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#エピローグ2: 1416年 足利

 古河から乗った軽便鉄道は何度も何度も長い停車を繰り返し、ぼろぼろの木橋を歩くような速度で渡り、強い北風に負けるのではなかろうか、吹き倒されるのではなかろうかと不安になるような有様で、夕方ようやく足利の駅に辿り着いた。


 400年ぶりの景色は一変していた。駅の裏手の低い土手を登るとすぐ向こうは渡良瀬川が、かつての栄えた街のあった辺りを流れていた。この川が全てを破壊したのだ。

 駅前の店舗は閉店時刻が早いのかどれも戸を閉め切っていた。一軒など売家の張り紙があったが、よっぽど古くなっていたのか下半分が風に千切れてしまっていた。

 戦争が近いのだ。景気後退に戦争準備が重なって、地方の経済は疲弊しきっていた。


 こうなってはどこか民家に頼んで泊めてもらうしかない。丸子・ヤエは埃っぽい砂利道を歩き始めた。

 しかし、数軒民家を巡り、全てで断られたところで、丸子は自転車でやってきた押領使少尉に連行される羽目になった。誰かが通報したのであろう。北雨州訛りの怪しい人間がうろついている、と。

 押領使少尉は偉そうな髭を生やしてはいたが良く見ると童顔で、まだ若いのであろう。帽子を押さえながら自転車を押して歩くのに難儀しているようだった。


「おばちゃん何処から来たの?滞在許可証持ってる?じゃあ見せて」


 風も強いのに、もう暗いというのに押領使少尉は丸子の滞在許可証をその場で見たがった。行李から出して渡すが、案の定少尉は、暗くて良く見えぬ、と言う。


 押領使番所は民家の途切れた端に立っていた。これまた見事なぼろ屋だ。

 引き戸から中に入り、紐を引いて電灯を灯す。電灯は暗くまたたいた。電力供給が不安定なのだ。少尉は諦めたように机から蝋燭を取り出して火を灯した。


     ・


 共産主義者狩りはここでも嵐のように吹き荒れた後だった。中国の思想家が唱えた共産主義は貧困にあえぎ富豪を憎む民衆に強く支持されたが、同時に政府に強く弾圧されていた。

 とはいえ、ここらの民衆はもっと冷笑的な物の見方をしているらしい。


「資本の公有ったって、言うなれば足尾が古河から古河に戻るだけだし、何も変わりはしないって皆んな知っているからな」 


 古河とは今の鉱山を運営する民間企業、そしてかつて運営していた古河府のことを指すのだろう。

 何も代わりはしない。そして丸子は共産主義のほかの欠点も知っていた。労働によって全ての価値が生まれるという共産主義は自然環境に価値を認めない。つまり共産主義が来るとこの辺りの荒廃は更に酷くなる。


 一通りの質問に答え、共産主義者や無政府主義者、不審者では無いことを押領使少尉に納得させると、あとはどこに丸子を泊めようか、という話になる。


「ついてこい」


 押領使少尉の後ろに付いていく。しばらく歩くと集落の外れに木立が暗く輪郭を見せて風に揺れていた。そこに泊れと言う。寺があるというのだ。


 境内の入り口には石柱が暗く突っ立っていた。寺には茅葺きの本堂と、ここらの土で焼いたらしき赤瓦葺きの小さな庫裏があるだけだった。押領使少尉が庫裏の戸を叩くと僧が顔を出し、そこで二人が少し言葉を交わすと、


「入られよ」


 丸子は庫裏へと招き入れられた。

 土間の三和土で靴を脱ぎ、囲炉裏の間に上がる。僧はどこの宗派だろうか。おそらく真浄土宗であろう。日本では最近は小さな寺はどこも大抵真浄土宗だと聞く。

 だから、違うと聞いて少し驚いた。


「ここはずっと昔からある寺でな、永明寺という。ここは坂東別当を祀る諸寺の一つにて」


 だから地元の供物寄進には事欠かぬ、と僧はいう。更に聞けばこの寺の僧では無いという。渡良瀬川の向こう、なんとかという難しい名前の寺の僧で、ここの維持管理を時々来てはやっているのだという。


「だから正式にはここも真言の寺と言うことになるかな」


 そんなことを、焼酎の杯を勧めてきながら言う。とんだ生臭坊主だ。要するに本寺の目が届かない息抜きの場として使っている訳か。

 杯を断ろうとしたら、水はいかぬ、ここの水は金気に侵されておるゆえ、と言う。

 重金属汚染か。上流の足尾銅山は既に枯渇して操業していないが、今も下流の汚染はそのまま放置されている。地下水の汚染と言うのは充分にありえる。


 杯を受け取って、飲む。強い酒だ。寒さでかじかんでいた指先に感覚が戻る気がする。


「吾子は何しに日本へ来られた」


「ここに古い財産があってね」


 丸子は答える。

 雨州や西欧では広範な影響力を持つ秘密結社として成長したエンザも、ここ日本では古来の農村の互助組織に毛が生えたような代物でしかない。牛頭講や疫座、奥州の別所などには拾うべき遺産がまだ存在していた。


 こちらの者は不親切であったろう、火に薪を足しながら僧はそんな事を言う。


「こちらは戦の近うて色々面倒もあるゆえ、北雨州の者には風当たりをきつくしておるからに」


 日本が資源豊富な植民地として期待をかけて軍事介入、建国させた北雨州国は、ほとんど利潤の得られないままに設備投資の為の資金を飲み込み続けていた。そのうえ現地住民の反発は大きく、移民は歓迎されていなかった。

 そういう状況を不満に思う日本側でも北雨州への反発、強硬論が飛び出すようになっていた。戦時特別税を課すとかなんとか。そうなれば日本と北雨州は完全に決裂するだろう。


「戦の御蔭でこの辺り治水は一向に進まぬ。まったく、邑楽や古河の村は立ち退かせてチリにさっさと動かしたくせに、約束していた堤は一向につくらず、軍艦を増やしておる。」


 チリとは南雨州のチリか。随分遠いところに移住させたものだ。古河のはずれに広大な荒野が広がっていたのは見た。遊水地をつくると聞いたが、工事はまだ先のことだという。


 元はと言えば全ては坂東別当のせいだ、と僧は言う。坂東別当が足尾で銅を掘らなければこうはならなかった。遡ればすべて坂東別当が悪いのだ。


 勿論酒の上での他愛のない話だ。この辺りではどうやら、仕事が無いのも物を無くすのも家の猫が毛玉を吐くのも全て坂東別当のせいにしているらしい。

 しかし、かつては坂東別当の御蔭で栄えた地であろうに、そう言うと、今も昔も寒い風が吹くばかりの寂しい荒れ野ぞ、どこに都のあったろうか、そう返される。


 栄枯盛衰とはこの事だ。電線が引かれ全国民が教育の恩恵にあずかるようにはなってはいたが、丸子には今より400年前のほうが豊かに見える。少なくとも、かつては知的な物事への飽くなき意欲があった。

 酒を呷る。


 確か、下野国庁を名乗る小さな屋敷だった。近代的な木造建築で中には広々とした三和土の空間が広がっていた。人は少なく、坂東別当、藤永の、なんだっけ、官職名はすっかり忘れてしまった。諱を避ける文化も廃れ、今では坂東別当も単なる藤永明だ。

 ただ、その頃は違っていた。そう、目代、目代であった。あれの子を背中に背負ってずっと、能登の沖の島からやってきたところであった。

 あの子も死んだ。ずううっと前に死んだ。


 酒を手元に注ごうとして、酒瓶の中身がもう無いことに気が付く。

 

「そんなに飲まれると身体の毒であるからに、もうよく寝られよ。そこに布団敷きしゆえ」


 その言葉に従って布団へとのそのそと動く。臭い布団だ。

 後ろからのしかかられた。背後から抱きつかれ、布団へと押し倒そうとしてくる。


「何を、このっ、やめよ!」


 くそ。まさぐる手が服の隙間に入ってくる。


「楽にされよ、ほうれ」


 くそ。しっかり勃起してやがる。くそ。

 いつものようにやるだけだ。くそ。

 丸子は思い切り僧の股間と思しき所を蹴った。立ち上がり、更に蹴る。


 服と荷物を纏め、庫裏を飛び出す。


     ・


 外は風も止んでそれほど寒く感じない。服装を整えると、まだ深夜の集落の外れを歩いていく。細い月がまだ地平線の上にかかっていて、その明かりが足元をなんとか歩けるくらいには照らしていた。

 酒なんて飲むんじゃなかった。何か要らぬ事言ってしまった気がする。しかしまぁ、あの僧も泊めた旅人を強姦しようとして逃げられたとは言えまい。秘密は守られるだろう。


 渡良瀬川の堤防の斜面に寝そべる。こう暗いと川面も美しくみえる。陽の光の下では恐らく重金属汚染の跡をどうしても見ることになるのだろうが、今は違う。

 朝を待って、じっと底冷えに耐える。

 くそっ、過去を思い出すからつらいのだ。いつものように、初めて訪れた土地のように歩かなければ。

 しかし、丸子はそこまで強いわけでは、決してなかった。

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