第二話
昔々の特撮ドラマ「ウルトラQ」あたりをモチーフに話を考えています。
あと、古い特撮映画とか「ゾンビ」などホラー映画も参考にしています。
設定のおかしいところがあるかも知れませんが、ご容赦下さい。
(2021年3月29日一部訂正しました。)
第二話
「どうしてこんなことに…!」
高橋直哉は自身の軽率な行動を、かなり後悔していた。
彼は今、不気味な顔をした男にのしかかられ、人のものではありえない、迫りくる黒い尖った爪を両手で支えていた。この男の顔には人の目がなく、真っ黒い、よく見ると昆虫の複眼のようなものにすげ変わっていた。目元には甲虫の触角のようなものが生えていて、ゆらゆらと動いている。口は耳元近くまで裂けていて、血とも唾液ともわからないものが、滴り落ちて胸元にシミを作っている。その口で喉元を狙って噛みつきに来るので、爪を支えている腕を動かして躱しているが、長くは持ちそうになかった。
隣の教室で騒ぎがあった後、クラスメイト達が教室から逃げ出して行った。直哉もその惨状を確認した後、知り合いの動向が気になったので、4階の3年生の教室を確認しに行ったのだ。しかし、そこにはもう誰もおらず、自分も逃げ出すべく1階に降りてきたが、ほかの生徒たちは皆、校門から学校の外へ逃げ出していた。
校庭でもみ合っている、二人の男を見つけて、手助けしようと近づいたのだが、それは間違いのもとだった。
二人の男は同じ作業服を着ているから、同じ会社の人なのだと思われた。しかし、直哉の目前で、片方の男が首を噛まれて倒れたしまった。噛みついた方の男は、四つん這いになって、流れる血をしきりに舐めているようだった。
その異様さに思わず後ずさった直哉に、男は気づき襲い掛かってきたのだ。
大きく振り回された手の動きは意外と早く、かすったと思ったシャツが破かれていた。
男の腕を数回かわしているうちに、倒れていた男の腕につまずいて、あおむけに倒れてしまったのだった。
のしかかって、体重をかけてくる相手に、この体制は不利である。
「クソォ…!」これまでかと思った時、作業服の男の側頭部になにかが直撃した。
予期せぬ方向からの衝撃に、男はもんどりうって転げていく。
「早く逃げよう!」
片手にデッキブラシを持った女子生徒が、手を差し伸べていた。
たしか隣のクラスの男子だ。
やたらと背が高く目立っていたので、顔は覚えていた。
「ありがとう、助かったよ。えーっと。」
「…3組の神崎真由美です。…どういたしまして…。」
「2組の高橋直哉だ、本当に助かった。」
直哉の身長は180cmくらいあって、155㎝の真由美は、背の高さに圧倒されて、少し口籠ってしまった。
「真由美~!」
でも今、悠長に自己紹介とかしている場合じゃないという事は、後から走ってきた綾子の悲鳴とも、泣き声ともわからない声で気付かされる。
綾子が走って来るその後方には、目を黒くしている人達が迫っていた。何人かはこの学校の生徒だが、外部から紛れ込んだと思われる人も混ざっている。
「なんか、ゾンビみたいだな…。」
それは確かに、映画とかで観たことのある、ゾンビの動きに似ていた。
体が上手く動かないような、もっさりとした感じで追って来る。
そして、真由美に殴り飛ばされた男も、ゆっくりと立ち上がる。
「…真由美、…どうしよう?」
綾子が追いついてきたが、体力のない彼女は、ハァハァと荒い呼吸をしていた。
「体育館へ!」直哉がそう言って走り出す。
走って来た向かい側には、体育館があった。
真由美も彼に習って走り出した。デッキブラシは持ったままだ。
「また走るのぉ?」綾子は走るのが苦手なので、しぶしぶ走り出した。
直哉が一番にたどり着き扉を開けた、そして後の二人を迎え入れる。
彼らを追ってきた者たちは数を増していたが、相変わらず動きが遅い。
段違いの第2グラウンドには裏門があるのだが、そこから人が入って来るのが見えた。
誰かが逃げるために開けたのだろうか?
綾子が息を切らしながら中に入ったところで、直哉は扉を閉め、鍵をかけた。
体育館の扉は頑丈である、そう簡単には破られない。そう考えていた。
「ああぁ、真由美…、後ろ…、後ろ!」
綾子が息も絶え絶えという感じでに、真由美の後方を指さす。
直哉がそれに気が付き身構える。が、次の瞬間、困惑した表情に変わる。
「えっ?」と振り向いた真由美の、3mも離れてないところに、黒い目をした女生徒が近づいていた。
困ったことに、下着しか身に着けていなかった。
手が黒く変色していて、尖った爪を前に向けて迫ってくる。
真由美は、またもデッキブラシを使って、側頭部に一撃を入れようとしたが、片手で止められてしまった。
「貸してっ!」
直哉はデッキブラシの柄を掴むと、受けとめられたところを支点にして、柄の方で女生徒の顔面に一撃を入れた。
体制を崩した下着女子を、デッキブラシごと振り回し、放り投げた。
映画で見たことのある、武道の達人が相手の攻撃を、いなす技みたいだった。
「おおぅ…!」と、思わず声をあげてしまう。
下着女子は、うつ伏せに倒れ込んだ。
と、彼らの背中の方から別の女生徒の声が聞こえる。
「こっち、早くこっちぃ!」
舞台そでの倉庫(椅子や机がしまってある)から、顔を出して呼んでいる者がいる。
三人は急いで逃げ込んだ。
内鍵をかけて一息つく。
「ちか姉ぇ…、よかった…!」
直哉が安堵の声を漏らしたようだったが、一緒にいる真由美たちを気にしてか、口ごもる。
「…あー…、花澤先輩。何でこんなところにいるんですか?」
女生徒に向き直って問い直しているが、棒読な感じだ。
「あぁ、えーっと…、さっきの騒ぎで、職員室へ駈け込んだら、中はひどい有様で、先生誰もいなくて…、」
花澤先輩と呼ばれた彼女の反応も、それに合わせているみたいで、なんだかぎこちない。でもどんどん涙声になっていく。
「体育館の方に逃げて来たんだけど、みんなとはぐれてしまって、とりあえず中に隠れようと、鍵をかけて回っていたんだけど…。」
どうやら間柄を隠したいようだが、バレバレである。
ガタガタっと音がして、倉庫の扉が揺れた。
4人とも一瞬、ビクッとして扉の方を見る。
おそらくさっきの彼女がこの向こう側に居て、ドアを開けようとしている。
ふと見ると、綾子が真由美の腕を掴んでいた。
そして花澤は、直哉の腕にしがみついていた。
直哉は赤い顔をして、真由美たちの視線を避けていた。
花澤は真由美たちの視線に気づくと、顔を真っ赤にして直哉の腕を離した。
やや間があって、花澤は気を取り直して続けた。
「な、中に…、あの人がいてね、仕方なくここに隠れていたの。まさか、なお…、あなたたちが逃げて来るとは思わなかったわ。」
「…それは災難でしたね。」
何となく二人の中を察して、ちょっとしらけた感じの真由美が棒読みで答えた。
綾子も少し考えていたようだったが、小さく「あぁっ、」と言った後、口元を手で隠していたから、たぶん気が付いたのだろう。
そんな真由美たちをちょっと不審に思いながら、花澤は声をかけた。
「あなたたちは?」
「2年の神崎真由美です。」
「同じく大原綾子です。花澤先輩はバスケ部のマネージャーさん、ですよね?」
「ええ、3年の花澤千佳といいます。」
肩まであるふわふわの髪と、低い背と、コロコロとした声が、小動物を想像させた。
しかし、胸の辺りを見た時、先輩の先輩たる余裕を感じざるを得なかった。
「なんで下着なんでしょうか?」と、真由美。
「えっ、そっち?!」すかさず綾子がツッコミを入れる。
「隣の更衣室の方から、入ってきたんじゃないかしらね?」
でも、花澤はまっとうな返事。
まだ赤い顔をしているから、直哉とのことを追求されないように、合わせているのかも知れない。
「じゃあ、朝練で早くから来ていたとか、でしょうか?」
「陸上部の子かも知れないわね?毎朝走ってる子がいたでしょ?髪をこう、後ろで縛って。」
花澤が、両手でその子の髪形を真似て見せる。
「昨日から居たりしてね。」
「まさか…ね…。」
「あれ?」
綾子は冗談で言ったみたいだが、真由美が真顔でつぶやいたので、ちょっと慌てていた。
昨日の騒ぎの後、帰宅の確認が出来てなかった可能性は、十分あるのだ。
しばし沈黙があった後、話題を変えようとして真由美が口を開いた。
「そう言えば、高橋君…だったよね。攻撃のさばき方うまいね、なにかやってるの?」
「いや、あれはまあ、バイトで…その…いろいろ…。」後ろ頭をさすりながらの、しどろもどろな返答だった。
「バイト?」
「いや、あの、ところでこれからどうしようか?」
ニコッと笑って、話題を逸らした。
「もちろんここで立て籠もるのよ。ほら、こっち見て。」
花澤は倉庫の奥の方へ行って、手招きして皆を呼んだ。
そこには、たくさんのダンボール箱が積んであった。
中身は缶詰、乾パン、飲料水、救急用品など、毛布もある。
この学校は災害時の避難場所に指定されているので、このように非常用物資が置いてあるのだ。
「わぁ、すごい。」
「これならしばらく大丈夫だね。」
無邪気に喜ぶ女子たちは、宝の山を見つけた探検隊みたいだ。
「えーっと、ここトイレないですよね?」
「あっ、そう言えば。」
テンションの低い直哉の問いかけに、三人の動きが停まる。
いかな食料があっても、トイレがないようなところで籠城する訳にはいかない。
「入り口がアレだし、窓もないし、外の状況もわからないじゃないですか?」
花澤がダンボール箱の中から、ごそごそと何かを探している。やがて何かを取りだした。
「ほら、簡易トイレ!」
「はぁ~っ。」直哉は深いため息をついた。
真由美と綾子は赤い顔でうつむく。
「あっ!」
花澤は自らの失態に気づいたらしく、赤くなって黙り込んだ。
ガタガタッとドアが揺すられた。
そのあと、ガリガリとドアを削っているような音も聞こえた。
気まずい沈黙は、再びの緊張感が吹き飛ばした。
「ここから何処かへ、抜けられないんですか?」
綾子が小声で尋ねるが、「たぶん、無理。」との花澤の答えを聞いてうなだれる。
「じゃあ、何とかしないとダメですねぇ。」
「ドアは大丈夫みたいだから、少し落ち着きましょう。」
「君ら、落ち着きすぎじゃないか?」
女子三人はパイプ椅子に座って、乾パンを食べている。
お昼にはまだ早いが、緊張を和らげるべく、休憩することになった。
「腹が減っては、なんとやらっていうでしょ。」
そう言って花澤は、乾パンをしゃくしゃくと頬張っている。
「スマホも使えないしねぇ。」
真由美は思うように動いてくれないスマホを、イライラしながらもあれこれ弄り回している。
直哉は少し離れて、冷えてないペットボトルの水を飲んでいる。
花澤が真っ先に、警察への電話連絡を試みたが、ダメだった。
この学校では、携帯電話の持ち込みが認められている。
もちろん、授業中の使用はご法度で、見つかった場合は没収やむなしである。
授業中に着信音を鳴らした場合も同様だった。
「みんなの携帯、使えるかしら?」
花澤に聞かれて、各自家族に連絡を試みるも『回線が混雑しています。』というガイダンスが流れるばかりで、誰一人繋がらない。
「昨日から全然繋がらないんだけど、通信障害かしら?」
「えっ、昨日から?」
「ホントですか?」
「気付かなかったの?二人とも…。」
真由美は、暇があればスマホを触る、という習慣はなく、綾子においては、メールとかLINEは自分発信では滅多にやらない受け身なので、気が付かなかったようだ。
昨日、真由美が病院から帰った時に、母が「ハチに刺されなかった?」とか、「病気じゃないのね。」とか、しつこく聞いてきたのは、スマホが繋がらなかったためだったのだと思い至った。
「そう言うことだったのか…。」
この文明社会で、外の情報が全く分からないという、“陸の孤島”に置かれるようなことがあるとは、思いもよらなかった。
とりあえず緊急時の災害用伝言版に、メッセージを残しておくことにした。
『トイレに行きたくなったら、どうするんだろう?』
直哉が呑気そうに話している三人を見て、そんなことを考えていたのだが、ふと真由美と目が合ってしまった。
なぜだかニヤッと笑って、花澤のほうに向きなおった。
「お二人はたいへん親しそうですねぇ?」
興味津々という感じで、花澤に聞いて来た。
「うっ!」流れ弾が飛んできたので、思わず吹き出しそうになる。
「あっ、それ私も気になる。」綾子が追撃する。
ゴホッ、ゴホッとむせる直哉、花澤は少しの間、困り顔をしていたが、あきらめたように口を開いた。
「バスケ部に誘っているんだけど、ずっと断り続けているの。」
「あー、なるほど…。」
期待していた答えと違っていたので、ちょっと残念だ。
「このスペックの高さを活かせるのは、バスケ部しかないというのに、この子は!」
傍目にも悔しそうなのがわかる。
「攻撃力、高そうですもんねぇ。」
「実際高いのよ、なのに帰宅部なんて、もったいない。」
体育の授業で、バスケットボールをやっていたのを見たことがあった。
高い身長と身体能力を活かしてか、相手チームの選手をことごとく交わして、シュートを決めていた。
「よく、知っているんですねぇ。」
「そりゃ、家が隣だからな。」少々バツが悪そうに、直哉が答えた。
「わぁ、幼なじみぃ!」
綾子が胸の前で手を合わせて、キラキラした目で花澤と直哉を見ていた。
どういう幼なじみを想像したかは、言うまでもない。
「そう、隣なのよ。でね、中2の頃から急に背が伸びて来て、私が卒業する頃にはしっかり追い越されていたのよ!」
花澤は大変悔しそうな顔をして、手に持った乾パンを握りつぶした。
「それまではこのくらいで可愛かったのに…。」と小声で続けた。
ちなみに“このくらい”とは、花澤の眼の下ぐらいの高さを指すらしい。
「あ、なるほど!」
花澤の身長は真由美よりも低い。
「で、放課後に、バイトでなんかやっているんですね。」
そう言って直哉の方を見る。
「えっ!」と、あわてて目を逸らし、やがてため息をついて答えた。
「スタントのバイトをやってる…だけだ。」
「スタントって?」
「あー、ヒーローショーなんかで、怪人とかの着ぐるみに入ったりするやつ。」
「えー、映画とかテレビとか出るの?」
綾子が目をキラキラさせて、喰いついてきた。意外とミーハーな子だった。
「いや、そんないいものじゃなくて、イベントとかテーマパークなんかでやってる、子供相手のやつ。」
ショーの本番は休日だが、訓練や体力づくりでクラブに通っているという。
この学校では基本、アルバイトは認められている。
ただし、社会勉強の意味もあるので、バイトの内容は学校に報告しなければならない。
直哉のやっているバイトは、ケガとかも心配されるので、認可されないらしい。
だからその辺は、伏せておきたかったようだ。
「なぁーんだ。」綾子ががっかりしている隣で、花澤が不満げに愚痴る。
「休みの日でもそっちのクラブに、入り浸っているの。」
花澤の肩まであるふわふわの髪が、放置されている小犬の頭みたいに見えた。
真由美は、頭をなでまわして“いい子いい子”してあげたい感覚に襲われた。
が、よく知らない人だし、しかも先輩にそんなことができる訳もなく、伸ばしていた手をひっこめた。
「…なるほど、そういう意味でも、攻撃力が高いんですね。」
なぜか、自分の手を見ながら話している真由美を、花澤が不思議そうに見ている。
「だいたいはヤラレ役の怪人だから、攻撃力はないって。」
直哉はそう言って、爽やかに笑う。
でも、それを聞いた真由美と綾子は、表情を硬くする。
真由美が、そう言うことじゃなくて“もっと女心をわかってあげてよ!”的な事を言おうかどうしようか迷っていると、なにかピンときたのか、綾子が真由美の手をつかんで上げさせた。
「ちなみに体育会系でもないのに、無駄にスペックが高い人ならここにも!」
「えー、なによう?」
「図書委員で引きこもっているくせに、体力測定の成績、クラスの上位だよね?」
「引きこもりとは、ひどいじゃないよ?」
図書委員の立場を利用して、好きな本をゆっくり読みたいだけだった。
体育会系のクラブからオファーがあった時には、基本無視か、やんわりと断っている。
バーンっと大きな音がして、ドアがきしむ。
忘れそうになっていたけれど、目の黒くなった下着の女子が、まだこの向こうにいる。
和やかな雰囲気は一瞬に消え失せ、全員黙り込む。
「あれだけでも、何とかならないかしら?」
いまさらながらに小声で、花澤が聞いてきた。
「えーっと、それに関しては、提案がありますが、やってみます?」
三人が、手を上げた真由美の方を向く。やはり小声だった。
「ほら、また。」と、ぼやいたのは綾子だ。
「じゃあ、行くわよ?」
千佳がドアを開ける準備をする。
直哉と真由美は、ドアの前で毛布の端を持ってうなずく。
「協力って、これか?」
「綾ちゃんは、役に立たないからね。」
綾子はダンボールの影に隠れて、こちらの方に向かって両手を合わせて、ごめんなさいのポーズをしている。
ドアを開けて下着女子が入って来たところを、毛布でグルグル巻きにして動きを封じる作戦だ。
爪が尖っていて危険なので、毛布は三枚重ねである。
ガラッと重たい音がして、倉庫のドアが開けられた。
真由美は緊張して身構えた。
綾子はダンボールに身を隠し、身じろぎもしないように堪えていたが、何の動きもない。
しびれを切らして顔を半分出して覗いてみた。
真由美と直哉が、毛布を持ったまま倉庫を出て行った。
その後を花澤が追いかけて、何か投げたようだった。
少し離れたところにいて、真由美たちの直前まで近づいてきた来た下着女子の顔に、タオルが投げつけられ動きが止まる。
こちら側から毛布を広げて突っ込んだところを、直哉が足を引っ掛けて倒し、予定通りグルグル巻きにして、仕上げにロープで縛り上げた。このロープも、非常用物資の中にあったものだ。万が一、知らない人が近づいてもわかるように、首から上は外に出してある。
彼女はうめき声をあげて体を動かしているが、さすがに抜け出せそうにない。
「ありがとう。さすがに体術が使える人がいると助かるわぁ。」
「うまくいって良かったな、アイデアの勝利だ。」
二人してハイタッチする。
「目のやり場に困らなくて、よくなったしねぇ。」
千佳が直哉を見て、悪戯っぽく言いながら近寄って来た。
「もう、大丈夫ぅ?」
綾子は不安げに、倉庫の中から顔だけ出して、こちらを見ている。
「綾ちゃん、大丈夫っぽいから出て来ていいよ。」
そう言われてそそくさと出て来た綾子は、毛布で巻かれて拘束されてもなお、ごそごそと動いている女生徒におびえて、真由美の後ろに隠れた。
「ねぇ、この子って、ゾンビになっちゃったの?」
「えっ?」他の三人がいっせいに綾子を見た。
「ゾンビって映画に出てくるやつ?」
「そうそれ!頭撃たれないと死なないとか、噛まれたらその人もゾンビになっちゃうとかのアレ!」
映画にあるような、ゾンビになった人を見たことがある者などいない。
実際のゾンビというのは、とある宗教で人を戒めるための、特別な儀式を受けた人のことを指すのだ、と父から聞いたことがある。
ゾンビの定義があるかどうか知らないが、ちょっと違う気がする。
「これがゾンビなら、化学室にある標本とか、剥製とかも動き出すのかな?」
「綾ちゃん、何の映画見たの?」
「前に兄貴が借りてきていたのを、一緒に見たことがあるんだけどね。」
「それ、たぶん違うから。」
うんうん、とうなずく直哉と千佳。
「えーっ、なにが違うの!」
綾子が説明を求めたが、誰も取り合わない。
「むしろ、凶暴化だよなぁ。」
直哉が言っているのは、何らかの原因で、死んだりしない代わりに、正気を失い人を襲うようになるという、病気の類の話だ。
「人に感染するかはわからないけど、蜂に刺されたのが原因なら、ウイルスかも知れないわね。」
花澤が顔をしかめて、伝染病の心配をし始めた。
「昨日のアレは、普通の蜂じゃなかったみたいですよ。」
「そうなのか?」
「あと、ウイルスが原因じゃないのらしいのと、空気感染はしないらしいです。」
「神崎さん、なんでそんなこと、知っているの?」
「真由美のお父さんが、大学でこの蜂の調査をしているそうです。」
「…そうなんです。」
言いたかったことを、綾子に言われてしまったので不満だったが、手短に父親の事と、今朝、父から聞いたことを説明する。
「身近にそういう人がいるとは、運がいいなぁ。」
「じゃあ、刺されなければ、大丈夫ってことね。」
「でも、刺された人に噛みつかれるとマズイみたいですから、気を付けた方がいいです。」
逃げてくる前に、教室であったことも説明した。
「腕を噛まれた奴は、どうしたんだ?」
「わかんない、真由美が石田君を引き付けている間に、保健室に行ったみたいだけど…。」
彼がその後どうなったのか、真由美たちは知らない。
千佳も職員室の惨状を思い出したのか、不安気に直哉の腕をつかんでいた。
「感染しないまでも、生命には関わりそうね。」
みんなが拘束されている彼女を見る。歯をガチガチと鳴らしていた。
頭にダメージを与えたら、本当に倒すことができるのかとか考えていたが、とりあえず手近な問題を解決する方が先である
「それはともかく、これからどうする?」
直哉が振り返ると、三人がこぞってトイレに向かって駆けだしていた。
「俺も。」直哉もトイレに向かう。
「あっ、なんかヤバそう…。」
体育館の2階、観覧席の窓から外を見ていた真由美は、体育館の周囲に人がたくさん集まって来たことに気が付いた。皆、黒い目をしている。
「避難して来た人たちではないみたいね、あわててないし。」
千佳も一緒に外を見ていた。
外にいるのはみな学校の生徒とか、学校関係者ばかりではなかった。
「災害時の避難場所になっているから、逃げて来る人がいないといいですけど…。」
体育館は正面入口が東側にあり、南北に2つずつ入口があが、すべての入口の近くに、黒い目になった人たちが集まっていた。
脱出する方法を模索すべく、外の様子を見ているのだが、ますます追い込まれていることに気が付いた。
何人かはドアを開けようとしているが、いまのところ扉を叩いたり押したりしているだけなので、当分は大丈夫だろう。
ちなみに第1グラウンドが南側で、体育館の北側は裏山になっている。段違いの第2グラウンドは、並んで建っている、プール棟(屋内プール)の前にある。グラウンド側に集まっている人のほうが、断然多かった。
「下校時間の校内放送をしたら、みんな家に帰ってくれないかしら?」
頭の中に夕焼けの景色が浮かび、ドボルザークの『家路』の曲が流れた。
「そんな、ゾンビ漫画のネタじゃあるまいし。」
恨めし気に正面入口上の、ミキサー室を見る。文化祭の時に、照明や音響の調整をする部屋である。
「やっぱりここで、立て籠もるの?」
舞台袖で持ち出す荷物をまとめていた綾子が、心配そうに聞いてきた。
同じ立て籠もりをするのであれば、駅近くのショッピングモールでやるのが理想である。
こんなしょぼい保存食しかない、寝るにも体操用のマットの上とか、地震や洪水なんかの自然災害で、避難を強いられている人達には悪いけど、できれば体育館のような場所は遠慮したいと思う。
「窓や扉が多すぎるから、籠城するには向いてないんだ。」
直哉がリュックに荷物を詰めながら、綾子に説明している。
念のためではあるが、食料と水を少し持っていくつもりだ。
「それで移動するのね。」
「怪しい人達が、たくさん集まって来ているしね。」
怪しい人達とは、蜂に刺されて目が黒く変質した人たちである。
今のところ、体育館の扉を叩いたり、押したりしているので、ドンドンとか、ギシギシという音があちこちから聞こえる。こんな状況で夜を迎えたくはなかった。
「でも、なんでここに…?」
真由美は、グルグル巻きにされた女生徒を見る。今は南側扉の近くに、放置されているが、動きを封じられているとはいえ、もぞもぞと動き続けている。
「まさか…。」
ミツバチやスズメバチなどは敵から攻撃されると、ある種のフェロモンを放出し、仲間を呼ぶのだという。
蜂のような生き物に刺されて凶暴化した人間、その行動が蜂に近いとするなら、このグルグル巻きにされた女生徒が、フェロモンに近い何かを発している、ということはあるかも知れない。
「フェロモン…。」真由美がつぶやく。
「確かにフェロモン、出しているかも知れないわね。」隣で千佳もぼやく。
女生徒の下着姿を思い出したようだ。
しかも、彼女は割といいスタイルをしていたのだった。
その声は直哉にも聞こえたようで、リュックに荷物を詰める手を止めて、顔を赤らめている。
しかし、すぐ横で綾子が訝しげに見ていたので、ハッとして作業に戻った。
「そのフェロモンがどうしたの?」
残念ながら、蜂とフェロモンの関係について、思い当たらなかった千佳は、真由美に尋ねたのだが、 当の真由美は何か考えに没頭しているらしく返事がない。
助けを呼ぶのにフェロモンを放つのなら、校内に入って来た人達も、凶暴化した石田に呼ばれたのかも知れない。
石田に花瓶をぶつけたり、屋上から落ちたりしたのが原因かもしれない。
『そう言えば、デッキブラシで殴り飛ばしたのもあったよね。アレ?ひょっとして私のせい?私のせいで、こんな状況になってない?』
いやな感じの汗が、頬を流れ落ちる。悪い考えばかりが頭の中でループする。
「神崎さん!」
千佳が目の前で呼んだ。少し心配そうな顔をしている。
「大丈夫?青い顔をしていたわよ?」
「…あっ、大丈夫…です。」
とりあえず、この状況をなんとかするのが先だった。
落ち着こうとして、2階の観客席を移動しながら、外の様子を見て回った。
やはり体育館の周囲には、たくさんの黒い目の人たちがいる。
少し考え込んだ後、グルグル巻きの彼女を正面入口の前に移動することを提案した。
「もし外の人たちが、彼女のフェロモンか何かの、救助信号に反応しているのなら、彼女の位置を変えることで外の人達を、誘導できるかも知れないです。」
成功すれば、北側舞台寄りの出口から、安全に脱出できると考えられた。
学校に蜂に刺された人達が集まって来たのは、自分が原因かもしれない、という考えは棚上げにした。
直哉と真由美で毛布の両端を持って、彼女を移動させる。
一時的に彼女の抵抗と、ドアを揺する音が激しくなったが、外の連中は少しずつ移動しているようだった。
30分ぐらい待って見たが、ある程度の人は移動したものの、思っていたほどの結果は出なかった。
安全に脱出するには、もうひと押し必要だった。決定力不足というやつだ。
動きが遅いから振りきって逃げる、と、いうのを、やってやれないことはないと思われたが、大勢で囲まれてしまった場合、万事休すである。
そんなわけで、真由美は黒い目になってしまった女生徒を、観察していた。
時々体を揺らしながら、歯をカチカチと鳴らして、威嚇して来る。
スズメバチの威嚇行動と一緒だった。
口の中は人のそれと同じだが、唇が黒く硬く変質して、バッタの顎のようにギザギザになっていた。
「真由美、危ないからやめよう!」
離れたところから、綾子が忠告している。
確かにいきなり毛布とか破られたりしたら、避けられない距離だった。
胸ポケットからスマホを取りだし、検索の操作をするが反応がない。
未だ通信状況は、回復していないようだ。
何かの参考になればと思い、黒い目になってしまった彼女の、写真を取っておこうと、スマホのカメラを向けた。
「あれっ?」
彼女の目線が、スマホを見ているような気がした。
この目でカメラ目線はあり得ない。
石田の時と同じで、複眼のようになっており、人の眼にある瞳孔は確認できない。
目元から生えているアンテナみたいな触角(?)が、スマホを持つ手の動きに連動するように動いた。
試しにスマホを左右に振ってみると、目元の触覚も同様に揺れて、顔がそちらを向いた。
「もしかして…。」
スマホの電源をオフにして、彼女の目の前で左右に振ってみたが、真由美の方を見ているだけで、スマホには全く反応しなかった。
直哉と花澤を呼んで再演し、確認してもらった。
「スマホに反応するのか!」
「正確には電波ですね。」
「スマホにはGPS機能があるからね。」
綾子にも説明し、みんなのスマホの電源を切って、もうしばらく待つことにした。
「“複眼人”というのはどうだろう?」
扉の前に集まっている、蜂に刺された人たちが移動するかどうか待っている間、直哉が提案した。
「なお君、特撮が好きだからって、その呼び方はどうかしら?」
「「…なお君。」」
その呼び方に反応した真由美と綾子が、ほぼ同時に千佳のほうを見た。
「え、あ、ごめんなさい、いつもそう呼んでいるものだから…。」
千佳が真っ赤になって弁明している。焦っている表情は、一つ上の先輩には見えなかった。
直哉のほうはやはり赤い顔をして、視線をそらしていた。
「かまいませんよ。」「気のしませんから。」にこやかに笑ってスルーしてしまうことにした。
倉庫で会った時も、直哉は“ちかねぇ”と、呼びかけていたのを思い出した。
「高橋君のほうが、親しい呼び方で花澤先輩のことを呼んでも、気にしないようにしよう。」
真由美が綾子に耳打ちして、綾子もうなずいていた。
「どうしたの、二人とも?」
不審に思った千佳が、声をかけてきた。
「あー、“フクガンジン”って怪人みたいな名前だなって。」
綾子が適当なことを言ってごまかした。
目が昆虫の複眼のようになっているから、そういう名前を考えたのだろう。
確かに“蜂に刺された人”とか“目が黒くなった人”とかよりはわかり易い。
そう言えばヒーローショーで、スタントのアルバイトをしていると言っていた。
「なんでスタントのバイト、やってるの?」
さり気に聞いて見た。
少し間があってから、直哉が話し始めた。
千佳が優しげに見つめていた。
「父さんが、スタントマンの仕事をしていたんだ。」
父親の仕事の関係で、小さい頃から撮影所やスタジオに出入りしていたらしい。
その父親が高校に入った頃に、癌で亡くなってしまい、気落ちした母を元気づけるために始めたそうだ。
母は日々心配しているが、当時よりは元気だと言う。
「ごめん、余計な事を聞いちゃった。」
「いいんだ、母さん元気にしてるし、周りの人も良くしてくれてるから。」
中でもお隣さんは、家族ぐるみで気を使ってくれていると言う。
「ごめん…、余計な事聞いちゃった…。」
「ごちそうさまでした…。」
綾子が小さい声で付けくわえた。
しばらくすると、おおかたの人たちが、正面入口の前に移動した。
北側舞台よりの出口には誰もいなくなったので、隣にあるプールの横を抜けて、第2グラウンドから、裏門に向かうことにした。
直哉と真由美がリュックを背負う。
正面入口の扉付近に集まった人たちは、激しく扉を揺らしているようで、ギシギシと音がしている。
その前では毛布でグルグル巻きにされた女生徒が、もぞもぞと体を動かしている。
「あの子、どうなるんでしょう?」綾子が下着女子のことを心配していた。
「そのうち自力で抜け出すか、助けてもらえると思うけど、今は自分たちのことを優先しないとね。」
直哉が北側出口の扉を開ける。
首だけ外に出して周囲を確認する。
案の定、黒い目をした人たちはいない。
扉の前、体育館の北側は2mほどの通路とフェンスがあり、その向こうは藪になっている。
体育館とプールの横を抜けたら第2グラウンド(野球場)だ。そして裏門は、第2グラウンドにある。
4人はいっせいに走り出した。
直哉は木刀を手にしていた。これは剣道部の備品を、拝借してきたものだ。竹刀よりは重く扱いにくいが、その分、強力な上に頑丈だ。
真由美は下駄箱から持って来た、デッキブラシを抱えていた。
第2グラウンドに出る前に、プール脇の倉庫の陰から様子を見る。
裏門から入ってきた人たちが、十人くらいうろうろしている。
「ちょっと厳しいわねぇ。」
「動作が遅いようだけど、あれだけ数がいると、無事では済まないかもですね。」
直哉がグラウンドの隅に、ワンボックスカーが置いてあるのを見つけた。屋上工事の業者のものらしい。10mほど距離がある。
「あれ、使いましょう。」
「運転できるの?」
さらっと言ってのける直哉に、真由美は羨望のまなざしを向けた。
「なおくん、いつの間に免許なんか、」
「取ってないよ。」
涼しい顔で答えているが、自動車の免許は18歳にならないと取ることができない。
「えっ!」
「バイト先で教えてもらった。」
驚いている真由美と千佳の後ろから、綾子が冷静に尋ねた。
「あの、運転できるからって、いいんですか?」
「じゃあ、あの人たちを振り払って、走って逃げられる?」
直哉が見ている方には、裏門から入って来たらしい人達が、ゆっくり歩いていた。
体育館に向かっておらず、ふらふらと歩いているが、見つかれば囲まれてしまうだろうし、そうなれば逃げられない。
「フェンスを乗り越えて、裏山の雑木林の中に逃げるというのもあるけど…。」
体力的に人並み以下の綾子は、直哉の注文に首を横に振った。
「じゃあ、車まで走ろうか。」そう言ってニコッと笑う。
「やっぱり走るのね…。」綾子がげんなりとして答えた。
皆で駆けだすと、何人かの黒い目の人たちが向きを変えた。気付かれたらしい。
「ねぇ、鍵がかかっていたらどうするの?」
「たぶん、開いてるし、鍵も着いてる。」
「わかるの?」
「中になければ、上のグラウンドで倒れている男か、同じ作業服を着てうろついている男が持っていると思う。」
先ほど直哉に襲いかかって来た作業員が、乗って来たものと思われる。
それはもう、鍵が開いていることを祈るしかないなぁ、と真由美は走った。
その車は古いタイプのワンボックスカーで、かなり使い込まれた風格があった。
主に車体のキズとか、へこみとか、ボディカラーの変色具合とかである。
それはともかくとして、後部のスライドドアを開ける。
「開いた!」
「うがっ!」
真由美がドアを開けると、短い悲鳴とともに何かが転がり落ちた。
4人ともあわてて後方へ飛び退く。
それは落ちたはずみで、後頭部を地面で打ちつつ、後ろ向きに1回転して大の字になって倒れ込んだ。が、それはちょうど、真由美のスカートの下に頭を突っ込んでしまう、という体制になってしまった。
「山崎!」
それがクラスメイトの男子であることを確認した真由美は、スカートを押さえて後方へ飛び退く。
真っ赤な顔をしている。
当の山崎は後頭部を両手で押さえて、地面をゴロゴロしている。
「うぅ~っ!」という、うなり声とともに、真由美はデッキブラシを構える。
ゴルフのスイングの要領で、山崎の頭を狙っている。
「あ~っ!それダメ!死んじゃうから!」
綾子が、真由美を羽交い絞めにして、止めに入る。
「えっ、なに?どうなってんの?」
それに気づいた山崎があわてて起き上がり、真由美たちを見た。
「記憶が無くなるくらい、殴ってやるぅ~。」
「ええーっ?」殺気を感じたという。
「どうどう、たぶん見えてないから。」
真由美を羽交い絞めにして、綾子が説得している。なんだか動物を諌めているみたいだ。
「…とにかく、急いで乗って!」
少しの間、固まっていた直哉が、強い口調で乗車を催促した。
置かれている状況を思い出した真由美と綾子は、山崎の両腕を掴んで後部シートに乗り込み、ドアを閉めた。
「えーっ!」何がどうなっているのか、わからない山崎は目を白黒。
運転席に直哉、助手席には千佳が乗り込んだ。
案の定、鍵がつけっぱなしである。
エンジンをかけ、ガソリンの残量を確認する。と、ここまでは順調。
「しまった。」
予想外の事があったみたいで、小さい声で直哉が声を上げた。
その車のミッションは、マニュアルだった。
しかもコラムシフトと言われる、ハンドルの横にシフトレバーがあるという、最近ではあまり見なくなったタイプだった。
「動かせないの?」
心配そうに千佳が声をかける。
「…何度か、動かしたことがあるから、たぶん、行ける。」
クラッチを踏みこんでギヤを入れ、アクセルを踏み込みつつ、クラッチを離す。
ブォン、という音をたてて、車が動き出す。
エンストこそしなかったが、急発進をした感じになってしまった。
後部シートの三人は、前後に体を揺さぶられる。
後方に積んであった工具や機材が、ガチャガチャと音を立てて揺れた。
落ちてくるんじゃないかと心配したが、しっかり固定してあったようだ。
ギヤチェンジして、スピードを上げて行く。
割とたくさんの人がグラウンドにいた。皆、目が黒い。
正常な人はいないようだ。
車が動き出したことに気が付いた者たちが、その音に曳かれて一斉にこちらに近づいてきた。
なるべくぶつけたりしたくないので、右に左に曲がりながら裏門に向かう。
真由美と綾子の間に座っていた山崎は、車が曲がるたび女子の体にあたるのでちょっと嬉しそうにしていた。
もっとも真由美が異様なオーラを放っていたので、出来るだけ真由美の方へは体を傾けないよう気をつけることにした。
なんとか人を撥ねることなく、裏門を抜けて車道へ出ることができた。ほかに走っている車は見えない。
どこを目指すかはもう決まっていた。
「じゃあ、悪いけど、あたし達の家の方から回らせてもらうわね。」
なにがあるかわからないので、全員で移動することにしていた。
真由美は父のいる大学を推したが、多数決で直哉と千佳の家の方に向かうことになった。
「隣同士で結託されたら、多数決じゃ勝てないよねぇ。」
父の大学からは遠ざかることになるので、真由美が愚痴っていた。
綾子はそれを横目で見つつ、未だに状況がわからないらしい山崎に声をかけた。
「なんで、車の中にいたの?」
「変な連中が…いっぱい、入ってきたから…。」
山崎が裏門から逃げようとしたところ、様子のおかしい人がたくさん入って来たので、仕方なくこの車の中に逃げ込んだと言う。
一時は車の周囲にも彼らが近寄って来たので、じっとしていたらしい。
「スマホ持ってないの?」
「…教室に、忘れて来たけど、…なんで?」
「それはラッキーだったわね。」
ドヤ顔で自分を見ている真由美に、山崎は怪訝な顔で問いを返す。
「…どういうことだよ?」
彼らが、スマホの電波に曳かれて集まることを説明する。
「この車で逃げようとか、思わなかったの?」
「…普通の高校生にそんなこと、できる訳ないじゃないか!」
それを聞いた直哉が、困り顔をしている。
「普通はそうよね…。」
千佳も同感であったようで、横目で直哉を見ていた。
車はゆっくりと走って行く。
時々クラッチの操作を誤って、ガガガっと音を立てている。
「大丈夫?」助手席で千佳が心配そうに声をかけているが、直哉はあまり余裕がないようで、「うん。」とだけ、短い返事で答えていた。
この車は作業用らしく、後部席の後ろには工具やらセメントやら、他にも工事用の資材なのだろうか、鉄パイプも積んであった。
おかしくなってしまった人たちと渡り合うなら、この鉄パイプでも行けるんじゃないかな?と、千佳が抱えている木刀を見て、山崎は思ったようだ。で、改めて真由美を見ると、妙なモノを抱えている。
「木刀はわかるけど、…それは、何?」
真由美が抱えているデッキブラシを指して、山崎が尋ねる。
「私のお守り。」
「デッキブラシだよな?」
「お守り!」
既に2回、成果を出しているし、他に使いやすいものなかったから、これでいいんじゃないの?と折り合いをつけたようだ。
車は走る。直哉は無免許のせいもあるが、ゆっくり走っている。
どういうわけだか人の姿はなく、行きかう車両もない。
それでもどこかから“目の黒くなった人”が、飛び出してくるのではないかと不安に思い、窓の外を注意深く見ていた。
「…なぁ、アレは…ゾンビじゃないのか?」
しばらくして、山崎が聞いてきた。
「ゾンビって言うと、映画に出て来たゾンビのこと?」
山崎はコクコクと大きくうなずいた。
「あれは、…Tウイルスのせいだと思うんだ!」
Tウイルスは有名なTVゲームに出てくる架空のウイルスで、ゾンビを生み出す原因となっていた。
「!」真由美はどう説明しようかと、考えていると、綾子が先に口を開いた。
「何処かで聞いたけど、なんだったかなぁ?」
彼女はどうやら、映画は見たことがあるみたいだ。でも残念。
千佳は何か思い出したようで、振り向いて山崎の方を見ている。
直哉は聞こえてはいたが、運転に集中しているので会話には不参加だ。もちろん言いたいことはあった。
山崎はみんなの反応が薄いので、ちょっと不安になった。
「…あれ、…えっ、知らないの?Tウイルス。ゲームとか映画に出て来たアレだよ。見たことあるでしょ?」
普段おとなしい山崎が、珍しく力説している。
よほどこだわりがあるみたいだ。
「いや、映画は見たけどね。」ちゃんとゲームもやりました。
「人の生命力を上げて、死んでしまった人さえも動かすって言うウイルスだよ?」
「その結果、ゾンビになっちゃうんだけどね。」千佳が合の手を入れる。
「剥製の狼や、ホルマリン漬けの魚とかも動き出すんだよ。」
「…おまえ、それ違うぞ。」
綾子のカン違いな発言に、冷静に反論をする。普段が目立たないだけに、とても威圧的だ。
「えっ、えっ?」すごく冷たい視線を向けられて、綾子が焦っていた。
「あのねぇ、山崎。ああなった人は昨日蜂に刺された人達で、蜂の毒による症状みたいなの。」
「蜂の…、毒?」なんだか急にテンションが下がったようだ。
真由美と綾子、助手席からこちらを見ている千佳の顔を順番に見る。
「ゾンビじゃないの…か?」
「ゾンビのほうが良かったの?」
「いや…、そんなことはないけど…、」言いよどんで、ハッとして真由美のほうを見る。
「なんでそんなこと知ってるんだ?」
「私のお父さんが大学で、あの蜂について調べてるの。」
千佳達にした話をひと通り、山崎にも話した。
こういう話に興味津々なようで、いちいち感心している。
「へぇ~、神崎のオヤジさんって、すごいのなぁ。」
なんだか羨望のまなざしを、向けられている気がする。
父親の事を褒められて、悪い気はしない。ファザコン気味の真由美ならなおさらで、ついついニヤついてしまった。
「そうでしょう。」
山崎はそれが気になったのか、ポロっとぼやいた。
「…神崎の事じゃないぞ。」
なによ、それっ!と真由美が言おうとした時、車が止まった。
信号は普段通り稼働していたので、赤信号で止まったのだが、直哉が不慣れなせいで、急ブレーキがかかったみたいに止まったのだ。
大口を開けていた真由美は、舌を噛みそうになった。
「えー、止まるの?他に車いないのに!」
真由美が言うように、後続車もいなければ対向車もいない、そして青信号で交差点を通過する車もない。
「いや、だって警察に止められたら、困るだろ。俺、免許持ってないし。」
「こんな時に警察が、まともに仕事してるわけがないじゃない!」
警察関係の人が聞いたら、怒りそうなセリフである。
「神崎っていつもこんななのか?」「えーっと…。」
山崎が小声で綾子に聞いていたが、綾子は返答に困っていた。
「でもほら、あそこにお巡りさんが…。」
「へっ?」ちょっとマヌケな声を出した真由美が、千佳が指さす方を見る。綾子と山崎もそちらを見る。
10mほど先で、婦警さんがガードレールにもたれて、ぐったりしているのが見えた。
しかも、わき腹を押さえ、額からも血を流しているようだ。
「大変!怪我してる!助けないと。」
真由美は、後方のドアを開けて飛び出す。
「早く出なさい!」
「えっ!」
どうしていいかわからなくて、おどおどしている山崎を押し出して、綾子も外に出た。
信号が変わったのを見て、直哉が車を寄せていく。
どこかから声が聞こえて、山崎はキョロキョロしている。
『正体不明の虫による健康被害が出ています。不要の外出を控え、窓を閉めて、家の中で待機して下さい。正体不明の虫による……。』
交差点を曲がって少し離れた場所に、ミニパトが停まっており、警戒を促すアナウンスが流されていた。
人通りが無かったのは、警察が警戒を呼び掛けていたからみたいだ。
真由美と綾子で、婦警さんに肩を貸して車に戻る。
ケガをしていた婦警さんは、意識が朦朧としているようで、声をかけても呻き声しか返って来ない。
「はい、山崎は後ろに行ってね。」
「え~っ!」
この車の後部には工事用の資材が積んであり、人が座れるようになっていない。
しかたなく工具を除けたところにあった、ツールボックスに腰をかける。固くて冷たい。
さっきまで女子二人に挟まれていたのに、今そこには怪我をした婦警さんが座らされて、女子二人が介抱している。天国から地獄であった。
けが人だから仕方ないとは言え、車が揺れるたびに、棚の上の資材を押さえながら,彼はちょっとした理不尽さを噛みしめていたのだった。
駅近くの病院へ行くことになった。人命救助は最優先だ。
綾子が婦警さんの額の出血を、ハンカチで押さえていた。
「バス通りに出て、ガード下を超えればいいんだな。」
「そう、そしたら一つ目の信号を右。」
山崎の母親が病院に勤めていて、道順に詳しいらしいので、道案内を任せていた。
「…あのう、やっぱり病院に行くんですか?」
真由美は余計なことを心配しているようだが、常識人である千佳は、年上として至極まっとうな発言をする。
「けが人、ほっといちゃまずいでしょう?」
「だけどこういう時って、映画やゲームだと、確実に悪い状況に遭遇するんです!」
「これはゲームとかじゃないから、大丈夫よ。ほら、警察の人だって、ちゃんと仕事をしていたわけだし。」
極めて明るく、真由美を諭す。
「うぅ~。」唸り声をあげて、恨めしげに婦警さんの方を見る。
決して彼女に罪はない。
「…ごめんなさい…。」
「次の交差点を右だな。」直哉が確認のために声をかけた。
駅に近づいてくると、まばらだが走行している車が見られた。
信号が変わったので発信しようとしたところ、ザザァー、ピーっという大きな雑音が車内に響いた。
キィッ!という音を立てて、車が止まる。
直哉が驚いて、急ブレーキを踏んだのだ。
山崎が、婦警さんの肩に装備されている、警察無線の通話ボタンを押したのだった。
なにするの!という真由美の怒声は、つんのめった車体の前部シートに口を塞がれてしまって声にならなかった。
体制を整えつつ山崎を睨む。
直哉を除く女子三人に睨まれたので、あわてて体裁を整える。
「ごめん、…無線が使えるかなぁと思って。」
「…とにかく、次の交差点を右だな?」
「待って…、大通りは…通らない方が…。」
直哉の問いに、別の人物が答えた。
気を失っていた婦警さんが、意識を取り戻したのだった。
凶暴化した人に襲われている人がいたので、助けに入ったところ、走って来た車に跳ねられたと言う。
その車は慌てて走り去ったらしい。
襲われていた人も、襲っていた人も、どうなったかわからないそうだ。
彼女はそのまま気を失って、倒れてしまったらしい。
「ひどい話だねぇ。」
跳ねられた時に、頭とわき腹を打ったようで、骨が折れているかも知れない。
交通事故の現場には、広報活動を行っている途中で、遭遇したという。
渋滞中の車列に、大型車両が突っ込んだというのだ。一緒に乗っていた相方は、交通整理のためにそこに残ったので、一人で広報車を走らせていたという。
ちなみに、お昼頃の話である。
その後で、襲われている人を見つけたのだそうだ。
苦しそうに話す巡査の額には、玉のような汗が浮かんでいる。
「大丈夫ですか?」と、問いかける綾子に、無理に笑ってうなづいていた。
「車は動かない、と。」
「…それなら、その手前で曲がった方がいい。」
山崎が病院への経路の変更を指示してきた。
「もと来た方に、戻ってしまうけどいいのか?」
「高架橋の下をくぐって行けば…、大通りを通らずに、病院に行ける…。」
「さすがに詳しいな。」
「それなら最初から、その道を行けば良かったんじゃないの?」
千佳は、この道の方が近道だと思ったようだ。
「普通なら、大通りからの方が早いけど…、こっちの道は狭いから…。」
「なるほど…、さすがに詳しいな。」
直哉がトーンの低い声で答えていた。それに気づいた千佳が覗くと、直哉はしかめっ面になっていた。一歩通行の道は思ったよりも狭く、道の端に自転車が置かれていたり、花壇が置いてあったりして走りにくかった。
「蜂に刺されたことが原因で、人が凶暴になるのなら、昨日蜂に刺された人がたくさん搬送された病院って、危なくないのかなぁ?」
「だから死亡フラグ…。」
綾子の疑問に、ふてくされている感じの真由美がボソッと答える。
「その無線、壊れているんですか?」
運転しながら直哉が尋ねた。
「…どうでしょう、朝からノイズが酷くて…、使い物にならないの。」
「そうですか。」
「…それ本物の拳銃でしょ?撃っちゃうわけにはいかないの?」
いまさらながら、勝手にさわって申し訳ないと思ったのか、山崎が話題をそらした。
婦警さんが携帯している拳銃を指して言う。
「あの人たちは病気に…、かかっているだけ…だからね、そう簡単には…撃てないの。」
「病気ですか…。」真由美は不服そうだ。
どうやら警察はアレを“病気”と捉えているらしい。
病気であるなら治療する方法もあるはず、だから犯罪者のような扱いはできない、ということなのだろう。
「無意識で徘徊したり、錯乱したりするやつか…。」
山崎が婦警さんの話をフォローする。
母親が看護師をしているせいか、そういう事には詳しいようだ。
確かに病気なら、治るかも知れない。
まるで昆虫の複眼のように、変質してしまっていたその目を、ハッキリ覚えている。
間近でそれを見た真由美からすると、あれが病気による症状で、特別な治療法で治る、というのは、にわかに信じられなかった。
「あ、あそこだ。」
山崎が指をさす先に、病院の建物が見えてきた。
病院には構内に駐車場があったが、たくさんの車が入っており、駐車するスペースが無い。
それも無造作に置かれている車が多いため、本来に車を置ける場所に、車が置けない状況を作りだしていた。
駐車場の入り口に近いところに車を置いて、病院玄関に向かうことにした。
目の前を、消防隊の人が走って来る。
彼らは真由美たちの前で足を止めた。
どうやら婦警さんを運ぶのを、手伝ってくれるようだ。
駐車場の中には消防の車両や、警察車両が何台も止まっている。
消防隊の人について、病院の中に入る。
思っていたよりたくさんの人が中に居て、待合室は混雑していた。
椅子に座りきれない人達が、床に座り込んでいた。
ほとんどの人が怪我をしているようで、一様に包帯や絆創膏をしている。
どうやら一時的な、退避場所になっているようだ。
受付にたどり着くまでに、パタパタと動きまわる看護師や医師らしき人が3回くらい素通りして行った。アナウンスが慌ただしく、医師の呼び出しをしていた。
受付を済ませると、彼女の同僚の警察官と付き添いの医師が来て、ストレッチャーに乗せて連れて行った。
山崎が、ここに勤めているという母親のところに向かったので、彼が戻ってくるまで待合室で待つことになった。
母親がいるのなら、山崎をここに残して行っていいのではないかとも考えたが、ここまで一緒に来たのだし、それならそれで安否確認ぐらいしてから行こう、ということになった。
待合室の一画で座り込んで待っていると、山崎が戻る前に、警察の人が来た。
「私は田中の同僚で、関といいます。彼女から君らのことを頼まれました。」
非常事態とは言え、子供たちだけでこんなことをしていれば、心配されるのは当たり前であった。ここへ来る途中に、自宅に向かう話もしたから、気にかけてくれたのだろう。
「ところで車の運転をしていたのは君だね?」
すごく真面目な表情で、直哉の顔を見た。
続く
ゾンビの語源については、「ゾンビ伝説」という映画の中で語られています。剥製の動物が動き出すのは「バタリアン」という映画です。“狂暴化”は「28日後…」など、病気によって人を襲うという映画の話です。興味のある方は是非!