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世界史概説#8.5:インドの中世/イスラムの中世

 古代帝国であるグプタ朝の繁栄は五世紀以降遊牧民エフタルの度重なる侵入によって脅かされ衰退したが、七世紀初頭にヴァルダナ朝が興り、いっときの復活を見た。

 しかしこれら古代帝国はその繁栄の中に既に分裂と混乱の萌芽を有していた。グプタ朝は金貨及び銀貨を鋳造したが銅を産しなかったため、少額貨幣は常に不足に悩まされた。古代に銅を産したコーサラはブッダをも産したが、その銅は枯渇して久しかった。

 商工業の発達に伴う階層化はその流動化の段階まで達せず、カーストとして固定化されることになる。そして格差の拡大による社会不安定に対して上下関係の階層化を発達させる封建化が進行し、ラージプート諸王朝が乱立、分裂する。


 10世紀後半からイラン系イスラム王朝が北インドに繰り返し侵入したが代わって西遼の安倍氏が1186年ガズナ朝を、1198年にゴール朝を滅ぼし北インドに侵入、1191年ラージプート軍を破ると北インドにインドキタイ朝を建てた。

 安倍氏を苦しめたのは赤痢とデング熱だった。安倍氏は石鹸と木酢液、蚊帳と下水道の普及でこれに対処した。また通貨発行高の不足にも苦しみ、インドキタイ朝は宋船との交易で銅銭を入手し、これをそのまま通貨として流通した。インドの銅需要の大きさは、13世紀半ばには宋で銭荒と呼ばれる通貨の不足を招くことになる。


 インドキタイ朝は十三世紀を通じてゆっくりと南方を征服する政策を採った。南インドの強固なカースト、世襲的職階級制度は職位の通貨による売買が盛んになるにつれ、そして新しい職業が次々と生まれるにつれて解体されていった。

 宋との貿易は莫大な赤字を生み出していた。インドキタイ朝は銅を求めてスマトラへ進出し、宋と争うようになる。14世紀初頭には大南蛮大陸西岸に到達していたが、先に大陸東岸に進出していた中国人にやがて追われることになる。


 インドキタイ朝の軍制は当初は倭将の率いる重装弓騎兵と西遼将校の率いる軽装弓騎兵の分業からなり、敵正面に重装弓騎兵を充てて敵側面及び後方を軽騎兵で突く戦法が多用された。これはインドでは戦象を正面戦力に加えて再編された。

 インドキタイ朝の軍制は十四世紀初頭にチリ鉱石の輸入によってがらりと変わる。皇帝耶律バルキヤールクは正面戦力に牽引野砲を加え全軍をライフル銃で武装した竜騎兵に再編した軍でベンガルと南インドを征服し、インド全域の領有を宣言した。


 1398年のティムールの侵攻を退けたインドキタイ朝はしかしその国勢に陰りを見せるようになる。1417年、最初の鄭和遠征艦隊がインドを訪れ、その高圧的な要求を一度は退けたものの、3年度の鄭和の再訪問に屈服し、スマトラとスリランカに有していた利権を譲渡、カラチの長期租借に応じた。

 この屈辱的な事件は1425年のヒンデ国民会議の設立へと繋がることになる。


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 イスラムは商業と交易の発達が生んだ宗教である。商工活動が生んだ貧富の差に対しての宗教的回答がイスラムであったのだ。従ってイスラムは極めて中世的であり、そしてその性質は近世への到達を遅らせるものとなった。


 イスラムを産んだのはササン朝ペルシアの繁栄である。他の古代帝国で遊牧民たちが担った役割をイスラム共同体が担い、ササン朝ペルシアは滅びてイスラム国家にとって代わられることになる。

 違うのはイスラムが商業を推奨する一方で一神教の神の下の万人の平等を謳い喜捨を推奨し、社会の階層化に歯止めをかけたこと、書物である経典を重視し強い戒律と法を施行したことで、これらは他の中世世界で良く見られた封建化と違う解を与えるものだった。


 イスラム国家では共通通貨が流通したがディナール金貨及び銀貨で、少額貨幣は存在しなかった。イスラムの戒律は利子を許さないためリスクの大きな投資はおこなわれず、これは中世から脱却しようとしたときイスラム社会の発展に強い足かせとなった。

 アッバース朝以降、イスラム商人たちはインド洋及びアフリカ沿岸に進出したが、十三世紀末には代わって彼らの進出していた地域に宋の商人たちが現れるようになる。

 東南アジアまで広がっていたイスラムは、やがてその東の果てから中国人によって圧迫を受けるようになっていった。 


 ペルシャの中世は1220年、ホラズム・シャー朝が西遼に滅ぼされて以来、インドキタイ朝とモンゴルの圧迫によって様々に支配勢力が入れ替わることになる。

 チンギス・カンの長子ジョチとその子バトゥの西征が中断されるとその空白地に西遼の倭将、安倍氏は侵入し、ペルシャ東北のホラサーンを支配したが、やがてこの地の諸侯から移住者を募り西へ移住をおこなう。これに追従したのは多くはネストリウス派キリスト教徒と仏教徒で、彼らは黒海西岸に到達する。これにより空白となったペルシャはチンギス・カンの孫ウルスの軍勢に征服され、イルハン朝の立つことになる。

 イルハン朝はやがてイスラム化し13世紀半ばには解体がはじまる。


 13世紀末、モンゴルの去った後にイスラム国家であるオスマン帝国が現れると、各地のイスラム国家を統合し地中海の東に強大な勢力を築くことになる。オスマン帝国はイスラムに帰依したトルコ系遊牧民族の征服事業によって誕生したため、その王宮には遊牧民族の伝統が色濃く残った。

 オスマン帝国は宋と同じく早期に誕生した専制国家であったが、金融面の問題から富の爆発的増大、つまり産業革命に至ることが無かった。

 14世紀半ばになるとオスマン帝国の欧州への進出はルーマニアによって阻止されるようになる。代わってオスマン帝国は黒海東岸を巡ってリトアニア大公国を滅ぼし、モスクワとリューリク朝を服従させた。

 15世紀初頭、オスマン帝国はティムールと激突しこれを退けた。オスマン帝国も宋と同じくモンゴル系遊牧民を退ける軍事力を手に入れたのだ。


 1452年にコンスタンティノープルを陥落させると欧州進出を再び本格化させるが、やがてオーストリア・ハンガリー帝国に押され、欧州の領土を失うことになる。1540年、コンスタンティノープルは奪還される。欧州には南雨州からのチリ硝石が流れ込むようになっており、欧州の軍事力は火力で明らかにオスマン帝国に対して優勢に立つようになっていたのだ。


 1482年、勢力を大きく減じていたイベリア半島のイスラム王朝、ナスル朝は共産大明にジブラルタルの長期租借権を与えることを条件として派兵を依頼し、これによりいわゆるスペイン戦争は以後半世紀に渡り泥沼の戦いとなる。


(以下省略)



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