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#エピローグ2: 1348年 フィレンツェ郊外

 牧場の木陰に涼しい風が吹き、その下で若く美しい男女十人ばかりが思い思いに寝そべって、今はマルコの語る物語に耳を傾けていた。


「……しかし、確かにその場にある筈の屋敷は影も形も無く、もちろん盗みで溜め込んだ財宝も何一つ残っていませんでした。

 数日外出したその間に大きな屋敷が全て消えうせるなどということが現実にあることなのか、男は大変悩みました。

 しかし盗賊のことなど誰に聞く訳にもいかず、勿論盗賊であった等とも言えず、それ以来女にも盗賊の仲間にも会うことは出来ず日々は過ぎてゆきました。

 男は知り合いの家に寝泊りしてはやがて悪い癖が出てけちな盗みを働き、それで役人に捕まった時に、ようやく男は盗賊の話しをする相手を見つけたわけです。

 そういう訳で男は役人に、盗賊と女の事をすっかり喋ってしまいました。


 役人に訊かれて男は色々に思い返したのですが、一度男が盗賊たちの集まりに出掛けた時のこと、盗賊たちの中に少し離れてどうも別格という風情の奴が一人、小さな明かりの下に立っている奴がいたと言います。考えてみると揺らめく焔に照らされたその横顔が女の美しい顔にどこか似ている気がした、そう男は言うのです。

 ただ、その場は確かめる事もしなかったので、それきり、そして女については三年も一緒に暮らしていたのに、男はついに名前すら知ることが無かったということです」



 マルコが話を終えると貴婦人たちは口々に不思議な話だと感想を述べた。


「なるほどマルコ様はヴァネチアの方とみえる。かの名高き百万男(マルコ・ポーロ)と同じ名を名乗り、東方の不思議な話をさらりとなされる。見た目に反してなかなか世慣れた方にちがいあるまい」


 バンフィロという貴族の男はそんな事を言い出す。しばらくマルコを誉めそやすのを、皆もそうに違いないと言い交わす。

 良かった。随分昔に都で聞いた話だったが、好評で何より。


「では今日はもう時刻も遅くなりましたし、もう夕食の準備もすっかり仕上がったことだと思います。

 肝心の明日のお話のお題ですが、こう皆様色々お話されると、もうなかなか良いものが思いつかないものです。

 そこでですが、皆さまは少し自由にぶらぶらされて、その間に私どもはすっかり明日のお題を決めてしまおうと思っております」


 エミーリアという若い貴婦人は前任者から月桂冠を頭に頂くと、厳かにそう宣言した。

 女たちは雑談に花を咲かせ、男たちは女たちを口説きに散ってゆく。一人の男が何か楽器を手に取り、なかなか演奏の巧みなところを披露する。


 平和な光景だったが、彼らは5キロも離れていない地獄と化したフィレンッエから、黒死病の死臭漂う街路から逃げ出してきた一行だった。

 霞のかかった景色の向こう、広い盆地のどこかにフィレンツェは死体と共に横たわっている。盆地の様子は平和なもので、ちょっと出羽の国のほうを思い出す。


 花の都とうたわれ繁栄を誇っていたフィレンツェは今、一日に千人の死者、もはや葬るものすらおらず家の中で腐り果てていく死体に埋もれていた。もはや十万人は死んだのではなかろうか。


 マルコは彼女たちに静かな恐れの気配を感じていた。恐れているのだ。彼女たちをこの別荘へと導き、この郊外の十数日を主催した最年長のパンピーネア嬢が、明日にも、物語りには皆さん倦いたのではないかと言い出し、そしてフィレンツェに帰ろうと言い出すのではないかと、そう予期しているのだ。

 千日とは言わなくてもせめてひと月、パンピーネア嬢にこの世の憂さを忘れさせるような物語があれば良かったのだが、それももう早々に尽きてしまった。だからこそ医師として滞在していたマルコまで物語をする羽目になってしまった。


 まだ帰るには早い。十数日で何が変わるだろうか。フィレンツェの街路の片付けられていない死体が更に腐乱したのを確認するだけだろう。

 黒死病を媒介するクマネズミ共は今だ市中に跳梁している筈だ。戻ればいずれ黒死病に侵されることだろう。マルコとしてもフィレンツェに行く気は無かった。できればミラノに戻りたい。


 マルコの下に若い男が一人やってくる。昨日の夜この別荘にやってきた男だ。

 アヴェラルドというその男はマルコの前まで来ると、胸の前で人差し指を廻し、そして横に三回指を切った。エンザの印だ。マルコもさっと同じ仕草を返す。

 エンザとはかつての疫座の変化したもの、医療技能者の秘密組織だった。中央アジアのどこで変質したのか、エンザはすっかり秘密結社めいたものとなっていた。


 その仕草の由来をマルコは知っている。

 丸の中に三本線。かつて足利で狭い倉庫の荷物を整理する時に荷につけた印だ。丸に横棒一つが小一条院、都への調貢品で、丸に棒二つが足利荘の公品、そして丸に三本線は坂東別当の私物につけた印だった。


「ああ、やはり貴方もエンザであったか。ミラノで聞いた話は本当であった!」


 アヴェラルドというその若い男は泣きつかんばかりだった。


「どうか、どうかフィレンツェをお救いください!」


 男は医療を志してエンザに入会したものの、その密儀、医療技術はまだ授けられていなかった。それはまだ先、エンザへの貢献が明らかになってから行なわれるものだった。

 だが今、医療技術は今フィレンツェに必要とされていた。マルコはエンザの高位会員として、密儀を個人的に授ける資格のある事を男に告げた。


「会員にはまず、天然痘に対する法が与えられます」


 別荘のマルコに与えられた部屋に戻り、荷物から秘儀を記した文書を取り出す。

 部屋の中でその内容を読んで聞かせる。まずは一枚目だ。


 「……モサカヨケ法を習いし者に札を与える。札を持つ者はゲンザブロの命令に従う義務を負う。

 アヴェラルド・ディ・メディチよ、ここに秘密の護符を与える。義務については先の通り。

 ……従うと誓えるか?」


「はい」


 では二枚目だ。出産に関するもので、読みきかせると男は赤面してそわそわとした。二枚目は制作時期が違うので、ゲンザブロへの誓言は無い。

 読み終えた文書を手渡す。男はうやうやしくそれを受け取った。


 三枚目は麻疹に関するもので、鶏卵を使った高度なワクチン製造法が記されている。四枚目は顕微鏡や高純度アルコールの製法に関するものだ。

 そして五枚目、ワクチンの効かない病気、赤痢や黒死病に関するものだ。ここは公衆衛生に関する内容になる。

 感染経路と媒介生物の駆除がその主題だ。イタリアでも勿論蚊は飛ぶ。都市が高地に作られるのは恐らくは蚊のせいだ。だから蚊帳はここでも役に立つだろう。

 そして黒死病の媒介生物、クマネズミの駆除にヒ素を混ぜた餌を使う方法が解説される。


「ヒ素とやら、どこで手に入れれば良いのですか」


 銅鉱か銀鉱があればそこで手に入る。先にエンザが広がったドナウ流域や神聖ローマ帝国の領域では、エンザたちは新たに掘られた銀鉱から必要な分を調達していた。


「訪れたニュルンベルグ商人がまだ死んでいなければ、フィレンツエで手に入るやも知れないのですね」


 金属の商いで知られるドイツ商人なら可能性はあるだろう。少なくとも一人、死んだ一人には伝手が有る。

 マルコはとあるエンザの商人を助けるためにフィレンツェに入ったのだが、訪れた相手は既に死んでいた。間に合わなかったのだ。


「ところで、ゲンザブロとは誰ですか」


 当然の疑問だろう。男にマルコは答える。気にする必要は無い。

 そのゲンザブロ、源三郎頼季はマルコにとっては遠い足利の記憶、懐かしい、この長い長い旅の起点の記憶であった。だからなんとなく、この部分はこのまま残り続けてほしかった。

アヴェラルド・ディ・メディチはメディチ家の祖に当たります。

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