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世界史概説#8.1:中国の中世

 唐朝はそもそも商業活動を考慮してその制度が作り上げられていた訳ではなく、その意味で780年の資産に対する課税、両税法施行は商業活動への対応として極めて重要な意味を持っていた。

 これにより商人からも徴税が可能となり、商人は税を納めない浮食の奇民という扱いから、社会の重要な構成要素へと認知の転換がおこなわれた。そしてこの両税法からの収入は、既に地方権力を掌握していた藩鎮と無関係に中央に収められ、唐朝の寿命をいくばくか伸ばしたのである。


 後期唐の軍制であった藩鎮はもとは地方での屯田による自主財源運営を旨としていたが、鎧や武器など全てが自弁という制度は藩鎮に財政の自由度を大幅に認めなければ成立し得ないものだった。商業の発達は藩鎮が商税を自分の懐に入れ豊かになることを可能とした。

 交通税や塩の専売から利益を得て地方の藩鎮、節度使は豊かに勢力を拡大してゆく。藩鎮は最終的には地方における完全な権力を確立し、両税法税収を含む税収全てを自らの懐に入れるようになり、唐朝は滅びることとなる。


 藩鎮をまとめ事実上の地方領主となった節度使は、やがて互いに争い様々な小王朝を建てることとなる。その一つが紆余曲折を経て最後に統一王朝、宋朝となったのだ。

 宋朝は軍権を皇帝の元に集めて節度使の権力を削減し、科挙制度によって官僚制を冊新したが、税制は両税法を踏襲し塩の専売もまた踏襲した。つまり唐の制度から藩鎮の弊害を除いたものが宋朝であり、つまり中世から古代帝国への揺り戻しである。

 商工業は宋朝のもとで多大な発展を遂げたが、その発展は直ぐに頭打ちになる。商業の基盤、通貨の不足によってである。

 宋朝はその建国以来積極的に銅銭を鋳造、供給していたが、商工業の発達は王朝官僚の想定を超えて拡大した。この銅貨不足は紙幣発行に繋がり、また日本からの銅貨輸入にも繋がる。発達を続ける商工業は金融業者を生み、更に通貨発行量を増して通貨不足を克服した。


 この増えた富を背景に華南では金融業者は運河建設への投資を行うようになる。やがて運河への投資はその権利を株分け細分化して売り出す、株式投資を産んだ。

 華北では運河に代わり豊富な鉄生産を背景として鉄道の建設がおこなわれるようになる。この鉄道は馬を動力とした馬車を鉄の条軌の上で牽引するものである。

 当時西夏との交易関係の悪化に伴い馬の調達が難しくなっていた頃であり、馬の頭数を節約できる鉄道は歓迎された。鉄道は当初炭鉱と石灰産出地、鉄鉱山を結んで建設されたが、やがて消費地をも結ぶようになる。


 労働者の需要はやがて鎮、城市への多量の流民流入を引き起こすことになる。華北の城市はいずれも戦争に対する不安から居住収容人数を制限しようとしており、また高度労働者の必要から、より優れた労働者のみを選抜する目的で移住者に郷学及第、つまり初級教育の卒業証書の所持を要求した。これにより急速に初級教育は華北に普及することになる。この動きは後に南方へも波及した。

 教育の拡大には活字の普及が大きな役割を果たした。この時期の陶製活字はおよそ漢字二万六千の活字セットで流通し極めて高価であった。時代は下るが1160年に生産された金属活字100セットのうち2セットを日本が購入した際には金一万両を支払っている。

 更に高等教育機関として県学、州学が整備されるが、これらでも重視されたのは儒学教育であることには変わらなかった。


 宋はその当初から北の契丹と係争関係にあった。契丹は宋朝の起こる以前に各地に立った節度使の一人から、助力の対価として華北の一部、伝統的な中国の一部を割譲されていた。対して宋は中国統一という目標の最期のピース、割譲されてしまった華北を取り戻すため戦いを挑んだ。


 宋の軍制はやはり唐制を踏襲した、但し節度使、藩鎮の弊を廃したものであった。兵の給与を自弁では無く国庫から支払ったのである。

 兵は徴兵ではなく志願兵で任期は一生、リタイア後の生活も保障されていた。更に体格等優秀な兵士は選抜されて皇帝直属の禁軍に配置された。

 宋の動員戦力は建国当初で12万、その後90万まで膨れ上がる。うち禁軍はおよそ19万を占めた。この膨れ上がった兵力は国庫を圧迫した。

 兵種は3種、騎兵、歩兵、そして水軍である。うち歩兵が主力で七割を超え、弓弩兵は歩兵のうちの三割に満たなかった。軍編成は遠く孫子の頃から大差ないものであり、契丹の騎馬戦力に全く対抗し得ないものであった。


 宋の包囲外交に怒った契丹は1004年宋に侵攻し宋軍をあっさりと打ち破った。かくして燕雲十六州を失うことが永続的となり、セン淵の盟が結ばれると、契丹と境を接する山西及び河北南部の豊かな鎮、商業都市は在地兵力の増強を強く皇帝に要求するようになる。

 この時期華北の鎮は宋の他の地域の傾向に反して増加、強化されている。西夏との国交が断絶すると更に馬の不足が明らかとなった。最初の蒸気機関は華北の炭鉱で用いられたが、やがて鉄道の牽引動力として用いられるようになる。


 発達した商業活動は富豪を多数生み、商業活動を嫌う儒教教育を受けた士太夫、官僚たちに強く規制され続けたが、彼らは結党し議会を結成し、集団での抗議、要求をおこなうことでこれに対抗した。多くの商業都市に議会が結成されることになる。


 膨れ上がった兵力は国庫財政に改革を要求していた。1069年、宰相王安石は多数の改革の集合体である新法の導入に踏み切った。新法の一つに利得益法(所得税)の導入にがあったが、金持ちから多く取るこの累進税率は宋朝の社会安定を以降三百年に渡り支えることになる。

  新法は商工業者から、旧法は士太夫層から支持されたが、利得益法だけは双方から強く嫌われた。しかし王安石は対契丹改め遼との戦争の為として導入を強行した。この新しい税は膨大な軍の新しい武装を充分支えうるものだった。


 宋の軍制再編の契機は西夏との戦争に負けた事にあった。この時に西夏は、遼から導入した新兵器、鉄砲を初めて披露する。西夏の鉄砲運用の隘路はもちろん火薬生産であった。火薬のすべてを遼からの輸入に依存していたのだ。遼は華北の山西北部から硝石を得て、日本から硫黄を得て火薬を製造していた。

 宋はこの鉄砲をコピー、改良を加えて生産し、弓弩兵をこれで置き換えていった。宋の鉄砲はこの時点で完成した姿で現れた。1120年の機械打ち壊し反乱の頃には鉄砲兵の充足数は一万を超えていた。

 これに伴い、火薬生産の為に日本との交易が拡大することとなる。宋は日本に、遼に硫黄を輸出しないように求め、日本側はこれに応えることを約束したものの、実際には渡島から輸出される硫黄に歯止めをかけることが出来なかった。

 一方、遼への硫黄輸出を差し止める事の出来なかった日本側は、代案として兵士を差し向けることを提案した。これは1098年に当時対馬国司であった源義親が禁を侵して無断で宋へ渡ったことを契機としたもので、佐渡に配流されていた源義親の罪を減じる代わりに宋で従軍させるというものだった。


 この時期、遼は宋との産業化競争に敗れつつあった。山西、燕州という同じ華北を領し、同様の地下資源に恵まれながら、遼の金融体制はその開発を円滑に行なうには程遠いものであった。これは運河の建設に適さない土地のせいでもある。彼らは代わって舗装道路を建設した。中国の道路規制、法制はこの時代の遼のそれに由来している。

 華北から遼東半島にかけての地下資源豊富な土地は、日本人を通して渤海人、熟女真に任せられていた。彼らは通貨を発行したが、遊牧経済に少額貨幣は普及しなかった。

 一方で遼の支配層は漢化が進行していた。彼らは華北の産業革命の恩恵を受け続けたが、遊牧民との経済格差の広がるのを放置した。かくして反乱の芽は播かれた。

 

 1121年、金の建国を契機として宋と遼は再び衝突する。この時遼は宋と同じ一万の鉄砲を揃えていた。更に青銅製の野砲と手投げ弾を持ち、対して宋は馬を驚かせるのがせいぜいの火槍を補助兵器として採用した程度だった。馬に牽引された野砲は宋軍に衝撃をもたらしたが、決定的な働きをしたのはしかし従来からの騎兵であった。

 宋を退けた遼であったが金に対しては大敗を続け、その領土は華北一帯にまで縮小する。その遼に対しても宋は敗北を続けた。1126年、宋は開封を失陥、皇帝とその一族は遼に連行された。


 揚州議会はこれに対して皇帝は病に臥せるのと同様の状況にあり、周公の例に従い摂政に国政は委ねられ帝権は制限されるとする勧を出した。多くの議会がこれに同調したが、これは前皇帝徽宗の人気が彼らの間で極めて低かったことが大きい。議会提案と康王の任命により李綱が摂政に任ぜられる。

 1128年、宋に渡った源義親の手勢3000騎は華北に侵攻、滅亡寸前の遼を支える日本人武将たちと激しく交戦した。結果、源義親ら源氏の働きにより燕京は宋の手に戻り、契丹平氏はここに滅亡した。

 また遼の残党の一部は遥か西に逃れて西遼を建国した。日本人武将のうち安倍氏は彼らに付いてサマルカンドまで進出、1157年にセルジュク朝を滅ぼした。


 遼の滅亡により帰還した徽宗とその子皇帝欽宗は開封に入城し宰相に秦檜を任命する。秦檜は新たに宋と国境を接することとなった金朝を強大と見て、燕雲十六州の金への割譲と金品の献納によって和平を結ぶ事を画策する。

 これに対し康王は議会の求める帝権の制限を受け入れ臨安で即位し、皇帝高宗として前帝を廃し燕雲十六州の金への割譲を禁じることを宣言した。その後高宗は金との和平に傾き、揚州統制であった岳飛ほか武官も当初開封と臨安の南北両皇帝の和睦を主張したが、秦檜が金から援軍を得て南侵する報に接し、北伐を決意、金と北帝に従う節度使の軍を打ち破ると徽宗と欽宗を拘束、高宗の即位を正式なものとした。

 以降強権を得た岳飛は護国太夫の武階を受け、金との対決姿勢を鮮明にする。以降1145年の護国卿岳飛の死まで金との戦争は続き国内は疲弊することとなる。


 この時期、宋では金の重騎弓兵に対して方陣と長槍の密集陣形を採用し、ようやく馬の不足を補い戦う事ができるようになる。これに鉄砲による火力投射を付加し野砲の運用によってようやく宋は金に対抗し得るようになった。

 将官の育成、選抜を目的とした武挙を実施し兵部雑官をここから採る事とし、十二世紀末には西夏との戦争が再開すると、馬の産地を奪回したことで騎兵部隊を復活できるようになる。

 硝石産地を宋が全て抑えた事で、宋と日本の間の問題は事実上解決した。しかしそれは日本への硝石供給を宋が支配する事を意味していた。


 岳飛の生前は軍費の為に高く維持されていた所得税最高税率はその死後段階的に低くされ、12世紀末には貧富の差は極めて大きくなっていた。特に農民は貧農化、小作人化が著しく、反乱が相次ぐようになる。この時期、経世学者朱熹は「資本考」を著し、経世済民の法として共産主義を提唱している。


 12世紀半ばには長江及び揚子江に蒸気船の運航が始まり、13世紀初頭には青銅砲を搭載した沿岸海軍が誕生している。12世紀末には宋は水軍の戦力を背景に金に対して優位に立つようになっていたが、そのはるか西北で、1206年モンゴルはその部族を統一して周囲への侵攻を開始する。

 1234年、モンゴルによって金が滅ぼされると、宋はモンゴルと直接対峙することになる。

 1267年以来、対モンゴル戦争は本格化し長期化することになる。貧農や下層民に対する税負担が増大すると社会不安は高まり、議会と宮廷は対モンゴルの主戦論派と講和派に分かれて争い、そして議会はそもそも都市富裕層を代表しているに過ぎず、大規模反乱を抑止できなくなっていった。

 社会不安のはけ口として外への拡張政策は支持され、陳朝大越国に対し二度の侵略戦争をおこない服従させている。更に1328年、赤道を越えた南半球に大南蛮大陸を発見、大南蛮州東岸への移住政策を進めた。

 しかし社会の不安定性は変わらず、1351年中華共産党が結成されると瞬く間に勢力を広げることになる。


(以下省略)

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