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世界史概説#8.4:欧州の中世

 古代帝国がやがて疫病や耕作地の乾燥、遊牧民族の侵入によって混乱し人口を減少させ、滅びるという構図はどこでも同じように繰り返されたが、そこからの脱却のしかたは各地で様々であり、例えばおよそ三世紀半の混乱の後に中国は再び古代帝国を得ることができた。

 しかし欧州はそうではなかった。ローマは分裂して二度と過去の勢いを取り戻すことは無かったのだ。従って欧州の中世は他の世界よりもひと足早く始まった。


 欧州の中世、その始まりは他と同様にやはり経済活動によるものであった。三世紀後半には広がった属領と軍団の経営に必要な通貨発行量をローマは不足させるようになる。

 低額貨幣である青銅貨はその初期に姿を消し、帝国の主要貨幣デナリウム銀貨も発行量を減らし貨幣の質を低下させてゆく。帝国の財政の中心はやがて各属領に移り、つまり経済的には分断された状態となる。経済的には異民族の本格侵入の前に分裂していたのだ。


 その後繰り返される異民族の侵入は古代帝国の復興を許さなかった。西ローマ帝国の滅亡後カール大帝の登場まで通貨は極端な枯渇をみせる。各蛮族国家は独自の通貨を発行したが発行量は少なく、硬貨をただ単に支配者の横顔を刻むためのものとみなしていた。

 カール大帝は遠隔地交易に使用できる国際通貨となる新たなデナリウム銀貨を発行し、これを基準とする決済体制は以降およそ五百年、つまり中世のあいだ存続した。


 異民族の国家はやがて十一世紀にはキリスト教国となり、新参者の異民族をあまり強い連中でなければ退けるだけの軍事力を持つようになる。多数の封権領主たちは互いの中から皇帝を選び支持するようになった。重い大型鋤の普及は農業生産を増し、再び商業が盛んになっていく。ライン川右岸地域では十一世紀以降通貨が取引に利用されるようになった。


 欧州ではこの時期金も銅も産出することが無く、銀だけが少量産出するだけであった。十三世紀に入ると交易によって欧州に金が流入するようになり、安定通貨として流通する金貨は貿易都市の富を更に増してゆく。しかしそれもオスマントルコの西方圧迫により交易が阻害されると衰退し、新たに十四世紀にザクセン等で産出するようになった銀が新たな欧州基準通貨の地位を築くことになる。

 ここにデナリウム貨の時代は終わり、両雨州から流入する銅貨とあわせて新通貨発行はそれだけ経済の拡大を許すこととなる。通貨枯渇時代に発達した為替金融も経済拡大に合わせてその利用を拡大する。


 1258年の西方から海を越えての日本人来欧は、様々な種類の衝撃を欧州に波及させることになる。まず世界認識の大きな刷新があり、次いで航海と軍事技術の衝撃が新たな異教徒の認知と共に広まった。この時に伝えられた文物は特に親鸞の著作など仏教著作物を前面に押し出されたものであったため、ことごとく異端の認定を受けた。但し一部の文物は広く出回り研究が行われ、始まったばかりのルネサンスの傾向を決定付けることになる。

 1328年、ウィリアム・オッカムは唯識という異端を広めたかどで破門されている。仏教哲学はオッカムによって哲学的に咀嚼され、パリで拒絶された疫座はエンザと呼ばれミュンヘンでその居場所を見つけることになる。


 神聖ローマ皇帝領及びイングランドに清潔さに対する新しい考え方がエンザにより石鹸と共にもたらされたが、それら地域が直後の宗教改革の主舞台となるのは偶然ではあるまい。

 これは黒死病被害の差として世俗の信仰に対する優越を決定付けることになる。イングランドではジョン・ウィクリフによって英訳聖書、次いで法華経がもたらされ、またこれは英語教育が石鹸の普及と共に普及することに繋がる。

 その後ヤン・フスの著作を異端とローマ教皇は認定したがこれは多くの地域で無視された。ローマはボヘミアとモラヴィア、バイエルンで聖務停止を宣言し、これは即座に新教会派の結成を助長する事になる。


 日本人は十四世紀に入ると頻繁に交易に訪れるようになる。この時移民募集に偽装した奴隷貿易をおこない、これよって仏教はやがてイングランドで弾圧を受けるようになる。しかし既に浄土宗は地方社会に広まっており、ワット・タイラーの徳政一揆などが相次ぐことになる。

 1337年フランス王位を巡って五十年戦争が勃発する。この戦いは黒死病の通り過ぎた後、諸侯の反乱など王権の揺らぎによりイングランドの戦力抽出は次第に難しくなり、純粋なフランス内戦の様相を呈することになる。この戦争は1388年のリチャード2世の幽閉とヘンリー4世の即位によって休戦に至った。


 1419年、ローマ教皇はボヘミアとバイエルンの新教会勢力鎮圧のため十字軍の結成を呼びかけ、対してバイエルン及びハンザ同盟諸都市は参加を拒否した。彼らは対オスマンの十字軍戦争で大敗を喫して消耗した後であり、拒否は容易であった。

 対して神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントは東を脅かすオスマン帝国に対処するためにも十字軍の結成が必要で、その為にローマ教皇に従いヤン・フスを処刑したが、その為に民衆の怒りを買いブダ城の窓から投擲され殺された。その後神聖ローマ帝国皇帝の指名は絶える事になる。


 オスマン帝国の北上はその後ワラキアとモルダヴィア・オウシュウ朝の同盟によって退けられる。


 モルダヴィア・オウシュウ朝は十三世紀に、西遼のうち安倍氏が西イランから黒海を廻って西進してドナウ下流域に建国したものである。

 彼ら安倍氏と倭人の人数は少なく、しかしオウシュウ朝はワラキア公の子を嫡子に迎えて存続することとなった。

 モルダヴィア・オウシュウ朝は当初から積極的に石炭及び石油、鉄鋼の生産をおこないドナウ下流域に稲作をおこなった。この国力を背景としてドナウ及びドニエストルの河川交通を支配し、国力を更に増加させた。


 モルダヴィア・オウシュウ王、安倍ミルチャは1442年にワラキアに侵入したトランシルヴァニア公フニャディを返り討ちにし、ルーマニア全域を支配下に置いた事を宣言した。彼は更に西進し、ハンガリー王国を統治下におくと新教会の保護を宣言する。

 ルーマニアとハンガリーの軍制はヤン・ジシュカのもとで再編され、以降オスマン帝国との紛争は動員兵力の差に関わらず侵入を防げるようになる。


 1452年にコンスタンティノープルが陥落すると、多くの知識人がオデッサ及びブカレストに移住した。この時期ルーマニアは欧州の中心の一つであったと言えるだろう。ヴラド3世は深く仏教に帰依したことが知られるが、この時期を機にオウシュウ朝の仏教はやがて廃れてゆくことになる。

 バイエルンとドナウを繋ぐ運河の建設は十五世紀末に開始され、十六世紀半ばに完成している。この運河の完成をもってヨーロッパの近世の始まりとする説もある。


 1463年、新たに神聖ローマ帝国皇帝に即位したフリードリヒ3世はウィーン入城を果たせず、その後をポルトガルで過ごすこととなる。ハプスブルグ領は後にルーマニア・ハンガリー領に統合された。

 ルーマニア・ハンガリー王、安東シュテファン政季はハプスブルグ家と婚姻関係となると大公位を得て1488年オーストリア・ハンガリー帝国を建国する。ルターと新教を庇護したこの帝国はライン-ドナウ運河沿いの自由都市の支持を得て栄えることとなる。


 十四世紀後半、五十年戦争の終結によってフランス王国は黒死病による荒廃からゆっくりと復興を遂げていった。絶対王政を確立したのは十五世紀、シャルル7世の治世下であった。軍権と徴税権を王のもとに集中し官僚制を敷き、他国に遅れがちであった産業振興に努めたが、広がった貧富の差は1610年の共産フランス革命に繋がることとなる。

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