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はじめてのハーレム入門

 昔、誰かが言っていたのを思い出す。人間の歴史は、ずっと昔から受け継がれてきたと。未来は過去から伸びている一本の線の上にあると。

 でも、僕はそうは思わない。人は死ぬ。死ぬとその人の考えはこの世から消える。文字として他人に伝達できたものは、その人の頭の中にあった考えそのものではない。その人の思考の極々一部。その僅かな思考を言葉と絵に変換して、残す。

 残された者は、その思考の一部を読み取って、あの人はこんな人だった、なんていうけれど、残された僅かな情報から、その人本人を理解することはできない。

 だから、人が死ぬたびに不連続になる。過去から未来へ伸びている線は、とぎれとぎれもいいところ。直線ではなく、でこぼこしている。

 でも、今が過去に大きな影響を受けているのは事実で、今を知るには、過去を知る必要がある。

 だから、でこぼこな線を手探りで遡って、知らなければならない。今を知るために。



「あなたはこちらの手違いで死んでしまったので、色々な能力をつけた体で異世界で生きてもらいます」

 そんなことを言われた後、目を開けると、見知らぬ世界が広がっていた。

 (僕の妄想じゃなかったのか?)

「よし!!!」

 右手で握りこぶしを作り、小さくまるまるようにガッツポーズをした。

 (ハーレムを作るぞ!!!)


 意気込みはあるが、見渡す限り草木が広がるこの状況では、僕の夢を叶えることができそうにないので、街を目指して歩くしか選択肢はない。

 人は基本的には一夫一妻だ。人類が誕生したころからそうであった可能性が高い。ハーレムを作る動物は、基本的に雄の体が雌よりも大きい。構成するハーレムが巨大であるほどその比率も大きくなる。人間の身長の男女の比はだいたい1対1。若干男性のほうが大きいので、平均すると一人の男性に対して1.1人くらいの女性、という割合になると考えられる。

 現在、一夫多妻が行われている国もあるが、多数の妻を娶ることができるのは、一部の裕福な人たちだけだ。多くの庶民は一夫一妻だ。

 基本的にはハーレムの維持にはお金がかかる。だから、ハーレムを作る前にお金を稼ぐ方法を確立する必要がある。

 僕は、大奥みたいな大規模なハーレムを作るつもりはない。仮に1000人の女性で構成されるハーレムだとすると、一日ごとに女性を交代させたとしても同じ女性に戻ってくるまでに3年ほどかかる。

 僕の目指すハーレムは5~6人の女性で構成されるような小規模なものだ。これならば僕一人でも統率が取れる規模だし、維持費もまかなえると思う。

 お金の次に問題なのは、そもそも僕がもてるかどうかだ。残念ながら顔は元のままなので、モデルをできるような整った顔ではない。しかし、自分で言うのもなんだが、普通くらいの顔だと思う。

 どうせなら顔も変えてくれたらよかったのにと思ったけれど、顔が良いだけで近寄ってくる女性をハーレムに加えるのはいただけない。

 これは完全に僕の好みの問題なのだが、ハーレムに加える人員にも拘りがある。

 まず、顔が整っていること。次に体型。最後に性格が良いこと。

 最後の条件である性格については、条件に入れるべきか非常に悩ましいところだが、僕の目指すハーレムづくりにはかかせない。

 小規模ハーレムはほぼ家族と言って良い。その中に和を乱すような人がいては、ハーレム全体の維持に関わる。

 大規模なハーレムでは、構成員一人ひとりの規律がハーレム全体に影響を及ぼすことはあまりない。中規模のハーレムでもそうだ。これは構成員一人のハーレム全体の人数に対する割合が小さいためだ。反乱分子がいても、それを押さえ込める人員がたくさんいると考えられる。

 しかし、小規模なハーレムでは一人ひとりの行動がハーレム全体に影響する。だから、僕の好みの問題だけではなく、ハーレム人員に必要な条件に性格を含めざるを得ないのだ。

 (この体は全く疲れないな。好都合だ)

 さっきから街を目指して、あてもなく歩いているのだが、肉体的疲労というものを全く感じない。しかし、精神的にはきつい。

 しかし、ハーレムの人員に厳しい条件を課すことは同時に、ハーレム構成員を確保しにくくなることを意味する。

 僕のようにもてない人間がハーレムを作るためには、とにかく数を打つしかない。片っ端から声をかけまくって、人数をかせぐ。分母が大きければ成功確率が低くても、必要な人数を集められるはずだ。

 しかし、実際にハーレム人員の要件を満たす人は、そうたくさんいない。だから、どうしても分母が小さくならざるをえない。

 このジレンマをどう解決するかが、ハーレムを作る上で最も重要な課題となる。

 まず、特別な手段がない限り、ハーレム人員の質と人数はトレードオフの関係にある。質を上げると人数が稼げない。人数を増やそうとすると質が落ちる。

 この質と人数の関係は、右下がりの直線グラフで近似できるだろう。横軸が人数で縦軸が質だ。

 人数が限りなくゼロに近いとき、質は最大となる。この質の最大値を決めるのは、世の中の女性の質の良さには上限がないと仮定すると、ハーレムの主がどれだけもてるか、に依存する。

 次にハーレムの人員を増やし、質を限りなくゼロに近づけた場合を考える。この人数の最大値を決めるのは、人間の統率能力だろう。たった一人でハーレムを維持するとなると、その限界規模は人間の集団を管理する能力の限界と等しくなるはずだ。

 つまり、ハーレムの理論的な最大規模は、一人でハーレムを管理する場合、ハーレムの主がどれだけもてるかは関係ない。

 つまり、ハーレムの主のモテ度が高いほど、グラフの直線の切片が大きくなる。そのままグラフが右上に平行移動するイメージだ。

 結論として、モテ度の高いハーレムの主Aとモテ度の低いハーレムの主Bが同規模のハーレムを作った場合、ハーレム人員の質はAのほうがBよりも高いと言える。

 ハーレムの規模が人間が管理できる最大規模等しくなったとしても、その質の差は変わらない。そういう残酷な結論にいたる。

 ここまでは理論的な話だったが、実際にハーレムを作る場合には、今描いたグラフ上の一点を選ぶ必要がある。その点の人数と質が、そのままハーレムの人数と質になる。

 僕の場合、ハーレムの構成人数をすでに決めてあるので、質も自然と決定する。

 つまり、僕のモテ度がハーレム構成員の質にもろに影響するわけだ。

 ハーレム作りの戦略を練っている間に、やっと街が見えてきた。

 街の城壁は、ここから二階建ての家の屋根がぎりぎり見えるくらいの高さで、僕から見て正面に大きな門があることがわかった。

 (道っぽいところを通ってきて正解だったな)

 道と言うにはあまりに雑な整備の場所だったが、ここが街道だったようだ。


 街の中は随分と賑わっていた。活気があるというか、みんな浮かれているみたいな感じだ。

 ここで確認しなければならないことがいくつかある。僕の目的を達成する上でとても重要なことだ。

 ハーレムを作るに当たって障害となるものに、宗教、倫理観、法律などがある。

 日本では、倫理観、法律によってハーレムは規制されていた。宗教によっては一夫一妻のみしか認めないものもある。

 こういった制限がどれだけあるかで、ハーレムの作りやすさが決まる。もし条件が悪ければ他の国に移るべきだ。

「兄ちゃん、一つどうだい?安くしとくよ」

 通りを歩いていると露天の店主から声をかけられた。露天と言っても屋台のような屋根もなく、だだ、ぼろっちい木の机に商品をならべただけのものだ。

「いえ、結構です。あの、この国の宗教について教えてもらえませんか?」

「兄ちゃん、外国の人?」

「ええ、随分遠くから来ました」

「そうかい。この国はウズ教の国だ。兄ちゃんは?」

 少し考えてから、堂々と喋った。

「ハレム教です。多神教で一夫多妻を推奨しています。この国ではどうですか?」

「貴族連中は何人も奥さんがいるって聞くが、庶民じゃいないな」

 お金を十分に稼ぐことができれば、ハーレムを形成することができそうだと知れただけでも非常に有益な情報だ。

「しかし兄ちゃん、あんまり他の宗教について口にしないほうがいいぜ。表向きは宗教の規制は行ってないが、裏では色々やってるって話だ」

「そうなんですか」

「個人的な信仰くらいなら大丈夫だろうが、大々的に宗教活動をするのはおすすめしないな」

「それなら心配無用です。色々と教えてくださってありがとう御座います」

「ああ、ちょっと待て。なんか買ってかないか?サービスしとくからよ」

「ごめんなさい。無一文なんです」

 男は苦笑いしながら言った。

「なんだよ。つれないなあ」

「いえ、冗談ではなく、本当にお金を持っていないんです」

「本当か?だったら職業斡旋所に行くといい。すぐそこだ。兄ちゃんくらい若かったら、どこか雇う所があるだろう」

 職業斡旋所までの道順も教えてもらって男と別れた。

 とても親切にしてもらったが、残念ながら男性を僕のハーレムに加える予定はない。これが美少女だったらな、と思わずにはいられないが、世の中甘くない。

 しかし、ハーレムを作れるとわかったのは、大きな一歩だ。次は具体的な戦略を考えなければならない。

 街につくまでに、一通り自分の能力を確認したが、かなり違和感があった。体が軽すぎるのだ。どんなに走っても疲れないし、落ちるときに怪我をするのではないか、というくらい高く飛べる。少し気味が悪いくらいだ。

 事前にレクチャーを受けていたので、魔法も試した。これも拍子抜けするくらい上手くいった。上手く行き過ぎて、手応えがまったくない。

 僕の能力は人並み以上だ。事前のレクチャーどおりなら、僕に敵う人間はいない。

 これだけの能力があれば、モテるに決まっている。モテないはずがない。運動部のスポーツ万能な先輩がかっこよく見えるのと同じだろう。もっと言うと、かけっこの得意な男子小学生がモテるのと同じ理論だ。

 しかし、このかけっこ理論が適用できるのは若年層だけだろう。歳を重ねるごとに、人間の魅力には様々な面があることを知るし、各々が自分の得意な方向へ進むので、一つの尺度で優劣をつけることが難しくなるせいでもあるだろう。

 つまり、僕がねらうのは、人生経験の浅い若い女性、ということになる。十代くらいだろうか。

 貴族の箱入り娘なんか良いかも知れない。親に反発したい年頃の娘の目の前に地位も名誉もないが、とても強い青年が現れる。

 うん。いい。これはそのまま駆け落ちするやつだ。迫りくる追手がますます少女の恋心を燃え上がらせる。上手く行く結末しか見えない。

 まずターゲットにする年齢層は決まった。しかし、これで一人確保できたとしても、そこから人数を増やすことができるかどうかが問題だ。

 一人目を確保する際に、それとなくハーレム計画について話しておくか?

 まあ、それについてはまた後で考えよう。今はモテるための具体的な方法について考えるべきだ。

 僕はハーレムの形成に成功した例を知っている。とはいっても、その大半はフィクションだ。その成功例では、男性は恋愛に対して非常に消極的で、異常なまでに性的なことに関心を持たない。

 それはフィクションだからだ、と思うかもしれないが、これはハーレムを作る上で重要なことだ。

 こちらが女性に対して積極的にアプローチする場合、ハーレムを作ろうとすると、どうしても不誠実な人間に思われてしまう。女性目線で見ると、自分のことを好きだと言う男性が、次の日には別の女性に愛を囁いていたら頭にくるだろう。

 しかし、女性側から積極的にアプローチしてくる場合、なし崩し的にハーレムを形成することができる。ある種、無言のキープを行うのだ。

 こちらから女性にアプローチし、何人もキープした場合、浮気だとみなされる。しかし、相手からのアプローチをイエスともノーとも言わずに保留することで誠実なキープをすることができるのだ。

 もちろん、この方法にはかなりのテクニックがいる。つかず離れずを維持し、最終的には女性側に、ハーレム状態を妥協してもらう必要がある。

 でも、僕にならば、この方法でハーレムを作れる。もっと正確にいうと、この体ならばそれが可能だ。

 この圧倒的な能力には、無言のキープを行えるだけの求心力がある。

 ハーレムを作るシミュレーションは何度も行ったことがある。僕にならば実現できる。

 職業斡旋所は大きな扉が特徴的な建物だった。しかし、建物自体はそんなに大きいわけではなく、隣りに並ぶ建物と変わらない。

 四メートルはあるのではないかというドアを開けると、カウンターと待合席のようなスペースがあった。

 幸い、カウンターの前には誰もいなかったので、受付と思しきカウンターの前へ歩いた。

 カウンターの向こう側にいた人が顔を上げ、こちらを向いた。

 とてもきれいな人だった。いや、それは違う。近づいてみてわかったが、綺麗なだけじゃない。可愛らしさも同居している。素晴らしい。

 年齢は、推定26歳。大人びた空気があるが、その中に少女の可憐さが残っている。

「どういったご用件でしょうか」

 対応も完璧だ。

 ぜひとも彼女をハーレムの一員に加えたいところだが、もちろんナンパなんて論外だ。

「仕事を探しておりまして、こちらへ伺いました」

 まずは普通に対応すべきだ。なし崩し的ハーレムに必要なのは、女性に好意を持つことではない。女性から好意を持たれることだ。

 そしてそのために必要なのは運命的な出来事だ。例えば、女性が暴漢に襲われそうな所を助けるとか。

 さらに重要なことは、助けたときにこちらから名乗らないことだ。こちらは正体を明かさない。しかし、ついうっかり僕の正体がバレてしまう。これが理想だ。

 こういうシンデレラ的な運命が必要なのだ。

 そんなのが上手く行くのはフィクションの中だけだろうと思うかもしれないが、これは理にかなった戦法だ。特にこちらから見返りを求めない点が良い。

 これはカルト宗教の勧誘にも用いられる手で、相手に負い目を感じさせる方法だ。こちらが過剰に損をして、相手だけが得をする状況を作る。しかし、相手にその恩を返させない。

 それを積み重ねることによって、相手がこちらの言うことを受け入れるように仕向けることができる。

 相手の、申し訳ないという気持ちを利用したとても卑劣な手と言える。

 使い古された古典的な手だが、その単純さゆえに、今なお効果的だ。

 この受付の女性に好意を持ってもらうために、今考えられる手はいくつかある。

 まず、人を雇って彼女を襲ってもらい、そこに僕が助けに入る、という方法だ。こうすれば運命的な出会いを作れる。

 しかし、僕が人を雇って襲わせたということがバレた場合のリスクが大きい。彼女に嫌われるのはもちろんのこと、逮捕されるおそれがある。この作戦はあまりに短絡的だ。

 最善の方法は、彼女をストーキングし、彼女が本当にピンチに陥るのを待つしかない。僕の能力ならばストーキングがバレる恐れはない。根気強く待つしかないだろう。

 そして彼女の窮地を救い、僕の正体がバレないように、しかしバレるようにする。

「奥の座席でお待ちください」

 彼女に言われたとおり、建物の奥へ進むとホールのような場所に出た。椅子と机がいくつもならべられており、それぞれが衝立で仕切られている。

 とりあえず、手近にあった空いている椅子に腰掛けた。ホールの応接セットはまばらにうまっていて、職員らしき人が忙しそうに動き回っていた。

 ホールは天井の低い体育館のような場所で、柱のようなものは見当たらない。机と椅子さえ片付ければ、ドッジボールができるだろう。いや、この建物の雰囲気ではダンスのほうが良いかもしれない。

 もしかしたらこの建物は、もともと職業斡旋所として建てられたものではなく、元は貴族の別邸とか、華やかな施設だったのではないだろうか。

 五分位待って、ようやく職員らしき人が現れた。

「おまたせしました。まず、身分証を出してもらえますか?」

「え、身分証ですか?この国の人間ではないので、そういったものは持ってないんです」

「外からいらした方には入国書を提出していただいております」

「え。いや、それも持ってないです…」

 この国の正面の門には門番と審査官のような人たちがいて、入国審査をしていた。

 問題は、そこで入国料を徴収していたことだ。残念ながら僕は全くお金を持っていないので、正規ルートで国内へ入れなかった。

 どうやって入国したかと言うと、街を囲う壁を登って越えたのだ。ロッククライミングみたいで楽しかったし、あのときはこの体が手に入ったばかりで浮かれていた。後のことなど考えず違法な手段で入国したのだ。

「入国時に受け取っているはずですが」

「ええ、受け取りました。でも盗まれてしまったんです。ちょっと目を離したすきに」

「でしたら駐在所を訪ねてください」

 たらい回しのたらいになった気分だった。

 でも、たらい回しって、バケツリレーみたいにたらいをまわすのか、皿まわしみたいにたらいを回転させるのか、どっちか分からない。

 回転する方なら、今の僕なら4回転半ジャンプだろうが6回転だろうが回転できるからうってつけだ。

 職員に聞いた道を歩くと、わずか1分ほどで駐在所についた。

 駐在所は先程の職業斡旋所に比べて小さな建物で、年季も入っている。

 引き戸を開けて中を覗くと、男性が二人、事務机に座って何か作業をしていた。

「あの、すみません。入国証を盗まれてしまったのですが」

 それを聞いた二人は顔を見合わせたあと、一人が立ち上がってこちらへ歩いてきた。これでもか、というくらいゆっくりとした歩き方だった。

「そこに」

 男性は短く言うと同時に右手の人差し指で僕の右側にあった机と椅子のセットを示した。

 僕が座ると、男性も僕の正面に腰掛けた。

「これに」

 差し出されたのは、一枚の紙だった。

「盗まれたときの状況を」

 そもそも入国証の形すら知らないのだが、僕の書いた物語を見ても、男性は何も言わなかった。

「じゃあ、見つかったら保管しておくので」

 そう言い終わると、話は終わったと言わんばかりに席を立った。

「え、ちょっとまってください。これで終わりですか?」

「ええ。他に何か?」

「僕から話を聞いたりとか、代わりの入国証をくれたりとか、してくれないんですか?」

「そういったことはしていないので」

「でも、入国証がないと働くこともできないんですよ?」

「新しく入国証を発行してもらってください」

「お金もとられて一文無しです」

「我々の業務の範囲外です」

「じゃあどこに行けばいいんですか?」

「あのな」

 急に大きな声がしたので、そちらを向くともう一人の男がこちらを向いて喋っていた。どうやら僕に言っているらしい。

「こっちは慈善事業じゃないんだ。お前みたいなやつは何人もいるんだ。金を盗られた不幸な人間は自分だけだと思ってるのか?」

「でもお金を貸すくらいなら」

「そんなことしてたら、ここが金貸しになっちまう。きりがねぇんだよ」

 なるほど。少し冷静になれた。

「お金を借りようにも、入国証がいるんじゃないですか?」

「ああ、まともなところならな」

 まともじゃないところから借りろ、というのか。

「さあ、もう話は終わったろ」

 半ば追い出されるような形で駐在所を出た。

 残念だけど、彼らの対応は頭にきた。彼らが残念なのではなく、怒っている自分が残念だった。

 こういうときは、彼らのことを想像する。例えば、理不尽なくらいたくさんの書類仕事が与えられているのかもしれない。


「やってらんないよ。全く」

 誰に言うでもなく、文句が口から溢れる。

 ここに飛ばされてからずっと、残業が当たり前となっていた。

「お前はもう上がっていいぞ」

「いいえ。まだ仕事が終わっていないので帰れません」

 相変わらずの堅苦しい口調だ。あいつがここに来てからもう何年もなるが、まるで勤務初日の新人のようだ。しかし、それがあいつの良い所でもある。

「お前はまだ新婚だろう。早く家に帰ってやれよ」

「結婚してから経過した時間と残業の有無は無関係です」

「いや、関係あるね。うちなって顔を合わせただけで文句言われるんだぜ。残業に向いているのは俺だろう」

「お子さんがいるのではないですか」

「反抗期真っ盛りだ」

 しかし、家に帰った駐在Aを出迎えたのは、心配そうな顔をした妻だった。

「ねぇ、もう少し早く帰ってこれない?あの子も貴方と話したがってたわよ」

「あいつの歳なら、もう独り立ちしてもおかしくない。もう俺が手取り足取り、あれこれ教えるべきじゃないだろ」

「子供は、親の背中をいつまでも見ているものよ」


 みたいなことがあるかもしれない。ちなみに、今のは全て妄想だ。全く根拠はない。完全な空想。

 こういうことを考えていると、あまりにバカバカしくて笑えてくる。しかし、もしかしたら彼らにも事情があったのかもしれないと思える。

 いや、何らかの事情は必ずある。問題は、その事情に僕が共感できるかどうかだろう。

 夕飯を早く食べたかったのかもしれない。両親が危篤で仕事どころではなかったのかもしれない。不治の病を宣告されていたのかもしれない。

 どんな事情があったのか、僕にはわからない。分からないので、僕にとって最も都合の良い事情をでっち上げた。おかげで気持ちが落ち着いた。落ち着いたどころか、少し気分が良い。

 しかし、今日の寝床すらない、一文無し、という状況は変わらない。どうにかしてお金を稼ぐ必要がある。

 今の僕にあるのは、この世界に来たときに着ていた服と靴しかない。

 いや、もう一つ、異常な身体能力があった。

 そうか、なんで気づかなかったのか。この力があれば、お金なんて簡単に稼げるはずだ。


「何でもやります何でも屋。いかがですかー」

 紙もペンもないので、自分の声だけを頼りにして宣伝を行うしかない。人前に出るのは得意ではなかったはずだが、なぜか全く緊張しなかった。

 切羽詰まった状況だからなのか、それとも異常なまでに優れた新しい体を手にした影響なのかは分からない。

 いや、誰も僕の話を聞いていないからか?

 あまり大通りで行うと街にいる兵士に止められるかと思って、人がまばらにいる通りで広報活動を行っているのだが、通る人全員が揃いも揃ってこちらを見ない。

 通りを歩く人はまず、僕の声を聞いて何事かとこちらを見るが、僕に近づくに従って僕のいる側とは反対の道端を歩くようになり、絶対に僕と目を合わせようとしない。

 どうやら、僕のことを正常ではないと思っているらしい。面と向かって文句を言いに来る人はいないが、僕と関わりをもとうとしてくる人もいない。

 (これはだめだ。まるで儲からない)

 もう夕暮れ時だ。今夜は野宿になるかもしれない。

 何でも屋に見切りをつけて、次のプランである大道芸人になろうかと考えていたとき、僕に近づいてくる人影が見えた。

 小柄だ。まだ十代前半と思しき少女だった。

「あのどんなことでもしてくれるって聞いたんですけど」

 かなり表現が歪曲している。伝言ゲームの宿命を避けられなかったのだろう。

「僕にできることであれば、種類を問わずに依頼を受けます」

「あの」

 そこで彼女は言葉を切った。何かを言いよどんでいる。小動物のふりをしているかのようだ。

「依頼ですか?とりあえず言うだけ言ってみてもらえますか?受けるかどうかの判断はこちらで行うので」

 彼女は顔を上げて大きな声で言った。

「店番をしてください!」


 彼女の背中を追いかけて歩く。彼女ははや歩きと小走りの中間くらいの移動方法を取っていたが、歩幅が違うので、僕はいつものペースで歩くことができた。

 彼女は迷いなく歩き、どんどんと人通りの少ない住宅街と思しき方面へ進んでいった。

「あの、なんのお店なんですか?」

「お薬屋さんです。小さなお店で、父と母が切り盛りしていたんですが、二人とも遠くへ行ってしまって」

 遠く?それは亡くなったことの比喩だろうか。それとも旅行にでも行ったのか。

 彼女は少し悲しそうだった。

「どちらからいらしたんですか?ここに住んでいるかたではありませんよね?」

「え?僕ですか?僕は遠くから今日こちらに来たばかりで、色々分からないことだらけなんです。でも、よく分かりましたね」

「ええ、まあ」

 都市の中心部では、石畳の道路が整備されていて、場所によっては馬車と歩行者を分けるための歩道もあった。ただ、中心部から離れるに従って土の地面と雑草が目立つようになってきた。

「ここです」

 そこは全く商店らしくない建物で、普通の一軒家に見えた。ショウウィンドウも看板も何もなかった。

 彼女が鍵をあけて家の中へ入っていく。

 家の中はかなりお店っぽかった。大きな図書館の本棚を思わせるような陳列棚が6つ並列に並んでおり、それらの棚には得体の知れない商品が並んでいた。

 トカゲのような生き物が謎の液体に使って瓶詰めされていたり、乾燥させた茶葉のようなものがガラス管の中に入れられていたり。

「今は一人で切り盛りしてるんですか?」

 店の奥にあるカウンターに立って、彼女はこちらを向いた。

「ええ。そうです」

「そうですか」

 両親は不在、他のバイトもいない。この条件下でハーレムのことを考えずにいられるだろうか?

 比較的狙いやすいと考えられる十代前半の少女と一緒に働けるなんて、またとないチャンスだ。

 考え方としては、まず運動ができる先輩もてる理論に基づいて、さり気なく僕の能力の高さを見せる。このとき、如何にさり気なくできるかがポイントだ。

 もう一つ、決してこちらからアプローチしないこと。女性を追いかけるのではなく、女性に追いかけてもらうことが、ハーレム作りにおいて何より重要だ。

 その時、僕の背後の入り口の扉が開いて、男性が一人入ってきた。

 ひと目見ただけではここが薬屋だと気づかないだろうから、きっと常連なのだろう。

 男はおぼつかない足取りでこちらへ歩いてくる。薄暗い店内でも、客の顔が分かるくらい近くまで来た。

 彼は、素人目にも明らかなくらい青ざめた顔をしていた。目は虚ろで焦点があっていない。今にも倒れそうだ。しかし、強い意志を感じさせる足取りのまま、僕の前を通り過ぎ、カウンターへ向かう。

 ふらつきながらもカウンターまでたどり着いた男は絞り出すように言う。

「…薬をくれぇ。…頼む。…今にも死にそうだ」

 男はズボンの右ポケットから乱暴に布の袋をとりだした。その袋がカウンターに叩きつけられ、音がした。袋の中でたくさんの金属がぶつかりあったような高い音だ。

 男性の息遣いがここまで聞こえてくる。本当に苦しそうだ。

「足りない」

 少女は冷静な口調で言い放った。その言葉を聞き、男性の顔は更に青ざめた。

「うそだろ!先週はこれで買えたじゃないか!」

「値上がりしたの。仕入れ値が上がったんだから仕方ないでしょ?」

「おい!そんな馬鹿な話があるか!」

 流石に止めに入ったほうがよいかもしれない。

「嫌なら買わなきゃいいだけでしょ?」

 彼女がさらに挑発したので、客が暴れるのではないかと心配してカウンターまで走った。

「ちょっと二人とも熱くなりすぎじゃないですか?もう少し冷静に…」

「うるさい、黙れ!」

 客にものすごい剣幕で怒られた。必死さが伝わってくる表情だ。

 しかし、彼女は全くの無表情で僕に言った。

「ああ、ちょうどよかった。こいつを外に連れ出してくれ」

「いや、でも、つけ払いとかで、売ってあげても良いんじゃないですか?」

 なんとかこの場を収めようと、適当なことを口にしたが、二人とも全く聞く耳をもたない。

「いいから連れ出せ。こいつはもう客じゃない」

「いやだ!いやだ。いやだ…」

 客の声はだんだんと力がなくっていき、最後には泣き出してしまった。

「頼むよ。…ここしかないのがわかってるだろう」

「値下げ交渉には応じない。ただ、お前が金を持ってくれば売ってやる。ただそれだけだ」

 客は両手の甲を使って涙を拭っている。だいぶ収まったようだ。

「ありがとう。ありがとう。…金を工面するよ」

 そう言い残して男は店を去った。

 残された僕達の間に微妙な空気が流れる。

「あのう、ここで売っていうお薬って、依存性があるような、危ないものじゃないですよね?」

 彼女は僕のことをじっと見た。値踏みしているのだろうか。本当のことを言うべきか否か。

「いいえ、危なくなんてないわ」

「でも、あの客の様子は普通ではありませんでした」

 彼女は少し考え込んでから諭すように言った。

「あのね、どうして私があんなに強気に出れたか分かる?」

 強気というのは、値下げ交渉を突っぱねたことだろうか。確かに、一人でも多くの客に買ってもらおうというような気はまったくなかった。

「あまり薬物を売りたくないとか?」

「全く違う。ていうか、その薬物って言い方やめてくれる?なんか悪いイメージを連想するでしょ?お薬っていってもらえる?」

 彼女はおどけたように言う。

「私が強気に出られるのはねえ、この街に競合相手となるような業者が他にいないからよ」

「へぇ、そうなんですか」

 いや、そんなことがあるのだろうか?薬物の販売は十分な利益が見込めるだろうから、いろんな人たちがこぞって参入するはずだ。

「もしかして、国の中枢にコネがあるんですか?」

「さあ、どうかしら?」

 彼女は楽しそうに笑っている。僕が的外れなことを言ったからなのか、核心をついたからなのかは判断できなかった。

「ともかく、私はこの街の薬の需要を一手に引き受けているの。そんな相手を敵に回したらどうなるか。それくらいは分かるでしょう?」

 確かに、僕が普通の人間ならば有効な脅しだろうが、今の体を手に入れた僕にその手の暴力的な脅しは通用しない。

「じゃあ、詮索しないでおきます」

 しかし、ここで薬物の販売を止めることが僕の目的ではない。ハーレムを作ることが僕の夢であり、なさなければならないことなのだ。

 勧善懲悪をやっている場合ではなく、いかにして彼女をハーレムに加えるかが問題だ。

「ところで、店長っておいくつなんですか?」

「女性に年齢を聞くのは失礼だって教わらなかったか?」

「いえ、教わりませんでした。でも、その若さでこの街を薬を牛耳っているなんてすごいですね」

「もっと褒めてもいいのよ」

 そういって嬉しそうに笑った。これは案外ちょろいかもしれない。

「でも情報は渡さないわよ」

 そう言ってもっと楽しそうに笑った。

「その程度で私が口を滑らすとでも思っていたの?」

「いや、別に?」

 悔しかったので、できるだけ感情を押し殺して言った。

 現実の人間はとても扱いにくい。こちらが思ったとおりに動くことなどまずありえない。

 そういった当たり前のことがついつい頭から抜け落ちてしまうのは、今の僕の体のせいだろうか。気を抜くと、すぐに傲慢になってしまう。

「ここで取り扱っているものが危ない薬かどうかなんてどっちでも良いじゃない?あなたは薬を売るだけ。客は喜んで金を払う。どっちにとっても良いことしかないじゃない。そうでしょ?」

 どうやら彼女は、僕が正義感のために、違法薬物を検挙しようとしていると思っているらしい。

 しかし、そんなつもりはさらさらない。彼女をハーレムに加えたいということもあるし、とにかくお金を稼がなければならないという切迫した事情もある。

「ちょっとこっちに来て」

「はい」

 彼女はいくつかの色の違うコインを机の上にならべた。

「これが金貨、こっちが銀貨、これが銅貨…って聞いてるの?」

「え、うん。これって偽造したりはできないの?」

「いや、偽造しようと思えばできるわ。でもそれを防止するためにこんな細かい意匠が凝らされているのよ」

「これを加工する技術がないということ?」

「いや、技術はある。じゃなきゃどうやって国がお金を造ったのかって話になるし。ただ、コストが見合わない。国は赤字を出しながらお金を造っているの」

「ああ、そうなんですね」

 これくらいの加工だったら、僕の魔法で一発だと思ったけれど、今は黙っておくことにした。これ以上罪を重ねるのも気が引けたし、確か、お金を作りすぎると何か不都合が起きたはずだ。インフレだったような気がするが。

 僕はその程度の経済知識しか持たないので、僕の判断で偽のコインを作るのは危険だ。

「後は、薬は客に言われたものを売ればいいから」

「分かりました」

「あ、そうそう。もし警察や国の人間が来たら、何も売らないで急いで逃げる準備をして」

「逃げる準備?どこに逃げるんですか?」

「どこでも。とにかく捕まらないように」

 麻薬の売買はそんなに重罪なのか。

「あなた、魔法は使える?」

「ええ、使えます」

「そう。じゃあこれを」

 そういって彼女から手渡されたものは一冊のノートだった。

「これは絶対に誰の手にも渡してはいけないもの。もし私が捕まったら、その中にかかれていることに従って」

 そう言われたので、僕はノートの中身を検めようとした。

「だめ!まだ開かないで」

「でも事前に知っておいたほうが適切に動けると思いますけど」

 彼女はひと呼吸置いてから重々しく言った。

「いい、それを開いたら、もう元の生活には戻れないと思っておいて」

「…分かりました」

 もとの生活には戻れないというのは、薬物や裏の世界と縁を切ることができなくなるということだろうか。

 まあ、どんなことがあっても、僕のこの体なら何の問題もないだろう。

「あ、そうそう。もしあなたが警察に捕まったら、そのノートは必ず処分して。跡形もなく」

 そんなに重要なものを、今日会ったばかりの僕に預けて良いのだろうか。不安しかない。

「それから、当然のことだけど、警察にはこの店のことを何も喋らないで。ホームレスの外国人が何も知らずに雇われていたことにするの。いい?」

 ホームレスの外国人?ああ、僕のことか。

 末端の人間が何も知らされていないというのは、確かにありそうな話だった。

「だから僕を雇ったんですか?」

 身分がしっかりしていない人間だからこそ、使い勝手が良いとおもったのだろうか。

「ま、色々あるのよ」

 それから数日間は何事もなく過ぎた。薬物を販売することを、何事もない、に含めればだが。

 しかし、僕は驚くほど罪悪感を感じなかった。

 多分、こちらから積極的に売りに出ているのではなく、お客さんの方から店を訪ねてくるからだろう。自業自得というべきか。

 店長から預かったノートの中身も見ていない。ノートを見て後戻りができなくなるのが怖いわけではなく、単に彼女との約束を破るのが嫌なだけだった。

「おはよう」

 それは朝一番のことだった。

 僕は身分を証明するものを何も持っていないので、宿を借りることすらできない。なので薬屋に寝泊まりすることを許可されていた。

「おはようございます。今日も出かけるんですか?」

 僕がそう訪ねたのは、彼女がここ何日か続けて外出しており、今朝も外行の服装をしていたからだ。

「ええ」

 彼女は短い返事をした。最近は元気がないように見える。

 最近、この薬屋についての情報が少しずつ集まってきて、今この店が直面している問題についてもわかってきた。

 職業斡旋所の受付の女性をストーキングする傍ら、この店と店長についての情報収集も行っていた。具体的には、治安の悪そうな酒場に出入りし、それとなく薬物の入手方法について聞いて回った。

 そこで手に入れた情報によれば、この薬屋は夫婦で切り盛りしているという。その夫婦の両親もまた薬屋を営んでいたらしい。

 つまり、薬物の販売を代々生業としているようだ。つまり彼女はその夫婦の娘なのだろう。

 しかし、いくら聞き込みをしても、その夫婦がいなくなった、というような情報は手に入らなかった。つまり彼女は両親の不在を隠して店を営業しているのだ。

 子供だけで営業していると分かれば強盗のターゲットにもなりやすいということもあるだろうし、裏社会の薬業界をまとめ上げるだけの力が彼女にはまだない、ということも両親の不在を隠す理由の一つだろう。

 さて、これからどうするべきか。

 まず、彼女をハーレムに加えるためには、薬屋をやめてもらう必要がある。薬物の売人がいるハーレムが長期間存続できるとは思えないからだ。

 薬屋をやめてもらう方法はいくつか考えられるが、彼女が逮捕されない方法となると、そう多くない。

 1つめは、僕が説得して、自発的にやめてもらう方法。しかし、これが上手く行くとは思えない。家業である薬物販売を僕の説得を聞いただけで止める、なんてことはないだろう。

 2つめは、逮捕される危険性が十分に高くなったと彼女が判断し、自主的に薬屋を止める、というものだ。こちらはかなり現実的な方法で、この方法で僕がしなければならないことは、警察へこの店のことを密告するだけである。

 しかし、2つめの方法で難しいのは、彼女が逮捕されないけれど、逮捕されそうだ、と思わせるぎりぎりを狙うことだ。本当に逮捕されてしまってはいけないし、かといって彼女が危機感を感じないようでもだめ。

 これを考えていたときに、ふと、絶叫マシンに似ているな、と思った。本当に怪我をさせてはいけないけれど、怖がらせる必要がある点が似ていると。

 そう考えると、割とできそうな気がしてきた。


 その日の夜、僕は近所の酒場にいた。今日は、前夜祭というか、前祝いのようなものだった。すでに計画はねってあるので、あとは実行するだけだった。

 僕は空いている席に座り、ウェイトレスを呼んで注文をした。ウェイトレスは美人だったが、僕より年上のようで、既婚者であることを示す指輪をしていた。

「ビールを一つ」

 僕にだって見境はあるので、既婚者をハーレムに加えようとは思わない。倫理的に抵抗があるのだ。

 この体になってから、アルコールでは酔わなくなった。それでも、お酒を口にするのは、酔っ払う雰囲気を味わえるのと、酒場で有益な情報が得られるからだった。

 この世界の人たちは、とてもお酒が好きだ。他の娯楽が少ないせいかも知れない。そのおかげで多くの客で賑わう酒場は情報交換の場ともなっていた。

 しかし今日は客の入りが悪い。どこかでイベントでも行われているのだろうか。

「おまたせしました。ビールです。」

 そういってウェイトレスはビールの入ったジョッキを僕の目の前に置いた。少し色の薄いビールで、冷えてはいないようだ。

「ご注文はお決まりですか?」

 僕がビールに注視しているときに、そんな声が頭上から聞こえてきたので、僕はすぐに頭を上げてウェイトレスを見た。

 営業スマイルを顔に貼り付けた彼女は、僕の正面の席を向いていた。そこには誰もいないはずだ。一瞬、ホラーか?という疑問が頭をよぎる。しかし、そうではないことがわかった。

 僕が正面を向くと、椅子に深く腰掛けた男がにやにやしながらこちらを向いていた。髪の毛は茶色で顔の外周にそって髭が生えていた。ライオンのたてがみのようだ。

「おれもビールを」

 僕から目線を外さずに彼は低い声で言った。

 ウェイトレスが立ち去ったのを確認して、僕は口を開いた。

「どちら様ですか?初対面ですよね」

「ああ、初対面だ。…お前、この世界の人間じゃないな?」

 図星だった。あまりのことで一瞬頭が真っ白になった。

「え?」

 この場合、どうするべきか。少なくとも、相手の正体が分かるまでは、白を切るべきだろう。

「それって僕が幽霊だって意味ですか?」

「いや、違う。お前が別の世界から来たという意味だ。とぼけても無駄だ」

 彼は冷たく言い放った。

 その顔と喋り方が怖かったので、できるだけ相手を刺激しないように注意しながら尋ねた。

「貴方は異世界から来たんですか?」

「どうだろうな?」

 そういって、わざとらしくとぼけたポーズを取った。両手の平を上に向け、首を傾けたポーズだ。僕じゃなければ殴っていただろう。くさい演技のようで、とても頭にきた。

「えっと、どうして僕が異世界から来た人間だと思ったのですか?」

「さあ?」

 彼は再び、頭にくるポーズをとった。腸が煮えくり返るようだったが、ふと我に返ってみると、怒りを通り越して馬鹿馬鹿しくなった。

 (ひょっとして、こいつは馬鹿なんじゃないか?)

 僕が異世界から来たということを当てはしたが、それ以外には何もしていない。屈強な外見に騙されたが、こいつには何の力もなく、それ以上のことは何も知らないんじゃないだろうか?

「もう話は終わりですか?用がないなら帰りますけど」

 彼は、僕が急に強気に出てきたことに、少し驚いた様子を見せたが、すぐに表情を戻した。

「今はヤクを売ってるんだろ?よくそんな商売ができるな」

 今度は僕が驚かされる番だった。僕のことを前から調査していたのか。絡んできた単なる酔っぱらいではなさそうだ。

「薬物を使ったやつの末路を考えて、胸が痛くなることはないのか?」

 自分は、僕に対して失礼な態度をとったくせに、随分とまともなことを言うやつだ。

「あなたこそ、僕を付け回して心が痛みませんか?」

 彼は目をそらして後ろを振り返った。

 僕もそちらを向くと、ウェイトレスがビールを運んできていた。

「ビールです。ごゆっくり」

 ウェイトレスが立ち去る間際、何かを彼に手渡したように見えた。しかし、彼に変化は見られなかったので、見間違いだったのかもしれない。

「何が狙いなんですか?」

 僕には彼の目的がわからなかった。僕に気づかれずに、僕をストーキングできるほどの実力を持っているのにこんな所で油を売っている。何を考えているのかまったく分からない。

「あまり調子に乗らないほうがいい。異世界からきた特別な人間が自分だけだと思わないことだ」

 彼はそう言い残すと、席を立った。僕も急いで立ち上がった。

「お客さん。お代をまだもらってないよ」

 彼を追おうとすると、ウェイトレスから呼び止められた。

「え?払いましたよ」

「もらってない」

 彼女は無愛想な顔でいう。

「いいえ、もらっていないわ。飲みすぎじゃないの?」

「いや、たしかに払った」

 このままでは水掛け論になることが明白だったが、僕の財布に余裕がないのも明らかだ。引くわけにはいかない。

「警察を呼ぶことになるけど?いいの?」

「…わかった。払う」

 無駄な出費だが、大した額ではない、と自分に言い聞かせて気持ちを落ち着かせた。

「いくらもらったんですか?」

 僕はポケットからお金の入った袋を取り出す。

「何のことか分からないわ?」

 ウェイトレスは口角を上げながら言った。全く面白くなかった。


 薄いカーテンを開けると赤い空が見えた。ちょうど日が差し込む向きに窓があるので、目が覚める。

 いつもと同じように店の玄関の掃き掃除を終えた後、いつものようにカウンターに座って店番をした。

 カウンターから見える景色もいつもと変わらず、茶色い棚と謎の瓶詰めがならぶ。それらの中身を僕は知らない。客のほうが商品について詳しいので、困りはしない。

 品出し作業も店長がしてくれるので、僕が商品に触る機会は殆ど無い。

「あら?今日は機嫌が良いみたいね」

「え?そうですか?」

 開口一番に、彼女にそう指摘された。

 焦りが表に出ないにように気をつけ、平静を装う。

「あれ、どこかへお出かけですか?」

「ええ、そうだけど」

 計画通りだ。

「じゃあ、お店よろしく」

 彼女はぶっきらぼうにそう言って扉に手をかけた。これもいつもどおりだ。彼女は、いつも店番を僕に任せて、どこかへ出かけていく。たぶん薬物の仕入れでもしているのだろうと思うのだが、詳しいことは分からない。

 ふと、彼女の動きが止まった。

 ゆっくりとこちらへ振り返る。どうしたのだろうか。

 振り返った彼女は、満面の笑みを顔に貼り付けていた。こんなことは初めてだった。

 柔らかそうな唇が、軽やかに動き、奥から白い歯が覗いた。

「あ、そうそう」

 脳が、彼女の言葉を慌てて解析する。どうやら僕は彼女に見とれていたようだ。今からひどい目に合わせようというのに。

「兵士は誰も来ないわ」

「兵士?」

 次の瞬間、彼女が何を言いたいかがわかった。と同時にすぐに周囲を見渡す。

「別に殺そうなんて思ってないわ。一度失敗するくらい、誰にでもあるでしょう?」

「僕の計画を知っていたんですね」

 できるだけ平静を装おうとするが、声が震えてしまった。

「駐在所にいる兵士にリークしていたんでしょう?私のいない間に、この店を捜索させようとしたんでしょう?」

「ええ、そのとおりです」

 彼女がいない間に兵士に調査させようとしたのは、彼女が逮捕されないようにするためでもあった。

 僕の計画では、兵士が違法なものを見つけたら、僕は全力で逃走し、外出中の彼女と合流。店に兵士が捜査に来たことを伝えて、そのまま愛の逃避行。

「あなたって本当に馬鹿なのね」

「ええ、そうですね」

 彼女は知性を感じさせる声で、淡々と述べる。感情的になってくれると、こちらも対処しやすいのだが、そのような様子はない。

「自分が優れていると思っているんでしょう?」

 僕はないも言えない。

「人から与えられたもののおかげなのに、自分の力だと思っているんでしょう?」

 僕はないも言えない。

「この世界に生きている人間が繋いできた歴史の、その全てより自分のほうが優れていると思っているんでしょう?」

「この世界の人間のことを見下していたんでしょう?」

 僕は何も言えない。

 自分の嫌な部分を全て公にさらされてしまったようだった。

「あらら。泣かせちゃった」

「え?」

 自分の頬に手を当てると、手が水滴に当たった。

「ごめんなさい。大人げなかったみたい」

 彼女はニッコリと微笑んだ。綺麗な人だ、と思った。


「どう?落ち着いた?」

 僕は頭を上下に振る。

 目の前に置かれたコップの水を口に含む。

 コップをテーブルに戻しながら、あたりをキョロキョロと見回す。落ち着かない。

 あの後、僕は彼女の自室に招かれた。あちらこちらに資料らしきものが散乱している。書斎も兼ねているのだろう。

「僕が別の世界から来た、ということを知っていたんですね」

「ええ、もちろん」

 彼女は優雅にお茶を飲む。彼女が薬物の売人であることを忘れてしまいそうだった。

「どこまで知っているんですか?」

「ヒゲモジャの男性に会ったでしょう?彼が色々と調査していたのよ」

「ああ…。彼は探偵なんですか?」

 探偵だったら、わざわざ僕に会ったりはしないのではないだろうか、と疑問に思ったからだ。

「いいえ、彼は探偵ではありません。どちらかと言うと、あなたの置かれた境遇に近い人です」

「え!?それはつまり、彼も別の世界から来たということですか?」

「いえ、そうではありません。…ですが、彼もあなたと同様に特別な人間です」

 先程から、妙な違和感を感じていたのだが、ようやくその正体がわかった。

 彼女が、やたらと僕のことを持ち上げてくるのだ。店長ってこんなに優しかったっけ?そもそもこんなに上品な喋り方だっけ?

「では、この書類にサインしていただけますか?」

 彼女はテーブルの上に一枚の紙を置く。

「この下の部分の、ここに、名前を」

 彼女はペンとインクも机の上に置いた。

 上体を乗り出し、署名すべき空欄を指差す。

 なるほど、サインすればいいんだな。そうか、サイン。サイン。

 いや、ちょっと待て。これはどう考えてもおかしい。

 思い返せばおかしなところばかりだ。彼女はやけにおしとやかになっているし、何の書類かも分からないものにサインさせようとしているし。

 …こんなの詐欺の手口の初歩中の初歩じゃないか!

 僕の心をへし折って、その後に飴を与えて、僕を飼い殺しにするつもりか。刷り込みの常套手段だ。

 きっと僕に対しては、より知的に見せたほうが言うことを聞いてくれるだろうと考えて、口調を切り替えたのだろう。

「どうかしたの?」

「僕のことを騙そうとしているんですよね。でも、こんな手口には引っかかりませんよ」

「あら、さすがね」

 彼女は表情を崩す。

「いえ、この程度のトラップには引っかかりませんよ。こんなの子供でもわかります」

「あはは。そう」


 馬鹿だなとリンは思った。目の前に座るこの男のあまりの馬鹿さに同情するくらいだ。

 ただ、馬鹿は使える。手綱を握ることもそう難しくないだろう。

 実際にこいつは力だけはある。下手に敵に回すと面倒だ。

 とりあえず、うちで雇っておけば、役に立つこともあるだろう。

「これからも、うちで働いてくれるよね?」

「ええ、ぜひ。ここ以外に行く宛がないので」

 やはり馬鹿だ。

 自分が利用されていることに気づいていないのだろう。

 ドヤ顔で、こちらの作戦を指摘してくるあたり、かなり自己顕示欲が強いのだろう。

 ただ、私が本気で彼を騙そうとしていたと、信じ込んでいるあたり、純粋というか、疑うことをしらないのだなと思う。大人の汚さを知らずに育ったのだろう。

 とりあえず、彼との約束は果たせそうだ。


「僕が出会った髭面の男性は、誰なんですか?」

「前に私があなたに渡したノートがあるでしょう?あれに書いてあるわ」

 あのノートにそんなことが書かれていたのか。

「ノートには、私が死んだときにあなたがすべきことが書いてあるわ」

「つまり、もし店長が亡くなった場合、あの男に頼れと?」

「そうよ」

「そんなに信用できる人物なんですか?そうは見えませんでしたけれど」

 酒場で会った時のことを思い出してみると、あまりこちらに好意的ではなかった気がする。随分とこちらを挑発していたし。

「彼はちょっとツンデレっぽいところがあるから。口は悪いけど、案外優しいのよ」

「え?でも、薬物の売人を悪く言っていましたよ」

「まあ、違法だしね」

 彼女はさも当然のことのように言う。

「なのに僕らに協力的なんですか?」

「必要悪だと考えているのよ。どこぞのマフィアに薬物市場を握られるよりは、まだましだって考えね」

「警察がきちんと取り締まれば解決できるんじゃないですか?」

「無理よ。警察の人員にも限りがある。街への薬物の流入をゼロにはできないわ」

 本当にそうだろうか?僕の能力なら、それが可能なのではないだろうか?

「まあ、いいとこで育ったあんたにとっては、納得のいかない話かもしれないけど」

 店長は困ったように笑った。苦笑いだったのかもしれない。

「それで、彼が特別な人間、というのは、どういうことなんですか?」

「ああ、まだ言ってなかったっけ。彼は、ステン、っていう名前なんだけど…いや、やっぱり彼から直接説明してもらったほうが良いか」


 馬鹿みたいに大きな門だった。何のためにこんなに大きいのか分からないけれど、誰も頭をぶつけることがないように、という優しさなのかもしれないし、小さな門は高身長者に対する差別だ、という悲痛な訴えなのかもしれない。

 白く塗られたそれは、太陽の光を反射する。ヨーロッパ風の洒落たデザインだ。

 門の大きさとマッチするように、土地、家屋の面積も大きい。この家を取り壊せばサッカーのスタジアムが建てられるくらいの広さだ。

「お金持ちですね」

「お金だけじゃない。お金があるだけじゃ、土地を買うことはできない。地位と名誉もないと」

 土地を買うのに、社会的地位が関係するのだろうか?

「名声がないと、土地を買えないという社会制度なんですか?」

「これだけの土地を、一人の一般人が所有していたと思う?」

 なるほど。こんな広大な土地を所有できるのは、国か、大富豪くらいだろう。

「でも、不便そうですね。この辺にはお店もないし、民家もないし」

「そういうのが好きな人もいるってことよ」

 店長は門をくぐる。僕も後に続いた。

 門から玄関までが遠い。もしかしたら、人間嫌いの屋敷の主人による嫌がらせなのではないか、と疑いたくなるほどだった。

 庭には人の気配はなかった。ただ、芝生や木々の手入れがされていることは、素人から見ても明らかだった。

「家の大きさに比べて、あまりに不用心じゃないですか?このあたりには、泥棒とかいないんですかね」

「いや、いる。でも、入念な下調べをするような、まともな泥棒なら、この家に盗みに来ることはないでしょうね」

 それを聞いた僕は、赤外線センサが無数に張り巡らされ(でも人間が隙間を縫って、センサを避けることができる)、多くの監視カメラで24時間体制で監視をしているような、映画でしか見たことないような様子を想像した。

「優れた警備システムでもあるんですか?忍者屋敷みたいな」

「ニンジャ?…いいえ、そんな変なシステムはないと思うけど。ただ、とてもおっかない人がいるけどね」

 ステンのことだろうか。彼は相当に腕が立つはずだ。

 タイル張りの地面の上を歩く。こういう人工的に整備された道の上を歩くことは、こちらに来てからあまりなかったので、少しだけうきうきした。

 何色かのタイルがバラバラに敷き詰められている。もしかしたら、規則性があるのかもしれないけれど、僕にはわからなかった。

 もし店長が横にいなかったら、同じ色のタイルの上だけを歩く遊びをしていただろう。

「ようこそ」

 玄関にはステンが立っていた。酒場で会った時と同じ服装だと思う。いや、もしかしたら違うかもしれないけれど、少なくとも同じような系統の服だった。

「どうも」

 店長は気さくに声をかける。

「お久しぶりです」

 僕も声をかける。

「昨日会っただろ。久しくもなんともない」

「そうですね」

 無言の空間が出来上がった。

「さっさと用事をすませましょう」

 店長がドアノブに手をかける。

「あ、今日は母屋じゃなくて離れだとよ」

「あら、そう。じゃあ、案内よろしく」

 どうも店長とステンの力関係がよくわからない。二人は敵対しているようには見えないけれど、どこかギスギスした空気がある。

 ステンは僕らが来た方向へ逆戻りしていく。店長、僕の順番で彼の後に続いた。

 歩き始めてすぐに、道からそれて、芝生の上を歩き始めた。ステンと店長は躊躇なく、草を踏みつけていく。

 綺麗に手入れされた芝生だったので、本当にここを歩いて良いのか、少しだけ戸惑ったけれど、置いていかれないように芝生を踏みつけながら歩いた。


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