罪悪感の正体
墨汁の匂いが教室に充満している。久しぶりに嗅いだことのある匂いに少し懐かしい感じがした。
金曜の五時限目、黒板の左側には習字と書かれている。皆が好きな言葉を書いている中、教室の後ろで坂田は退屈そうにそれを見ていた。教育実習生として3日目を迎えた今日、小学校の雰囲気には慣れたが、その分緊張感は薄まりはじめ、退屈さが欠伸を誘おうとして必死に抑えた。都心から少し離れたこの学校は周りを住宅街に囲まれており、昼過ぎのこの時間は静かで眠気を誘う。坂田は少し歩こうと思い、机の間を注意深く通りながら皆が必死に書いている文字を目で流していた。この教室の担任は少し用事があると言って職員室に行ったきり帰ってこない。しかし周りの静けさを際立たせるほど教室内での児童たちは大人しかった。自分が小学校の頃は先生がいなくなるとすぐに友達とおしゃべりしたものだと坂田は思った。
4列ほど見て回った頃、皆が『希望』や『笑顔』とありきたりな言葉を書いている中、1人の女の子が書いている文字に目が留まった。その女の子は綺麗とは言えない、しかし一生懸命な字で『酒脱』と書いていた。小学校の習字の時間にこんな文字を見るとは思わなかった。眠気覚ましというのが目的の散歩がある意味果たされることになった。坂田がその様子を注視しているとそれに気付いたのか、女の子がこっちを見上げた。
「?」
首を傾げる女の子に坂田は少し焦った。あっ、えっと、と咄嗟に口に出そうと声を出すが言葉にならない。小学生相手に何をキョドっているんだと深呼吸してから、ゆっくり話し出した。
「そんな字、よく知ってるね」
最近まで知らなかったその言葉を小学生が知っていたことに自覚できない程の情けなさが出てくる。
「きのうテレビでみたの。しゅだつっていうんだよ」
「へぇ~そうなんだ。でもなんでその文字にしたの?」
単なる好奇心だったが、ただ単に新しい言葉を書きたかっただけかもしれないと思っていた坂田は、その質問の答えに不意打ちを喰らった。
「おねがいごとなの」
「お願い事?」
「うん、おとうさんね、お酒のむとなぐったりするから、やめてほしいの、だからね、おねがいなの」
「…………」
坂田は何も言えなかった。
今回の教育実習が今日までとなり最後には児童たちから花束をもらった。その後職員室でお世話になった先生達と言葉を交わした後、帰ろうと思った坂田はふと教室に足を運んだ。教室の前に掛かっている時計は午後5時を指している。後ろの壁には皆が書いた習字が貼ってあった。その中に1つ、印象に残る文字がある。それを書いた女の子は特に何の問題もない普通の児童だった。今両手に持っている花束を渡してくれた時も笑顔だった。「ありがとう」と言ってくれたその言葉に嘘はないだろう。しかしそれと同じような感覚でお父さんの事を話していたことに少なからず嫌悪感を覚えたのは確かだった。お父さんが殴ることを、当り前のように話すあの子に何かしてあげようと思ったが、何もできないまま終わってしまった。考え過ぎかもしれない、虐待なんておきてないかもしれない、そう思いたかった。
教室の窓から風が入り込んでいる。窓を閉めようと外の景色に目を向ける。そういえば、結局酒脱の本当の意味をあの子に教えてあげられなかったなと、それだけを後悔した。そういうことにした。夕陽はそんなに眩しくなかった。