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足利古都市広域遺跡 発掘調査報告書

序文:


 本報告は、十一世紀前半から十二世紀半ばにかけて繁栄した都市、足利古都市の全容解明を目指して発掘調査をおこなってきた現時点での成果を概説するものである。

 古くは二十年代に報告のあった古都市遺構を足掛かりとし、工場群移設に伴う広域再開発に先駆けて七十年代より順次発掘を行ってきた本発掘の結果は皆の良く知るところである。

 今回、渡良瀬川河川域の広域発掘をひとまず終えたところで、一定の総括をおこなうことが本報告の主眼である。今後も上名草甲遺跡など発掘予定箇所は多いものの、ここで足利古都市という都市遺構の判明した全容とこれまでの発掘の成果について纏めたい。


(例言、汎例、目次省略)



調査経緯:


 足利に繁栄した市場以上のものがあったという伝承は、伝説的な坂東別当伝承と共に語られてきたが、これら伝承の類は誇張されたものであり現実に存在したのは小規模な集落であったというのが従来の大方の説であった。

 これは、同時代文献にみられるその都市規模や状況等の記述内容が大袈裟で信憑性に欠け、そもそもそれぞれの内容で大きな隔たりが見られることからもその信憑性に疑問が付されてきた経緯によるところが大きい。

 これに対して考古学的な調査を踏まえた、大規模な都市がかつて存在したという説が強く説かれるようになったのは今から去ること半世紀前の主権回復直後まで遡る。

 この古代都市が渡良瀬川の洪水氾濫に伴う河道変遷により消滅したという説はその一定の合理性を評価され発掘の機運を高めることととなった。

 但し、主に予算面の問題から本格的な調査はその後十五年以上着手される事は無く、再開発に伴う緊急発掘だけが都市遺構を探る唯一の手段であった時期が続くこととなる。

 その後広域発掘計画が専従の研究機関とともに発足したことで、足利古都市の発掘と研究は大きく進展する事となる。本報告はこの研究所設立後の二十年を総括するものでもある。



遺跡の立地と環境:


 本遺跡は現在の足利市街の下に横たわる中世都市の遺構である。

 この都市、足利古都市の遺構は足利市八幡町、南大町及び借宿町、更にその北、渡良瀬川とその河川敷近傍に広がっていた事が確認されている。更に鑁阿寺の前身遺構、足利医院遺構の一部を確認したことで足利古都市の北限を同定、南限としては歌枕として著名なわたらせ橋の橋脚と目される遺構が仮定されている。

 この遺構全体が十四世紀のものと推測される氾濫土層に分厚く覆われ、または渡良瀬川によって侵食洗掘さているのである。特に渡良瀬川に浸食された箇所では遺構は完全に失われており、これは古都市域の三分の一を占めている。


 足利古都市の主要遺構は、平安時代中期に成立した足利荘の中心集落と館を核として十一世紀初頭に短期間に急激に成長した。

 この短期間に古足利薬院、古足利学校、南居館、下野国衙、条里を伴う街路及び橋梁等の主要遺構の成立は集中し、文献記録もまたこれを裏付けている。足利八幡及び八坂神社、毛無山廃寺もまたこの時期の成立と見られている。

 都市街路は全長四キロメートルに及び、その地下には下水道が敷設されていたことが確認されている。中心街路は舗装され、多数の煉瓦基礎家屋及び掘建作り建築が確認されているがこれら規模は、文献に見える最大人口二万人という値を正しいものだとする根拠となっている。

 しかしこの都市は十一世紀後半から急速に衰退し、下水道をはじめとする高度都市機能を失ったことが確認されている。十三世紀初頭には推測人口は四千人を切っており、そして最終的には、1375年または1381年と伝えられる渡良瀬川の河道変化を伴う大洪水によってその都市中央は埋没、消滅した。

 これは上流の足尾銅山の生産向上とそれに伴う排出ガスによる山野荒廃、廃液による河川汚染が主因であると考えられている。河川汚染は十二世紀半ばには収穫量の大幅減少と荒田の拡大というかたちで文献記録からも確認することができる。

 河川治水は十三世紀を通じて顧みられることは無かったものと思われる。十三世紀後半には既に小さな河川氾濫が数多く記録されており、河道変化の前には特に河床は5メートル近く上昇していたと思われる。

 以降、都市としての足利は歴史の上から消滅する。足利荘の領主館は北の樺崎まで移転し、国衙機能は小山に移転することになる。



基本層序:


 足利古都市は、足尾山地南端の丘陵の南、火山灰土の堆積する低台地とその谷間の沖積平野で構成される北側、渡良瀬川を挟んだ南側の渡良瀬川の自然堤防及び丘陵を切り崩して得た土砂で整地した平坦地、この二つにまたがって広がっていた。

 都市北側には河川氾濫の痕跡は見られるが堆積物の厚さは50センチを超えない。対して南側は平均して2メートルの堆積土砂で一様に覆われている。

 河道変化後の旧渡良瀬川の一部は湖沼化し、有機物を含む泥土が多くの遺跡を覆っている。その後農業用水が引かれる十六世紀以降に汚染土砂を処理し畑地として再開拓が行なわれる。更にその後宅地化、そして工業用地としての利用が進行して現在の環境が形成されることとなる。



発見された遺構と遺物:


1:足利居館遺跡及び条里街路遺構:


 これらは第一期から第三期までの発掘によってほぼ全容が解明された、本遺跡群を代表する遺構である。

 集中再開発計画によって移転した丸二重工航空宇宙事業部工場群の跡地を南北に計二十五本、東西に二十一本のトレンチを掘り、条里街路の位置を確定させると共に、主要遺構の位置をおおよそ確定する事が出来た。その後足利居館遺構以外のトレンチは埋め戻され今後の発掘を待っている。

 足利居館遺跡は東西に約百メートル、南北に二百メートルの長方形の敷地の中に、南側の居住建物と北の貯蔵施設を配した施設で、十一世紀初頭に建設された後は数度の改築を経て凡そ二百年使用された。うち二度は火災被害を受けての再建である。

 最後の再建は十三世紀初頭で、居館は初期のものの凡そ三分の一の規模にまで縮小し屋根瓦を使用することも無かった。対して周囲擁壁は初期の築地塀から厚さ5メートル高さ3メートルまで発達している。この擁壁遺構は一部ではあるが現在もよく残存している。

 この擁壁は当時の五百匁青銅砲からの防御を意図したものであろう。洪水の際には堤防の役割も果たしたと思われるが、正面入り口から侵入した土砂混じりの洪水が西南側の擁壁を破壊し土砂が屋敷内部に侵入すると全てをその下に埋めてしまった。


 条里街路遺構は南北を結ぶ線から北東に15度ほど傾いた直線上に配置され、当時の渡良瀬橋に架橋された木造橋、わたらせ橋から真っ直ぐ伸びていたことが確認された。その北端は渡良瀬川に浸食され確認する事は出来ない。

 この街路は幅13メートル、一部に植樹と煉瓦による舗装の痕跡が確認された。恐らくは十一世紀初頭には煉瓦が敷き詰められ、杉が街路樹として植えられていた筈である。これら過去に例を見ない壮麗な遺構はまず十一世紀末にまず街路樹が失われ、以後修復されなかった煉瓦の舗装は十二世紀半ばに撤去されたものと考えられる。

 この街路とほぼ同規模の街路が東西に直交して存在していた。これは八幡宮前から足利居館遺跡前を通り、南北街路を交差した後は西に渡良瀬川にぶつかるまで延びていたものと思われる。


 この二つの街路の両側には恒久基礎を持つ建物が多数確認されている。東西街路の南側、渡良瀬川との間には不燃建築の煉瓦基礎がおよそ三十基確認され、富豪の土倉であろうと推測されている。

 煉瓦基礎は広範囲に見られるが、時代を経るに従って建物規模は縮小していき、足利古都市終期、十四世紀初頭には大半の建物が掘っ立て柱となる状況まで建築物は退行する。この時期には渡良瀬川流域の重金属汚染は深刻なものとなっており、足利古都市の周囲は事実上荒廃した荒れ野となっていたと思われる。


 遺構最古層において街路沿いに確認された煉瓦基礎建築物痕跡は80軒以上にも及ぶ。うち5軒は二層階構造を持っていたと推測される。これら基礎部は地上部に当たる部分においてはあらかた失われているものの、下水配管の遺構が残存するため構造を推測することが出来た。

 下水遺構は遺構最古層固有の設備で、各戸からの排水は街路下に埋設された共同溝に流れ込む。下水道機能は40年から50年程度は機能したと推測されているが、その後は維持保守がおこなわれることなく廃棄された。



 医院遺構及び木材加工施設遺構:


 本遺構は現存する中世史跡である鑁阿寺及び足利学校史跡の更に下層に確認された。医院遺構は50メートル四方、木材加工施設遺構は50×25メートル、隣接位置に存在していた。

 医院遺構は二つの大型建造物と付随する建造物によって構成され、独立した下水道設備と風呂跡など上水道遺構の双方が煉瓦基礎と共に確認できる。特筆すべきはより後に新設されたと見られる大型建造物の床下のオンドル構造である。これは後渤海との交易を示す有力な手がかりであろう。


 木材加工施設は同時期に開削された用水路が引き込まれ、複数の水車を駆動していたことが遺構として確認されている。この水車遺構は日本最古級の例となる。また土壌から木材加工により発生した切片とみられる木質繊維が発見されているが、これは台鉋の発明がこの施設の運用時期まで遡る証拠になると考えられている。

 当遺構は現存施設の下に存在しているため、全域の発掘は原状不可能である。今後の機会に期待するのものである。



 毛無山廃寺A、B:


 本遺構は古都市域より離れた位置に存在するが、古都市草創期のほぼ同時期に創建されたとみられ、火葬施設とあわせて古都市の一部として評価することが出来る。

 毛無山廃寺Aは法相宗法願寺に同定され、また出土物もこれを裏付けるものが得られている。隣接する毛無山廃寺Bは文献に足利の別院と称された隣接施設であると考えられている。

 文献によれば十二世紀末に真言宗寺院に改宗、その時点で別院は廃絶されたとされているが、発掘の結果はこれを裏付けるものとなった。改宗後の真言宗寺院は十五世紀の火災で焼失した後再建されなかった。

 廃寺敷地の北側、火葬施設遺構の周辺に埋葬地が広がっているものと思われるが、調査は今後の課題である。



 古都市周縁部建物群及び下水処理施設:


 古都市南域で発見されたこの遺構は永明寺敷地の発掘調査によって判明した。下水処理施設は古都市の下水道から流入する汚水を処理する一連の沈殿池であったと思われるが、処理能力は極めて早い時期に失われたと推測される。

 この施設は処理後の排水を古渡良瀬川に放水しており、都市のはずれに建設されていたが、この施設近傍まで掘建式の住居が迫っていた証拠が遺構として確認された。

 これら住居は都市計画の明らかに埒外のものであり、都市周縁にスラム化が進行していた証拠と考えられている。


 足利古都市の計画定住人口はおよそ一万人から一万五千人、季節人口を受け入れて二万まで受け入れることができたと考えられているが、一時期人口減少に見舞われた後、最盛期には都市人口は二万人を超えていたと推測されている。

 最盛期は十二世紀初頭で、源義国の足利支配の時期及び足尾銅山の銅産出が飛躍的に向上した時期と重なっている。この銅産出は亜硫酸ガス回収設備を附帯しない炉の増設によるもので、亜硫酸ガスの排出は足尾の山野を荒廃させ、数年後には大規模な土砂崩れによって生産設備と沈殿池、特にクサリイケ(鎖池または腐り池か)の崩壊によって有毒物質の下流への流出を招き、足利の衰退を一度に招いたと推測されている。

 以降、金属化合物の地層含有はその地層の年代特定の指標として有効なものとなっている。


 足利古都市は十二世紀後半には数度の氾濫に見舞われたことがその堆積土から推測されている。十四世紀後半、1375年または1381年と伝えられる渡良瀬川の河道変化によって、遺構はその土深く埋められて地上から痕跡を消すことになる。


(写真図版省略)



調査の成果と問題点:


 十一世紀初頭に関東で起きた様々な画期は、北宋および後渤海からの技術移入があったものとして解釈されているが、足利古都市の発掘の成果は、それら旧説に異議を唱えるものとなった。

 例えばオンドルの日本での受容時期として津軽での利用が最古であるという説が従来有力であったか、足利で同時期もしくはわずかに早い時期の遺構が見つかった事で旧来の説は大きく再検討を余儀なくされることとなった。

 下水道遺構は明らかな利用の痕跡と、それがごく短期の利用で終わった事を示す証拠を双方確認する事が出来ている。そして、祭祀遺構でも地下通路でもなく、明らかに下水道として設計されたことも明らかとなった。


 残念ながら明らかとなった事として、国衙遺構、初期の足利学校、そして伝説的な坂東別当の屋敷があったであろう、医院遺構の南に広がる土地が全て渡良瀬川の河道変遷による侵食により消滅していることが確実となった点が挙げられる。藤原頼行の日記に記された、蒸気機関とも解釈できる機械や精密時計や蓄電池の存在を、発掘によって確かめることは望めないのである。

 


結語:


 十五世紀の足利新聞に掲載された囲み記事に、四百年ぶりに訪れたという人物が足利の荒廃ぶりを嘆く話が載った事がある。

 記事によれば女性は坂東別当の娘をその手に抱いたことがあると言い、当時の町並みの壮麗な様子を語っている。これらはもちろん記者の創作なのだが、注目すべきは当時の町並みを舗装が無く、しかし足利居館の門を煉瓦を使っているとしている点だ。

 初期の足利居館は正門に確かに煉瓦を使っていたが、その後正門は場所を移し木造となり元の門は盛り土の中に埋没し、煉瓦は日の目を見ることは無くなった。つまり足利居館の門の煉瓦の認知されていた期間は極めて短い。

 そして確かに街路の煉瓦舗装は足利居館の堀から出た土の上に敷き詰められており、順序としては記事内の描写のような時期が存在していたものと思われる。

 恐らくはその時代の街並みを描写した文献が、少なくとも十五世紀まで残っていたのだと推測される。もしそれが現在まで残っていればどれほど貴重なものとなったことか。


 面白いのはこの女性の発言に対して鑁阿寺の僧、誰であるかは明記の無いその人物が答えて、足利の現在はかつて足尾を開いた坂東別当にその責がある、今日このような荒れ野となるもかつての坂東別当のおこないゆえ、と言っている事だ。

 渡良瀬遊水地が作られるのはこの記事の数年後のことになる。遊水地建設のため住民たちが南雨州チリに移住させられたのにも坂東別当に責があるのか、今こうして発掘を行うのも坂東別当の行いゆえなのか、いいや、否と言わなければ、歴史を生きる我々の存在意義は無いだろう。


 我々は自己の存在意義を考えなければならない。歴史を掘り出す者は、歴史を生み出すものと同じ責任を負う。

 そしていつか、もしかすると自分が掘り出される対象にならないとも限らない。歴史に名を残す大業によって名を残さなかったとしても、歴史の中に深く埋まった自己を掘り出される日が来ないとも限らない。だから、覚悟をするべきだ。

 我々は歴史の当事者として生きねばならないのだ。



奥付:


 足利古都市広域遺跡 発掘調査報告書 北雨州語版

 足利歴史調査所 キリスト教暦1717年 (仏暦2261年) 発行

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