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花夜鳥  作者: 狗山黒
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昔の話

昔の話をしよう。



 娘の母親が死んだのは、彼女が四つになる二月前のことだった。娘は母親のことを殆ど覚えていなかった。

 家には娘とは別にもう一人女児がいた。娘の妹にあたる彼女は、不幸にも流行病で両親を亡くした娘だった。

 妻を亡くした男は、血の繋がらない娘ばかりを甘やかし可愛がった。一方、娘を二人亡くした女は、妹の子ではなく姉の子ばかりに目をかけた。

 男子のいない其の家の跡を継ぐのは長女であったから、彼女は祖母に厳しく育てられた。

 幼い娘は、躾より実父からの愛を欲しがった。必然、妹を嫌いになるしかなかった。娘が祖母の愛に気付き、感謝するのは、祖母が亡くなった後のこと。

 嫡子として振る舞う娘に転機が訪れるのは、彼女が十三の時。父親の連れてきた後妻が、男児を産んだ。

 それまでは跡継ぎとして娘を扱ってきた者達は皆、一斉に長男に目を向けた。祖母を亡くした娘は、また独り。

 丸々と育った妹は円佳。見目麗しい跡継ぎは、輪太郎。一人咲く娘の名は、露草の色、花。


 輪太郎は頭の働く子だった。自分がより父親に気に入られるためにはどうすればいいのか、分かっていた。

 花にも、其れは分かっていた。だが、自分を捨てた父親に取り入る気も、自分から両親を奪った円佳にすり寄る気も、塵程無かった。

 死ぬ間際、祖母は譫言の様に繰り返した。

 ――可哀相な子。母親も父親も、奪われてしまって。

 姉の貰った婿に惚れた妹。節操の無い婿。他所に嫁いでも、義兄を忘れられない妹。障子の目あり、壁に耳あり。姉は、偶然見てしまった。

 祖母の最期の言葉。

 ――毒婦の子は毒婦。

 いくら長男に目を向けても、直系の血を継ぐ花を無視することは出来ず。どんなに長男の見目が良くても、より優秀な花を放ることなど出来ず。父親や後妻は、円佳と輪太郎のことしか目になかったが、使用人達は時折彼等から目を逸らした。今や直系の血を継ぐのは花だけ、そして何より家に全盛をもたらした女主人に瓜二つなのだから。

 円佳にとって花は目障りだった。仮令、両親が可愛がってくれようと、皆が自分を見ていなければならない。そのためには、自分も跡継ぎの立場に君臨すればいい。

 円は月を表し、同様に輪も月を表す。月は、独りではいられない星。月の名を持つ二人は、互いに魅かれあった。


 終に男は亡くなった。事故の類でもなく、流行病の類でもなく。あまりの節操の無さに祟られたのだ、家の惨状を知る者は誰もがそう口を揃えた。

 権利を振るうには輪太郎は若く、徒の小娘に過ぎない円佳では役に立たず、跡継ぎの母親でしかない女も然り。采配を振るうのは花しかいない。

 輪太郎には更に厳しい教育を。浪費の激しい後妻には質素な生活を。肥えただけの円佳には、何も与えない。

 働かざる者食うべからず。

 努々働かない円佳に、食事は出てこなかった。輪太郎や後妻がいくら反論しても、花は頑として聞き入れなかった。

 円佳に食事を与えようとしても花の目は鋭かった。母に似て、勘の良い娘だった。

 あんなに肥えていたのに、円佳はみるみる裡に痩せていった。皮膚の下を覆っていた脂肪は見る影もなく、骨と内臓に肌が張りついているだけの体になった。

 円佳を実の娘の様に可愛がっていた後妻や、初心を忘れ円佳に心酔していた輪太郎が、花に惨たらしいと訴えても、何処吹く風。鼻で笑い飛ばすだけだった。

 ――痩せたかったのでしょう、よかったじゃない。

 凍てつく冬空を思わせる眼は哂いもせず、血濡れた様に紅い唇は嗤っていた。


 花の優秀さも血統も、力には敵わない。

 輪太郎派を自称する者や、彼等の主人同様に円佳に心酔する者は、少なからずいた。其の中には、力に訴えようとする者も勿論いたのだ。

 花など、徒の娘にすぎないのだ。

 外出先で腹を殴られ、気が付いたら、其処は逃げ場のない鳥籠。花街に売られていた。

 源氏名は空蝉。



 うつせみ。



 華に埋もれた嫁ぎ先。

 腹に宿した子。

 赤く実った鬼灯。

 桜の根元には母子の屍体。

 崩れ落ちる娘。

 見得ない蝉。夏も来ない中から啼きだして。

 奇妙な男。

 月の晩に、蝉の抜け殻。

 入れ替わるかの如く死んだ姉と妹。

 華の無い庭。

 落ちた蝉達。

 離れに男と女。

 蜩が鳴き止む頃、庭は朱く染まった。

 咲かぬ桜を、埋める華。

 真っ赤な彼岸。



 一家心中を図ったのは、円佳だった。気が触れた彼女は、家に火を放った。

 一方の娘だけ助かるように尽力したのに、全て無駄だった。真綿に包み、花よ蝶よと育てた娘は死んでしまった。

 彼女は、煙の様に立ち消えた女は何をしたのだ。輪太郎の、円佳の姉は一体何を。

 ――お前だけは、助けてやろう。

 双子の姉を差し出すと、花はそう微笑んだ。鞠子と名付けられた娘を見て、うっそりと。

 ――姉はどちらなの。

 妹の抱える二人の女児を見て、花はそう訊ねた。

 円佳と輪太郎は気味悪がった。行方知らずの姉が、数年前と変わらぬ姿で、真夜中に、月の無い真夜中に訪ねてきたことを。


 真っ黒な髪と血を思わせる紅い唇は変わらず。暗闇に浮かび上がる青白き肌は、以前に増して白くなったような。

 だが、其の瞳は。星の光を映して輝く瞳の色は、およそ人の眼の色とは思えぬ瑠璃色だった。


 体は冷たい儘に、生の感覚を取り戻した。血の流れは止まり、肺は動き始めたのに、心臓は止まっていた。見える星空は美しいのに、彼女は死んでいた。

 目の覚める群青色したコルリの亡骸に口付けた。

 骸骨を思わせる白く骨張った手は、氷の様に冷たかった。其の掌の中で、小鳥は死んでいた。

 青貝で細工された漆塗りの奇妙な背負籠から、男は小鳥の亡骸を取り出した。

 ――生きたい。

 虚ろな瞳の儘、殆ど無意識に花は答えた。

 ――いきたいか。

 男は訊ねる。

 男の手が花の頬を撫でる。血の気の無い肌、凍った皮膚。それはどちらのものだろうか。

 風変りな男が、何処からともなく現れた。派手な着物、見掛けない背負籠。死人と似た肌の色。呪いの如く施された隈取。



 死、或いは心中。



 水揚げの相手は誰だっただろうか。籠の中から、色褪せた景色を眺めながら花は夢想に耽る。

 下品な極彩色の部屋。金箔がふんだんに用いられた壁には、揺らめく金魚が描かれる。天井は赤と黒の格子。畳の縁は、品の無い桃色。襖には、尖った原色で海の景色。皮肉だろうか。

 まともな女なら選ぶことのないだろう、真っ赤な着物。眩しい金糸の帯。結われた髪には、数多の飾りが刺さり、首が折れる程重い。

 此の籠は、内側から開けることはできない。悲嘆に暮れ、逃避を企てたところで、事態は好転しない。

 否。花にはもう死しかなかった。身請けされても、待遇は良くないだろう。鳥籠を出るには、死ぬしかないだろう。けれど、此の侭此処にいても心は儚く消える。

 手立てが無いことを即座に察してしまった花は、抵抗をしなかった。初めての客を相手に、心が凍りつくのを感じていた。

 春を売り初めてすぐ、花には常連がついた。水揚げの男とは別の男。見覚えのある顔だったから、外にいる間に見たのかもしれない。名前は何だったか。



晩鷹。



 汚い身形が、其の男の貧しさを示していた。それでも、男は花街に通うのを止められなかった。

 金さえ払えば、此処の女達は相手をしてくれる。醜かろうと、貧しかろうと、関係ない。儚い夢に過ぎないのに、幻は心を蝕むのを止めない。

 男は一人の女に入れ込むようになった。天道の下で見た、雪の様な彼女に似ている。凍てつく星の冷たさを纏った、淡青の似合う女。凛としているのに、色消しの真っ赤な着物が、彼女を堕落させている。

 少ない賃金から花街に通う金を捻出し、剰え身請けの金まで貯めようという。男はよりみすぼらしく、痩せていった。

 安い遊女なら、身請けできる金を工面できたのは数年後のことだった。

 しかし、男は噂を耳にする。

 ――近々、空蝉が身請けされるようだよ。


 花の実家は、裕福な家だったから、彼女の顔見知りも裕福な人間が多い。其の中には、花街に通う男もいた。

 或る晩、彼女を訪れたのは、花の見知った男だった。好い噂を聞かない裕福な家の、次男坊。

 男も花に気付き、卑しく嗤う。

 ――身請けしてやろうか。

 善意ではない。同情でもない。人を見下す無情な眼をした、此の女を、金をかけず組み敷いてやろうという魂胆。

 正妻になれるか、妾に身を落とすか。だが、花にはそんなことはどうでもよい。死ぬことなく、此の牢獄を出られるのだ。

 花は頷く。

 其れは新たな牢獄への鍵。



 人は死んだら星になるのだという。

 

 

 ――生きて結ばれることがないのなら、死んで共に星になろう。

 男は女に提案する。

 けれど、女は首を振らなかった。

 男は縋りつき、女に請うが、女は口を閉ざした侭だった。

 ――明晩、また来ます。

 男は呟いて、去っていった。

 其の眼は星の輝きなど、もう映していなかった。



 彼女の瞳に宿る、星になる。



 俗悪な、毒々しい座敷牢に、紅く血が染みわたる。

 更に濃く染まった赤い着物の女の隣には、心臓を短刀で貫いた、痩せた卑俗で汚い男。縹色の着物は、赤黒に染まっている。

 窓から強い風が吹き、行燈の灯を消した。月明かりの無い、暗い部屋。外の提燈と星光が、心細く部屋を照らす。



 可哀想に。



 異変に気付き、人々が部屋に駆けつけると、其処には男の死体しかなかった。

 身請け先の男が部屋に踏み入る。畳から、じわりと血が滲む。

 男の横に花の着ていた着物と、髪飾りが残されていた。奇妙にも丁寧に畳まれている。

 男は着物を持ち上げる。花のつけていた香と、露草の匂い。そして死の薫り。幾重にも重なり、血を吸ったとは思えない程着物は軽かった。

 何処に挟まっていたのか、杜若色の羽が、落ちた。

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