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#エピローグ2: 1268年 デリー

「日蓮と申します」


 八津の丸子は僧の言葉をサンスクリットに翻訳した。ここインド、インドキタイ朝の宮廷や知識階級ではサンスクリットは未だに公用語だった。


「はるかな東、日本より参りました」


 デリーの路上を焦がす陽光も、この石造りの王宮の奥までは浸透してくることは無い。わずかな涼風かどこかから吹いてきて、中庭から採光される明かりが白い壁や床に反射して、照明のように王とその廷臣、そして謁見する僧を照らしていた。


「ながい たびじ いかばかり おもわん。にほんご で しゃべり よい」


 インドキタイ朝皇帝、耶律トゥースィーはつたない日本語でこれだけ喋ってみせた。

 元々インドキタイ朝は西遼の倭将、契丹安倍氏の建国した国で、宮廷の公用語は元々は日本語であった。しかし時は移ろい、日本語を喋るものはもはや少ない。皇帝もイランの有力氏族と西遼貴族の混血氏族から養子で一族に入り即位した身である。日本語を片言でも喋ることができるのは教育の良さの賜物だろう。


 日蓮は頭を挙げて一瞬、丸子の方を一瞥したが、その後は迷わず、ゆっくりと喋り始めた。


「これ参りしは、名高き仏跡にて正法法華経をその正しきままに学ぶため。学べば正法をより正しく世に広げられましょう」


 日蓮は歴史上の有名人だ。流石に丸子、いや転生前の八重加永年の受けた教育でもその名は確かに日本史の記述の中に刻まれていた。


 日蓮は諸宗に対する非難と争乱扇動の罪によって薩摩硫黄島に流されると、硫黄交易のために訪れたイスラム商人の船に乗って国外へと脱出、イスラムに改宗すると日本人最初のメッカ巡礼者となる。日本へ帰国すると蒙古襲来の傷跡も生々しい九州西部を中心にイスラムの布教をおこない、1288年に邪宗流布の罪で処刑されている。

 牛頭講どもの歴史だと日蓮の行跡はずっと大人しく見えるが、近代に入ってこれまた大変になるのだと聞いた。


 勿論、この日蓮は丸子の知る日蓮とは違う。歴史は既に丸子の知るそれとは無視できないほどの違いを見せていた。

 皇帝耶律トゥースィーに日蓮は、ここまでの経緯を噛み砕いて説明してゆく。日蓮の弁舌の才は明らかだ。


 数あまたの仏典を研究しこの世の様子と照らしあわせ考えた日蓮は、正法である法華経を奉じ邪法を排することが大事と考え、これを世に説いたが、鎌倉府に治安争乱分子と目されると地下に潜ることとなった。日蓮はそう説明する。

 地下分子を得て活動を続行したが、浄土宗との抗争に倦み、また宋朝の強大であるにかわらずその中国国内で法華経の信奉されていない現状は矛盾しているのではないかと指摘されると、日蓮は国外の実情を学ぶため、というか、そのまま海外に逃亡した。どう取り繕おうと、そうとしか聞こえない。

 しかし対モンゴル戦争を開始し治安取り締まりが厳しくなった宋では思ったような活動ができず、そんなとき天竺の仏法再興の噂を聞いてイスラム商人の船に乗り、ここまでやってきたのだという。


 八重加永年の知っている歴史とはかなり違う。

 だが、ここで日蓮が更に西に進んでイスラムへの改宗を果たしたりすれば、歴史はほぼ同じ流れになるだろう。


 サッダルマ・プンダリーカ・スートラ、その言葉が廷臣のなかから漏れる。サンスクリットだ。意味は"正しい教えである白蓮花の経典"つまり法華経だ。


 一人の僧が日蓮の前に進み出る。

 ここには唐語に翻訳したものではない完全な法華経がある。それを学びなさい。

 丸子は僧の言葉を翻訳して日蓮にそう伝えた。


 残念ながらナーランダは滅びたが、ヴィクラマシーラの大僧院は異教徒より守ることができた。仏の教えの最期の灯はインドキタイ朝によってぎりぎりで救われたのだ。仏の教えは守られた。ここで学ぶが良い。

 廷臣たちから同意の声が挙がる。


 丸子の饒舌な日本語を怪訝に思ったのか、日蓮は一瞬変な顔をしたが、やがて彼は、この地で法華経を学ぶ許可を頂きたいと切り出した。


 その言葉を翻訳しながら丸子は考える。

 このまま北インドで仏典研究の中に埋もれてくれればよいのだが。

 しかし、そうはなるまい。宗教家と言うより国粋主義者、稀代の弁論家なのだ。やがて日蓮は動くに違いない。

 まだ日蓮がイスラムに改宗する可能性は残されている。今イスラムの勢力は強く、その勢いは日蓮に魅力的に映るだろう。その教義もだ。もし国家を救う事が日蓮の本願であるならば、実際そうなのだが、日本をイスラム国家にすることは完全にその目的に合致する。

 警戒を続けなければならない。八重加永年の知る歴史には、隠れイスラムたちのジハードの傷跡が幾つも深く深く刻まれていたのだ。


  ・


 日蓮はヴィクラマシーラへの招待を断わり、しばらくこのデリーで瞑想と布施行をおこないたいと廷臣たちに切り出した。

 そうして丸子は日蓮に相談に乗ってほしいと言われ、今は宮廷の外れ、赤い石の城壁の上から異国の町を眺めていた。


「この大乗正法の都にも国難のあると聞いた。是非ともそれら教え下されよ」


 日蓮は遠い北のほうを指差す。


伊斯蘭(イスラム)の宗徒どもが北から攻めおると聞くが、危なきか?」


 なんとなくこの男が理解できた気がした。結局のところ日蓮は求道者ではない。日本の危難をどうにかしたい一心なのだ。僧院で仏典に埋もれる暮らしなど全く考えていないのだ。手っ取り早く日本を救う方法をひっ掴んで飛んで帰りたいのだろう。

 対してざっと丸子は情勢を総括する。


「イスラムは西のほう、北からはモンゴルどもが来る。南はヒンドゥーを奉じる王たちがいる。そして東からは宋が来る」


 そして宋の次の、帝国主義的な次の中国王朝、恐らくは共産大明がやがて来る。

 その下りは内心に留め、丸子は続ける。一番恐ろしいのはモンゴルどもで、イスラムもモンゴルには勝てぬ。


「国の中はいかがか。正法邪法の別なくまずは語られよ」


 丸子はまずカーストの制度について説明する。仏典にも出てくる制度であり日蓮も多少は知っているだろうが、実地によく見れば更に理解が深まるだろう。


 インドキタイ朝は民衆に浸透したカースト制度をなんとか解体したいと考えていた。

 カーストのうち戦士階級はインドキタイ朝の騎兵制になじまず、戦力としてあてにされていなかった。カースト制度のもとでは戦力を充足するのは難しい。

 彼らはそのために商工業を盛んにして、社会階層をより流動的にして新しい職業で溢れさせるつもりだった。新しい職業にカーストは無い。そのための手段として宋から大量の銅銭を輸入していた。インドでは銅を産出しないのだ。


 寺を立てるでも法会を行なうでもなく銅貨を増やすというインドキタイ朝の政策について、馬鹿らしいと日蓮は一蹴した。

 疫座の衛生観念の徹底でヒンドゥーの慣習を打ち破る試みも、日蓮の理解の外にあるらしかった。読み書きを子らに広く教えるが仏典を教えるわけではない、そういう政策にも日蓮は否定的だった。


「政と法は一致せねば、なんの甲斐も無かろう」


 日蓮が法と呼んでいるのはもちろん宗教のことだ。それなら好みにぴったりの宗教がある、そう言いそうになる口を閉じて、丸子は考える。イスラムに改宗させる訳にはいかない。

  いっそキリスト教に改宗させようか。アフガニスタンにあたる辺りにはネウトリウス派を信仰する遊牧民達がまだ少数いる筈だ。


 ばかばかしい。丸子は首を振った。

 そもそも日蓮は既にイスラム商人と接触しており、イスラムの教義には触れているはずだ。ただ、イスラム商人たちはここ数十年ほど、宋朝の後押しする海外政策と、その尖兵たる中国商人たちに押しまくられていた。日蓮はそれもまた目にしたはずだ。


「ここで衆生に説法でもなされるがよい。貴僧の思わんことの伝われば自ずと道も開かれましょう」


 丸子の言葉に日蓮は、その心積もりである、と答えた。


「だが皆何を難事と思うておることであろうか。いや、そもそも言葉が不随意にて、これをまず良くせねばならぬ。

 そこで通詞殿よ、この国の言葉よくよく教えてくだされぬか」


しかし、その要請には応えられない。丸子はいかにも残念であるという口調を装い返事をする。


「残念事ながら、すぐにでも次の仕事のあるゆえ、デリーを離れねばならぬ。言葉の師は他を当たられよ」


 そろそろこのデリーを去る頃合いであろうと丸子は思っていた。流石に三十五年も一か所に居続けたのは長過ぎた。名を残しかねない状況であり色々ともう厳しい。

 カラチから春の貿易風に乗って、アラビア半島の中国人の植民都市のどれかに行くつもりだった。中国人の都市は上下水道が完備して清潔で、できれば長居したかった。


 それら都市では本国の富を背景に、奴隷を買い漁った中国人たちが王侯のような暮らしをしていた。文化は爛熟していたが彼らは本国から儒教を持ち出すのを嫌っていた。そういった都市にあるのは道教の祠なのだ。

 それら都市は市民権を持つ中国人に開かれた議会民主制を誇っていたが、それは大量のアラブ人やアフリカ人の奴隷によって維持されたものだった。


 鼻持ちならない連中だったが、清潔は何よりも尊い。長く生きていると特にそう思う。

 そのうち名高いバクダッドの中華街にも行こう。シリアを越えて地中海へも行こう。地中海まではまだ中国人は到達していなかったが、丸子が辿り着くころには北イタリアにルネッサンスが訪れている筈だ。


   ・


 ずっと後のことになるがバクダッドで丸子は、ペルシャの東ホラサーン情勢の手記の中に、ニチレン、という名を見ることになる。

 彼がその後日本に帰ったのかどうかは、わからなかった。

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