010:元カノ(前)
え? は? はいぃぃぃぃっ!?
一体彼女は何を言っている!?
それもよりにもよってサキさんの目の前で!
俺の予想通りサキさんが俺に詰め寄って来る。
「イツキくん。やっぱり私を騙していたのね。これ程の屈辱を感じたのは生まれて初めてだわ。ねぇ、私はどうしたらいいと思う!? 殺すべきかしら、それとも葬るべきかしら!?」
あぁ、ヤバい。
てか『騙した』ってなんだ。付き合えと言って来たのはそちらからだよ!
あとそれってどちらも死んでますよね。それとどうかする相手って誰のことですか? 俺ですか? それとも淡路ですか? うん、そうですよね、両方ですよね。
とにかくサキさんをなだめないと色々とマズいことになる。
「ご、誤解です。何かの間違いです。それにサキさんの調査結果でも俺達が別れたのは知っていたじゃないですか」
「アレの情報源は元を辿れば貴方自身よ。貴方が嘘を言っていたならそれで説明が着くわ」
俺が淡路と別れたのを知っているのは当事者である俺と本来であれば目の前にいる淡路自身。しかし何故かは解らないが淡路はそれを認めていない。
他にそのことを知っているのは俺が話をした人間だけ……つまりツカサだけと言うことになる。
ならそれをサキさんは知っていると言うことは……ツカサだ。あの野郎、俺を売りやがったのか。
いや、今考えるのはそこではない。まずはこの窮地を乗り越えないと。
って、ん?
「あいつ、正気かよ……」
「……サイテー」
「うわぁ、ないわぁ、ひくわぁ」
ああ、そうだったわ。ここ、まだ学校だったわ。
ここは校門前。帰宅する生徒や部活に向かう生徒は先程の廊下の比ではない。
周囲の視線が先程よりも一層集まっている。
そりゃ確かに校門前でこんなに騒いでいたら、目に付いてもおかしくはないだろう。
もはや誰も視線を隠そうとはしていない。
誰もが足を止めてこの場で起きている事件を傍観している。
「あいつ、イズミさんとあの一年生の子を二股掛けてたんだってよ」
「イズミさんって、あのイズミさん!」
「一年生の子も可愛いし……、ふざけんなよ、あの野郎」
「信じらんねぇクズだな」
「クズね、あの人」
「滅びろ、クズ」
おっと。これはマズいな。
何だか更なる窮地に立たされている。
おそらくは学校生活において最大のピンチだろう。
これは流石に今後の学校生活に支障が出てくるレベルだ。
……しかし、そのことはもう考えなくていいのかもしれない。
何故なら現在、サキさんに首を絞められて既に絶命まで秒読みが始まっているから、だ。
サキさんの目、これはマジだ。マジで殺りに来てやがる。
ああ、これでこの世ともおさらば、か……。
恥の多い人生を送って来ました。
「やめてください!」
淡路が思いっきり飛び込んで俺の身体をサキさんから引き離してくれた。
サキさんの手が俺の首から離れ、ようやく空気を肺に取り込むことが出来た。
失いそうになっていた俺の意識が血流と共に一気に脳へ運ばれる。
空気ってこんなに美味しかったのか。
危なかったぁ。今のはギリギリだったな。川の向こうからじいちゃんが「こっちにおいで~」って言ってたよ。あ、じいちゃん死んでなかったわ。
「大丈夫ですか、先輩っ!?」
「はぁー、はぁー、し、死ぬかと思った」
一瞬、死も覚悟したんだけどな。
やっぱつれぇわ。……息が出来ないのは。
「……淡路さん、だったわね。これはイツキ君と私の問題なの。とりあえず貴女は少し下がっていて貰えるかしら?」
「違います。これは私と先輩の問題です。確かに少しだけケンカをしてしまいましたけど、今も私が先輩のカノジョであることは変わりありません。『間女』は黙っていてください」
小声で「小娘が」と言うサキさんの声が聞こえた。『そのセリフ、めっちゃ悪役っぽいですよ』とは多分言ってはいけないのだろう。
堪えろ、俺の口。今だけは。
「そうは言うけど当のイツキ君は貴女とは別れたって言っているわよ?」
「そんなことはありません。私達は別れてなんていません。きっと貴女が押し掛けて無理やり先輩をひっぱり回して困らせているだけです」
中々に鋭い。まあ、後半は大体合っている。本当に頭の痛い問題だ。
「困らせているのは貴女の方ではないのかしら? 今のイツキ君を見なさい、とても困っている様だけど?」
え、ここで俺に振るの?
淡路が俺の顔を見て少しだけ眉を下げる。
最初は意表を突かれて淡路がややリードしていたようだが、サキさんも本格的に主導権を取りに行き始めた。
「それは貴女がっ!」
「イツキ君は貴女が現れるまでそんな表情はしていなかったわよ。貴女が現れたから困っているのではないの?」
いやいや、淡路が現れる前から充分困っていましたよ? しかしたった今現れたばかりの淡路がそれを知っている訳がない。多分、サキさんはそのことを判った上で言っているのだろう。
「そんなことはない……、はずです」
淡路は若干歯切れ悪く答えた。
それを見逃すほどサキさんは甘くはない。ここから一気に仕掛けるつもりだ。
「『はず』? ということは少しは貴女自身にも心当たりがあるのではないの?」
「そ、そんなのありません!」
「ない、ね。なら貴女は自分が完璧にイツキ君の理想通りのカノジョだったって思っているのね?」
「それは……」
「違うの? それならやっぱり『ある』ってことよね?」
淡路は口を動かそうとしてはいるが、返す言葉が見つからないのか声は出ていない。
「なら『それ』が原因なのではないかしら? 貴女は『それ』でフラれてしまったのではないの?」
「そんな、こと……」
これはだいぶ効いているようだ。
人間同士が交流する中で、嫌われる理由なんてものは小さなものを上げればキリがない。誰にだって欠点の一つや二つはある。このサキさんでさえもそうだ。
他にも先入観、誤解、価値観の違い、能力の差など、ほんの少しの歪みが大きくなるなんてことは良くあることだ。
それでも上手くやっていく為には互いに許容する必要がある。
『彼にはこんな欠点はあるけど、あんな良いところがあるんだよ』的な。
付き合いが長くなり信頼関係を築けば許容出来る幅は拡がるし、逆に時間経過に伴い目に付く欠点は蓄積されていく。
上手く行かなくなるのは欠点が許容量を完全に超えてしまった時だ。
そうなればもうどうしようもなくなってしまう。
崩壊してしまったダムの水は誰にも止められない。
しかしそれを正確に把握するのは難しい。何せ人の心、感情を明確に測定する術はないのだから。
だからサキさんは俺のダムを決壊させる可能性があるかもしれない淡路の中にある『何か』を淡路自身に見つけさせた。
そしてそれを自覚したのなら、もしかすると自分でそれを膨らませてしまったかもしれないと勝手に思い込んでしまう。
淡路は今まさにその心当たりを自ら膨らませているのだろう。
ただサキさんの言葉をひとつだけ訂正しておきたい。
これは重要なことだ。根本的な問題だ。
「さ、サキさん? フラれたのは俺の方なのですが……」