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天国の月  作者: 羊野棲家
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第9章 深まる秋、冬の訪れ

涼音は、不安な感覚で夢から覚めた。夢の内容は、よく覚えていない。覚えていないというよりは、覚えていたくないと頭が言っているようだった。こういうとき、涼音は、潔く忘れることにした。重大なことならば、あとで確実に思い出す。われながら便利な脳である。逃げているのかもしれないが、そうだとしても、自分は、きっと忘れたいのだ、と思うことにしていた。本能に従っていけないことがあるだろうか。


涼音は、そそくさと身支度をして大学へ向かう。講義やもろもろの雑務をこなさなければならない。幸いこの仕事はルーチン化されていないので刺激には不足しない。いろいろなトラブルが私を、悲しみの夢から救い出してくれるのだ。これで忙しくなく、誰にも文句を言われなかったら、私は、ひたすら自問自答して、悲しさのあまり自殺志願者となってしまうかもしれない。

そんなことはありえない、と涼音は頭を小さく振った。なぜ否定的な考えをしているのだろう。きっと、ここのところ不思議な夢を何度も見ているからだろうか。

涼音は、そうして何とか気持ちを切り替えると、身支度をして大学に向かうことにした。若いころに比べれば、この切り替えに時間がかかるようになったな・・・、と思った。どうも人よりふけているような気がするのであった・・・。

しかし、寮から外に出ると、秋の朝のさわやかな風が気持ちよい。日陰では寒いくらいである。この清潔な冷たさは。、私をリセットしてくれる、と涼音は思う。もしこのリセットされるような感覚が得られないくらいになったら、私はかなりまずいのではないかとも思う。それは近い将来であるよな遠い将来であるような。しかし必ずいつかやってくるような気がして、涼音は思わず身震いした。


大学へ行くと不安感を見事に忘れさせてくれる出来事が待っていた。涼音と同じ准教授で仲の良い西山田先生が、講義中の学生の態度に腹を立て、携帯端末をへし折るという荒業をやってのけたのだった。西山田先生は、最近特に、学生の態度の悪さに腹を立てていてもう数年が経ったいる。もとよりK大学の出身ではなく、各地の地方大学や研究所、民間会社などを渡り歩いている異色なタイプだけに、いわゆる神谷教授のような温厚さではなく、常に手厳しいが情も深いタイプの人間だった。

涼音の聞いた話では、携帯をへし折った件について、懲罰委員会にかけられることになっており、最悪であれば解雇ということもあるだろう。涼音も同じ学部の教諭として事情聴取されることになっていた。

涼音はとりあえず、西山田の研究室へ向かうことにした。


「ねえ、ちょっといいかな」

ああ。湯方さんか、と西山田は振り向かずに言った。何か必死に書いている。

「またやったんだって、そろそろやめておかないと、本当に首になるよ。」

「ああ。今度はまずいかもしれないな。」

ここで西山田は振り向いた。少々元気がない顔に見えた。

「携帯へし折ったんですって、そこまでしなくても良いでしょう。」

「なんども注意したからな。でも安そうな端末だった。それを見る余裕はあった。また学生のおふくろさんに訴えられるなあ。まあいいや。」

「私もかばってあげたいけど・・・」

「いや、いいんだ。でも今度は、宿敵のアノ先生が委員長をやるらしいんだ。」

それはまずいな・・・と涼音は思った。あの先生というのは、権威主義的な先生で、生徒に対しては日和見主義で、講義なんてものは、聞きたいものが聞けばいい、という方針である。西山田先生とは対照的で、学生にも人気はない。しかし、大物なので、たちが悪い。当然天才肌と思われている涼音もAからは好かれていなかった。

「それは、まずいね・・・。神谷さんなら良かったのに」

「まあ、前回は神谷さんに救ってもらったからな。減給1ヶ月ですんだんだよな。今回は厳しいぞ。ただAさんも委員を全部反対派で固めてるわけにもいかないようで、まあいきなりクビは無いのではないかな。」

「そんなので、大丈夫?」

「大丈夫じゃないが、どうしようもないよ。ウチの大西教授には1年減給で受け入れます、といってある。どちらにしてもどこかで潮時ってのもある。クビならクビで何とかするよ。独身だしね・・・。しかし、こうやって話していると、湯方さんは、僕と歳が倍も違うと思えないな。年齢詐称しているんじゃないの?20代には見えんな。今度、お見合いしようよ。お見合い。」

「ふう。カラ元気じゃなきゃいいけど。今度の懲罰委員会を免れて、ちゃんと銀座や祇園の女の子たちと縁を切ったら考えても良いですよ。まあ、しばらくおとなしくしてください。」

「そうだなあ。あの大先生、噛み付いてくるだろうなあ」

「私が、直接会って話してみようか。」

実は涼音は、その気は無かった。そもそも例の大先生とは、まともな会話になったためしがない。むこうでも扱いを困っているらしいのがありありわかるのだ。普段は品のいい先生だけに本音がよく解らない。この点ではT大の神成先生のほうが真っ向勝負でケンカが出来る。

西山田は大きく手を振っていった。

「いやいや、やめて。なんの意味もないから・・・。それに僕と大先生の問題だからね。ちょっと僕も考えてみるよ。ありがとさん」

「わかった。何かあれば応援するから」

そういって私は研究室を去った。


涼音は釈然としなかった。これは西山田先生と権威主義の大先生の問題というよりは、むしろ今の学生の質と姿勢の問題なのだ。学生の風紀の乱れは著しい。もちろんそれは何時も時代の流れの中でいつも言われてきたのであるが、特に最近はひどい。昔のようにパソコンや携帯電話が大きいものであれば、遠慮のしようもあったのだが、現在のように小型化し、メガネにテレビが映るようになったり、シ―ト状の携帯端末では、もはや隠すことは容易である。机の上に巻物を広げた電子漫画があっても、教壇の上からでは、分からないのだ。涼音はもともと先生になりたくて大学に来たわけではなく、講義やゼミなど学生指導は苦手だった。そんな中で熱意を持って指導している西山田などには敬意を感じていた。時代の流れというものは確かにある。それに逆らうべきか、逆らわないでおくかは、いろいろ考え方があるだろう。しかしながら、見ぬ振りをすることは最も悪いことではないかと思えた。どんなに風が強くても、向かって歩いてみないことには、どこまでの風に耐えられるか分からない。そしてどんなに風の強い地域でも花が咲いていたり、ハイマツが生えていたりする。どんな状況でも妥協する方法はきっとあるのだ。涼音も今はもう一度風に向かいたいと思った。


涼音が西山田と話をしているころ、大学の広い敷地の中を大村は考え事をしながらふらふら歩いていた。ちょうど学生食堂から研究棟へ向かう途中であった。北陸国立大学は郊外の丘の上にあるが、これは学生が学業に集中できるようにという、ありがたいお題目の元に候補地として挙げられたのである。しかしながら実情はスーパーもコンビニもなく、生活に不便な町が出来上がっていた。

大村にとっては、この大学は大学院から入ったのだが、居心地が良かった。金沢市という町は大学生に寛大で理解があったし、俗に言えばモテた。大学院へ来た当時は、北陸国立大も通過点であると思っていたし、博士号取得後は別な大学へ進み、様々な土地を見てやろうと思っていた。旅は好きだったし、どの土地でもそれなりにうまくやれる自信があった。


ふとそのころのことを思い出す。神谷教授に呼ばれて研究室へ行った時だ。

「君の人柄を見込んでお願いがあるんだ。院の面接のとき、どこの土地でも誰とでも、仲良くできる自信があります、私は現場向きな人間であるのが云々、と言ってたよな」

大村は苦笑した。

「はあ。どこでもだれとでも、と言った記憶はありませんでが。まあ似たようなことは、言ったと思います」

「ちょっとお願いがあるんだ。君にとっても悪くないと思う。ことしから新任の准教授が来るんだが、彼女と一緒にじっくりやって欲しいんだよ。」

大村は驚くとともに、じっくりという言葉に引っ掛かりを感じた。

「え!先生のご指導ではないのですか。」

それもちょっと困った。そもそもこの大学のドクターコースは神谷教授で持っているようなものだったからだ。それが付けないとなると、無理してがんばった意味が無くなるかもしれない。

「いや、ちゃんと主査、副査は面倒見るけど、実質的な話さ。まあ、ちょっと聞いてくれよ。准教授だが24歳だ。切れ者だよ」

「24歳!?、飛び級したんですかね。若いなあ!?」。

「そう。ダドリー先生の愛弟子でね。先生がなくなられた後、うちで引き取ろうと思っているんだ。ただ、若いのでちょっと学生指導なんか慣れていないのと、ちょっとかたくななところがあってね。」

「ちょっと待ってください。先生のお手伝いならともかく、世間知らずっぽい新任准教授のお守りをやれというんですか。しかしダドリー先生の愛弟子かあ。めんどくさそうですね。」

「ま、そういうことだね。そういうの、得意でしょ?どこでも誰とでも」

「日本の大学は初めてなんですね?それなら助教からやってもらいましょうよ」

「ダドリー先生の愛弟子だぞ。そうはいかないよ。それに、研究の実績も十分にある。スカンジナヴィア廃棄物研で准教授だったんだぞ。ここで落とせるわけないよ」

「困りましたね」

「頼むよ。そうだな、多少無理もあるから、まず1年だけやってみてくれ。君と合わなければ、また考えるから」

「しょうがないですね。じゃあ1年ですよ」

「よし、じゃあお祝いに飲ませてやるから、今日は僕のうちに来なさい」

「は?」

お祝い??

神谷先生は恐妻家で、誰か連れてこないと存分に飲めないことは、後で知った。


翌日からしばらくは元の大学で準備や引き継ぎをして、一週間ほどで大学に行くと、新任准教授が来ているというので、その生意気な24歳を見てやろうと思い、その研究室に行くと、行く前にきれいに掃除しておいた研究室が悲惨なことになっていた。図面と書類がテ―ブルの上に山積になっており、その周りには、いかにも中途半端にあけたダンボールがそのままになっていた。

「なんだこりゃあ、ひでえ、ひどすぎる。」


大村は、さすがに頭にきて神谷教授を訪ねた。研究室は来客中らしかった。いたのは40歳くらいの品の良い髪の長い小柄なお姉さんで、他の先生らしくごく自然な感じで神谷教授と話しをしていた。神谷教授は、大村を見かけるとすぐ声をかけてきた。

「よお、大村君良く来たね。覚悟してきたかい?」

そうすると話をしていた、その女性もこっちを向いて会釈してくれた。正体のよくわからない人であるが、どうも妙に気になる人だ、という印象を受けた。

遠慮しなくてよさそうな雰囲気だったので。大村は少し調子に乗って、誇張することにした。

「神谷先生、その学生指導もできない生意気な24歳准教授ってのは、どこにいるんです。僕が一日かけて掃除した部屋が、一週間で、ぐちゃぐちゃですよ。」

一瞬の間の後、神谷は、くっくっと笑いをこらえていた。

大村は、まさかと思ったが、それでも、この落ち着いた女性がその准教授とは思わず、後ろを見回した。もうそこに居ると思ったのだ。しばらく妙な間の後、神谷が言った。

「うん。良くそこまで言い切った。何事も本音で語るのはいいことだよ。どうやって片付けるかは、二人でよく相談するんだ。学生を使ってもいい。」

「どうもはじめまして。こう見えても生意気な24歳です。学生指導と片付けは苦手なので、その辺は全部お願いしていいかな。大村君。」

大村は、そのとき初めて涼音とむきあった。かんかんにおこっているかと思ったが、そうではなく、こちらを見ていった。

「は。喜んでやらせていただきます・・・。」

それが大村と涼音の出会いであった。大村はまず関係修復というマイナスからのスタ―トとなった。


それから大村が博士号を採るまで2年。その後、神谷講座の助教として2年をすごした。

大村は、涼音を見ていると本当に片付けられない人の典型であることに気が付いた。なるほど天才肌ではあり、何か思いつくと自動筆記やメモを取り始めるのだが、それがどこへおいたか大抵忘れるため度々、講座の関係者で大掃除をしなければならなかった。大村はあるとき、この大掃除を無くそうと、大村は特注の2mある透過型電子メモボード(大)を購入した。しかし今度は、涼音の作ったメモファイルがたくさんありすぎて整理できず、また大村や院生が整理することになり、不評に終った。ところで、この透過型メモボード(大)は、ゼミ室でホワイトボ―ド代わりに使われている。結局、大きなコルクボ―ドを買ってきて付箋紙を張らせると、これは涼音の評判も良かった。そのほか、委員会などで受領した資料がまとめられないことも多く、これも極力大村や学生が手伝わなければならなかった。

一体この人は、この整理整頓の苦手さで、どうやって海外で博士号を取ったのか、不思議でならなかった。頭の良さは、話していてわかった。それに、とにかく何かを平面なり、立体なりでイメージするセンスは、舌を巻くほどであった。地形をやるより、建築をやったほうがいいのではないか、と思えるほどだった。それに反して、整理整頓や、何かを定期的にやることは苦手で、よく定例会議もすっぽかして、大村が目玉を食らうことも何度かあった。しかしそれも数年で慣れてくると、涼音の整理整頓や仕事の手伝いに妙に快さを感じていた。大村は、自分をあまり物事に執着しない、風来坊で、ナガシのような人間だと思っていたが、ここは居心地がよかった。そんな自分を見つけて、驚いたりもした。しかしそんな自分を受け入れることも、他人を受け入れることのように、得意分野であった。

いつしか大村は、涼音への普通でない想いを自覚していた。それは、初めて会ったときの、年上の人としか見えないあの姿がスタートだと思った。あの時、大村が散らかった部屋でイメージした生意気な24歳と、実際の涼音の姿は、どうしても一致しなかったのだ。

しかしおぼろげながら意識してみても、大村はどうしても、涼音の心に踏み込めない、何かを感じていた。涼音の顔には、何か抱えているような気配があった。それはそう見えるだけなのか、実際に何か悲しいのかが分からない。普段の大村のやり方であれば、何度か話をしているうちにそれは、何かしら読みとることが出来るのであるが、涼音は心のガ―ドが固いのか、探ることはできないのだ。当初は、それが新鮮で、余計に気になってしまった。大村には、それは自身踏み込む勇気がないだけなのかもしれない、と思ったりもした。

大村にすれば、今まで人との付き合いは簡単ではないものの、嫌と思ったことは無い。しかし、ここまで踏み込めない人との接触は経験が無かった。あるいは涼音の心が閉じているためで、自分のせいではないかもしれない、と思ったりもしたのだが、普段の涼音を見ている限りそういったことはなさそうであり、いっそう悩ましかった。

大村は、この結論として自分の修行が足らないことが理由であると考えることにした。ここ何年か同じ場所にとどまっている。可能な限り、色々なものを見ようと考えていたのに、自分らしくもなく一箇所にとどまっている。すっかりなじんでしまったのだろうか?方針変換してしまったのだろうか?いや違うだろう。自分をだます、ことはなかなか難しい。

ここにとどまっている理由は、涼音が好きなのであり、涼音の世話を焼いていたいのだ。そのせいで、ここから離れられないのだ。それならば、自分の甘えを排除して厳しい場所で自分の心を見つめなおしたい。より厳しい道の中へ自分を置いてみよう。そしたら、何か得られるのかもしれない。涼音に何でも話してもらえるような、頼りにしてもらえるような人間になる必要がある。大村は、過去、忘れてしまいたいことがあり、人とのふれあいが怖いと思っていた。そのふれあいが人を傷つけてしまうのでは、と不安な時期があった。それから何年も考えるうちには、そのふれあいが怖いのは、人を傷つけるからではなく、自分が傷つくのが怖いのであったのだ、という考えに達した。

今度こそは、一人の人間として、涼音の寂しさをわかって上げられるような人間に成長したいのだ。自分は、自分なりに、もっと成長しなければならない。甘えている自分を鍛えなおしたい。そう思い、大村は大学を去ることを決意した。


すっかり寒くなった冬のある日。卒論修論の報告会も終了し、一息つく時期、大村は涼音の研究室を訪れた。

「最近大学にあまり来なかったわね。全然片付いてないんだけど。院生君で南方君ではだめだよ」

やっぱり、机は片付いていなかった。どうも甘えているのは自分だけではないようだ。このまま普通に涼音の手伝いをしていたい気持ちになった。そうすればしばらく一緒にいられるではないか。そんな甘い考えが頭をよぎる。このままでも不満ではないのだ。

「そんなの知りませんよ。自分の分は片付けてくださいよ。それより、話があるんです。」

「何?学生の研究をもっと見ろ、という話は勘弁してよね」

「違いますよ。大学、辞めようと思いまして」

「え!?」

これはさすがの涼音も声を上げた。

「深海研究開発機構で、海洋深海探査船に乗れる技術者を探していましてね。応募したらOKだということでした。機械関係は素人なので、相当大変だと言われているのですが、まあやってみます。」

涼音はしばらく黙っていた。大村はその沈黙は、きっと少しだけでも動揺を与えられたのじゃないかと思って、少しうれしかった。

「そう。よかったじゃない。でも早く話して欲しかったな。」

涼音に言えなかったのは、気持ちがぐらついていたからだ・・・。とは、言えるわけなかった。大村は内心喜びながら謝った。

「すみません」

「深海研かあ。そういえば、新しい深海探査船が完成間近だって、ニュースになってたね。」

「それです。最新のセンサーを千島の海溝、トラフの上面に打ち込むんですよ。センサーは海洋用の超低周波GPSに対応していて堆積物でも発信できますし、圧力計やジャイロ、加速度計もついてます。原子力電池が500年は持ちますから、堆積物の沈降過程とかいろいろなことが分かりますよ。そしてそのセンサーは順番に海底に引きずり込まれる。もちろん完全に引き込まれるのは何万年後でしょうけど、そうでなくても海底の環境もわかるし、トラフと海溝のなぞも解明できるかもしれません。」

「そう」

涼音には、大村が無邪気に語っているように見えた。急にどこかへ行くなんて、おかしいと思ったし、今までいろいろ手伝ってもらい、不満はないと思っていた。大村が去るとは、全く考えていなかった。なぜ、そんな事を急に言い出すのか、全くわからず、心は動揺した。なんて、言えばいいのだろう・・・。それには、気づかないように、大村は話を続けていた。

「多分近くまでは船で行くので、千島列島のあまり知られていない島も見ることができると思うんです。うらやましいでしょう。先生、北方の地形好きでしたよね。よく雨竜川とか、野付半島とか、千島列島の衛星写真とか、見ていましたよね」

 涼音は、大村は自分が動揺しているのを解いてくれようとして、そんな話をしてくれているのかと思ってしまう。彼はよく気を使ってくれる。涼音は、大村が自分の不安のかなりの部分を見抜いているのではないかと、いつも思えてしまう。そんな彼が突然やめるとは、動揺しないわけがない。そんな事は、わかっていそうなのに、何故そんなことを言うのか。わからない。そして、その上で彼は話を続けようとしている。涼音は動揺を隠すように、話を繋ぐ。

「なんで、そんなことを知ってるのかな。さてはストーカーしてたね?」

こんなの場当たりの発言だ。そんなこと、わかるでしょ、大村君。

「古いな。まあ同じ講座ですからね。パソコンとか資料見っぱなしでよく開いてたでしょう。あれだけ、大公開してあれば、みんな見ますって。そう、先生のことは、先生より、詳しいかもしれません。」

「むむ、あれは後でまた見ようとおいておいたのよ」

 そうか、私の事を知らんぷりするんだね。わかってるはずなのに。

「片付かない人はみんな、そう言うのですよ。途中で面白い地形の写真が取れたら、レーザー点群と写真を送りますよ。昨日、超小型のUAVを買ったんです」

「そうね。いままで面倒見てあげたんだから、それくらいはしてもらってもいいかな。千島列島は領土返還されてからもまだまだ情報が少ないからね。それにしても地殻深部は100年前の調査からあまり進歩がないから、実際に海溝やトラフの引き込まれるところが調査できるなんて夢のある仕事だね。もともとその仕事がしたかったのでしょ。よかったじゃない。私も肩の荷が下りるわ」

「肩の荷ですか!?」

さすがに大村は驚いた。肩の荷か、そうかもしれない、いろいろ気を使って、良かれと思ったこともおせっかいだったのだろうか。自己満足だったのかもしれない、と大村は思った。そんなものか。

「本当に、そう思ってます?」

大村君が悪いんだよ。私が困るのはわかってるくせに。間があった。

「もちろんよ。私も、構造研をやめて月の研究に専念しようかな。」

「それでは、僕が先生の重荷だったということか、ちょっと心外ですね」

大村は、少し頭がぼうっとしてきた。血が上るとはこう言う事なのか。我慢できそうもなかった。声が上ずるのが自分でもわかる。

「先生にとって、僕は何でしたか?共同研究者?後輩?お手伝いさんですか?」

そのらしくない声と質問内容に涼音はびっくりした。目をつむりたかったが、もちろん顔に出さない。

「何?どうしたの。」

「いえ、どうもしませんよ」

「どうして、そんなことを聞くの」

「まあ、確かに、おかしかったか」

そういわれると、大村も困った。そうだ。それ以上聞いてどうするのだ、と大村は思った。怒ってもしょうがない。こういう人だった。彼女の扉は開けられないんだ。今の僕では。大村は自分で言い出したことではあるが、軌道を元に戻しておこうと思った。降参だ。

「わかっています。先生にとっての私のもっとも使えるところは“お手伝いさん”でしょ。随分先生の身代わりを勤めたのに、それはないなあ、と思ったんですよ」

「そう、そうね。ごめん」

涼音はもう取り返しは付かないと思った。しかたなく相槌を打った。すごく感じが悪く思われただろうな。

「じゃあ、これでしばらくさよならです。残される学生たちが気の毒でしょうがないです」

「うん。あっちでも頑張りなさい」

涼音は、ヘンな言い方だ、と思った。全く、どうかしている。

「それだけですか?何か、こう、手向けの言葉はないんですかね・・・。もう二度と会えないかもしれません。」

「オーバーね。そんなこと言わないわよ。たまにそういう思いつめたこと言うのだから。大体、まだ仕上げてない論文があるでしょう。ドクターを取ったといっても、まだペーペーなんですからね」

「厳しいな。年はそんなに変わらないんだけどな。相当年上にしか見えないのだよな」

「何を言ってるの?まだ生意気だと思ってるわけ!ふけて見えて悪かったわね」

「あちゃ、覚えていましたか」

「覚えてるよ。私の目の前で言ったんだから。片付かなくてかわいくない生意気な24歳はどこだって。よっぽどふけて見えるんだな、ってショックだったな」

「それ、間違ってますよ。山のときもそうですけど、結構間違えて人の発言を聞いていますよね。確か僕は学生指導も出来ない生意気な24歳、って言ったんじゃなかったかな。それに、かわいくないなんていってないでしょう。先生は美人ですよ。まさかあの神谷さんの前に立ってた人が、片付かない24歳だとはなぁ」

「な、なに言ってるのよ。同じようなものでしょう。あんなこと人前で言っておいて、謝りもせず、今度は他の研究へ逃走するとは、全く!」

「しかし、相当先生の手伝いはしましたよ。そうじとか、片付けとか。学会では敵前逃走劇も有りましたよね。それに寮のそうじを僕にさせようか、ってブツブツ言ってるのを何人かが証言してました。ま、いつでも掃除に行ってあげてもいいです」


会話が途切れた。研究の話でなく、教室の話でなく、そんな話をすることはあまりなかった。狭い部屋がさらに、息苦しく感じる


「あの、お願いがあるんですけど。」

「何よ。お金ならないわよ。聞くだけならいいけど」

「いや、いいませんよ。言ったら聞いてくれませんから。勝手にします。見逃してください」

大村がすっと涼音のそばに近寄った。涼音はその動きが何を示すのか全くわからなかった。

「え、ちょっと!」

そして、ふたりの影がひとつになった。ただそれだけのことが、したかっただけ。大村は、ぬくもりを感じながら、ささやくように話した。

「ずっと、好きでした。一目ぼれでしたから」

「な、なにを言って」

大村は、涼音の声が震えて聞こえた。それだけでも嬉しかった。よかった。これなら、自分を高めて、帰ってくる価値がある。

「でも先生の悲しい顔がずっと気になってました。僕にはどうしようもなかったですけど。」

「…」

ごめん、私は、涼音は何か声に出そうと思ったが、出来なかった。


「すみません」

そういって影は二つに分かれた。

「あの、ごめん、私」

「いえ、何も言わなくてもわかってます。ずっと気になってただけで、これを恋って言うのかどうか。まあ恋には違いないんですけど。えっと、ありがとうございます。でも、あなたがいたから、僕もここまでやってこれました。ありがとうございます。いつか、もっと成長したらまた、会ってください。じゃあ、講座の名誉にかけて、がんばってきます。」


大村は、静かに背をむけて、研究室から去った。涼音は、どうすれば良いかよくわからない。立ちすくむしかない。追う勇気はないし、これをまともに受け入れる精神の強さを持っていない。人からクールだと言われようと、才女だと言われようと、私は、ただの心の不安定な女なのだ。しかし私はそれをひた隠すことができただけのことなのだ。

人は、第一印象にその人と直接話して得られた情報を混ぜこねて、その人の物像を作り上げる。それがたいてい十数%くらいで当たっていれば、見た方も見られる方も、影響は特にない。

しかし、私の場合は大きく異なる。皆私を間違った目で見ている。それに私はそろそろ耐えられないと思うようになってきた。年齢を重ねたからなのか?若いころは、それでも振り切って、皆のイメージの方向通りの人物を演じることもできた。しかし、度重なる夢は私の心に重くのしかかる。特に夢の内容は、日々重くなっている。それに私自身も疲労が蓄積しているようだ。

私は確かに人と馴れ合うのは避けようとしている。ただ、拒絶しているわけではない。しかしそのようなスタイルを人に見せることに慣れてしまった。でも、そろそろそれも潮時のように思える。少しだけ休みたいと思うことがある。ごくまれに、ある。

そんな時、私は空を見上げる。私は美しい夜空、昼の空、星星、月、どれだけ空に慰めてきただろう。母なる海、という言葉があるが、私の母は、空にあるようだ。

ふと、中学生のときに背負ってくれた人を思い出した。大村も少しだけ、その人と同じような気配を持っているようだった。彼らは優しい。私だけになのか、、皆にそもそうなのか、私には分からない。でも少なくとも、私には優しかった。

背負ってくれた人のときは、その人を探したが、大村はまだそこにいる。でも私は追いかけない。どうして。でも私は、これ以上何も考えないようにしようと眼をつぶった。


たまに、人生には落とし穴がある。いい落とし穴も、悪い落とし穴もある。誰が仕組んだのか、突然やってきて私を迷わせるのだ。私は夢で見たように、きっと呪われてこの世から虐げられるべき人間なのだ。私は許されるまでこの世をさまよわなければならない。でもその時期がいつやってくるのか、わからない。

夢は訴えている。私に贖罪せよと。私には、きっと普通に幸せを得てはならず、しなければいけないことがあるのだ。だから、ゴメン。

さあ、私は心を閉じる。固い貝殻のように。不思議な二枚貝、シカマイアに私はあこがれる。シカマイアはたくさん化石として発見されているが。すべて同じ見栄えの化石しかないのだ。どの断面で切っても同じ形なのだ。そんな摩訶不思議な二枚貝。私も、どこから切っても、いつの時点でも同じ顔が見せられないといけないのだ。いつもの私として本当の心はうまく隠す。

感情を奮い起こされてはいけないのだと私は思う。悟られてはいけないのだ。ただ、ただ心を閉じて、いつもの冷静な私に戻りなさい。

そうすれば、悲しくても明日が迎え入れられる。

ただし、明日が来るかどうかは、わからない。

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