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世界史概説#8.2:日本の中世

 平将門の乱以降、関東および東北では朝廷による統治から一定の距離を置いた、武士による統治が各地で見られるようになった。彼らは各国府の地元官僚、在庁官人の地位を占めて地方行政を国司から肩代わりすると、互いに争って影響圏を拡大した。

 これに対して中央から国司として赴任する武士もまた、影響力を地元武士と争った。


 1023年の平忠常の乱では、上総下総に勢力をもっていた平忠常と下野の藤原氏が共に勢力を失い、先に勢力を失っていた常陸平氏とも含めてその地位を源頼信が代わり支配することとなる。

 源頼信は関東一円の検田調査をおこない支配権を確定し、足尾からの産銅を背景として関東を事実上の不干渉領地とした。これは納税さえあれば地方に不干渉であった朝廷の方針と一致し、源頼信とその子源頼義は著しい富を蓄積した。


 関東人口は十一世紀末には百万を超えていたと推測される。耕作面積は倍に増え、石灰による土壌改良と小麦の導入がこの人口増加を助けた。河川治水工事と道路整備、運河と橋梁建設が相次ぐと、関東は近畿に匹敵する商工業の発達をみせるようになる。

 一時期関東での平均識字率は10パーセントを越えていたと見られ、また乳幼児死亡率も劇的な水準まで低下していたとする推測もある。

 この時期に普及する標準的な金属活字セット、足利組が現れたと考えられている。足利組は良く使われる漢字を三千二百個にまで絞ったもので、仮名の普及と共にその独特の字体共々広く使用された。

 この豊かな富を背景に、源頼義とその河内源氏の一族は中央での地位向上を目指し、源頼義は昇殿を果たし殿上人となる。しかしその後は長きにわたりそこで昇位を足踏みすることとなる。


 源頼義はその関東支配に当たって、民間の行政技能者である目代職を統治に多用した。また在地武士勢力をそれぞれ小規模に留めて、関東内で勢力を糾合して被官化が起きることを警戒した。これは1037年の鎌倉騒動が一部在地武士への権限集中を原因としたため、以降そういう事態となるのを避けるようになったからだとされる。

 そのため、行政主体である目代はその統治に困難な状況となり、そのため在地勢力の代表を集めて協議をおこなう諮問会議、評定を開催するようになる。

 評定は鎌倉と足利の二か所で開かれたが、後に足利の荒廃が進むと、評定は小山にその場所を移された。これに従い北関東の中心は足利から古河、小山へと移ることになる。


 陸奥では安倍頼時が勢力を南下し国司と衝突していた。対して1051年に源頼義が陸奥国司及び鎮守府将軍に任ぜられると、安倍頼時は一変して源頼義に奉仕を尽くしたが、猜疑の晴れない事を察知した安倍頼時は1053年、一族を率いて海を渡り、契丹へと降った。

 源頼義は安倍氏支配地を領地として郎党に分配したが、その殆どが源頼義の国司の任期が終わると、津軽源氏の派遣する目代に統治を委任し、結果として津軽源氏の支配圏は広がることとなる。

 1061年、源頼義は参議に昇り念願の公卿に列せられた。


 1069年、津軽郡を含む4郡が陸奥国に編入され、この4郡に対する津軽源氏の領有が公に認められると、渡島交易の独占を巡って津軽源氏と出羽国の清原氏の争いが起きるようになる。秋田城介に海道平氏の類縁である常陸の大掾氏が任命され、津軽源氏の手を離れることで争いは更に激化した。

 これは石油に代わるエネルギーを求めて津軽源氏が渡島へ進出する本格的な契機となった。この頃には北雨州から玉蜀黍(トウモロコシ)がもたらされており、渡島の農耕は大きく広がることになる。


 1083年、源義家の陸奥国司就任を契機として出羽国内で騒乱が発生する。これに乗じて介入しようとする源義家は関東で動員をかけるが、鎌倉及び足利の評定はこれを官符なき私戦とみなした。各評定は恩賞の約束と引き換えに義勇軍を編成し送り込んだがこれは1000人規模のもので、主戦力となりえないものであった。

 源義家は当初清原真衡を、その死後は清原清衡を支援し清原家衡と対決したが、源義家と清原清衡の連合軍は破れ清原清衡は死亡した。清原家衡の立てこもる金沢柵を攻めあぐねる源義家は津軽源氏に支援を求め、やって来た津軽国明とその軍勢は青銅砲を用いて即日落城させた。

 清原氏の滅亡したこの戦いは一年の役と呼ばれた。(ただ、役と言う言葉には夷賊征伐の意味が含まれるため、最近では研究者の間では一年合戦または一年戦争と呼ぶことが定着している)

 源義家は津軽国明に秋田城介の地位を約束していたがこれは守られなかった。津軽源氏の勇名は一層高まり、東日本の武家の事実上の棟梁とみなされるようになる。これはその後陸奥に評定が開かれるようになると決定的なものとなった。


 源義家は任期から二年遅れで受領功過定を通過し、源頼義と並んで昇殿を果たした。源義家は白河院に親しく仕えその財政を支えた。但し公卿に列する前に死去している。

 その嫡子源義親は国司任地であった対馬から1098年無断で宋へ渡り、これを罰され伊豆に流されている。四男源義国は関東に下り足利で拠点を築くが足尾銅山を山津波で失い下流域を荒廃させると在地勢力の支持を失い、これで足利の衰退は決定的となった。


 源義家の弟である源義光は常陸国司として赴任したが在地勢力に反発され、1106年に合戦に破れ、受領功過定に支障をきたすこととなる。源義光はその後日本国外、南方への進出を企むようになる。

 源義光は宋への派兵を企画し、源義家の三男源義忠をそれに充てようと運動した。しかし源義親がこれに当たることとなり、源義忠と源義光の不仲は決定的となる。

 源義光は更に、契丹へ硫黄輸出をしている津軽国明に対する追討を工作した。追討の為出陣の決まった源義忠は郎党によって殺害され、これは源義光の工作によるものとして源義光は罰せられることになる。

 津軽追討は藤永寧明の工作によって取りやめとなった。藤永寧明は藤永季明が妻に迎えた津軽頼季の娘の子である。津軽源氏と藤永寧明の密接な関係は白河院の院政が本格化すると重要なものとなった。


 1135年の源義親の日本帰還は、宋朝脅威論を日本にもたらす。都で論を容れられなかった源義親は孫である源義朝を連れて鎌倉入りし、富産強兵論を説くことになる。


 藤永寧明は寺社強訴に対して京職の下に評定を置いて評定衆に寺社の主だった者を参加させ、これに寺社行政の方針について諮問するという形式を定めた。

 既に藤永季明が京職の下に市司官を商工業者が成功任で買える官位として拡張していたのを、これも評定の形式に改めた上で更に拡張した。現代の商業法と訴訟法の大部分はこの時期に整備された法令を起源に持っている。近畿諸国で評定の設立が相次いだが、藤永寧明は評定法を定めてこれを推奨した。


 藤永寧明は宋制に倣った税制改革を提言したが、市場税、牛馬税、織機税、水車税、船税といった税は採用されたものの、本命であった農地税は採用されることは無かった。

 藤永寧明は意識的に宋の両税法を採用しなかったことを最近の研究は示している。目指したのは資本と所得への課税で、これは王安石の新法、利得益法に倣ったものと思われる。

 この税施行によって京職が最も財政的に豊かな部局となり、院政下では京職官位を融通することで院近臣は優遇された。対して国司の貴族人気は、貴族の畿外外出の禁令の強化と共に下火となる。

 これは12世紀末以降の寒冷化に伴う気候不順、特に1181年の養和の飢饉で地方税収が激減するまで続いた。


 鳥羽法皇の院政開始時には藤永寧明は引退しており、寺社評定の意向を無視した院の人事は度々争乱のもととなった。これは信西が京職に就くことによって鎮静化したがこの時に裁断所の制度が整備されている。


 1156年の保元の乱は蒸気水軍を率いた平清盛の砲撃によって決し、治天の君の権力を強く制限することなった。この処分で強権を振るった信西は後に平治の乱で殺されるが、評定の権利は以降大きく拡大されることとなる。また朝議も改革され、御堂流の摂関就任に対する特権的な地位は形式的にではあるが廃せられた。

 この体制は1221年の承久の乱まで継続したが、朝議と大評定の関係はその後一変する事になる。


 12世紀末以降の寒冷化に伴う気候不順は各地での飢饉と治安不安を招くことになる。各地の評定はこの打破策として南征論を支持したが、朝廷はこれを依然強く禁じていた。

 一方で各地で識字率の向上と軍制の改革が見られる事となる。著しかったのは鎌倉を中心とした坂東で、軍制的な強権政治による現状打破を主張する源頼朝は強い支持を集めることとなる。一方で貧富の差は拡大し、宗教界では専修念仏の思想が強く支持されるようになる。


 1177年に源頼朝は陰謀を扇動するが捕らえられて伊豆へと流される。その後頼朝は自組織を強化するとその弁舌の才で全国の評定の支持を獲得し、平家を支持する朝議と大評定の対決を演出した。

 1184年に阿波沖海戦で平家に勝利した源頼朝は征夷大将軍の任官を受け、全国を軍政下に置く事になる。1199年に頼朝は暗殺されるが以降そのまま北条家が権力を握る。

 当時強く民衆の支持を集めていた浄土宗は北条家軍政下において危険と目され、1207年に親鸞は北雨州へと配流された。

 1222年には大評定は征夷大将軍を総帥として頂く国権最高機関として立法され、その下に置かれる執権が事実上の最高位として君臨する体制が確立する。

 これら軍国化体制は宋の国勢伸張を脅威として行なわれたものであったが、一方で近代化を阻害する点も多かった。不満を持つものたち、特に平家の落ち武者たちは遙か東に新天地を求めることになる。

コラム:坂東別当


 坂東別当は十一世紀初頭の北関東、足利に居た人物です。坂東別当はこの頃の関東で起きた複数の革新について発明者とされる、永く伝説上の存在とされてきた人物です。

 坂東別当は足利の人物で、千歯や籾摺り台、水車、丸鋸、台鉋、回転砥石、飛び杼、竹筆と油墨、算法数字、活判印刷、構造船と三角帆、方梁、石鹸、木酢、焼酎、磁石、望遠鏡、養鶏、そして種痘法の発明者とされています。従来は坂東別当は架空の存在であり、代わりにモデルとなった宋または渤海からの渡来者がいたものと考えられ、またその時代も半世紀ほど後のことだと考えられていました。

 一方で、記録に残る実在の人物、藤永明こそが坂東別当ではないかという説も根強く、しかし突然の技術革新を説明することが出来なかった為、従来通説は、正体は渡来者であるという説に傾いていました。

 これが覆ったのは、上名草廃寺経塚より発掘された経筒の内容に藤永明直筆の文書が含まれていたことが契機になります。同時に出土した、石鹸と種痘法の手順を解説する木版印刷文書には源頼季の名があり、文書が1028年以前のものであることが確定しました。

 これら文書群により、清水寺薬師院百合文書の相当部分が藤永明に関連するものであることが確定し、研究は一気に進みました。特定の仮名の不使用、漢字の字形の特徴などの一致から、藤永明が日本海側で活動していた職能集団、牛頭講の一員であったことが確定し、これにより種痘法の導入経路が確定したのです。

 牛頭講は種痘と石鹸の発明によって関東では疫座に変化しました。坂東別当の発明とされるものの大部分も同様に、これらも牛頭講が長期に渡って開発を続けてきたものが基礎にあるものと考えられています。つまり突然現れたものでは無いのです。

 藤永季明は藤永明の子とされていますが、これは坂東別当の伝説的な名声を利用しようとしたものだと考えられています。この為に藤永明の著作物を収集したものが百合文書である訳です。

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