板を見ると、2台とも上に向かって移動しているのが解かる。
他の人達は皆、上の階に逃げたのだろう。
そこに残っていたのは、真由美たちだけだった。
今は救急搬入口が閉まっているので、非常階段か、エレベーターで上に行くしかなかった。
上向きのボタンを連打するが、やっと下の階に向かって動き出したところだ。
作業着の甲殻人が、ゆっくり近づいて来ていた。
「あの状態なら、これでも倒せるかもしれない。」直哉は木刀を構えた。
「やめておいた方がいい。まだ十分動けるみたいだ。」
「やめて、なお君!」
直哉は“甲殻人”に木刀で挑もうとしたが、関巡査と千佳に止められた。
銃で撃たれているから、弱っていると思ったのだろうか。
その後方からは、複数の黒い目の人が近寄って来ていた。
仮に“甲殻人”を倒せたとしても、後から来るこの人達を捌けないかも知れない。
「非常階段を登るんだ!早く!」
巡査に促されて、非常階段を昇る。
今ならまだ、彼らと距離を取れる。距離が取れれば、対策も探せると考えたのだ。
直哉が巡査に肩を貸しながら、最後尾で階段を昇る。
真由美が綾子の手を引いて先頭に立ち、2階のドアを開けた。
エレベーター前の通路で、数人の医師たちが何やら話し合っていた。
「何だね、君らは?」
非常階段の扉を躊躇なく開けた真由美は、医師の一人に睨まれてしまった。
本来、用事もなく立ち入る場所ではないから、仕方ないのだけれど、なんとなく偉そうに話すのは何故だろう。
この人たちは、1階の騒ぎに気付いていないのかも知れない。
「待合室に不審者が入って来て、暴れているんです!」
医師達に事情を話し始めた真由美を横目に、山崎はエレベーターに向かった。
エレベーターが1階に降りている表示を見て、上向きのボタンを押しにかかった。
関巡査に肩を貸して、階段を上がって来た直哉と千佳が通路に出ると、真由美が医師たちに事態を説明しているところだった。
チンッという独特の音がしたので、そちらを見るとエレベーターのドアが開いたところだった。
「ぅわぁー!」
扉の前で待機していた山崎が、あわててこちらへと走って来た。
エレベーターには作業着を着た、さっきの黒い顔の男が乗っていたからだ。
真由美や医者達の姿を確認すると、エレベーターを出て徐々に近づいて来る。
ガラッという音がして、すぐ前の部屋のドアが開いた。
全員エレベーターの方を見ていたので、反対側から聞こえた音にビクッとする。
「準備できましたけど、まだですか?」若い医師が顔を出したが、「うわっ、なんですかアレ!?」っと、黒い顔の男を見つけて驚きの声をあげた。
真由美は綾子を引っ張って、中に逃げ込んだ。
山崎と千佳、直哉、関巡査も続く。
「なんだ、君は?」
コスプレか何かと思ったのか、状況を呑みこめていないらしい年長とみられる医師が、黒い顔の男に問いかけた時には、二人の医師が血を流して倒れていた。
年長の医師も次の瞬間、首を斬られて崩れ落ちた。
一人の医師がへたり込んだまま、部屋の前まで逃げて来たので、引っ張り込んでドアを閉め、鍵をかけた。
「キ、キミたち!アレは何だ?」
荒い呼吸をしながら、引き込まれた医師が目を向いて説明を求めてきた。
小太りの中年の医師は、半ばキレているようでちょっと怖い。
「…アレが、不審者です。」
「ほかにも、目の黒くなった人達が何人か…、1階に…。」
真由美と直哉が、ドアを押さえながら答えた。
“甲殻人”、黒い顔の男が、ドアを開けようとしているのか、絶えずガタガタとドアが揺れる。
時折、大きくドアが押されているのがわかる。
鍵を掛けはしたが、不安なので直哉はドアを押さえている。
「不審者…?なにか悪い薬でもやっているのか?アレは、コスプレかなにかか?」
「そんなこと言われても…。」
さいわいこのドアは頑丈そうで、しばらくは耐えてくれそうだった。
「そうだ!医局長は?宮本と速水は?助けなければ!」
中年医師は、周りを見回して巡査の姿を確認したらしく、憤りをぶちまける
「あ、あんた、警察なんだろう?市民の安全を守るのが仕事じゃないのか?!」
「一応、頑張っては見たんですが、この有り様です。」
関巡査が肩を押さえながら、申し訳なさそうに弁明する。
でも、座り込んで壁にもたれているので、“頑張った感じ”が、いま一つ伝わらない。
他の警官や警備員たちも、どこか別の場所に逃げたはずなのだが、どこに居るかわからないし、連絡も付けられない。
「なにが…、どう…なっているんでしょうか?」
部屋の中にいた若い医師は、事態が飲み込めていないようでオロオロしていた。
彼が何者か、なんでこうなっているのか、簡単に説明をする。
「蜂に刺された人間の、なれの果て?本当に?」
「あくまでも推測ですけど…。」
「バカな、蜂の毒くらいで、いくらなんでも突飛過ぎる。」
中年医師の方は、未だに信じられないと言う感じだ。
若い医師の方も、甲殻人の姿をチラッとしか見ていないようで、信じがたいと言う表情をしていた。
「因果関係はともかく、命の危険にさらされているのは間違いないです。」
関巡査が説得するとしぶしぶだが、納得してもらえたみたいだ。
こういう時、話のわかっている大人がいると助かる。
あらためて部屋の中を見渡す。
そこは手術室だった。
手術台が奥にあり、今は患者が寝かされている。
その周りには手術用の機材や、メスや鉗子などの道具を乗せたテーブルが置かれていた。
アコーディオンカーテンで仕切れるようになっているが、今はカーテンが開かれており、患者の状態を見る事が出来た。
一人の女性が、手術台の上に寝かされていた。
ゾンビ映画のヒロインが、病院で寝かされているみたいだった。
残念ながら若い女性ではなく、中年と思しきかなり体格の良い女性だ。
先ほど運び込まれた重症患者らしい。
その体には酸素マスクと、数本のケーブルが取り付けられていて、手術台横のモニター付きの機械に繋がれていた。
彼女の呼吸音と、心拍の状態を示す機械音だけが響いている。
ズボンのすそが焦げていて、あちこちに火傷らしい跡があった。
火災現場から救助されたのだろうか?
露出している腹部には、黒いかさぶたのようなものが多数見られる。
医師達は、この女性を助けるための準備をしていたようだが、この状況下で手術ができるのだろうか?
「この人が運び込まれてから、あの男達も入って来たみたいだったよねぇ?」
「…失礼だから、やめといた方がいいぞ。」
患者に近づいて、腹部のかさぶたをマジマジと見ている真由美を、山崎が注意している。
もっとも、部屋の隅の方から小声で言っているようでは、注意にならない。
若い医師(小林さんという)が、真由美の行動を不審に思って声をかけて来た。
「この患者と、外にいるという不審者と、関係があるとでもいうのか?」
「この人を追って来たのなら、なにかあると思います。」
一人住まいの女性で、住んでいた家が火事になり、消火作業中に助け出されたと言う。
家の中はゴミだらけだったのだが、ボヤで済んだのは奇跡的だったそうだ。
以前からゴミ屋敷と呼ばれる家で、広い庭から家の中までゴミ袋が溜めこまれていて、役所から忠告を受けていたようだ。彼女をかばうように数人が倒れ込んでいて、この女性は小さな火傷程度で済んだらしい。倒れ込んでいた人達は、既に死んでいて、彼らがどこの誰で、なぜそこにいたのかは警察が調査中だということだった。
しかし問題なのは、この女性の病状であった。
体内に多くの異物が入り込んでおり、そのために昏睡状態に陥っていると言う。
「その異物が何なのか、まだはっきりしていないんです。」
小林医師が簡単な説明をしてくれた。
その時、患者の心拍の状態を示す機械音が速くなり、患者の体が痙攣し始めた。
「えっ、なにこれ?」
「わっ、たいへんだ!」
真由美は慌ててみんなのいる場所まで下がった。入れ替わりに小林医師が患者のもとに駆け寄る。
手術台の上で、痙攣する意識のない患者という、いつか映画で見たような状況が、目の前で起こりつつあった。
他の者たちも、同じような危機感を感じたらしい。
小林医師がモニターとカルテを交互に見ながら、病人の様子を確認している。
「エイリアン…!」
山崎が小さい声で呟いていた。
「うがぁ~!」
おかしな声を上げて女性がのけ反る。
腹部のかさぶたから血が流れだし、そこから小指くらいの黒い塊が、いくつもせり出してきた。
その数は100個くらい、あるだろうか。
先が尖っていて、女性の体がまるで剣山のようになっている。シャツを破って、胸の辺りからも突き出してきた。
「なんだ、これは!」
小林医師が驚いて、真由美たちのいる方へ後ずさって来た。一部噴き出した血が、白衣に赤いシミを作っていた。
その黒い塊の一つ一つが、前後左右にクネクネと動くたびに、体の外にせり出してくるようだ。
気が付けば、心拍音がとても速くなっている。
塊の出て来たところは出血していて、その数が多いのでかなりの量の血が流れている。出血は止まることが無く、手術台の上は血で赤く染まり、床に落ちて血だまりを作って行く。
やがて心拍が止まり、ピーッという音に変わった。
小林医師が蘇生のために、女性に駆け寄ろうとしたが、関巡査に制止されていた。
塊の方はと言うと、2センチぐらい、せり出したところで止まった。
そのまま飛び出してくるのを想像した者たちは、おのおの身構えていたが、そうはならなかった。
黒い塊は、何度かクネクネと動いたあと、先端から縦方向に亀裂が入り、パカッと割れた。
そしてゆっくり、その正体を衆目に晒した。
その姿に見覚えのあった真由美たちは、戦慄を覚える。
昨日、学校で生徒たちを襲った、あの蜂であった。
蚊が羽化する時、水面に浮かんだ蛹から出て来る様子と似ていた。
まさか人の体に寄生して、成長する蜂だなどとは想像もしなかった。
「…そうか、あれは蛹なのね。」
「あれって、昨日の蜂じゃないのか?」
「嘘だろう?!」
山崎と直哉が驚きの声を漏らす。
二人の顔からも、血の気が引いて行く。
「あ、あれに刺されると、さっきの奴みたいになってしまうのかい?」
小林医師が羽化している蜂を凝視したまま、その正体について聞いてきた。
真由美はうなずいた後、「すぐに、というわけじゃないようですが…、」と付け加えた。
関巡査は声も出せずに見ているだけだったが、中年の先生の方は後ずさりしてドアにあたった。
ギシッ、ギシッ、とドアを引っ掻くような音と、振動が伝わって来る。
「ひえっ!」
小さく叫んで飛び退く。
患者の方に向き直ると、更なる異変が起きていた。
患者の両目の瞼の中で、何かが動いている。
しかも不規則に、別々の方向に動いている。
眼球が動いているのだとしても、尋常ではない。
彼女の心臓は既に止まっていて、体の状態を示すモニターには、平行な線だけが表示されている。
ピーっという耳鳴りのような音が、室内を満たしていた。
「本当に、死体が動いたりするの…?」
あり得ない状況に、思考が混乱する。
立ち上がって襲ってきたりしないだろうかと心配していると、瞼を突き破って別の蛹が飛び出してきた。
「ひっ!」さすがの真由美も小さい悲鳴を上げた。
腹部から出てきたものより大きく、親指くらいの大きさがある。
山崎は壁に張り付いた状態で身じろぎもしない。
千佳は直哉の腕に抱きついたまま、その惨状を見ていた。
綾子においては、真由美の背中に顔を当ててしがみついていて、叫び出したいのを必死でこらえているようだった。
真由美も人に寄生するハエの動画は見たことがあったし、映画で異星人の出現シーンを観たことがあるが、それとは比べものにならない。
ある意味、死体が動いた方が、まだ対処がしやすいような気がする。
非現実でしか起り得ないことが、現実に起こりうるとなれば、奇跡以外は遠慮したい。
それでも、湧き出てきた好奇心が、不気味な事象の意味を考え始める。
「…2体だけが別の場所から出て来ると言うのは、なにか意味があるのかも知れないです。」
「ど、どういうことなの?それ。」
千佳は直哉の腕を強く抱きしめていたので、直哉がその腕に手を添えていた。
「…女王蜂だと、思うんです。」
「女王蜂!」
「あの位置から出てくるってことは、脳へ繋がる血管から、栄養を取っていたんじゃないかと思うんです。脳への血管には…、糖分が多く含まれていますから、恐らく…。」
普通の蜂の巣であれば、女王蜂の幼虫には特別な餌が与えられるのだ。
糖分を運んでいる血管に、寄生している理由は、それぐらいしか思い付かなかった。
「なんで2匹いるの?」
「…女王蜂が複数いる場合は、争い合って生き残ったほうが、真の女王蜂になるんですが、…ごめん、わからないです。」
人の体を変質させる毒、電波に反応するらしい体質、人の体に卵を産み付ける悪夢みたいな生態、どれを取っても常識の枠から外れている。それが、ここまで進化してきた結果であるのなら、その理由などは見当もつかなかった。関巡査が言うように、宇宙生物だと言われたほうが、まだ納得できる。
そうしている間に、女王らしき2体の蜂は、徐々に蛹から抜け出しつつあった。
蛹から出て来た蜂たちは、しばらくはじっとしている。
体が乾き、羽が固まるのを待っているのだ。
それまでは飛ぶことはない。
本来、蜂はそういう生き物なので、今のうちに撃退してしまえばいい。
「今のうちに駆除してしまえば、いいんじゃないか。」
小林医師がそう言って、使えるものはないかと、あたりを見回し始めた。
同じことを考えたのか、直哉が千佳の手をほどき、木刀を手に一歩前に踏み出した。
「ちょっと待って!」
静かな声で、真由美が直哉を止めた。
彼女もグロいものは苦手だが、他のメンバーよりは虫の習性に詳しいので、文字通り“虫の知らせ”みたいなものだったが、直哉の手を掴んで制止した。
直哉の動きを察知したのだろうか?
蜂たちは“臨戦態勢”とばかりに羽を振るわせ始めた。飛び立つ準備を始めたようだ。
「私たちの常識は、通用しないかも知れない。」
「やり過ごすのは無理だぞ?飛べるようになったら、襲ってくるだろうし。」
直哉の言葉からは、恐怖と憤りが感じられた。
彼をかばって死んでしまった巡査のことが、気にかかっているのだろう。
「なん匹か、たたき潰したとしても、ほかの蜂たちに取り着かれそうだし、飛び立つ方が早いかも知れない。」
アレに刺されたら1日持たずに死ぬか、校庭で襲ってきた作業員や、体育館にいた女生徒のようになってしまうのだ。でも何もしなければ、確実にヤツらの餌食になってしまう。
「刺されてもすぐにおかしくなるわけじゃないから、その間に全部やっつけてしまえば…、」
直哉のシャツの裾を、千佳が弱々しく掴んでいた。泣きそうな顔をしている。
「くそっ!」直哉は小さく舌打ちして、踏み出していた足を戻した。
蜂たちはまだ臨戦態勢を解いていない。
亡くなった女の人には申し訳ないが、飛び立つ前に一網打尽にしてしまいたい。
出来れば火炎放射器みたいなもので、一気に焼き尽くしてしまえればと思うのだが、そんなものがここにあるはずもない。
たとえ殺虫剤があっても、速攻で蜂たちを絶命させられるとは限らないし、この状況では手にしているデッキブラシよりも、ハエたたきの方が有効な気がする。
室内を見回す真由美の視線の先に、金属製のタンクがあった。高さは1mくらいで“液体窒素”と表記されているから、手術で使うために置いてあるのだろう。
蜂に限らず昆虫は、気温が低いと飛ぶことができない。
未知の生物であるから、この常識が当てはまるかどうかわからないが、極低温で凍らせてしまえば襲われることはない。最低でも動きは緩慢になり、退治しやすくなるはずだ。
「あれ、使ってもいいですか?」
「どうするの?」
問いかけられた小林医師は、心配そうに聞いてくる。
「蜂に浴びせて、凍らせられないかと思ってるんですが…、」
「そんなことで、殺してしまえるものなのか!?」
中年医師は疑わしく思っているようで、声に怒気が感じられた。
「やってみないと、わかりませんが…、」
真由美にしても確証があるわけではない、賭けみたいなものだった。
「そんな小娘の言うことが…、」
「わかった、やって見よう。」
中年医師の言葉を遮って、関巡査が立ち上がった。
「全員蜂に刺されてここを出るか、刺されないでここを出るかなら、刺されないほうがいいですよね。」
軽く笑って、中年医師を見る。「刺されると、痛いですからねぇ。」と、付け加えた。
「とりあえずタンクを動かしましょう、作業は私がやります。」
そう言って真由美たちのほうを見て、どこへ動かせばいいか、聞いてきた。
「いえ、取り扱いが難しいので、私がやります。」
そう言ってくれたのは、小林医師だった。手術で何度か扱ったことがあるから、慣れているという。
「構わないですよねぇ、高木先生。」
高木先生と呼ばれた中年医師が、渋々といった感じでうなずいた。
「なんか、熱血してないか?」
直哉が言うように、小林医師が活き活きとしているように見える。
「これから寒くなるから、ちょうどいいかもね。」
真由美はそう言って、エアコンの温度を目いっぱい下げた。
液体窒素を使うのには、少し問題があった。
人の体に当てないように、注意しなければならないのはもっともだが、密閉された室内では、こちらが酸欠になる恐れがあるのだ。
空調が効いてはいるが、大量の使用は避けたいところだ。
もちろんタンク内に、充分な容量があるかどうかも、気になるところであったが、使用する度に入れ替えているので、問題ないと小林医師が言っていた。
タンクの転倒防止の鎖を外し、蜂たちに照射できる場所へ、この場合は亡くなった女性の、足元の方に移動させる。
蜂を刺激しないようにゆっくり、そして倒したりしないように。
直哉と関巡査がタンクを支えて、小林医師がタンクのコックをひねる役割だ。
消火器みたいに照射用のホースは付いていないので、噴射口を手術台の方に向ける。
女王蜂の一体は蛹を抜け出ていたが、もう一体はまだ半分、蛹の中だった。
他のみんなは、タンクの後方の、手術室の隅にかたまっていた。
金属のタンクは冷たかった。コックのところはもっと冷たくなるので、小林医師は手袋をしている。
「先に深呼吸をして下さい。放出している間は、呼吸を止めるか、浅く呼吸してください。」
どこから取り出したのか、ゴーグルを装備すると、「いきます!」といってタンクのコックをひねった。
意外と強く噴き出した白いガスが、蜂たちに振りかかる。
いちばん手前の蜂は、吹き飛ばされはしなかったが、飛び立てないようだ。
ほかの蜂たちも、飛び立つことができないまま、ガスの中に巻き込まれていく。
室内の温度が一気に下がって行く。
冷房をいっぱいに聞かせているし、夏服なのでかなり寒い。
真由美と千佳は、綾子を囲うように抱き合って凌いでいた。
しばらく噴射して、小林医師がガスを止めた。
直哉と関巡査は少し下がってから、ゆっくり呼吸を再開する。
小林医師も息を止めていたらしく、下がってから深呼吸していた。
息が白く見える。かなり温度が下がったらしい。
ガスが薄れ、室内に籠った靄が晴れて行く。
蜂たちは女性の体ごと凍り付いていた。
様子を見ようと近寄って行った真由美に向かって、ガスから逃れた一匹の蜂が飛んできた。
「神崎!あぶない!」
直哉が叫んだ時、真由美は女王蜂の蛹に注意が行っていて、反応が遅れてしまった。
取り付かれる!っと思った瞬間、蜂は何かにはたき落とされていた。
千佳が“ハエたたき”を手にしていた。
「間に合って良かったわ。」
ポカンとしている真由美に、「これ、そこにあったのよ。」と、手洗い台の方を指差してニコッと笑う。
「あ、ありがとうございます。」
胸をなでおろす。
「千佳姉ぇ、ナイスだ!」と、直哉が褒めて、千佳が照れていた。
あらためて手術台の方を見て、ほかの蜂たちが動かなくなっているのを確認する。どうやら退治することに成功したらしい。
「うまくいったのか?よかった、これで…、一安心かな…。」
高木先生が喜んでいたが、ガタガタと揺れるドアを見て、すぐにトーンダウンした。
千佳によって叩き落された蜂は、床に叩きつけられて、丸まって絶命していた。
こういうところは、普通の蜂と変わらない。
しかし、明らかに違っているところが一つあった。
腹部の針と思しき部位から、白く細長いものが、体液と一緒に飛び出していた。
「アレは…、朝、父さんが言ってたヤツかなぁ?」
叩かれた衝撃で、内蔵が飛び出したかと思ったが、不意にグニャッと動いたのだ。
木の枝に擬態した尺取り虫が、たまに体を動かすような感じだった。
二度は動かなかったので、見間違いではないかと、目を擦ってよく見る。
しゃがみ込んで、手術用のピンセットでつついて見たが動かなかった。
錯覚だったのだろうか?
「…同じ方法で、外のヤツもなんとかできないか?」
山崎がのん気な提案をしてきた。
本人にしてみればいいことを言ったつもりだが、小さな虫を相手にするのとは訳が違う。
「なに言ってんの!水鉄砲を撃つのと違うのよ!」人の体は体温が高いのだ。
「蜂みたいに小さいものなら、今みたいな方法で退治できるけど、あれは無理だろうな。」
「しばらく動かなければ、できるかも知れないけどね。」
にべもなく却下された。タンク内の液体窒素の残量も心配だった。
「でも、ここにずっといる訳には行かないわね。」
腕をさすりながらぼやいた真由美に、「寒いからね。」と千佳が答えた。
クーラーの効きすぎた室内は、持久戦をするには分が悪すぎる。
「この蜂たちは、また動き出したりしないのか?」
山崎が心配そうな顔で聞いてきた。
「大丈夫よ。虫は人よりも寒さには弱いから、あれだけ冷やされたら確実に死ぬわ。」
「心配なら、全部つぶしておくかい?」
関巡査の冗談めかした言葉に、山崎は遺体を見た後、青い顔をして首を横に振った。
ここに居座るつもりなら、それもやむなしだがそんなつもりは無い。
「…でも、私たちの常識は、通じないかも知れないんでしょう?」
「そう…かも知れないわね…。」
座り込んで膝を抱えたままの綾子が、恨めしそうにもっともなことを言うので、つい肯定してしまった真由美だが、それを散々後悔することになった。
「うっ、血が固まっていて取れない…。」
真由美はピンセットと、ガラス瓶を手に、蜂の死骸を集めていた。
「あくまでも念のためだからね!」
ツンデレ女子みたいなことを言いながら、女性の死体からピンセットで、蜂の死骸を引き抜いていく。
もちろん遺体に手を合わせて『ごめんなさい、ごめんなさい、安らかに成仏してください!』と、心の中で何度も連呼したうえで、この作業を行っている。
蜂が、もしも復活しても飛び立たないように、蓋つきのガラス瓶に入れておく事になったのだ。
死骸でも病気の調査には必要なので、保管することになったのだ。巡査の言うように集めて潰しておくことも考えたが、1匹や2匹ならともかく、この量である。さすがに気持ち悪いのでパスした。
さて、床に落ちていたものは問題なく拾い集めたのだが、面倒なのは遺体にひっ付いていたり、体から抜け出す前に、死んでいたりするもの達だ。
流れ出た血液が固まり、蜂の死骸に纏わりついているのだ。
「うぅ~!」うめき声を上げつつ、ピンセットで蜂をつまみ上げる直哉。
小林さんも、「なんで僕がこんな事を…。」とか言いながらも手伝ってくれた。
真由美も、しかめっ面で作業をしていた。
『ぐちゃっとする感じがいやぁ!』心の中で叫ぶ真由美だった。
蜂の死骸はともかく、人の変死体など(今日までは!)見たことがなかったので、当たり前である。
「私がやらなきゃダメ?」
真由美が心細げな感じで言ってみたが、直哉も小林さんも、うんうん、と言う感じに肯いていた。
目から出てきた個体の回収は、1体が体内から抜け切っておらず、引っ張ると眼球ごと出てきそうになって、ひときわグロい絵面になっていた。
直哉か小林さんに、リリーフを頼み込んだが、断られてしまった。発案者はつらい。
遺体の顔の、上半分にシーツをかぶせて、余計なものが引っ付いて出てこないよう、注意しながらゆっくり引き抜いた。
うまく蜂だけを抜き出したことを確認して、ほっと胸をなでおろす。
抜き出してしまえば、真由美にとっては虫でしかないので、気にはならないらしく観察を始めた。
ほかの個体と比べると、明らかに大きい。
産卵管は普通に腹部の先端にあり、他の蜂のような胸部側の針はなかった。
「神崎、手が止まっているぞぉ~!」
山崎がチャチャを入れてきたのでムッとして、そっちを見ると、遺体に背を向けて座り込んでいる綾子が目に入った。綾子は目をつぶり、耳さえも塞いでいた。非現実的な出来事の連続で、精神的に参ってしまっているのかも知れない。
そんな彼女を不憫に思いつつ、山崎には仕返しを考えておこうと思うのだった。
ちなみにこの作業に参加しているのは、真由美と直哉と小林さんの3人だけだ。
千佳は「こればっかりは無理!」と作業を拒否した。
山崎はビビりなので、なにをしでかすかわからないため、参加はさせなかった。
もちろん本人は嫌がっていた。
関巡査は参加を申し出てくれたのだが、ケガをしているので遠慮してもらい、高木先生に手当てをしてもらっている。
やがて作業は終わり、トンっ、と蜂の死骸を入れた瓶が、手洗い場の上に置かれた。
全部で5つある。死んだ人には申し訳ないが、実に気持ちの悪い作業だった。
事のほか時間がかかってしまった。
『夢に出てきたら、やだなぁ。』
目から出てきた女王蜂らしき2つの個体は、腹部から出てきたものとは分けてある。
今のところ復活した個体は無いが、危険回避のために、蓋はしっかり閉めてある。
「さて、そろそろ脱出方法を考えましょうか?」
「なにか、いいアイデアとかあるの?」
千佳が期待を込めた目で真由美を見る。
「ごめんなさい、ありません。」
ここには体育館にあったような、毛布とかロープとかはない。せいぜいシーツとカーテンぐらいだ。
仮にあったとしても、あの黒い顔の男に、同じ方法が通じるかはわからない。
「…使えない奴だなぁ。」
山崎の言葉に苛立った真由美は、蜂を詰めた瓶をひとつ手に取ると、ズカズカと山崎の方へ向かう。
山崎の目の前で瓶の蓋を取り、顔の前に近づける。その時の真由美の顔は、父親には見せられない。
「わぁ、やめろぉ!」
いつもなら綾子が止めに入るのだが、今も隅の方で壁を向いて座り込んでいる。
「大丈夫?大原さん。」そばで千佳が、心配そうに声をかけている。
とりあえず山崎がビビっていたので、良しとした。
「フンッ!」回れ右をして、手洗い場に瓶を戻す。
「あれ?」山崎が不思議そうな顔をしていた。
まだ何かされる、と思ったのだろうか。
「ちょっと、いいかな?」
真由美がみんなの方に向きなおると、目の前に高木先生がいた。
「な、なんですか?」
かなり近かったので、真由美はすこしあわてて後ずさる。
「アレは、何処かに行ってしまったんじゃないだろうか?」
さっきまでドアの向こうで、ガリガリと言う音が聞こえていたが、ちょっと前から聞こえなくなったと言う。それなら有難いのだが、体育館では少し離れた場所から襲いかかって来たので、安心はできない。
ドアに耳を当ててみるが、確かに気配は無い…気がする。
「神崎さん、開けてみて。」
直哉が木刀を構えて、ドアの前に立つ。
「えっ、でも?」
「なお君、危ないよ、やめよう?」
千佳が綾子の傍から駆け寄って来て、直哉を止めようとした。
「もしそこに居たら一撃を入れるから、その隙にドアを閉めて。」
そう言って真由美を見る。
「いつまでも、ここに居る訳にはいかないもんね。」
真由美はそう言って、ドアの鍵に手をかけた。
「関さん、なんかあったらフォローお願いします。」
「…わかった、1回だけだぞ。」やれやれといった感じで、巡査が直哉の後ろに立つ。
「大丈夫ですか?」小林医師は心配そうに見ている。
「なお君…。」
「千佳ねぇ、少し離れてて。」
千佳が綾子のそばに戻ると、直哉はあらためて真由美を見て構えた。
「開けるよ!」
ガラッと音がしてドアが開いたが、そこには誰もいない。
真由美は、いつでもドアを閉められるように構えている。
直哉は木刀を構えたまま、じっとしていたが、何事も起こらないので、ゆっくり廊下へと足を踏み出す。後方で、ほかのみんなが固唾を呑んで見守る。
素早く左右を確認するが、やはり誰もいない。
真由美も、かがんだまま頭だけ外に出して、左右を確認する。
もしかしてっと思い、天井も見ておく。
クモみたいに、天井に張り付いたり、してはいなかったので安心する。
部屋の少し前に、さっき襲われた医師達が倒れているが、甲殻人の姿は見えない。
直哉が部屋を出て、非常階段を覗きに行ったが、誰もいないようで「大丈夫だ!」という声が聞こえた。
「居ない、誰も。」
真由美が室内のみんなに報告すると、緊張が解けたようで一斉に息をついた。
千佳が駆けだして、直哉のもとへ向かった。
高木さんと小林さんは、倒れている医師達のそばに行くと、一応の生存確認をした後、肩を落とした。
「…隠れているんじゃ、ないか?」
「なら今頃、襲われていても仕方ないなぁ。」
びくびくしながら山崎が出て来て、関巡査がそれに続く。
綾子だけが、いまだに座り込んだままだった。
「綾ちゃん、行くよ。」
真由美が声をかけると、のろのろと立ち上がった。
部屋を出たところで立ち止り、青い顔になって、また震えだす。
視線の先には、襲われた医師達の亡骸があった。
小林さんが、手術室からシートを持って来て被せた。
真由美は綾子の手を引っ張って、遺体が目に入らない階段の踊り場へ移動する。
「大丈夫?」
とても大丈夫そうには見えないが、心配だったので声をかけた。
「…うん…。」
生返事が返って来た。そしてそのまましゃがみ込んで、うつむいてしまった。
思ったより深刻な感じがした。
真由美もしゃがみ込んで綾子を見つめた。
どうやったら元気を取り戻してくれるかなと、考え込んでいると上の階から直哉と千佳が降りてきた。
なんだか慌てている。
「ヤツら、どこにもいない!」
血の跡を追って、非常階段を昇り甲殻人を探したのだが、どこにもいなかったという。甲殻人どころか、4階に閉じ込められていた人達も居なくなっているらしい。
「うそっ!」
5階まで昇ったところで、避難していた医師や看護師さん達に出会ったのだという。
彼らは最初、4階のナースステーションで待機していたらしい。
4階には昨日、ハチに刺された人達(全員目が黒くなっていたらしい)が、収容されていたからだ。
全員がベッドに固定されており、個人では逃げる事もままならない状況であったので、不審者のそれ以上の侵入は防ぎたかったのだが、その異様さに恐れをなして5階へ退避したと言う。
不審者達は、それ以上は昇って来ず、しばらく4階からは物が壊れるような音が聞こえていた。
収容されていた人達が、襲われていると思ったらしい。
音が止んでしばらくしてから様子を見に降りたところ、不審者も病人達も姿を消していたらしい。
直哉が階段を昇ってきたところで鉢合わせして、モップで殴られそうになったと言う。
「甲殻人が捕縛されていた人達を解放して、連れて行っちゃったってことかしら?」
「それなら、防犯カメラの映像を見せてもらえれば、わかるんじゃないかな?」
関巡査の助言を受けて、直哉が階段を降りて行く。
真由美が綾子の方に向き直って、「行こうか。」と声をかけた時、階下から直哉の声が聞こえた。
なにやら慌てているようだった。
「わーっ!ごめんなさいー!」
1階に降りてみると、膝をついて両手を上げ、降参のポーズをしている直哉がいた。
複数の警官達が待合室に入って来ており、一斉に直哉に銃を向けていたのだった。
前列の人達はシールドを持ち、全員防弾装備を身に付けている。
どうやら機動隊の人達らしい。
真由美もデッキブラシを離して、思わず両手を上げた。
警官隊にしてみれば、待合室内が荒らされていて、複数のけが人が倒れている現場で、木刀を持った人影が現れたものだから、一斉に射撃姿勢を取ったのも仕方ない。
関巡査が降りて来て、取りなしてくれたので事なきを得た。
警官隊も一気に緊張が解けたようで、息をついている人が多かった。
「あー、ちびるかと思った…。」
えらくショックを受けて、青い顔をしていた直哉を、千佳が慰めていた。
真由美が2階に忘れてきた綾子を、連れて戻って来た時には、直哉たちは警備室の方に移動していた。
坂口巡査の亡骸には、シーツが掛けられていた。
真由美はそれを見て顔をしかめたが、綾子はうつむいたままで見ないようにしていた。
他にもシーツをかけられた遺体らしいものが、幾つかあった。
死んだ甲殻人は、何処かに運ばれたようだった。
警備室では、機動隊のリーダーと思われる人が中心になって、カメラのモニターに張りついていた。
関巡査がその隣で説明をしている。
直哉と千佳、山崎は監視カメラの映像を見せてもらえる、と思ってついてきたのだが、当然ながら締め出されてしまった。
「部外者はこれ以上、関わらないように!」
「関係者なのになぁ!」
「部外者だから仕方ないわよ。」
バタンと閉じられたドアの前で、愚痴る山崎を千佳がなだめている。
「なにかわかりましたか?」
警備室から戻って来た千佳達に、真由美が声をかけた。
「部外者はこれ以上関わっちゃダメだってさ。」
「関係者なのにぃ!」
「後は大人の人達がやってくれるわけだから、子供な私たちは危ないことはしないようにしましょう。」
山崎の報告に、むくれる真由美を千佳が宥める。
「関さんに言って、なにか情報を教えてもらえないでしょうか?」
真由美はまだ、食い下がるつもりらしい。
その様子をほほえましく見ていた直哉だったが、真由美の後ろで綾子が青い顔をしているのを見て声をかけた。
「大原と神崎は仲いいよな?」
綾子は自分に向けられた言葉だと、すぐには気付かなかったので、あわてて声がくぐもってしまい、やっとのことで「小学校からの、付き合い…。」と答えた。
「神崎っていつもあんなに元気なのか?」
「…あんな?元気?」
「えっと、なんか騒がしいって言うか、すぐに前に出たがるって言うか。」
「…それは…たぶん、お節介なだけだと思う。」
「じゃあ、そのお節介で俺も助けられた訳か。」
実際に命を救われている。
校庭で目が黒くなった人に襲われた時は、もうだめかと思った。
体育館に逃げ込んで、幸いにも千佳と合流できたし、その後も協力して病院まで来られた。
ほかの生徒達がどうなったか、多少気になるが無事を祈るしかない。
「こういうお節介なら、大歓迎だよな。」
「…そんなに、いいことばかりじゃない…よ。」
ちょっと遠くを見るような顔で語りだした。
「小学校の時、学校を休んだ私をお見舞いに来てくれて、ホットケーキをたくさん焼いてくれたんだけど…。」
「えーっと、いい話じゃないか。」
「でも、お腹を壊して休んでいたので、一切れも食べられなかった。」
結局、真由美と綾子母が食べたと言う。
「小学校の時の話だよな、美味しいモノを食べて休んでいれば、早く治るって思ったんじゃない?」
ほかにも、夏休みの自由研究で昆虫採集をした時に、蝶々の幼虫までいちいち見せられるものだから、虫が嫌いな彼女は何度か泣かされたらしい。
「これがアゲハ蝶の幼虫で、こっちがキアゲハの幼虫ね。」と言って、彼女の手にイモムシを乗せてきたという。知らない人から見れば、どっちもイモムシにしか見えない。
「神崎さんなりの、優しさだったんじゃないの?」さすがにちょっと困った顔をしている。
「かもね…。あと、私は時々、左右の靴下が別々だったりするんだけど…、割と大きい声で注意してくれるのよねぇ。」
「へぇー、そうなんだ。」
直哉は綾子の足元を見るが、左右一対のものだった。
「よく似た柄のものがあって、朝、あわてていると間違えちゃうみたい。」
綾子自身も足元を確認して、間違えていないので安心する。
「私はこんなだけど、真由美は視力良いから…。でも言わなきゃ、誰も気づかないのに…。」
それなりに気苦労があるらしい。
「気を使ってくれてるんだから、いいじゃないか。」
「まぁ、そうなんだけど…。」
気が付けば、顔が随分と近いところにあって、顔が赤くなっていた。
「その男は先約ありだぞう!」
真由美がこっそり近づいて、耳元で囁く。
「ひぇ!?」
いい雰囲気に見えたのか、チャチャを入れに来たらしい。
慌てた直哉は一歩下がった。
「神崎、俺にそんなつもりはないからなぁ。」
「旦那ぁ、彼女さんがいるのに大胆だねぇ。」
「だから、そんなんじゃないって!」
直哉は真っ赤になって弁明するが、そんなもの誰も聞いちゃいなかった。
「そんなとは、どっちに掛かっているのかなぁ。」
「どっちって、ええ~!」
ますます泥沼にはまって行くようだ。
「いやぁ、勝ち組はいいよなぁ。」
すぐ後ろで山崎が、ふてくされた感じで愚痴っていた。
「なんだよ、勝ち組って!俺は…、」
と、言いかけて千佳の方を見ると、お腹を抱えて笑っている。
「ごめん、なお君。」そう言って、さらに笑う。
直哉が焦っているのが、相当珍しかったらしい。
直哉はため息をついて、一気にクールダウンしたが、綾子は違った。
「真由美のバカぁ~!」顔から火を吹きそうな感じで、弱々しく叫んで駆けだした。
でも、すぐに人にぶつかって倒れ込んだ。
「いやぁ、若いって…、い、いいねぇ…。」
関巡査は右肩から床に倒れたから、痛かったんだろうけど、冷や汗をかきつつ、できるだけにこやかに強がりを言った。
綾子が、関巡査を押し倒したみたいな、体制になっていた。
「わあぁ、ごめんなさい。」あわてて起き上がる綾子。
真由美が近寄ってきて、巡査が立ち上がるのに手を貸している。
「女子高生に押し倒されるとは、まだ捨てたもんじゃないなぁ。」
「ごめんなさい、ごめんなさい。」
相変わらずな調子で冗談を言う巡査の横で、綾子がぺこぺこと頭を下げている。
「大丈夫ですかぁ?」と、ジト目で真由美が聞いている後ろで、「頭打ったんじゃないのぉ?」と小声で山崎がぼやいていた。
「さて、あらためて話があるんだけど、いいかな?」
気を取り直した関巡査が、みんなを集めて言った。少人数クラスの先生みたいだ。
「すまないが、今夜はここで泊まって行くようにして下さい。」
子供達だけで家に帰らせる訳には行かないし、全員を家まで送る余裕もないということだった。
外はもう既に陽が落ちて、街灯がちらほら点灯し始めていた。
警察では特別対策室を設け、昼間のうちに被害の出ている地域を封鎖、主要道路に警官を配備しており、広報車を走らせ、パトロールを強化しているとのことだった。
道路封鎖したのは、その時点で感染の恐れがないという情報が、担当者に伝わらなかったためのミスらしいが、病人を封じ込めることには役だっているので、そのまま続けるそうだ。
ちなみに広報車は、昼間見たパトカーのように、外出を控えるようアナウンスして周っている。
さらにテレビ局からも、警戒を促すようにニュースで放送してもらうそうだ。もちろんケーブルで受信している家に限られるようだ。なお、ラジオについてはノイズがひどく、聞き取りづらい状況らしい。
広範囲にに情報を流せてはいるが、地域の全てをフォローすることはできない。
そんな状況では、未成年だけで帰宅させるわけにはいかない、と言うことだった。
もう少ししたら泊まれる部屋と、食事を用意してくれるという。
病院は臨時の避難所になり、待合室に居た人達も、ほとんど泊まることになった。
家族の安否も気になったが、泊まるとなれば、別の心配をしなければならない。
「あの…、着替えとか、ないんですけど…。」
「ある程度なら売店にありますので、そちらを利用してください。」
巡査と一緒にやって来た、看護師さんが教えてくれた。
「領収書をもらっておいてくださいね。あと、洗濯機とシャワーが条件付きで使えますよ。」
入院している患者さんと、ここに勤めている人優先とのことだ。
「そういえば家の人と、連絡着いたのかい?」
電話しようとしたところで、侵入者の騒ぎがあって、すっかり忘れていた。
公衆電話の方を見ると、空いていたので各々連絡を取ることにした。
続く
H.G.ウエルズの「宇宙戦争」の頃は、火星人はタコのような姿をしていると、想像されていたというのは、ご存じかと思います。
ゾンビが早く走り出したのは、リブート版「ドーン・オブ・ザ・デッド」からだったと思いますが、「バイオハザードⅢ」では、ハイブリッドと呼ばれていました。
私的には絶対逃げられない!と思いました。