嫌なことを求める気持ちが隠れていませんか?
嫌なことを求める気持ちが隠れていませんか?
仕事でちょっとミスした時、「間違えているよ。頭大丈夫?」なんて言われたら、それがパワハラ発言かどうかは別として、もうこんな職場辞めたいって思う。確かにミスしたかもしれないけれど、酷い言葉で責めなくてもいいじゃないかと思う。この時、上司に対して責める気持ち100パーセントである。
しかし、この状況を招いたのは自分だという考え方がある。自分が求めていることしか宇宙は起こさないという。本当にそうだろうか。もし、そうだとすると、この状況を求める気持ちを無くさないと、たとえ転職しても、自宅に引きこもっていたとしても、同じように責められることを繰り返すだろう。
腹が立つ気持ちが少し治まったら、自分に問いかけてみる。誰かに責められることのメリットは何だろう? 責められているってことは、自分がダメだってことだ。ダメなんだから、誰かに頼ってもいいってことだ。こんな風に答えが返ってくるかもしれない。
または、もしかすると、自分こそ自分はダメな奴だと思っているのかもしれない。だから、誰かに責めてもらうことで、自分はやっぱりダメなんだと再確認したいのかもしれない。人間は不思議なもので、今思い込んでいる自分の悪い性格から良い性格を持つ自分へ、自分に対する思い込みが一瞬で変わるよりも、あまり良くない性格でも変わらない方が安心する。なぜなら自分が信じているものがコロコロ変わると不安になるのだ。多くの人は、自分の性格に対する思い込みが間違っていると分かっても、喜ぶよりも不安になるのだ。
もちろん、変化を恐れることは悪いことではない。人間は、そういう風にできているだけだ。多分、人間だけでなく動物も変化には弱いのではないだろうか。そして、変化しにくいということは、自分に対して肯定的な性格であると思っているのであれば、それが長続きするわけだから、良い特徴だとも言えるのである。
自分のアイデンティティを保てるのならば、表面的には悪いことでも、心の奥底では有難いことになることもあるのだ。
上記は一例で、同じ責められるという状況でも、それを求める理由は人それぞれだろう。しかし、それを自分以外のせいにして、憂さ晴らしに飲みに行ったり、身近な人に愚痴を言ったりするだけでは、根本的なところで解決しないので、繰り返されてしまう。
と言っても、怒りが大きすぎるならば、まずは気持ちを落ち着かせることが必要だろう。それがある程度落ち着いたら、自分の心を見つめて、嫌なことを求める気持ちがないかどうか探すといいのではないだろうか。
嫌なことを掘り返すような気がするかもしれないが、いつもやっているような、嫌なことを思い出すという作業とは違い、相手に対する気持ちではなく自分の心に降りていくので、それでまた怒りの感情が湧くことはないだろう。まあ、少しは「こんなことをしなくちゃいけないなんて、上司のせいだ!!」と、考えてしまうかもしれないが…。 それでも、冷静に自分の心にだけ向かうようにすれば、落ち着くだろう。
先程の例であれば、「自分はダメだと思っている」という思い込みが発覚するところまで自分の心を見つめることができたわけだが、そこまで来れば、しめたものである。その間違えた思い込みを捨てるだけだ。なぜなら、ダメな人などいないのだから。
この宇宙を創り出した存在は『愛』であるという。そして、私たちを『愛』を経験するために創り出したのだ。そして、宇宙を創り出した存在と私たちは分離しているのではなく、繋がっていて、同じ一つの存在(物質的に見えないけれど)なのである。実際に見てきたわけではないが、私たちが『愛』を経験した時、心が震えるのは、私たちと一つである宇宙を創り出した存在も同じ反応が起こるはずである。そう考えると、宇宙の創造主は『愛』であり、もちろん私たちも『愛』であるはずだ。ただ、一見分離したようにして、『愛』を再体験しているので、それに気づかないだけだろう。だとすると、私たちは生まれた時から『愛』であり、決してダメな奴ではない。というか、ダメな奴であり得る可能性は皆無なのだ。ただ、世間で「失敗」と言われる経験があっただけであり、その「失敗」も人間が決めた基準で宇宙の真理に照らし合わせて考えて「失敗」ではないのだ。
『愛』とか、ちょっと分からないということであれば、とりあえず「自分は出来る奴だ」と思い込むようにしてもいいだろう。「ダメな奴」も「出来る奴」も、どちらも思い込みなのだから、自分の好きな方を選択すればいい。そうすれば宇宙はその思い込みを実現してくれるのだから。
それでも「私は本当にダメなんです」と思っているなら、その根拠を探してほしい。何に対してダメなんだろう? 仕事でミスしたから? 他の誰もミスしたことがないのに、自分だけミスしているのか? この世でミスしない人とかいるのか? ミスした後に凄いことをやり遂げても、やっぱりダメなのか?
1回のミスは1回のミスで終わりにすべきである。間違えたのであれば、修正し、次回は気を付ければいいことである。もしかしたら、間違えないように工夫することもできるかもしれない。とにかく、終わったことは終わったことだ。今後もずーっとダメな人であることを自分で決める必要はない。
それでも、「自分はダメ」という思いが消えないかもしれない。その時は、その思い込みがどこから来たのか思い出すといいかもしれない。小さい時に親に言われていた言葉かもしれないし、先生に言われたのかもしれない。兄や姉、親戚かもしれない。
もし、思い出せなくても、「自分はダメ」というのは、自分が選んだ思い込みであり、それは変えたければ変えることが出来るということが分かれば、あとはどうするかは、それこそ自分次第だ。もう責められる人生が嫌なら、自分が選択した「自分はダメ」という思い込みを捨てればいいし、まだまだやり続けたいと思えば、納得するまで、そのままやっていればいいと思う。
しかし、思い込みを変える決意をしても、今までの思い込みには慣性の法則が働いていて、一回くらい決意しても変わらないだろう。新しい習慣を身につけるのと同じように、ある程度は、自分に働きかける必要がある。
新しい自分に対する思い込みを紙に書いて、鏡の前で読みあげるのはどうだろうか。声に出して読むことで、口にも、耳にも刺激がいく。その上、自分が鏡の中の自分にいうのだから、暗示にかかりやすい。つまり早く新しい思い込みが定着しやすいだろう。それに鏡の前で言うと、自分が本気で変えようとしているのかも観察しやすい。鏡に映る自分の中に本気さを感じられるだろう。
また、もしも新しい思い込みに納得できていないと、もやもやした気持ちが湧いたりするが、それも、鏡の自分を観察することで気づきやすいだろう。もやもやしても少しの間続けてみて、それでも、もやもやが治まらなければ、原因となる思い込みが、まだ隠れていると思っていいだろう。例えば、ダメな自分だと思っていれば、失敗した時の言い訳になる。つまりダメな自分という思い込みは、失敗への恐れを隠す隠れ蓑である等々。そのように、もやもやが消えない場合は、再度、自分がダメだと思うことのメリットを自問することからやっていけばいいだろう。いつか、自分を縛っている思い込みに出会うだろう。
ここで提案したやり方は、ポジティブな言葉を唱えてポジティブな暗示を入れていくのに似ているけど、やみくもに成りたい自分のイメージを唱えても、長続きはしないだろう。もしくは、長続きさせるためには、唱え続ける必要があるだろう。なぜなら根本的な解決ではないので、何度でも古い思い込みが再生してしまうからだ。嫌なことを求める気持ちが自分の中にあることを実感した後でなければ、変えられないのは、悪臭のする冷蔵庫の、どのゴミを捨てるか分からないのに、新しい食材を買ってきて冷蔵庫に入れるようなものだ。捨てるべき腐った食材を見つけて捨てなければ、悪臭は消えない。
自分がこの状況を選んだという実感がなければ、自分が変えられることも実感できないだろう。だから、嫌な状況を求める気持ちが自分にあるのかどうか、納得することが一番大切だ。これが心の底から納得できれば、嫌な状況でも、感情が暴走する前に自分が主導権を握って、対応することができるだろう。