獏
夢を見た。正確に言えば夢を見た記憶はあるのだが、夢の記憶はない。
夢と聞いて思い浮かべるのは大凡二つだと思う。一つは希望に満ちて燦然と輝く夢。もう一つは無意識が作り出す夢。皆はお分かりいただけていると思うけど、分かっていない人もいるだろうから一応言っておくね。この場合は後者のことだよ。分かったかな?
何様だお前は、その人を見下したような言い方は。と、口うるさい彼奴等が多いこのご時世は関係なく、自己紹介をしようと思う。
ストーリーテラーと言えば、おどろおどろしい雰囲気を湛えてしまい、不気味なBGMが脳内に流れ始める人も少なくないだろうと危惧し、止めておこう。
回りくどい冗談はここまでにして。
改めまして、箔をつける言い方をさせてもらうと、ここ「バクパックン」の創始者の夢野獏と申します。以後お見知りおきを。
たったこれだけで一から十説明したも同然だと思うけど、勘の悪いあほうが踊りだすかもしれないから、詳らかにするね。
バクパックンには先に言ったような夢に悩まされている人がくる、ある種病院のようなものなんだ。僕は君たちに夢とは何だろうかと根本的な質問を投げかけたい。悩んでくれた人には申し訳ないけど僕は何もわかっていない。
記憶の整理だとか、深層心理だとか様々に言われているからね。ただ僕は思うんだ。いい夢を見たい。ってね。ただそれだけの理由で「バクパックン」を開業したって訳さ。
皆には、僕が見た今でも忘れない快感を伴……。
「それ以上言ったら、あんたのコーヒーに大匙十五杯の砂糖を入れてあげるから」
それは困るから続きは各々考えてくれ。
「てかてか、さっきから誰と話してんの?踊りながらぶつくさひとりごちて。集中できないんだけど」
あほうはお前かって思った君。素晴らしい。是非バクパックンで働かないか?
と、あほうの演技は止めて、僕の後ろで腹筋を割ろうと息せき切っているお嬢様が気になり始めた人がいると思うから紹介をしたい気持ちはあるが、然りとて長くなるから省略させてもらう。
時間があるときに僕たちが出会ってから、手を繋いだ日までのことを話してあげよう。見ての通り今はお客様が来ているからね。
「で、あなたはいつまでそこで中空を見つめてるんですか?」
「え?僕は一応お客ですよね?何で僕にはコーヒーすら出してくれないんですか?」
「え?」
「すみません、えっと、確かキャサリン・ホエール・レ・サスペンス・ミステリアス・キャンドルさんでしたよね?僕にコーヒーを一杯くれませんか?ブラックで」
「淹れなくていいからね、彼はお客じゃないから」
僕たちの会話を盗み聞きしている趣味の悪い人がいるかもしれないから、弁明をしておく。
定めし、僕を非道な人間だと思った人がいるとする。なぜ仮定的な言い方なのかと疑問は抱いて欲しくない。つまり、そういうことだ。皆が素養と教養を兼ね備えていると信じているからさ。
そうであっても、念には念を。石橋を叩いて渡りたいわけだ。長い付き合いになるかもしれないからね。
唐突だが、ガソリンスタンドで馬車を見かけたことはあるだろうか。ないよね?ね?ね?
目の前に座り僕のコーヒーを我慢しきれず、喉を鳴らして飲んでいる奴は例えるなら御者であって、場違いなの。
だってそうだろう?夢を扱うと説明したのは覚えてくれているはずだ。だのに、ブラックと注文したはずなのに、スティックシュガーとミルクをポケットに仕舞っているがめつい奴は夢の記憶がないと言った。
僕に何ができると言うのか。おや?おやおや。聞こえる、聞こえるぞ。それでも、夢を商売にしている人の台詞か。と。わかったわかった。責められるのも悪くないのだが、要望にお応えしよう。
「先ほどは大変失礼な態度をとってしまい相すみません。今から謝らせるんで、少しだけ待ってもらえませんか。おい。おい。出てこい、おい。あとちょっとだけ待ってもらえますか?え?何をしてるのかって、ご覧の通り慇懃無礼な態度をとったもう一人の僕に代わろうとしてるんですよ。いきなり顔を顰めてどうしたんですか?ふむふむなるほど。言われてみれば身内贔屓かもしれませんね。前言撤回、慇懃を取らせていただきます」
「いつまで猿芝居をなさるおつもりですか?あなたは既に謝ってましたよ。てことは、多重人格じゃないですよね」
閑話休題。
身体の筋肉の大部分を占めると言われる下半身のトレーニングに勤しんでいる夢見心にコーヒーを頼んだのだが忙しいと一蹴され、やむなく自分で薬缶を火にかける。
一人掛けのソファに体を沈め、見込み違いだったと憮然としている吝嗇家なお客様に低調な言葉で下手に出て見本市に展示されるのではと思わせるほどの接客態度を取った。言わば、記憶の上塗り、糊塗したわけで、もっと分かりやすく例えるなら不良理論とでも言っておこうか。
薬缶の悲鳴が耳を聾し、急いで火を止めて御代わりを要求する神様にインスタントのコーヒーを差し出して本題に入った。
「確認ですがお客様は夢の記憶がないとのことでしたよね。やはり僕としても記憶がない限り、なすすべがないんですよね。僕の思い違い、見込み違いでなければ、お客様は頭脳明晰だと思うんですよ。なぜかって、心ちゃんの出鱈目な名前を一回聞いただけで覚えていたじゃありませんか。だから思うんです。お客様は準備が足りないのだと」
淹れたてのコーヒーの湯気はお客様の表情を暈し、かてて加えてカップを口元に運ばれ一顰一笑を窺うことができない。しかし、案ずることはない。ホワイトシャツ通称ワイシャツが黒茶色に変色していく様は隠された口元が綻んでいることを容易に想像させるのだった。
豚もおだてりゃ木に登り、御輿を担げばお祭り気分。彼は下りる術も御輿が張りぼてだとも気が付かない。なぜなら、わっしょいわっしょいお祭り気分だから。
「だからこそ、わたくしはこの枕をお勧めします。安眠効果はもちろんのこと、望んだ夢を見ることができ、記憶にもしっかりと残ります。一つで一万九千八百円ですが、な、な、な、な、な、な、なんと、今なら二つで五千円引きの一万四千八百円です」
あれれれれれ。なんか雲行きが怪しくないっすか?昔のことなんですが、家でテレビを見ていた時に電話が鳴って「はい。佐々談梧です」って出たんですよ。何だったと思います?分かりませんか?蟹が安く買えるって電話でさ、その頃の僕は中学生だったので、母親に聞いてみないと…云々言ったと記憶してるんですけど、そうしたところ舌打ちされてどすの利いた声で早く言えよ云々言われましてね。怖かったですよ。きっと、大人だと思っていたんでしょうね。
とどのつまり、あなたは詐欺師ですか?
はっはっはっはっは。Hahhahha。彼は真剣なのかもしれないけれど、一笑に付さないではいられない。よくもまあ、そんな愚にもつかないことを言えるものだ。
「笑ってしまって申し訳ない。そんなことを言われたのは初めてでしてね。それじゃあ仕方がありません、夢の記憶があるときにまたいらしてください。それじゃ、ばいばい」
左右に揺らす手と一緒に黒目が揺れ、その次に頭も揺れ、右に左に汁が飛び散っていた。涎か洟かはたまた涙か分かりかねていたところ、漏れる嗚咽が聞こえ、全ての汁が一緒くたになっているのだと気付いた。気付いたからと言って、何もしない。何も言わない。別れの挨拶を済ました今、店員と客の関係は終わり、ただの他人であっていい年をして泣きじゃくる大人の面倒を見る物好きはいないと思うのだがどうだろうか。
薄情者だとか母性なんどと抽象的なものを作り上げるくせに自分はそれか。とかなんとか言われても申し訳ない。僕は這いつくばり足元に縋りついている彼を蹴ろうと思うけどどうだろうか?
って聞いて責任から逃れる真似はしたくないから、蹴らしてもらう。詐欺師と疑われて怒らない方がおかしい。そう思いませんか。心ちゃん。って結局聞いちゃったけど許してちょうだい。
「すんまそんすんまそん。悪気がなかったと言えば嘘になるけど、冗談のつもりだったんです。ブラックジョーク的なやつです。許してくんさい。てかぶつぶつお経みたいに何を言ってんですか。正直、怖いんですけど」
「え?あー、うん。君を目がけて振り上げた足を振り下ろそうとしてるんだけど、どこで誰が見てるか分からないでしょ?だから、暴力の肯定、助長をするつもりはないんだよーって言っておかないと僕が責められるじゃん」
「んー、なんか違うと思いますけど。蹴られたらSNSに今日のこと全て書きますよ?」
脅されたから止めるなんて男が廃る。
「ごめんなじゃいごめんなじゃい。かにしておくれよ。かにしてくだじゃい」
うわー。だせー。きもーい。などの冷笑と嘲笑と侮蔑と軽蔑がない交ぜになって僕を襲おうとも、何も思わない。確かに僕は男が廃ると言ったかもしれない。かもしれないじゃなくて、言った。言ったけどさ、よく考えてみてよ。目先の体面と矜持を取って、これから先の生きていくための仕事がおじゃんになってもいいのか。と。
否、お金が大事だよね。
兎にも角にも、立場は逆転したわけで彼もそれを見逃さないはずもなく、ずんずんずけずけ無頼漢がどういったものか知らないけれど、独特な節をつけて喋り始めたんで、言われるがまま枕を無償で渡しちゃったよ。とほほ。おほほ。もう笑うしかないや。
人の不幸の話が好きな人って一定数いるけど、君もその部類ですか。いいよ、教えてあげる。
「おいおい。おい、聞いとんのか、われ。おちょくるのもええかげんにせえよ。蟹、蟹って人のトラウマをほじくりやがって。謝るんか馬鹿にするんかどっちかにせえ。あん?おん?へん?やっぱり慣れないことはしない方がいいのかな。そんなん関係あらへんど。どう落とし前付けてくれるんじゃ。え?まじ?いいの?ありがとう。それじゃ、ばいばい。いい夢見ろよ」
ってあれから一ヶ月が経ったけどあのお客様は未だに来てないんだよ。いい夢でも見られてるんでしょね。
と、分かりやすくエピソードを交えた少し長い自己紹介をしましたが、僕の輪郭は形作られましたか?ひょっとすると、詐欺師だと思われているかもしれないけど、致し方無いことだと自覚してるから帰ってもらっても構わない。それは、君が決めることだからね。
今日も今日とて外腹斜筋を鍛えようと体幹トレーニングをしている心ちゃんが矛盾を宿しながらもストレス解消のために作ったシフォンケーキをフォークで一口大に切りそれを刺して口に運び、満腹中枢を刺激するために定めた咀嚼の目標回数を脳内で数えつつも少しの意識は腕を組んで頭をかくんかくんさせて考えているお客が答えを出すのを待っていた。
もう少し時間がかかりそうなので余談として弁明しておかないと厚生労働省のホームページに我が社名が載ってしまうだろう。心ちゃんのストレスとは、社長としての僕と社員としての彼女の関係ではなく、彼氏としての僕と彼女としての彼女の関係でおきたストレスだから、会社とは無関係なわけです。
ペースト状になったシフォンケーキを嚥下し、口中にこびりついたそれらを紅茶で流し込み、窓から見える庭木の百日紅を見つめ挑戦からの汚名について考えようとしたところ、いつの間にかかくかくした運動を止めていたお客が口を開いた。
「人によっては詐欺師になりかねないと言うことですよね。でも、先程のお客は枕をプレゼントされてここに来てないってことは、あなたは詐欺師にはならなかった。では、私もあなたに賭けてみようと思う。よろしく願いしてもいいかしら?」
言葉の選び方に感心し、なんてポジティブな子なんだろうと彼女の第一印象は悪くなかった。僕の話を聞いて枕を「プレゼント」したと言える人は彼女だけではないのだろうか。ってそれは、虚栄心や自尊心を満たしてくれる人なら誰でも第一印象はいいんじゃないの?と的外れなこと言われると困る。だから、思うだけで口にはしないでほしい。
え?口にしない代わりに僕の元カノの名前を教えてほしい?脈絡が掴めないけど教えてあげるよ。杏奈と麻里亜だよ。
話が逸れている間に彼女は喋り続けており、要点だけを纏めると以下の通りだ。
「私が私を殺すんです」
テーブルに置いてある紅茶が波紋を作っているように見えるのは気のせいだろうか。
そうして大きな双眸とだけで自信に満ち溢れているように見えた彼女の瞳を僕からは窺えなくなってしまい、心なしか萎んで見える。垂れた前髪をかけ分けて「やってる?」なんて冗談を言ってあげれば、少しは笑顔になるだろうかと考えはしなかった。僕が考えていたのは、埋没法と切開法なら前者の方が後戻りもできるからいいのかな、などと考えていた。
そんな中、一分×三セット、右と左で計六セットのトレーニングをしていた心ちゃんが設定した最後の一分の終わりを告げるアラームがけたたましく鳴り響き、少なくとも一分は静寂が続いていることを知らせ、仕方なく仕様なく接ぎ穂を探るべく、きょろきょろした。
壊れたゼンマイ式玩具の如く動き続けた結果、予想通り項垂れていた彼女は怪訝そうにこちらを見つめ、きょろきょろし始めた。それを確認して、
「いやー。ぶーんぶーんって聞こえませんか?どこかから虫が入ってきたみたいで、ぶーんぶーんって聞こえませんか?ぶーんぶーんって虫が羽を動かす音が聞こえませんか?ぶーんぶーんって?」
「え?私にはそのぶーんぶーんって音は聞こえませんけど。もしかして、ぶーんぶーんって音は幻聴じゃありませんか?」
「おっかしいなー。確かにぶーんぶーんって」
これが僕の特技である能動的な受動というものである。わかりやすく喩えるら、合気道のようなものだ。そんなことを聞いた人でせっかちさんが僕のことを合気道部出身の方なんですね、なんて自己完結されたら後々困りそうなので先に言っておくけど、やったことも見たこともないからね。
序でだけど、ぶーんぶーんって音は聞こえていなかったのだ。いなかったはずなんだけど今は聞こえています。スラッガーを彷彿させる音が。この比喩は言い得て妙だとしても的を射てないような気がするから、換言しようかな。勘違いを誘発して彼女が変に形成されるのも面倒だから紹介も兼ねた言い方をすれば、鞭が撓る音が背後から聞こえる。かと言って、今は鞭ではないのだけれどね。
やはりこの感触は用途が間違われている理由がその名前にあるあの布団たたきだ。
「さっきからぶーんぶーんって五月蠅い。お前が蠅だよ」
スポンジに少しの刺激を与えるといつの日かの泡が出てくるが、それと同じで調教とは恐ろしく我知らず謝辞を述べていた。僕の中に潜む倒錯に目の前のお客は気付いてしまっただろうか。それはそれで悪くないのだが、それと知るや否や信頼関係を築こうとせずただの我儘お嬢様になる人が多く、辟易する。だからこそ気付いてほしくはなく、然有らぬ体で本題に入った。所謂、能動的受け身だ。
それらは功を奏し、お客からは緊張の色は消え微笑を浮かべていた。今頃、作戦通りだとしたり顔をしても信じてもらえないかもしれないけれど、僕の仕事は装飾のない言葉を引き出さないといけないから、それこそ緊張とか不安や蟠りがあっては駄目なのだ。
「あなたの話にあなた自身はどこにいるんですか?殺す人?殺される人?はたまたどちらでもなく監視カメラのように見下ろしているの?」
沈黙は少しの振動でも空気を震わせ、しじま特有の騒がしさが部屋を支配した。彼女はローテーブルに肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せて考える素振りを見せていた。それは僕の質問について考えている訳ではいないようで、言うべきか言わないべきかを逡巡しているといった感じに見えたのは、再び翳りができたからだ。答えに相応しい翳りが。
ふむふむへむへむ、なるほどね、うんうん、なるほどなるほど、あーねってやつね。覚えた頃には死語になるなんて光陰矢の如しってやつなのかい?それとも、僕を取り巻いている時間がおかしいから他の人と齟齬を生じさせているのかな。どう考えても逆だよね。僕以外の人達は死に急いでいるように見えるもの。
と、言うことでいつまでも待ってあげますからね。
と、言いたいですけど今日の時間は限られてますからね。そこまで言うと漸く観念の臍を固めたのか組んでいた手を解き、引き結んでいた口元も緩め、
「私の両親はとても厳しい人でした。例え夢でも私が人を殺すと聞いたら、ヒステリックに喚くでしょうね。母親は私に怒り、その声に父親が母親を怒る、そんな日常的な悪循環も私を苦しめるんです」
言い終わると素人の傀儡師が操っているように口の両端を不器用に上げ、自嘲を湛えた笑みを浮かべていた。
撒菱が撒かれている場合、一昔前に流行した厚底ブーツを履くか、一つずつ律儀に拾い上げるかしなければ前へは進めないのだが、前者は土足で失礼であり、後者は時間がかかりすぎてしまう。しかし、どちらかを選らなければいけない。となれば、言葉を交わすしかないだろう。僕には時間があるからね。
「なるほど。あなたは、自分のことがお嫌いですか?」
「自分のことが好きな人の方が少ないと私は思います。だから他人を好きになってしまうんじゃないですかね。自分を好きになってくれる人を好きになるみたいな」
「それも一理ありますけど、片思いはどういって説明するおつもりですか?」
「その質問の答えは最初に言いました。自分のことが好きな人は無謀なことができちゃうんでしょうね」
「そういうもんなんですかね。僕にはよくわかりませんでした」
少しずつだが彼女が見る夢についての理由が分かってき、毛先から水を滴らせている心ちゃんに目顔でそれとなく知らせて僕は隣の自室へと向かった。