#エピローグ2: 1645年 北雨州墨都
「核戦争は起きるのでしょうか」
深刻な表情で少女は言う。白のレースをふんだんにあしらった可愛いドレスを着た、淡い茶色の髪のアイルランド系白人の少女だ。雨州系日本人の姓を名乗っていたが、先祖がどこかで養子に入ったのだろう。
彼女たち白人は、過去百年におよぶ地道な地位向上の努力の成果をようやく享受しようとしていた。
「そうそう起きるものじゃ無いわ」
丸子はそう答えて彼女の手のグラスを取り上げると、屋外の席をまわっているウェイターに渡した。ウェイターは白人の老人男性だ。白人の若者に階級上昇の機会は広く開かれてはいたが、教育を受けていない世代に対しては、まだ雨州社会はきびしい。
炭酸水を満たした新たなグラスを少女に手渡す。彼女の表情は晴れない。
若い子は良いねぇ。国際危機に素直に反応している。
「起きても地球の反対側で爆発が二つ三つ起きるだけさ。気に病むことは無いよ」
素直じゃない手合いが来た。
ウィリアム・ブラッドフォードは東海岸の白人の中でも飛びぬけた有名人で、次の大首長選に出馬するという噂がもっぱらだった。
すらりとした長身を黒のスーツで包み、白髪交じりの頭の上にフェルトの烏帽子を被っている。顔も悪くはない。問題は彼の支持層が少数派、白人保守層であることだろうか。
今や同じく少数派に転落した雨州日系人の支援も得たいというところだろう。
「核戦争になれば世界中に大きな影響があります。世界の中心の一つが廃墟になれば世界は大混乱になりますから、この国でも不景気になるでしょう。
双方が持っている核兵器を全て使うようなことになれば、たぶん北半球の気候にも影響が現れるでしょう。少なくとも中大陸の不作は覚悟すべきでしょうね。
そして、緊張状態が更に多くの国に波及すれば、世界を巻き込んだ戦争になる可能性もあります。この墨都の空の上で核爆弾が爆発するかもしれません」
丸子はそう言って牽制する。
インドとペルシャの間のホラーサーン地方、牛頭講文書ではアフガニスタンと呼ばれていた地域を巡って、その緊張状態は開戦前夜と言っていい状態になってもう半月が経過していた。
核戦争の危機であるというのは大袈裟な言い方では決してなかった。
世界大戦のあと、敗戦国である共産大明の後継国家、中華共和国への賠償請求権を放棄した日本や北雨州と違い、放棄しなかったヒンデ連邦は大明のかつての領土の西端に食いついたが、そんな行動はカスピ海とカラコルムの間の広大な地域を一気に緊張状態にした。
大戦初期に降伏した協和ペルシアは戦後産油国として発言力を増し、大戦時中立であったスラブ-イスラム諸国もまたカスピ海東のステップに勢力を増していた。
これら諸国は北ホラーサーンを巡って衝突を繰り返していた。幾つもの傀儡国家が立っては潰れ、互いに争っていた。
現在の緊張状態はこの争いが南ホラーサーンまで及んだのが原因だった。
ヒンデ連邦も協和ペルシャも核保有国である。10年前に人間を月に送った超大国であるヒンデ連邦に太刀打ちできる規模では無かったが、協和ペルシャも大戦時から装備を一新していた。
そして、元はと言えばヒンデ連邦のほうが悪い。
先の総選挙で、永遠の第三党と呼ばれていたインド光明党が大躍進して議席を倍に増やし、第一与党と連立政権を組んだのがそもそもの発端である。
インド光明党はガチガチのナショナリズム政党である。大乗仏教系の宗教政党で、その起源は古く1425年のヒンデ国民会議の設立メンバーの端の方にもその名が残されている。
更にその起源を遡れば、ホラーサーンで布教活動をおこなった日本人の僧侶、日蓮にまで遡るという。
……まさかこんな事になるとは。
丸子も責任の一端を担っている気がして、この緊張状態に際して影響力を行使していた。
丸子の今の表の顔は、多国籍通信事業者の付属研究所副所長だった。だが調べる人が調べれば多国籍通信事業の影のボスが丸子であることにもやがて気づくだろう。
だから近づいてくる人間も多い。
しかし、この気持ちのいい五月の空の下、芝生の上のお茶会の場では、丸子は地元の研究所の副所長のおばちゃんである。地元の名士であることには間違いないが、大首長候補が挨拶に来るほどではない。
裏の顔の話で言えば、そもそも丸子は大衆党の民族融和的な候補に既に大きく肩入れしていた。そんな事情もご存じないとすれば、ウィリアム・ブラッドフォードの情報収集能力もたかが知れている。
「でも、たくさんの人が、そうはならないよう互いの国で働きかけています。協和ペルシャとヒンデ連邦の両方で働いている人も多いわ。
だから希望はまだずっと大きいのよ。安心して。
平和の為に働く人が諦めるまでは、まだ核戦争は起こらないわ」
丸子は笑顔で少女にそう言うと、近くのテーブルから皿をとってチーズを載せた煎餅を勧めた。その横から厚かましくブラッドフォードが煎餅をひとつ取っていく。
芝生の向こう、近代インド様式の白い屋敷のほうから、客の誰かが弾いているらしきピアノの即興の旋律が聞こえる。
「わたしチーズきらい」
そう少女が言うので皿をテーブルに戻した。ブラッドフォードが少女を別のテーブルに誘うのを眺める。ブラッドフォードは少女が地元財界の大物の娘だという事をよく理解しているのだろう。
残念な男だ。それが丸子によるブラッドフォードの評価だった。成り上がる事しか頭にない。マイノリティ全体の社会的地位の向上を口にはしていたが、実際にやっているのは派閥を作りなびくものに利便を与え、マイノリティ社会を階層化するだけだった。
残念ながら、白人の大首長の誕生はしばらく先の事になるだろう。
木陰の席に腰を下ろすと、ロジャー・ウィリアムズがやってきた。
研究所の所員である。場違いな安物の羽織に烏帽子を身に付けていたが、もうちょっと良い服を持っていなかったのだろうか。
「ボス、例の奴」
休みの日に付き合わせて申し訳なかったが、丸子はすぐにも報告が聞きたかった。明日には国際通信会議の総会に出席するために鎌倉へ出発しなくてはならないのだ。
「それで、何ページになったの?」
電子計算機が発明されてもう40年近い。そろそろ電子計算機を繋いでいる各地の電子通信網を更に繋ぐ仕組みを作り始めて良い頃合いだろう。歴史における電子通信網の重要性が判っているからこそ、丸子は研究所を設立してその副所長におさまったのだ。
「本文は千ページを割りました!」
元々は二千ページ近くあったのだから大進歩だ。
電子計算機通信網間接続手順、その最初の版である。
既に世界には様々な電子計算機通信網が生まれ、運用されていた。既に個人用小型計算機も売り出され、熱狂的に支持されていた。彼らもまた独自の通信網をやがて作ってしまうだろう。
その前に、通信網の標準仕様をつくるのだ。未来を見越して。
だが、千ページもあっては誰が一体実装するのか。
「全世界の主要な接続手順を全て網羅して、千ページで済んだのですから奇跡みたいなものですよ」
立派なものだが、普及はしないだろう。本命は別にあった。
「付録イは何ページになったの?」
「80ページ、ほぼ変わりません」
符号分割多重接続法なんて突っ込んだのですから、この分量に仕様が納まったのは奇跡みたいなものですよ。そうロジャー・ウィリアムズは言う。
いっそ、最初から無線接続にしてしまおう。それが丸子の秘策だった。
「それで識別符号長は」
「言われた通りに48細位にしました」
丸子の研究所で開発中のワンチップ集積電子計算機は基本語長に48細位を採用していた。これは丸子の強い推薦によるものだった。浮動小数点計算など48細位あると便利である。
そんなに不要ですよね、32で充分ですよね、そう言い募るロジャー・ウィリアムズに丸子は、96細位まで領域を拡張できるように工夫しなさい、と言う。
「絶対、すぐに必要になるから」
もっとも、丸子のすぐ、というのは普通の人とはかなり違うのだが。
旧ソ連の汎用機BESM-6などは語長48ビットを採用していました。浮動小数点計算など32ビットでは狭すぎる、64ビットでも足りないということで、intel拡張80ビットが多用されたりGPUでは128ビットになったりしましたが、BESM-6では倍精度96ビットというちょうどいい塩梅の語長を利用することができました。