世界史概説#8.3:雨州の中世
北雨州ミシシッピ河流域及びズニ諸族の農耕文明は十世紀に入るとメキシコからの蛮族の侵入に脅かされることになる。最初の侵入は950年頃と推測され、以降数度侵入があったものと思われている。
1030年の野比太郎多聞の北雨州大陸来航は北雨州史の大きな転機となった。
現在のサンフラン桑京の位置に上陸すると内陸の桜免斗及び三良河下流域を開墾、近隣パイユート族へ積極的な贈り物と婚姻関係の形成を目指した。この時期の入植者は人口が小さく文字記録も少ない。
その後入植地が安定すると日本人入植者は検田隊を各地に送るが、1047年にズニの都市ホホカムと接触、その後交易関係となる。最大の交易品目は塩と鉄製品で、鉄は入植地近くの山地の砂鉄から製造していた。当時から金も採れていたようだが、交易相手のいない状況では意味の無いものだった。
1054年に日本からの新たな移民船が到着して牛馬が植民地に導入され、桑京府が開府される。桑京の日本人は1060年までにズニの諸都市と交易し鉄製品を売るようになるが、各都市がチチメカの掠奪に遭っていることを知ると野比太郎多聞は戦う事を主張した。
この主張を容れズニ都市連合は北メキシコに侵攻する。この外征は成功だったが、この時野比太郎多聞は北メキシコの都市トゥーラで戦死したと伝えられる。
日本人の伝えた文字文化は鉄製品と共に北雨州大陸を東に伝わり、1080年頃にはミシシッピ河流域まで伝わっていた。日本人のミシシッピ川到達は1107年である。
この頃の日本人人口は千人を超えておらず、既に混血が進んでいた。次に日本からの大規模植民が訪れるのは1084年である。この時の入植者は桑京の900キロ北に入植した。
鉄製品の生産と馬を独占していた桑京は馬を用いた交易でズニの交易都市を没落させ、やがてそれらズニ諸都市は一つの国家ズニ朝として桑京の朝貢国となる。この時期ズニ朝を支えた収入源は石炭の日本人への販売であった。これらは小規模なものであり、十二世紀初頭に北雨州中西部での大規模採掘に着手するまで桑京経済圏は石炭に飢えた状態が続いた。
ズニ朝に乞われて征東将軍桑京マアソーは1125年ナバホ討伐遠征をおこない、ナバホ諸族は桑京の威に服することとなった。桑京はナバホを俘囚化しようとするが失敗、馬を得たナバホは有力な地方武士団を形成する。
1130年、この年を応天元年とし、入植百年を記念して銅貨が鋳造された。応天通宝は以降三百年に渡って南北雨州の共通通貨ととして流通することになる。この時期より各地で旱魃が相次ぎ、北部への移民を桑京府は推進することになる。
1135年以降、10年間隔で日本より定期的に植民団が北雨州に送り出されるようになったが、これは飢饉で貧窮した農民の移住政策でもあった。これにより北雨州の日本人人口は急激な上昇に転じる。帰路の船は砂金を積んで帰り、この収入は関東の鉱山衰退期にあった日本の財政を大きく助けた。
1182年よりミシシッピ下流域への入植が本格化する。十二世紀末までに雨州東海岸まで検田隊の探検遠征は到達していた。1196年から97年にかけて北雨州で天然痘が大流行し、種痘を拒否した現地部族の多くがここで滅亡した。
1184年以降多くの平家の武将が来航するが、彼らの多くは更に南を目指した。1186年、平知盛はミシシッピ河口に応林府を開く。
1210年、海を渡り応林府に迎えられた親鸞はミシシッピ川を遡上し、中流域免比須に草庵を結ぶ。ここで執筆に励む親鸞は北雨州に伝わった仏籍の少なさを嘆き、やがて遥か東進して天竺に至ることを提唱した。
1225年山鹿秀遠はメキシコ盆地を平定しチチメカ人を従属させた。平家方は更に1251年にマヤの都市チャカン・プトゥムに到着したが、チチメカの一部族であると勘違いした平家方はマヤ人たちと交戦、チャカン・プトゥムは滅亡しマヤ諸国家と戦争状態となる。
1277年にマヤパンを滅ぼすと日本人に従属する都市が現れたが、一部マヤ都市は200年近く抗戦を続けた。彼らが従属するのは浄土宗が彼らの中に広がってからである。
1236年、原田種直は南雨州南端を通過して大西洋に到達、北上して1238年に応林府に辿り着いた。これにより南雨州南端の通過以外に大西洋へ至る海路が無いことが確認された。
1257年、松浦高俊は4隻の艦隊を率いて大西洋を横断、1258年にマラケシュとリスボン次いでロンドンを相次いで訪問した。この時に得たアリストテレスの著作は晩年の親鸞に衝撃を与え、これは研究機関としての免比須佛光寺の開基に繋がる。
松浦高俊は10年後に欧州を再訪し、今度は地中海に入りヴェネツィアにまで到達した。この時に艦隊はトマス・アクティナスの著作を北雨州にもたらした。
1281年、チムーの首都チャン・チャンを訪問した平布安は交易を約束して更に南下し、チチカカ湖周辺の諸国家を歴訪した。更に南下した平布安はチリ・ビオビオ川流域内陸に入植の適地を発見する。入植に際して先住民のマプチェ族と水利に関して協定を結ぶが、後にこれは争乱の元となる。
平布安の調査隊はジャガイモを始めとする多くの栽培作物を北雨州及び日本にもたらすことになる。日本人はチムーとは当初鋼鉄と金を質量比で1対1で取引し、その利益は莫大にのぼった。また、アントファガスタに港を築きチリ硝石を搬出するようになる。14世紀初頭からここで得られたチリ硝石は対宋戦争の切り札とみなされるようになる。
十四世紀半ばには雨州東海岸に入植地建設が相次いだが辺境であると認識されていた。東海岸は奥雨州と呼ばれ、しかし欧州との交易でやがて繁栄してゆく。1360年には東海岸墨都に本願寺が開基し、浄土宗信仰の中心はやがて東海岸に移ることになる。
東海岸の繁栄は、欧州の戦争捕虜や占領下住民、多くはアイルランド人やイングランド人を夷人技能実習制度のもと、事実上の奴隷として輸入したことが大きい。これは形式上は労使契約に似せてあったが事実上労役者の全人権を拘束するものであった。彼らは綿花栽培などに使役され、大きく北雨州の労働人口を拡大することになる。
チリで採掘の始まった銅は枯渇気味であった通貨発行量を倍加した。この銅は火縄銃と火薬と共に欧州へと流入した。南雨州への浄土宗布教は十四世紀半ばに本格化し、これにより諸王朝で仏教への帰依が相次いだ。
1401年に懐良親王は大軍を率い北雨州大陸へ遠征、桑京、応林を従えると正統皇朝として新皇に即位、南雨州門戸庫に内裏を構えた。雨州南朝の開府である。