プロローグ&第一話
初投稿です。よろしくお願いします。
昔々の特撮ドラマ「ウルトラQ」あたりをモチーフに話を考えています。あと、古い特撮映画とか「ゾンビ」などホラー映画も参考にしています。
設定のおかしいところがあるかも知れませんが、ご容赦下さい。
(2021年4月11日、一部修正しました。)
プロローグ
ある年、新種の生物が発見された。
赤道付近にある無人島である。
このあたりに点在する島々には、まだ人が足を踏み入れたことのない、未開の島がたくさんあるのだ。この島もその一つ。
鬱蒼としたジャングルを、調査隊は進む。
調査に向かうのは、この目的のため集められた十数人の男たち。
近くの島の漁師から聞いたと言う、噂を信じてここまで来た。
見たことのない巣を作って、生息している真っ黒い蜂のような昆虫だという。
リーダーの男は、山師のような生活をしているため、目的のモノが見つからなければ、面目丸つぶれのうえ、大きな負債を抱える事になる。
ほかの男たちも、似たようなものだった。
大きな島ではないのだが、熱帯の植物が繁茂しているため周囲の地形が解かりにくく、かなりの広さを感じる。
熱帯雨林なので蒸し暑く、固有種の蔦がことごとく行く手を遮る。
気のせいか、過去に調査した別の無人島にはなかった、妙な違和感があった。
2、3時間さまよった後、樹齢数百年はあろうかという大木の下で、目的のものを発見した。
漁師たちの話は、作り話ではなかったようだ。
普通の蜂の巣のように木の枝に絡み付いていたり、地中に作られていたりするものではなく、蟻塚のような感じで、太い木の根元に鎮座している。
“新種の蜂”と思われる昆虫の巣である。
巣の大きさは、大型犬くらいの大きさで、でこぼことした歪な形をしている。
「猿みたいな形をしている。」と、誰かが言った。
確かに“巨木の根にしがみついた猿”を思わせる外観である。
しかもジャーキーのような、干からびた肉を思わせる色をしている。
蜂の仲間と思われる彼らは、せわしなく巣から出入りを繰り返している。
ミツバチやスズメバチと同様、群れで生活をしているようだ。
おそらく巣の中には女王蜂がいて、働き蜂たちの統制を取っているに違いない。
驚くべきことに、彼らは電波を発信し、コミュニケーションを取り合うという。
この近くの海で漁をしていると、携行していたラジオに、船のエンジン以外のノイズが入るという。
また、無線連絡をしていたときに、黒い蜂の集団に集られたという証言もあった。
実際に無線やラジオに、ノイズが混じっているのが確認された。
しかし、それが彼らの“声”であったかは、確認できなかった。
なぜなら、調査隊の持ち込んだ機材に、蜂たちが過剰な反応をしたからだ。
キャンプの準備中にそれは起こった。
船に残った者と無線連絡を取った直後に、蜂たちが襲撃してきたのだ。
無線機は蜂たちに集られて真っ黒になった。
衛星電話も同様だった。
慌てて地面に放り出すと、そこに蜂が取り着いた。
全員に携帯電話の電源を切るように指示したので、個人持ちの携帯電話はかろうじて無事だった。
無線機と衛星電話は、原形をとどめておらず、プラスチックと電装部品が、見事にかみ砕かれていた。
3㎝前後の小さな体に似合わず、顎の力はすこぶる強いようだ。
念のためラジオの電源を入れて、巣の近くに置いてみたが、結果は無残なものであった。彼らの攻撃はスピーカーから音が出なくなる時まで続き、後には残骸だけが残った。
攻撃本能を、刺激するのだろうか?
この分では遠隔操作のドローンは、使えそうもない。
船には蜂の巣から離れた場所から、携帯電話で連絡をとった。
留守番している操舵士に、携帯電話と無線機の電源を切っておくように指示して、電源はすぐに切った。
二日目、とりあえず電波を発する機材さえ動かさなければ、襲われないようなので、無事だった機材は、電源を入れないように注意して観察を続ける。
50mくらい離れたところから、目視とビデオカメラ撮影が中心の調査になった。
蜂たちは、スズメバチなどと同じく、青虫やほかの昆虫などを捕食していた。
働き蜂たちが、小まめに巣に運び込んでいるのが確認された。
たまに10㎝くらいのトカゲなど、小型の爬虫類も取って来ていたのには驚いた。獲物に2、3匹の蜂が取り付いて、巣へ運び込んでいた。
これが蟻であれば、普通にみられるものであるが、働きバチが共同で運搬作業を行うというのは、今まで見たことがない。
餌が彼らの特異体質に影響を与えているかどうかは、もっと詳しく調べてみないとわからない。
三日日、この島の違和感の正体に気付く。
他の昆虫や、数種の鳥類は確認されたのだが、哺乳類の姿が見えない。
この島は他の島と距離が離れているので、たまたまこの島には定着しなかったのか、他の生き物に捕食されて、絶滅してしまったと推測される。大型肉食獣はともかく、ネズミなどの小型哺乳類も生息していないのは異様だった。夜の間に迷い出て来るかも知れない、そう思って注意して観察していたのだが、やはり現れなかった。
もしかしたら、ネズミとかもあの蜂たちに、捕食されたかも知れない。
いや、ネズミ以外の大きな動物たちも、彼らの餌食になったかも知れない。
この島に哺乳類がいないのはそういう理由かも知れない。
穿った仮説だとは思ったが、そう考えると、この生物の気味の悪さを感じずにはいられない。
しかし同時に、学者としての探求心を強くそそられたのも事実だった。
数日間観察した後、サンプルを捕獲し、撤収することになった。
捕獲の要領に従い、煙を使った殺虫剤を使用し、成虫の蜂の排除を試みる。
ほとんどの成虫を、駆除することができたが、一部は逃げて行ったようだ。
蜂の巣を壊して女王蜂と幼虫、蛹など採取に獲りかかる。
従来の蜂と同様に、木くずを中心に作られていると思っていたが、そうではなかった。
中から猿の頭蓋骨、と思われる骨が出てきたのだ。
それを見つけた隊員は、取り上げたそれを確認すると、慌てて放り出した。
他の部位の骨も出てきた。しかも一体では無く、何体かいっしょくたになっていたようだ。
木屑と思われていたものは、大半が体毛と干からびた肉の繊維であった。
猿の死体の中に、巣を作ったというのだろうか?
まさか、本当に大型哺乳類を捕らえているとは思わなかった。
ここまでくると脅威でしかない。
蜂たちの生態はたいへん気になったが、期限が限られているため、調査期間の延長はできない。
巣の一部として、頭蓋骨とほかの骨をいくつか、持ち帰ることとした。
数人が、蜂の生態に恐れを成して怖気づいたが、この仕事を成し遂げなくては、今後の生活に差し支える者ばかりなので、なんとか説得した。
女王蜂をはじめ、幼虫や卵、蛹など数体のサンプルを採取した。
女王蜂は予想通り、ほかの蜂より一回り大きいものだった。
作業中、生き残っていた蜂に、何人かが刺された。
蜂は人を刺した後、絶命したらしく地面に落ちた。
針の形状が違っていたが、ミツバチと同じ体のつくりなのかも知れない。
不思議な事に、二度刺された者はいなかった。
刺された者たちが、体の不調を訴える事が無かったので、来た時と同じくジャングルを踏破して船に向かった。
途中、蜂に刺された者たちが体の不調を訴えはじめ、ついには歩行困難に陥ってしまった。遅行性の毒を持っていたのかも知れない。
そのため、船にたどり着いた時には、日が暮れていた。
体調を崩した者たちは、ひどく汗を掻き、意識も朦朧としていた。
船長らと相談した結果、船室で休ませることとし、夜が明けたら出向することとなった。
アナフィラキシーショックかもしれないが、ここでは対処できない。
早めに医者に見せる必要がある。
明るくなったらすぐに出発することにした。
翌朝、空が白み始めた頃、予期せぬ事態が発生した。
蜂の群れが、停泊中の船を襲ったのだ。
逃げていった成虫だけにしては、数が多すぎる。
巣は一つだけではないと思ってはいたが、別の群れと共闘するとは、思ってもみなかった。
船のデッキで眠っていた操舵士と、もう一人が刺されていた。
痛みで目が覚めると、蜂が腕に取り付いていたという。
顎で噛みついたうえで、針を刺すようだ。
操舵士は蜂に刺されていたが、蜂たちが船に獲りつき、船の外装をかじり始めたので、船が壊される前に船を出した。
この船の操縦席は風よけのガラスと、雨除けの屋根こそあるが、他はむき出しなので蜂に集られることになった。
昨日と同様に、一度刺された者が、二度刺されることはなかったが、体のあちこちを顎でかじられて出血していた。
なぜ、2度刺さないのか?針を刺す行為の意味は何なのか?つくづく不可解な生き物だ。
若い船員の男が、操舵士をかばっていた。
棒きれで、蜂を叩き落とす程度のことしかできなかったので、それほど防げなかった。
もちろん彼も刺されていたが、かじられた傷はかなり多かった。
それでもなんとか船を進めると、1Km近く離れたあたりで島へ戻って行った。
けが人の手当てをし、しばらくは何事もなく進んだが、朝、蜂に刺された者たちが、午後になり、行動不能になった。
前日、蜂に刺された者たちと、同じ症状であった。
その、前日に蜂に刺された者たちが、同じ頃に起き出した。
回復したかと思われたが、目が黒く変色しており、声をかけても反応が無い。
ついには、ゾンビさながらのもっさりとした動きで、様子を見ていた三名の乗組員を襲い始めた。
一人はドアの前まで逃げて来たので引っ張り出したが、首筋を噛まれており、かなりの出血量だった。
応急手当はしたが、長くは持たないだろう。
あとの二人はドアから離れていたので、助けられなかった。
船室の窓から覗くと起き出した3人が、ケガをした二人に取り付いているのが見えた。
血を吸っている(!)ように見える。
「地獄の蓋を、開けてしまったかも知れない…。」
誰かがそんな事を言っていた。
船室のドアを閉め、出られないようにロープで固定した。
中に窓はあるが、開かないよう固定されているし、ガラスを割ってもそこは海だから、出ては来られないはずだ。
朝の襲撃で蜂に刺された者たちは、意識不明になっており、先の3人がそうであったように、荒い息をしていた。
この二人も、そのうち起き上がって、人を襲うかもしれない。
残っている者で話し合った結果、船室に移して、閉じ込めておくことにした。
先の三人はまだ奥の方にいたので、ドアを入ってすぐのところに、二人の男を寝かせる。
いざとなった時には処分できるように、缶に入れたガソリンも用意しておく。
あらためてドアを固定した。
次の日には、船上で襲われた者たちも起き出した。やはり目が黒くなっていた。
船室から出ようとして、ドアをガタガタと動かしている。
最初に襲われた男たちは、見るも無残な状態だった。
先に起きた者たちは、虫が脱皮するように、体の一部が黒いモノに変わり始めていた。
その時気がついたが、ひとり姿が見えない者がいた。
探して見ると、船の荷物入れの中に隠れていた。
腕を掴んで引っ張り上げると、目が黒くなっていた。
前日の朝、蜂に刺された事を申告してなかったようだ。
その男が、引っ張り上げた男の首に噛みついた。
もつれ合った末に、二人とも海に落ちてしまった。
船を停止して周りを調べたが、二人とも発見できなかった。
諦めて船を出そうとした時、大波が船を大きく揺らした。
風が強く吹き始め、雲の動きも早い。
近くの海上で、台風が発生したようだ。
雲の動きからして、どうあがいても、暴風圏を避けられそうにない。
想定外のトラブルが続いたせいか、天候の変化を見誤ったらしい。
雨風を避けたいが、船室には入れない。
周囲に避難できそうな島影も見えなかった。
残された二人の男は、救命胴衣を着用すると、荒れる海を見据えた。
第一話
初夏のある日、駿河湾沿いの地方都市にある大学、県立北見川大学。
省略して北大と呼ばれることが多い。
早朝であるにもかかわらず、今日も朝から気温が高く、セミの声がうるさい。
本館前のロータリーに停まったバスから、私服の大学生や職員に混ざって、一人の女子高生が降りてきた。
「おはようございまーす!」
大学構内に続く階段を駆け上がると、管理棟1階にある警備室に声をかけた。
恰幅のいい警備員のおじさんは、この元気な訪問者を見つけると、にこやかに挨拶を返した。顔なじみであるらしい。
管理棟と南側にある本館とは、2階の渡り廊下でつながっている。
この渡り廊下の下を通り抜けると、中庭を挟んで北側に2棟、南側に3棟の建物が並んでいるのが見える。
通路の突き当たりには、円形のコミュニティスペースを囲んで、講堂、図書館、クラブ棟などの建物が並ぶ。
ジワッと汗ばみ始めた首の回りを、緩やかな風が流れて行く。
先日、髪をカットしてもらったので、なかなか快適だ。
それでも日に焼けるのは嫌なので、日差しを避けつつ、木陰を選んで駆けて行く。
父のいる研究室は、南側のいちばん奥の建物の一画、図書館のすぐ前だ。
彼女の父親は、この大学で講師をしている。
教授と呼ばれる職業だ。
おもに昆虫学を受け持っている。
『とてもそうは、見えないよね。』
家にいるときの父を知っている彼女には、そういう風に呼ぶ人たちを、ちょっと気の毒に思えた。
休みの日などは下着でうろうろしているし、着替えの服がどこにあるかを、いちいち母に聞かないとわからないみたいだ。
そして着替えたら着替えたでソファーに寝転がって、バラエティー番組を見て笑っている。
家ではそんな姿しか見ていないからだ。
母がいなければ、生きて行けないんじゃないかな?と、時々心配する。
彼女が小さい頃、父のフィールドワークに、彼女は何度もついて行った。
今の彼女の知識は、その中で培ったものである。
その頃の父は、今よりがっしりしていて、清潔感も5割増しだった。(娘目線)
もちろん、フィールドワークが終わる頃には、土やほこりにまみれていて、父とともに母の手を煩わせていたという。
さすがに中学に入った頃からは、年相応に虫の相手をするのは避けるようになっていた。
この日も父は散らかった机の前で、一心不乱にレポートに目を凝らしており、片手でパソコンのマウスを操作していた。
おそらく徹夜をしたのだろう、ワイシャツがよれよれなのを、白衣を着てごまかしている。
しょっちゅう頭を掻くので、髪の毛はボサボサである。
しかも、彼女が部屋に入ってきたことにすら、気付かなかった。
エアコンの効いた部屋で、仕事に夢中になっているらしい父に、真由美は遠慮がちに声をかけた。
「あ~っ…、お父さん?」
父は娘を見つけると、ニコッと笑った。
「未発見の生物かも知れないよ、真由美。」
昨日帰ってこなかった父は、そう言って着替えの入った紙袋を受け取る。
子供みたいに満面の笑みを浮かべていた。
ついでだからと言ってこれまた嬉しそうに、その生物の説明を始めた。
観察用の透明なケースの中に10匹ほど、小さな生き物がいる。
体調は3cmほど、キイロスズメバチと同じくらいの大きさの、蜂のような生き物だ。
腹部が少し細長く、胸部との接合部が太くなっているため、蜂としては不格好に見える。
しかし頭部には大きな顎があるし、黒く透ける羽を持っている。
蟻のように真っ黒な体ではあるが、スズメバチの一種ではないかと父は言っていた。
その虫は前日の午後、彼女らの学校に飛来した。
前日、真由美の通っている高校、5時限目の歴史の授業中である。
この時間帯はどうしても気が緩んで、まぶた重くなってしまう。
いつもは耳障りな、チョークの不定期的な音も、甲高い教師の声も、子守歌に聞こえてくる。
ふと見れば、ちゃんと書きこんでいたはずのノートには、よくわからない文字が並んでいた。
『…これは、まずい…。』とは思ったものの、開け放たれた窓からは、初夏の心地良い風が吹きこんできて、抗いがたい欲望が心を埋めていく。
ふと、窓ガラスに張り付いた黒い虫が、目に留まった。
真っ黒い体をしたそれは、キイロスズメバチくらいの大きさで、大きな顎を持ち、羽が無ければ大きなクロアリに見えなくもない。
長めの触角を震わせて、ガラスの向こうからこちらを窺っているようだった。
ジガバチや、ベッコウバチに似たような種類がいた気がするが、このサイズのモノは思い当たらない。
「…羽蟻?……、にしては、大きい?」
窓ガラスに張り付いている来訪者を、真由美はしばらく観察していた。
周りの同級生たちならば、蜂がガラス窓にとまった段階で「うわぁ!」とか、声を上げただろうが、彼女は少し違った。
父親の職業の関係上、絵本代わりに昆虫図鑑を見て育った彼女は、毛虫やハチ程度では驚かない。人に害を及ぼす生き物か、そうでないかを知っている。
こういう蜂たちは、彼らのテリトリーに入るか、攻撃をしなければ襲って来ないのだ。
しかし、その向こうに不気味なものを見つけて我に帰った。
「なに?アレ…。」
外敵を寄せ付けないために密集して飛ぶムクドリの、集団行動を思わせる黒いかたまりが、校庭の方からこちらに接近していた。
「なんだ、アレ?」「すごい、真っ黒。」
他にも気が付いた生徒がいたようで、立ち上がって窓の外を見ている。
「窓閉めてっ、すぐに!」言い放って自席の前の窓を閉める。
皆がそれに習い、窓を閉めた。
窓ガラスに留まっていたヤツは、どこかへ飛んで行ったようだった。
ポツポツとまるで雨粒でもあたるように、黒い虫たちが窓ガラスに当たる。
あるモノは窓ガラスに取り付き、あるモノはぶつかった衝撃で落下、また登って来るモノもいるようだ。
他の教室にも入り込んだようで、騒ぎになっているようだ。ざわめきが聞こえる。
門の外、たまたま近くの道路にいた人達も、虫に追われてか、走って逃げる様子が見られる。
「痛い!」と誰かが悲鳴をあげた。
教室内に入り込んだ何匹かが、生徒の腕や足に噛みついたか、針を刺したのだろう。
その虫たちは刺された本人に叩かれたのか、すぐに床に落ちた。
死んだようだ。
ほかの窓から校舎内に入りこんでいた虫もいたらしく、あわてて廊下に出た者も襲われていたようだ。
騒ぎは10分ほどで収まったが、かなりの数の生徒と教師が蜂に刺された。
残った蜂たちは、何処かへと飛んで行ってしまった。
高校の裏手には山があるので、そっちの方に飛んで行ったのかも知れない。
殺虫剤を持ちだした先生が、「蜂はどこ?」と言って校内を探していた。
「蜂に刺された人は、保健室に行きなさい。」
先生の指示で、何人かが保健室に向かった。
その先生たちも、半数くらいの人が刺されたようだ。
腕を刺された者に、その跡を見せてもらったが、刺されたのと同時に噛まれた(?)ようで、赤い虫刺されの跡が2つ並んでいた。
ほかの生徒にも見せてもらったが、同様の虫さされ跡があった。
刺されなかったが、噛まれただけの者もいたようだ。
自分たちの身を守るわけでなく、集団で人を襲う。
そんな蜂の話は聞いたことが無かったので、不思議に思えた。
春先によくある“蜂の群れの集団移動”ではなかったのだろうか?
とにかく授業は中断となり、全員で虫の死骸を片づけることになった。
男子生徒たちが、虫の死骸をぶつけあって遊んでいたので、先生に注意されていた。
「ガキだねぇ。」
「ホントに。」
真由美がチリトリを持ち、友達の綾子がほうき担当だ。
役割はジャンケンで決めたようだ。
掃き集められている虫の死骸を、しゃがみ込んで観察する。
「その髪型、涼しそうでいいねぇ。」
しゃがみ込んでいる真由美の首筋を見て、綾子が髪形を褒めた。
「いいでしょう、暑くなる前に、カットしてもらったんだよぉ。」
立ち上がり、くるっと回ってポーズをとってみせる。
片手にチリトリを持っているので、ちょっと様にならない。
「綾ちゃんも、短くしてもらえばいいのに、涼しくなるよ?」
「あぁ、でもここまで伸ばしちゃうと、もったいなくて。」
「そうだよねぇ、手間ひまかかってるもんねぇ。」
綾子とは小学校からの付き合いで、中3の頃から伸ばしているのを、真由美は知っている。
その髪は胸ぐらいまで伸びていて、毛先の方がくせっ毛になっている。
真由美も一度は、これぐらい伸ばして見たいとは思いやっては見たが、手入れがことのほか大変なので、肩まで伸びた辺りで断念した。
「暑くなったら、後ろでまとめておくことにするよ。」
「そう?」
「そこの二人、遊んでんじゃないぞ!」
おしゃべりが過ぎたのか、担任に注意されてしまった。
担任は殺虫剤を持って、校内を見回っていた。
「はーい。」と生返事をして、掃除に戻る。
「こんな蜂、日本にいたのかなぁ?」
確かに見たことのない種類だった。羽が付いているからこそ蜂に見えるが、羽がなければ(大きめの)蟻にしか見えない。腹部が少し長いので、不格好な気がした。
「新種?」
「外来種じゃないかと思うの、海外から来た危ない蜂とかだったらやだなぁと思って。」
真由美が言っているのは、海を渡って来た、強い毒を持っている外来種のことだ。一時期、ニュースでも危険な昆虫として、取り上げられていた。
携帯でハチの写真を取って、父親にメールを送った。
「お父さんに確認してもらうの?」
「うん、ちょっと心配だしねぇ。」
そう言いながら、チリトリを出して、綾子に掃き込むように催促した。
「虫なんてどこにでもいるのに、そんなに心配すること無いんじゃない?」
「それは違うよ、綾ちゃん。外来種の侵入はけっこう大変な問題なんだよ。」
「そうなの?」
「外来種の1つが国内で繁殖することで、在来種、つまり日本固有の生物が絶滅してしまうこともあるのだよ。」
「たくさんいるんだから、何種類かいなくなってくれた方がいいと思うんだけど…、気持ち悪いし。」
真由美は大まじめに語っているが、虫の嫌いな綾子にしてみれば、1種類や2種類くらい、絶滅してくれたほうがありがたい。
まあ、確かにイモムシやゴキブリなどは、見た目気持ち悪い。
でも、そういう外見になったのには“生き抜くための進化”という理由があるし、それなりの役割を持っているのだ。
「でも、そんな虫でも食物連鎖の下の方を支えているって、前に生物の授業で習ったでしょ?」
真由美が言っているのは、食物連鎖のピラミッドのことである。
「蜂とかがいなくなったら、花に受粉させる媒体が激減するから、野菜や果物の収穫が減るって言う話だったかしら?」
「そうそう、前にミツバチがいなくなったら、蜂蜜がとれなくなるっていう話になってぇ、それはいやぁ!って、綾ちゃんが大声出して、みんなに笑われていたやつ。」
真由美は両手を頭に当てて、悲痛な叫びを上げる、その時の綾子の様子を再現して見せる。
綾子は自身の痛い行動を思い出したようで、途端に真っ赤になった。
彼女は蜂蜜が大好物なので、理性が働かなかったようだ。
このあとしばらく「大原プー」というあだ名で、みんなに呼ばれていた。
プーとは、世界的に有名な熊のキャラクターの事だ。
「おのれ、人の黒歴史をひけらかしおって、覚えておけよ。」
ちなみに小学校6年生の時の話である。
「はいはい、こんな面白い話はそう簡単に忘れたりはしません。」
ニッコリと笑って、綾子を見る真由美。
対する綾子は表情が固まる。
「お願い、忘れてぇ!」真由美に抱きついて懇願する。半泣きである。
だが、なにか思い出したようで真由美に向き直った。
「あれ?でも逆に、外来種が死んじゃうこともあるんじゃないの?」
「う~ん、それが何故か、外来種の方が強いんだよねぇ。」
「なんで?」
「なんでかしらねぇ?」
なんでだろう?
「外人選手の方が、スペックが高いのと一緒なのかしら?」
プロ野球やサッカーでの、助っ人外国人のことを言っているようだ。
「それは違うと思うよ。」
「小倉先生…、気分が悪いんですが…。」
友人に肩を借りて、女生徒が保健室を訪れた。
クラブ活動中に体調を崩したらしく、体操着のままである。
「あなたもですか?順番に診ますから、ちょっと辛抱して下さいね。」
小倉先生と呼ばれた養護教諭は、弱々しく笑いながら少し待つようにと答えた。
同じように体調を崩した、別の生徒の脈を計っているところだ。
既に、保健室の中は、具合を悪くした生徒でいっぱいだった。
ベッドは2床しかないので、あぶれた生徒は座り込んでいる。
昼間の騒ぎで、蜂に刺された(と思われる)生徒たちが、体の異常を訴え始めたのだ。
生徒達だけならまだいいが、教師達もである。
主に発熱と目まいだが、動けなくなった者もいた。
この事態に対処するには、養護教諭一人では手が足りないと判断した学校側は、救急車を呼んだ。
先生たちはアナフィラキシーショックを疑っていたが、集団での発症であったので市の保健所に、昼間の騒ぎを伝える事となった。
“何らかの病原菌による集団感染”の疑いがあったので、蜂に刺された者も、そうでない者も一様に、病院で検査を受けるように指示を出した。
部活動で残っていた者には校内放送で、既に帰宅した者には電話などの連絡網で伝えられた。
どういう訳か、スマホなど携帯電話がつながりにくかったので、直接家に電話した数が多かったという。
この日、同様に蜂に襲われる騒ぎが、市内の別の場所でも発生しており、病院には大勢のけが人(蜂に刺された人)が診察を受けに訪れていた。
それでも、午後9時前には検査も終わり、症状の出なかった者は家に帰されたのであった。
そして、問題の虫の調査を、昆虫学の教授である、真由美の父が依頼されたのだった。
「それで保健所の人が、現場で採取された虫を持って来たんだ。あぁ、幸い病原菌とかは検出されなかったから、一安心だよ。」
空気感染するものではなく、刺された者だけが発症したという事だった。
あらためて、ケースの中の虫を観察する。
偶然にも網戸と窓の間とか、空き教室に入って逃げられなかった個体がいたらしい。
別の現場で採取された個体も、一緒に入れられている。
「外来種かと思ったんだけど、新種だったのねぇ。」
「それはまだわからないよ。別の班で調べているけどね。」
既に誰かが発見したモノであれば、ネット上にその情報があるはずなのだ。
「あと腹部に針のような突起があってねぇ、これで皆を刺したみたいなんだ。」
「へぇ…。」
ケースの壁に張り付いている個体を見ると、確かに腹部に、胸部のほうを向いて斜めに突き出ている突起がある。
普通の蜂は、腹部の先端に付いているものだが、腹部の中央からやや胸部寄りにある。
昨日、見た時は、気が付かなかったようだ。
「“攻撃のための針”ではないんでしょうか?」
近くにいた若い研究員が、父娘の会話に割って入る。
彼はこの研究室には似つかわしくないイケメンで、普段から虫や土やほこりにまみれているにもかかわらず、サラサラな髪が清潔感をいっそう醸しだしていた。
どこかのアイドルグループの一員かと見間違えそうな、爽やかな好青年である。
しかも、今は娘の方にその爽やかな笑顔を向けている。
年頃の娘を持つ父親としては、いささか焦るものらしく、イケメン君を肘でけん制しつつ、博識を披露する。
「知っての通り、蜂の針は産卵管が変化したもので、腹部の先端にあるのが普通だ。ミツバチとかの針は、刺した時に体の一部ごと抜けてしまう。それは針の先に“かえし”が付いていて、一度刺したら抜けない構造になっているからで、刺した個体も絶命してしまう。だけど、これはミツバチの特性で、スズメバチとかは何度でも刺すことができる。集団で行動しないドロバチやベッコウバチは、本来の目的通り卵を産むための器官だから、“かえし”は付いていない。で、これを針と考えれば“かえし”は点いていないから、何かを産み付けるためのモノ、と考えるのが普通なんだが、この個体には生殖能力はない。」
娘は興味深げに、父親の話を聞いていた。
ファザコン気味の娘にとっては、いかな好青年の爽やか光線も効果は薄いのだった。
「独自の攻撃方法があるんじゃないの?噛みついてから、針を刺していたみたいよ。」
「ホントかね?」
「うん、刺された子に見せてもらったもん。」
無人島など閉鎖された地域では、独自の進化をする生き物がいるというのは、前に父から聞いた話であった。
「うーん、でもねぇ、マウスと同じケースに入れて、観察しているんだけど攻撃しないんだ。ストレスを与えてやれば、攻撃すると思ったんだけどねぇ。」
確かにこの体形では、対象に体を密着させなければ、刺すことができない。
体を固定させるために、噛みつくのかも知れない。
これが“蚊”だったりすると、たたかれる前に飛び立つことはできないだろう。
「教授、攻撃する対象に、条件とかがあるんでしょうか?」
「そういう性質を持った昆虫は、いなくはないけどねぇ。」
「その対象は、人間だったりするとか…?」
ケースの中をまじまじと観察する真由美の目の前に、蜂が飛んできて、ビタッと停まる。
少し大きめの顎を、カチカチと鳴らしている。
カチカチと顎を鳴らすのは、蜂の威嚇行動だ。
ケースの内側なので取り着かれることは無いのだが、あわてた真由美が「わっ、」と小声を上げて後ずさった。
父が僅かに慌てたが、事なきを確認して問いに答えた。
「まさか、そんなことはないだろう。」
「そうだよねぇ、でも毒は持っているんでしょ?」
「酵素らしい物質が出たんだけどね、これが何かよくわからないんで、別の研究施設に調査を依頼しているんだ。それが判れば、体調を悪くした人たちの治療方法もわかるんだけどねぇ。」
他にも、針とされる部位に、細い繊維状の器官が繋がっていたのだが、毒の袋ではないようで、何なのかはまだわかっていない、と言うことだった。
「そう言えば、サンプルの虫に刺された彼はどうなったかな?」
ケースから虫を出そうとして、刺されてしまったうっかり者がいたらしい。
「病院に行った後、経過観察のため入院することになったたんですが、未明に熱が出たという連絡がありました。」
「その人を刺した虫も、すぐに死んだんですか?」
「どうでしょう、反射的に虫をたたいてしまったらしいから、それで死んでしまったかも知れないですね。」
「卵を、産み付けた…、とか?」
「…さっきも言ったけど、生殖機能はないんだ。」
「じゃあ、なにか別のモノを…。」
真由美は以前、父に見せられた大変気持ちの悪い写真を思い出していた。
それは人の皮膚の下に卵を産みつける、というハエが羽化している写真で、言っておいてなんだけど、『見なきゃ良かったぁ…。』思えるほど気持ちの悪いものだった。
思い出したくもないその写真を、思い出してしまった彼女の表情は、ちょっと険しいものになっていて、イケメン君は少し心配していた。
父はそんな娘を見て、思い当たることがあったのか、ちょっと不憫に思っていたが、イケメン君と顔を見合わせた後、落ち着いて答えた。
「いや、患部を見せてもらったけど異物はなかったし、患者を診た医者からもそんな報告は来てないな。」
「海外にそういうハエが存在するけど、日本にはいないし、仮に輸入品とかに付いてきても、検疫で国内には入らないような仕組みがありますからね。」
そういう仕組みのしっかりした国で良かったなぁ、としみじみ思いながら、真由美は顔を上げた。
そこへ研究員の女性が、新聞記事のコピーを持ってきた。
「教授、先日駿河湾で不審船が炎上した際に、船から飛翔する多数の虫が見られたとのことです。」
「ありがとう、皆口君。」
「いえ、ネットで偶然見つけましたので。」
父は興味深げに書面を読んでいた。
イケメン君も後ろから覗きこんでいた。
「杉田さん、女子高生が来ているからと言って、いつまでも遊んでないで下さいね。」
「えっ?仕事はちゃんとやってるよ、この子は教授の娘さんだし…。」
イケメン君の名前は“杉田”というらしい。
真由美目当てで話に参加していたようだが、皆口女子に誤解であると強調する。
でもその後で、真由美の方に笑顔を向けていたので、説得力は無い。
父の方は新聞記事を読むのに夢中になっており、娘の事は二の次だったみたいだ。
「皆口君、蜂のような生き物だったとあるが、詳しい形態とかは書いてないねぇ?」
「ドアを開けたとたん、船室から飛び出してきたようで、よく見てはいないようです。船室の中には、乗組員の死体があったらしいです。」
「その死体は、蜂に刺されて死んだのかな?」
「なにぶん、船と一緒に焼けてしまったので、死んでから数日経っていたことぐらいしかわかってないようです。」
手元に別の資料を持っていた彼女は、記事の内容を確認した後、その書面も父に渡していた。
船が燃えた話なら、真由美もニュースで見た記憶があった。先日の台風の後に発見されたもので、調査中に出火して、船が燃えてしまったと報道されていた。
不審船に乗っていたのが、外来生物で未知の種類なら、まだ誰も知らない病原菌を持っているかも知れない。その場合、この小さな島国ではかなりの驚異になる。
「産み付けられたモノが、すぐに体内を移動したなら、お医者さんでも見つけにくいですよね…?」
その場合、寄生する生き物が、蜂と共生していることが条件になる。しかし、そのために自身の命を懸ける?なんておかしな話はない。共生するのであれば、お互いの利害が一致していなければならない。一方だけが得をするのでは、成り立たないのだ。
『そんな、都合のいい生き物はいないよね…。』
「そんな漫画があったよね。」
杉田は心当たりがあったみたいだが、父は知らなかったみたいで、「どんな話しかね?」と小声で聞いていた。
漫画のあらすじを聞いていた父は、なにか気付いたようで娘に声をかけた。
「真由美?」
「はっ、はい!なに?」
寄生するなにかについて考えていた真由美は、ことのほか大きな声で返事をしてしまった。
おかげで、周りの研究員たちの注目を浴びてしまった。
書面を持ってきた皆口さんも、クスクスと笑っていた。少し恥ずかしい。
「そろそろ、学校に行かなくていいのかい?」
父の声に、先ほど考えていた妄想が、ポンっとはじけて消えてしまった。
「あっ、そう言えば!」
時計を見ると、もうバスの来る時間である。
高校へ行くには一度駅に戻って、別の路線バスに乗らなければならない。この大学は海に近いところにあるが、彼女の通う高校は、山の手の方にあるのだ。
「じゃあ、おとうさん、がんばってね!」
父と杉田に手を振って、研究室を出た。
彼女の名前は神崎真由美、何処にでもいる普通の高校2年生だ。
ちなみに時間がギリギリだったので、バス停まで猛ダッシュすることになった。
教室に入ると教卓の前の席を、距離を置いて数人が囲んでいた。
彼女の席は窓際の後方、本人いわく“ベストポジション”なので、その人だかりを遠巻きに見て自席に鞄を置いた。
どうやら誰かの机の上で、異変が起きているようだ。
近寄って見ると、案の定、机の上に黒い奴がいる。
クロゴキブリと言われる種類だ。どこかから迷い込んだのだろう。
周りの状況を探っているのか、長い触角をウネウネと動かしている。
『机の主は…、あぁ、エビちゃんか。』
“エビちゃん”こと海老原美咲は、背が低くて可愛らしい、このクラスのマスコット的存在だ。そのエビちゃんが、顔面蒼白という感じで二つ後ろの席で、離れて見ていた。
「早くどこかに行かないかなぁ。」
エビちゃんと仲のいい園崎さんが、隣で彼女を見守っている。
もちろん、そのために何かするわけではない。
せいぜい両手を胸の前で組んで、『早く何処かに行くように…、』と、祈るくらいだ。
園崎さんの席はひとつ前、つまりエビちゃんの後ろだ。
そしてエビちゃんが座っている席の生徒は、今日はまだ来ていない。
彼女らの周りには、他の生徒も集まっていた。
大半が状況を見守っているだけで、根本的な解決策を試みるものはいない。
真由美が椅子に座ろうとすると、彼女の肩に手をかけて話しかけて来る者がいた。
「遅かったねぇ、真由美。もうすぐ予鈴だよ。」
「あぁ、綾ちゃん、おはよう。母上からお使いを頼まれまして、父上の職場まで立ち寄りで。」
「いやぁ、しかし間に合ってよかった。」
「そりゃ、その分早起きしたもの。」
「お父さまへの愛情の賜物ですなぁ。」
「…綾ちゃん、用があるなら早く言って。」
友人の綾子は、何か芝居がかった様子で、いちいち揉み手でポーズを付けながら話しかけて来る。こういう時、だいたいおかしな頼みごとをして来ることを、真由美は知っている。彼女、大原綾子とは小学校からの付き合いだ。
「それじゃあ、早速ですが…。」
額に汗を浮かべつつ何処から持って来たのか、情報誌らしきもの丸めると真由美に手渡そうとする。
どうやら始業前に、アレを何とかして欲しいという催促だったようだ。
「えぇ~、なんでぇ~?」
とりあえず両手を前に出して得物の受け取りを拒否、首を横に振ってみる。
「しかたないでしょう、男子は役に立たないし、先生が来るまであのままって訳にもいかないし。」
事件の加害者である、黒いヤツを指さした。
でもなんだか、目が合ってしまった気がして、すぐに腕は下げた。
確かに、男子も女子と同様にヤツと距離を取っている。
いつも弄られている山崎が、ソレの前に突き出されようとしていた。
その後ろで、数人の男子が笑って見ている。
山崎を羽交い絞めにして、突き出していたのは田代だ。
「ほうら、黒いヤツだぞう。」
身長が170cm以上ある彼が、頭一つ小さい山崎を弄るのは、日課のようなものである。
そして山崎もコレは苦手らしく「やめろぉ~。」と、弱々しい声をあげながら必死で足を踏ん張っている。
『あぁ、山崎…、気の毒に』生温かい目で見つめる。
「ここはほら、やっぱり真由美先生の出番だよね。クラスの平穏のために是非!」
「現クラス委員の綾子先生は、出馬しないんですかぁ?」
不服そうにジト目で綾子を見る。
綾子はこれでもクラス委員をやっている。
推薦によるものなので、本人の意向ではない。
でもまぁ、事態を収拾しようと考えた結果が、真由美への丸投げだった。
彼女はあさっての方を向いたまま「いやぁ、私は虫アレルギーだから、それにほら、もう予鈴だし、ね!」
小声でいい加減な理屈を並べている。彼女もやっぱりゴキブリは苦手だ。
「虫アレルギーって、何それ!」もう一言ぐらい不満を訴えようとしたが、無情にも予鈴が鳴りだした。
真由美は深ぁく、ため息をついた。
すごく不満そうな顔をして、綾子から丸めた情報誌を受け取ると、エビちゃんの席に近づいていった。
「ひとつ貸しだからね!」
ゆっくりゆっくり、ヤツを脅かさないように近づいていたが、不意にエビちゃんが叫んだ。
「そこで潰さないでぇー!」
その声が届いたからかどうかはわからないが、奴は不意に羽を広げて飛んだ。
一瞬、ザワッとして、皆がそこから離れようとするなか、真由美の主砲、もとい、丸めた情報誌がヒットした。
“ぺシャっ”という軽い音がして、ソレは後ずさりしていた田代の方へと飛ばされた。
あわてた田代が手を緩めたのを見計らって、山崎は体を下にずらして逃げ出した。
結果、それは田代の顔面を直撃し、床に落ちた。
周りにいた男子が、いっせいに田代から離れて行った。
「ごめんね、田代。不可抗力だから!」
ヤツはひっくり返って、足をジタバタと動かしている。
まだ息の根は止まっていないようだ。
「潰すと臭いんだよねぇ。」
ポケットからティッシュペーパーを取りだすと、4、5枚かぶせて適当に丸めて立ち上がった。
ティッシュペーパー越しに、手足を動かしているのがわかる。
『やっぱり気持ち悪い!』
湧き上がる拍手と歓声、でも丸めたティッシュを持っている真由美に、抱きついて来たりする者はひとりもいない。
エビちゃんは机をティッシュで拭いている。真剣だ。
山崎は笑っている連中の傍らで、胸を撫で下ろしていた。
田代は周りの男子達に、汚物扱いされていた。
登校中に犬のウンチを踏んだ時みたいだ。
綾子は別の女子と談笑している。
真由美は、はぁ~っと、ため息をつくとトイレへと走って行き、そして丸めたティッシュを流した。
そしてしっかり手を洗って教室へ戻ったのだが、何故か担任に注意されてしまった。
「神崎、トイレは始業前に済ませておけよ。」
『確かにトイレには言ったけどね』
誰もフォローしてくれない理不尽さを感じつつも、生返事をして席に向かうが、あらためて欠席している生徒が多いことに気付く。
昨日の騒ぎで、蜂に刺された者たちだろうか。
と、綾子と目が合った。彼女は小さく手を振っている。
『後でジュースをおごらせよう。』ジト目でアイコンタクトを試みるが、やはり笑って手を振っているから、想いは伝わらなかったらしい。
彼女、神崎真由美は何処にでもいる女子高生だが、普通の女子、いや大の男よりも虫には強かった。
それは父親が昆虫学者だったりすることもあり、子供のころから慣れていたからだった。
『私だって、ゴキブリは嫌いなんだからね。』
まあ、これを好きな人間はそうそういないだろう。
ひと通りの出欠を取った担任は、咳払いをすると時間割の変更を告げた。
「国語の久川先生が来ておられないので、一時限目は自習になります。」
ざわめく教室、喜んでいる者もいる。
その中で一人、真由美はがっかりしていた。
彼女がこの学校の教師の中で、“一番声がきれい!”と思っている久川先生の声が聞けないのである。特に和歌や短歌などを読む声が素敵で、彼女の楽しみの一つであり、もちろん授業もしっかり聞いていた。その楽しみが一つ、無くなってしまったのであった。
「静かに!」
ざわつく生徒たちを一喝して、さらに担任が続けた。
「それと今日は欠席している人が多いのと、講師も半分以下しか来ていないので、休校になるかも知れません。」
休校と聞いて、さらにざわめく生徒たち。
「くれぐれも、連絡があるまで校内から出ないように、わかりましたね?」
大きめの声で釘をさして、担任は教室を出て行った。
真由美の機転が効いたために、このクラスは被害者が少なかったが、他のクラスや講師陣には多数の被害が出たらしい。
虫に刺された人には申し訳ないが、休校ならば喜ばずにはいられない。
「このあと、どうしようか?」みんなして、後の予定を立て始めた。
「カラオケ行こう、カラオケ!」
綾子がいそいそと声をかけて来た。
遊びに行く気満々だ。
「パフェおごってくれるなら行く!」
「なにそれ?」
おごらせる対象は、自販機のジュースから、パフェに格上げされたようだ。
「カラオケ行くなら、俺らも一緒に行っていいか?」
田代が割り込んできた。どうやらカラオケと言う単語に釣られたらしい。
「ゴキちゃんを顔で受けた人はダメです。」
綾子はメガネのブリッジを中指で押し上げ、さらに腕組みをして拒絶の意思を示した。
「顔なら拭いたって、それにあれは神崎の仕業じゃないか。」
そういえばホームルームの間、ウェットティッシュで懸命に顔を拭いていた。
こすり過ぎて、おでこのあたりが赤くなっている。
「狙った所に飛んで行くと思うの?」
真由美はメガネのブリッジを中指で押し上げ、さらに腕組みをして不満の意志を示した。
メガネは綾子のものを借用した。
真由美は両方とも視力1.5あるので、もともとメガネなんて必要ない。
で、突然視界を奪われた綾子はというと、真由美の横でオタオタしている。
彼女はメガネなしでは、生活が成り立たない人なのだ。
あわててメガネを取り返し、ホッと息をついた。
真由美の返答には、不甲斐ない男子への不満も入っていた。
「担任にも注意されたし…。」と、ぼやく。
「そうよ、除けられなかった田代の落ち度よね。よくそんなんで野球部のレギュラーが務まるわね。」
メガネを取り戻した綾子の加勢が入る。
「野球部関係ねえし、俺が悪いってか?」
「だから、狙ったわけじゃないんだって!」
「直撃だったぞ。」
それは田代の眉間に当たっていた。
口元じゃなくて、ほんとによかったと彼は思っていた。
「直撃されたなら、おとなしく撃沈されていなさい。」
「どんなだよ!それ?」
真由美たちが不毛な会話をしていた時、教室の後ろのドアがゆっくり開いて、一人の男子が入って来た。
皆が田代と真由美たちのやり取りを見て笑っていたので、それに気づいたのは真由美の隣、窓から二列目の席に着いていた、深見さんだけだった。
男子生徒は両腕をだらりと下げたまま、ふらふらと深見の方に近づいてきた。
まるでゾンビが歩いているような感じだ。
「あっ、石田君。遅かったね。寝坊でもした?」
“石田”と呼ばれた生徒は答えない。
そのままゆっくり近づいて来る。
彼の席は深見さんの隣だった。
「…石田君?大丈夫…?」
問いかける深見の表情が曇る。
彼はうつむいたままなので、その表情は良く分からない。
「だいたい男子がもう少し…、」真由美は言いかけて止めた。
後ろで誰かが、声をあげたようだったのだ。
“ようだった”いうのは、その声がかすれていて、“声”というよりはまるで、風船から急速に空気が漏れる音に似ていたからだ。
振り返った真由美は言葉を失った。
それは深見の断末魔だった。
男子生徒が、彼女の首筋に噛みつき、血が噴き出している。
「誰…?」その顔は血だらけで、口元からは今も大量の血が流れ落ちていた。
それがクラスメイトの石田であることに気づいたのは、もう少し後のことになる。
その惨状に気付いた生徒たちは、一斉に悲鳴を上げた。
後ずさる者、よろけて机にぶつかりひっくり返る者、逃げようとして出口へ走る者、その場にうずくまってしまう女生徒、そして崩れ落ちるように倒れてゆく深見。
流れ出る赤い血は、見る見るうちに床に血だまりを作って行く。
無声映画をスローモーションで見ているようだった。
『…こんな映画みたことある…』
ホラー映画が好きな彼女は、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「なにやってんだ!」
その声にハッとして、我に返る。
田代が果敢にも彼に飛びかかり、組み伏せようとしていた。
が、逆に腕を捕られて、首筋を噛まれそうになる。
それを避けようとして出した左腕に、男子生徒が噛みついた。
「うわぁーっ!」
田代は悲鳴を上げ、無理やり振りほどこうとして、後ろに倒れた。
噛まれた部分はシャツの袖ごと喰いちぎられていて、田代はそこを手で押さえたが、ひどく出血している。かなり痛そうだ。
逃げだした生徒たちの大半は、他のクラスから来たヤジ馬と一緒に、廊下側の窓から覗いていたが、数人の生徒はまだ室内にいて、前方の出口のところで傍観していた。
だから、二人の近くにいたのは真由美と綾子だけだった。
綾子は完全に固まっており、その顔からは血の気が引いていた。
男子生徒はショックで動けないでいる田代に、徐々に迫って行く。
彼は食いちぎった腕の肉を、口の中でモゴモゴと咀嚼しているようだ。
「ぅあぁ、うぁー…。」田代が悲壮な表情で、立ち上がろうとしていたが、腰が抜けたのか、座ったまま後ずさるのが精一杯のようだ。
その時、男子生徒の頭めがけて通学鞄が投げつけられた。
さほどの衝撃ではなかったのか、倒れたりはしなかったが多少グラついた程度だ。
ゆっくりと投げられた方向に顔を向けたそこに、今度は花瓶が投げつけられた。
ロッカーの上に飾ってあったもので、人の頭よりひとまわりぐらいの大きく重いものだ。
ちなみに今日はユリの花が飾ってあった。
低く鈍い音がして、花瓶とユリの花は飛び散り、彼は2,3歩よろめいて倒れた。
こめかみのあたりから、血を流している。
真由美が機転を利かせて、男子生徒にぶつけたのだった。
その隙に田代は、よろよろと立ち上がり、後ろのドアから外へ出た。
真由美は、ショックで呆然としている綾子の手を引いて田代に続いた。
教室を出る時に、倒れている深見を見た。
血の気のない顔が、血の海に横たわっている。
後ろ髪を引かれる感じであったが、どうすることもできない。
ドアの前で振り返ると、男子生徒はゆっくりと立ち上がるところだった。
あわててドアを閉める。
「真由美!すごいねぇ。」
何人かの女生徒達に、羨望の眼差しを向けられた。
「なかなかできないよねぇ!」「ほんと!すごい。」「虫にだけじゃないんだねぇ!」
最後の褒め言葉には、ちょっと異論があったが、いまは他にも気にしないといけないことがあった。
「…ありがと…。」生返事をして、廊下の窓から教室を覗きこんだ。
中を覗いている生徒の中には、ほかのクラスの者もいるようだ。
前の方に居た生徒達も、既に廊下に出ており、廊下から中を覗いていた。
何人かが、スマホで写メを撮っていた。
「石田だよなぁ、アレ…。」「たぶん…。」誰かが話していた。
同じクラスの石田は、昨日蜂に刺されていたが、症状は出ていなかった。それでも先生の指示で、病院に行ったはずである。彼が石田だとすると、蜂に刺されたことと、彼の変貌ぶりは、何か関係があるのだろうか?
教室内に視線を戻すと、彼は既に立ち上がっていた。
うつむいた状態で、こちら側には背を向けていたが、ゆっくりと振り返った。
どうゆうわけか目が真っ黒だ。
口にはべっとりと血がついており、耳の近くまで裂けているように見える。
唇の内側に、黒い歯のようなものがせり出していた。
真由美が花瓶をぶつけた部分は、皮膚が裂け、そこは黒いものが見えていた。
彼はこちらの様子に気づくと、窓に向かって突進してきた。
突進といっても足の動きは遅く、ズン、ズン、ズン、ズンという感じで、着ぐるみを着て無理やり走っているみたいだった。
そして窓に向かってジャンプ、ガラス窓を突き破って廊下に飛び出してきた。
が、思うように動けなかったのか、つんのめって顔から着地した。
廊下側の窓はそれなりに厚みがあるが、格子が入っているわけではないので、人が飛び込んでくれば、にべもなく割れる。
ドアを閉めたところで、閉じ込められるようなものではないのだ。
廊下で事の成り行きを見守っていたヤジ馬たちは、わらわらと逃げ出した。
一部の生徒たちは、付近の教室に逃げ込みドアを閉めた。
ゆっくりと持ち上げられたその顔には、飛び散ったガラス片があちこちに刺さって血が出ている。
やはり目が真っ黒だ。
真由美はその様子を見ていたせいか、逃げ遅れてしまった。
気が付けば隣にいたはずの綾子の姿はなく、ちゃっかり教室内に逃げ込んでいた。
割れた窓の向こうから、ごめんなさいのポーズをして、こちらを見ていた。
「なにそれ!」
その綾子のこっち側で、石田が立ち上がり、真由美の方に向かって来た。
真由美も逃げようとして足を踏み出したが、何かにつまずいて倒れそうになった。
「なにっ?」と足元を見ると、山崎が四つん這いになっていた。
他の生徒にぶつかられて転んだらしい。
「なに、やってんの!」
手を引っ張って立ち上がらせる。
と、逃げ足だけは速いのか、脱兎のごとく駆け出した。
「なに、それ!」お礼くらい言ってよ!と思ったが、逃げるのが先だった。
隣の教室は、既にドアが閉じられていた。おそらく内側で押さえられているだろう。
石田の動きは鈍かったが、真由美と山崎を確実に追ってきていた。
L字型になっている廊下の端、突き当たりには中央階段がある、角を曲がると南校舎だが、その手前に女子トイレがある。
真由美は女子トイレのドアを押し開いて、中に入ってドアを押さえた。
「あぁ!」前を走っていた山崎はそれを見て、自分もそこに逃げ込もうとした。
が、さすがに女子トイレだったので二の足を踏んでしまった。
石田が近づいてきたので、あきらめて走り出した。
廊下を曲がったところ、中央階段の横には男子トイレがある。
山崎は真由美に習って中に逃げ込んだのだが、扉を閉めようとしたところで石田に追いつかれてしまい、仕方なしに個室の中に逃げ込んだ。
四つあるうちの三つは既に誰かが入っていたので、開いていたいちばん奥の個室に入って鍵をかけた。
石田はそれを見過ごすことなく、いちばん奥の扉に迫り、壊さんばかりに叩き始めた。
実はほかの個室にも男子が逃げ込んでいたのだが、こぞってだんまりを決め込んでいた。
いちばんドアに近い個室に入っていた男子生徒は、こそっ、と扉をあけて覗いたが石田が扉を叩くのをやめ、自分のほうを向く素振りが見えたので、あわてて閉めて鍵をかけた。
石田は,また扉を叩き始めた。
女子トイレのドアは押して開けるものだったので、真由美は中から押さえていた。小さな曇りガラスが附いており、その前を石田が通過するのを待ってひと息ついた。
「何か、使えるもの…。」奥の掃除用具入れの扉を開けた。
山崎の逃げ込んだ個室の扉が、ぎしぎしと妙な音をたて始めた。
蝶番が壊れそうになっていた。
彼は泣きそうな顔で扉を押さえていた。
ふと誰かがトイレのドアを開ける音がした。
いちばん手前の個室に籠っていた男子が、逃げ出したのだ。
それを追って、トイレを飛び出した石田の黒い眼が、突然真っ白になった。
真由美がスプレー式の中性洗剤(泡の出るやつ)を吹きかけたのだ。
「!!!」石田は悲鳴をあげたようだったが、それはうまく鳴らない笛のような音で、大きく開けた口を見ていないと、声とわからないようなものだった。
両手で目の周りを擦ると、皮膚が剥けて真っ黒い丸いものがあらわになった。
「複眼?」
真由美はそれに見覚えがあった。
カブトムシやクワガタ、トンボや蜂に見られるような複眼。
何でこんな眼で物が見えるのだろうと、小さい時から思っていた小さな六角形の集合体がそこにあった。
瞼であった皮膚が剥がれ落ちて、人にはあり得ないそれが露わになった。
さらに目元には、甲虫の触覚のようなものが生えていて、ウネウネと動いていた。
大きく口を開けて、鳴らない笛のようなうめき声を発しながら、ふらふらと真由美のいる方へ近づいて来る。
先ほどの男子生徒は、少し離れた場所で成り行きを見ていたが、慌てて逃げ出した。
真由美は2,3歩後ずさりすると素早く踵を返して、中央階段を上へ駆け上がっていく。
石田は彼女を追って、階段を昇って来た。
『4階は3年生の教室があるからダメだ。』
彼女は屋上に向かった。
普段は鍵がかかっているのだが、先日から屋上の工事をしているので開いているはずだ。
案の定、屋上のドアの前には工事用の衝立が置かれて、立入禁止の張り紙がしてあった。
ドアは錆び除けが塗られた状態であったが、幸いなことに乾いていて、鍵もかかっていない。衝立を除けてドアを開ける。
ギシーッ、と重い音をたててドアが開いた。
ドアクローザーが固定されていないので、すぐには閉められそうにない。
石田が屋上に出てきたら、回り込んで屋上に隔離できるかな?とか、考えていたのだが、それは望めないようだ。
「あっ!」
何かにつまずいて転んでしまった。
屋上には、工事用の資材や工具などが置かれていた。
起き上がりながら振り返ると、石田が外へ出てくるのが見えた。
屋上の端の方へ追いつめられていく。
フェンスの前に工事中と書かれた衝立があったが、それを押し退けるかたちでフェンスに背中を預ける体制になる。
『飛びかかってきたら、横っ跳びして逃げよう。』
そう考えながら後ずさりする。
フェンスにもたれようとしたが、変な感じがしたので体重をかけるのをやめた。
前に向き直ると石田がすぐ前に来ていて、案の定、飛びかかって来た。
予定していた通り横に飛んで避ける。
某アクションスターのように、1回転して決めたかったが、現実はそう甘くない。
ずるっ、と言う音を立てて、コンクリートの上に突伏した。肘を少し擦り剥いた。
体を起こして振り返る、と、フェンスに張り付いた石田が、フェンスごとゆっくり倒れて行くのが見える。
「欠陥工事…。」
実際はフェンスを固定していたコンクリートが、まだ固まっていなかっただけである。
キーッ、と音をたてて、フェンスが曲がっていく。
やがて完全に外向きに曲がり、根元の金具が土台のコンクリートごと瓦解し外れて落ちた。
石田はなすすべなく、フェンスに張り付いたまま落ちて行った。
ガシャンっという音と、人のざわめきが聞こえた。
その頃、腕をかまれた田代は、友人の野島に肩をかつがれて、1階の保健室へ向かっていた。
噛まれた左腕を手持ちのスポーツタオルでグルグル巻きにしているが、既に血で真っ赤になっている。
「大丈夫かよ、田代。」彼の後ろから、一緒に降りてきた森田が声をかける。
養護教諭の小倉先生目当てで、付いてきたのだ。
田代の返事はなかった。
目が虚ろになっていて、声が聞こえているのかすら、わからない。
「先生、お願いします。」
野島が保健室のドアを開ける。
『あら、どうしたの。』
いつもならここで、優しい声で出迎えてくれるのだが、今日は返事がない。
野島は少しがっかりした様子で中に入ると、田代を診察用の丸椅子に座らせる。
奥にあるベッドの方で誰か動いたようだが、仕切用のカーテンがかかっているので見えない。
朦朧としている田代を、森田にまかせて奥へ移動する。
白いカーテンが揺れている。
『まさか先生、寝ていたりしないよなぁ?』
ちょっと色っぽい体勢で、寝乱れている先生の姿を想像する。
期待に胸を膨らませながら、カーテンをそっと開けてみた。
確かに先生がいた。
ベッドに体を横たえていた。
しかし、その顔に生気は無く、傍らに3人の生徒がまとわりついて、首と腕とわき腹の辺りに噛みついているようだ。
その三人は、ついさっき教室で見た石田と同じように、目が真っ黒である。
「デジャビュー…。」
彼は一歩後ろへ下がった。
そのとき、後ろでガタっと音がして田代が床に落ちて倒れた。
「うわぁ、田代ぉ!」
森田があわてて、田代の体を支えにかかった。
どうやら、田代は自身の体をささえることが、できなくなったようだ。
黒い目の生徒たちが、いっせいにこちらを向いた。
恐怖感に負けそうになったが、声を振り絞った。
「…逃げろぉ…!」
まるで悪い夢を見たときの寝言のように、尻切れトンボな発声であったが、森田にもその声は届いたようで、あわてて保健室から逃げ出して行く。
野島も後に続く。
振り返ると一人の生徒が、田代に取り付いて首筋に噛みついていた。
野島はその足で職員室へ向かい、異常事態を先生に伝えようとしたのだが、先にたどり着いた森田が、しどろもどろな説明をしていて、教師を困惑させていた。
そこへ野島を追ってきた黒い目の生徒が跳びかかり、野島は組み伏せられてしまう。
野島を助けようとした教師だが、後から来たもう一人の黒い目の生徒に噛みつかれてしまった。
さらにそれを助けようとする先生たちで、職員室はパニック状態になり、それを見ていた森田は別のドアから飛び出していった。
職員室にはもう一人、2年生の教室で起こった惨状を伝えに来た生徒がいたのだが、森田が出ていったのを見て、彼もまた飛び出していった。
かつて“石田”だった者が屋上から落ちてからしばらくして、真由美は下の様子を見てみることにした。
2,3分はじっとしていた気がするが、もっと短かったかもしれない。
体をささえるものがないので、四つん這いのまま近づき、石田が落ちて行ったところを覗きこんだ。
一番いやなパターンとしては、覗きこんだところに“壁に掴まっていた石田がいて、こちらに飛びかかって来る”という、ホラー映画でありがちのシチュエーションだが、そうはならなかった。
彼は直下にあった石のモニュメントに頭をぶつけたらしく、顔があらぬ方向を向いて倒れていた。
死んでいるかどうかはわからない。
「あぁ、なんかお約束っぽい」
これで生きていたらゾンビの類かな、などと考える。
コンクリートの欠片を、石田の近くに落として反応を見るが、やはり動かない。
誰かに確認してもらおうと思って、辺りを見回した。
男子生徒が、グラウンドに駆けだしていくのが見えた。
「他にもいるぞ、逃げろぉ!」
同じクラスの男子だった。校庭から他の生徒たちに、呼び掛けているようだ。
彼は何かに気づいたようで、段違いの第2グラウンドへ走り出したが、裏門の近くで、外から入って来たと思しき人たちに、取り押さえられてしまった。
「うわぁ!」
小さな悲鳴が響いて、やがて血が噴き出していた。
あらためて見ると、何人かの人が校庭に入って来ていた。
第2グラウンドにある、裏門が開いている。
表の道路から、そこに向かって歩いて来る人影もあった。
見るからに動きがおかしい。
「えっ、他にもいるの、うそぉ?」
急いで戻ると、教室の前で、綾子が一人でおろおろしていた。
真由美を見つけると、駆け寄って抱きついてきた。
さっきの男子生徒の警告が聞こえていたようで、廊下の窓から外を見ると校門から走り出していく生徒たちが見えた。
先生たちはどうしたのか気になったが、自分たちの安全の方が優先だ。
「真由美、生きてた、良かった。」
綾子はどうしていいかわからず、立ちすくんでいただけのようだ。
マジ泣きである。
「石田君、どうなった?」
「屋上から落ちた。たぶん、死んでる。」
「真由美が落としたの?酷い!」
「友達ほっといて逃げる方が、酷いんじゃないかな?」
むしろ、こっちの方が大事だ、とばかりにジト目で力説する。
「あと、私が落としたわけじゃないからね!」
「殺人じゃないのね、事故なのね?」
なんだか警察みたいなことを言い出した。
「とにかく私らも逃げよう。一人でも大変なのに、二人も三人もいたんじゃ身が持たないわ。」
他の生徒たちは既に逃げ出してしまったので、教室に残っているのは二人だけだ。
綾子の手を引いて階段へ向かう。
「えっ!他にもいるの?」
綾子は困惑顔でついて来る。
「どこに逃げるの?」
「こういう場合は、人がたくさん居るところへ行くんだよ。」
「人がたくさん居る所って?」
「例えば駅前のショッピングモールとか…、」
下駄箱に着いた彼女の目に、校庭で誰かがもみ合っているのが見えた。
1人はここの男子生徒、もう一人は外部の人間らしい。
作業服を着ているから、屋上の工事に来ていた作業員かも知れない。
体の動きが、石田のそれと似ていた。
傍にはもう一人倒れているが、事切れているのか動いていない。
と、男子は何かにつまずいたのか、あおむけに倒れた。
すかさず作業服の男が覆いかぶさって、噛みつこうとしている。
幸い校庭には、彼らだけしか見えない。
「綾ちゃん、ここで待ってて!」
真由美は下駄箱の隅にあるロッカーから、掃除用のデッキブラシを取って走り出した。
「逃げるんじゃないのぉ…?」
綾子はあたりを見回して周囲に誰もいないのを確認したが、どこかから何か出てくるような気がして、よろよろと真由美の後を追いかけた。
続く
次話は近日中に投稿します。
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