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天国の月  作者: 羊野棲家
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第8章 琥珀色の月

赤、黄、濃い茶、渋みのある茶

様々な色彩の乱れ舞うさま

木々は競って化粧を施し、冬の準備を行う

冬の入り口、秋の終わり


もうすぐ冬がやってくる前に木々は、たくさんの色彩を背負う。連なる色彩の饗宴は、今年こそ最後の冬で二度と春は来ないのではないかと思っているようだ。いつ冬がやってくるか分からない、木々は焦って色彩を背負う。水分が、大気が、いてつく前に、木々は精一杯の化粧をする。

私はそんな色彩豊かな秋の木々が大好きだ。美しい青空に映えてきらめく暖かい色たち。夏の間はあんなに生命力にあふれた緑は秋を迎えて気温が下がるのを予感したように、自らを変容させるのだ。木々は冬の予感に備えて、葉に水分の供給を絶つ。

私はそんな秋に囲まれている。私も木の葉の衣装をまとう。そして木々のなかで小動物のように、たたずむ。大気は寒いけれど、木の葉に囲まれて暖かい。冷たくて水分を含んだ大気をいっぱい吸い込んで少しだけ幸せを感じる。

色づいた木々の下に二人の男女がやってきたことに私は気づかなかった。二人がベンチに腰を下ろしたころ私はふとその二人の存在を感じた。二人は小さな声で話していた。声が小さいのではなく、静かに、慰めあうような、悲しい声だった。


「僕は君と一緒になりたかった。何を上手いことを、と言うかもしれないけど。きっと人生には真の友達ってのが滅多に現れないように、心から愛する人もそうないないと思う。」

「そうでしょうか」

「うん。そういう点で、僕は君と一緒になることこそ、本当に一番幸せだったのだろう。ただ、運命のいたずらはそうさせてくれなかった。」

「そんなこと言われても、困ります」

「分かってる。それでも僕は君と一緒になれないだろうか。今の全てを捨てて。君はそうやって理性的だけど、僕はそろそろ限界だ。」

「だめです。今こうしているだけでも、良くないと思います。私だって…、理性的なわけじゃないです。」

「僕は、そうだな、どうして君が好きになってしまったのだろう。君と学校で出会ったときには声も掛けられなかった。君は男の人に話し掛けられたくないオーラを出していたし。そのころは運悪く僕もいまの奥さんと付き合ってたから」

「先生、上手いですね。それはウソです。私のことは全然気にしていなかった。知っているんですよ」

彼女は僕のことを先生と呼ぶ。そうやって呼ばれるのがすごく好きだった。「せんせい」ではなく、「せんせ」と聞こえるその呼ばれ方に僕はしびれる。気品があり、優しい声だ。僕はその言葉を堪能し、しばらく口を開けなかった。

「先生、どうしたのですか?」

「いや、なんでもない。本当に前から気になっていたよ。」


やすらかな子守唄のような風がそよいでいる。枝はほとんど揺れないで、鮮やかな色に染まった葉だけが揺らいでいる。二人のためには少しだけ雨を降らせてあげたほうがいいだろうか。それともこの時期の割にはぐっと冷え込ませてあげて、二人の距離を縮めてあげさせたほうがいいのだろうか。私は悩むが実のところ何もできないのだ。二人の声が聞こえてくる。

「僕は、覚悟を決めたよ。どんな泥沼が待っていてもいい。妻は捨ててもいいと決めた」

「だめ、絶対だめです。そんなこと、言わないで」

彼女は即答した。彼女は、それはだめだと最初から考えていたようだ。彼女は、一緒にいる男の妻とも知り合いなのだろうか、その人が不幸になるのを考えて、その現実を思うとぞっとしたようだ、その心が私を締め付ける。

彼女は、その現実を今初めて、考えたようだった。きっと分かっていたのだが、考えないようにしてきたのだろう。彼女は、今その現実を見つめている。それはあまりにつらい、心の色だった。

「いや本当だよ。もう、僕は決心しているんだ」

「良くないです。そんなの、ひどいです。奥さん、泣きますよ」

彼は、そういわれて、これも初めて、その姿を想像してみたようだった。確かにこれでは、ひどい夫だ。それに本当に自分は、それを成し遂げられるのだろうか。もちろん自信があるわけではないし、そんな姿が理想だと思っているわけではない。しかし、今は、これからはそうしたい、と思っている。私には、彼のその考えが偽りではないことは分かる。

「うちの妻は僕が夫だったことを恨むだろう。でも、仕方ないと思う」

「仕方ないですって、ひどいな。本当にそんなことを考えているとは思えません」

「本当だよ。でも、君だって今、幸せと言えるのか。君は、僕の妻のことよりも、自分を大事にしてもいいだろう、君が僕を嫌だというなら諦めるが、うちの妻のために一緒にならないというのなら、納得できないな」

男は、破たんした理屈をこねた。


空には分厚い雲が出てきた。静かな夜がやってくる。この二人にはどういう夜になるのだろう。木々や、その一部である私は、その前も先も物語を知らない。葉っぱたちも知らない。ただ、大地の水を吸って大気に酸素を放出し、高みから、場合によっては低い位置から人々を見守るのだ。それだけ。


「そんなに言われるのなら。先生、どうして、奥さんと結婚されたのですか」

しばらくの沈黙があった。二人の間はとても近いが、心はすれ違うようにそこらを彷徨っているのが、私には分かる。彼の心は動揺しているようだった。そう、それに答える明快な回答がないからなのだろう。彼が聞かれたくない質問のひとつのようだ。そして、彼が人間的に苦悩しなければならない問題と考えているようだった。その苦悩の中から、かろうじて頭を救い上げるように、彼が重い口を開く。

「後悔している。そのときは今僕が陥っている袋小路は、そのときの最重要な、僕の問題で、解決しなければいけなかったのだ。今の妻に不満があるのは、僕の過ちで、妻や君には全然責任がないんだ。」

男は、そう話しながらも自分自身何が言いたいのか良く分からないようだった。ただ、その場の雰囲気に流されているのだろうか。誰でもよかったのかもしれない。しかし、今は、その行動と違うと言えるのか、今の妻と彼女との違いはあるのか? でも僕はその答えから逃げる。後ろには道がないんだ。前をむくんだ。忘れてしまえ!昔のことなんて。

「でも、僕は、君を愛していんだ」

「やめましょう。先生、一時的な感情で…、そういうことを言うのはやめてください。」

「それは違う。僕は、一時的な感情で話しているのではない。」

「うそをつかないで。私だって、言いたいけど、いえないことがありますから」

「本当だ、妻は一人でもしっかり生きて行けるよ。お金だって払うし。まあ子供がいないのが幸いだ。よくある話じゃないか」

男は、自分で話していて胸糞が悪くなった。なんてひどい人間だ、いつも偉そうに教師気取りがこの発言だ。この会話を続けることに意味があるだろうか。説得力のある話だろうか、と自問自答している彼の心が明らかだ。それは焦りであり、悲しみであった。しかし、このままでは彼女を幸せにできない。今惜しいのはここにいる彼女なのだ。無くして惜しいものを手元に引き寄せるだけだ、それは正当だし、人間としておかしいだろうか。

「そんな、一気に全てを燃やしてしまうようなことを言わないでください。そういうのを一時の情熱というのですよ、きっと。そんな人なら、私を得た後も…、や、こんなことを言うのはは恥ずかしいですけど。他の人に燃え上がってしまいます。そんなことで説得しようと言うなら、私は先生に幻滅します」


暮れる空には、まだわずかに光が残っていた。しかしその光ももう消えていくだろう。街灯には母なる太陽の光に全く及ばないが、小さなあかりがともった。二人の悲しみは言葉にするのには難しい。同じ情熱と悲しみを抱いているが共有することは出来ない。それぞれの情熱を持てあまし、悲しみの大きさにお互いが涙する。私は、ただそれを見守る。

女性は、無言になった。男は一生懸命語ったが、女性は答えなかった。それは言葉で答えないだけでなく、心はすでに意を決していることが、私には感じ取れた。しかしながら・・・、私は木の葉の中で彼女の揺れ動く複雑なせつない想いをも、感じていた。愛しされてうれしい気持ちと、どうにも解決できない気持ち。しかしその答えは明確であるのだ、あとは、いずれ別れの時を迎える結末しかないのだろうか。


「私は、あなたの奥さんがここまで築きあげたものを、踏みにじることなんて、絶対出来ないです。もし、そうしたら、私はしばらく幸福を実感できたとしても、やがて一生罪の意識にさいなまれます。私はそんなの嫌です」

「僕が一緒ならいいじゃないか」

「だめだと、思います」

「でも!二人一緒なら、僕と一緒に背負ってくれ」

「カッコイイ言葉ですね、でも先生は、もう、わかっているでしょう」

 彼女が男を見つめる。

「くそっ、なんでだ」

彼女は微笑んだ。


二人の寂しい心は、痛々しく結論へ向けて走りはじめた。二人には救いはない。彼の言う事は本音のようだ。私には良く分からないが、人生において、本当の親友に会えるかとか、真に愛する人に合えるかとか、生きている本人には解らない。この人が言うように、もうすっかり諦めて、結婚という契りを得た後、その直後に、真に愛する人に巡り会えたときは、どうするのがいいのだろうか。あるいは、真に愛する人が隣人だと気付いたときは?私には、その答えは分からない。彼は混乱している、後悔もしているだろう。過ちを正すこともできるかもしれない。何事もやり直しは効くという説も正しいと思える。しかし自分のためならば、彼は今周りに存在するものを捨てられるのだろうか。

私は暖かい木の葉の中で眠りについている。私の横に、小鳥がやってきた。先ほどまで向こうの木にいた鳥だ。もう日が暮れたと言うのに帰る場所がわからなくなってしまったのだろうか。かわいそうな一人ぼっちの小鳥、こちらにおいで、もう水分が無くなっいる葉だけど私が抱きしめてあげよう。明日になれば元気に仲間を探すことが出来る。あなたに完全な希望を与えることは出来ないけど、今ひと時だけは安心するといい。


私が小鳥に意識を集中しているとき、彼が声を発した、泣いているの?、と。

私は、彼女が泣いている推測を行った。そう、木は敏感なのだ、彼にはわからないだろう。何故なら、そうおそらく彼女の中には、新しい生命が宿っている。でも彼女はそれを言わない。

彼は、新しい生命には気づかない。ただ自分は失格の烙印を受けたと思ったようだ。


彼はこう思う。自分は、妻がある身でありながら、彼女を愛する資格も、立場も、価値もないのに、愛してしまったのだ。彼女には、そんないとしい人に出会えた事を感謝しなければいけないのに、自分の立場でしか考えることができていなかったのだ。自分は、いつからこんなに自分の立場を考えずに行動してしまったのだろう。彼女は最初妹のような存在で自分でも納得していたはずだ。いつの間にか恋するようになってしまったのだろう。自分の心は、確かに今、つらいかもしれない、しかし彼女にとってはもっとつらいだろう。その理由は自分が作っているのことは明らかではないか。


彼女は、もし、おなかの子供が、どんな悲しい思いをするかを考えている。生まれても父親がいない。そうなったときのことを何度も考えた。誰が父親か分からない。自分を裏切った父親ありきで産まれてくる子供は、幸せなのだろうか・・・。子供には父親が必要なのだ。私が運良く結婚したとして、父親が変わったとしたら、どう思う?子供は無事に育つのだろうか。いや、ましてや自分がその子供だったら。どんなに悲しいだろう。21世紀初頭に流行のように蝕んだ虐待事件の数々。それは100%親に責任があるのだ。彼女は恐ろしいニュースをいくつも知っている。私はこの子を世に出すことが出来るか? 私は私の満足感だけでこの子を世に出すのか。苦しむのがわかっているのに。私は女の本能という言葉だけで、生むことはできない。私にそんな資格があるか?

 私には、女性の心は、感じるだけで、痛々しく、悲しかった。底がなく救いもない悲しみ。彼女の心を癒せるものは、おなかのまだ見ぬ子なのだ。しかしその子供はすでに世に出る道を絶たれつつある・・・。


彼が、口を開く。

「良く考えて見ると、こういうご時世で、僕のような性格で、こんな状態でも愛せる人を見つけることが出来たのは、まだ幸せなのかもしれない。」

「ひどいですね、もうまるで済んでしまったような話です。完結させないでください。私はどうしてくれるんですか。さんざん誘惑しておいて」

「いや。そうだよね」

「慰謝料請求してもいいでしょうか?」

彼は、声を出さずに少しわらったようだった。顔に出したのではなく、心の中でだ。それは楽しい笑いではない、そうではない。自らの不明さに対する失笑のように、私には思えた。でも確かに笑った。

「笑いましたね」

彼女は、彼の背中を強く叩いた。

「ぐっ」

「仕返しです。」


少しだけ、二人の間の空気が和んだようだったが、全てを溶かしてしまうには、あまりにも小さい。二人の間には、笑っいられる話はない。彼と彼女は、同じ問題を抱えているが、背景はかなり異なる。単純に二人が同じ方向を向けばいいというものではない。そんな単純な話ではないのだ。同じ方向を向いていても進めないこともある。同じ方向を二人が向いていても雨が強い時や、風が強いとき。その風の強さは人により異なる。もしかすると落とし穴があるかもしれない。それも二人同時に落とし穴に落ちればいいが、一人だけ落ちたとき。もし同じ方向だとしてもベクトルの強さが違うときもある。ベクトルの方向や強さが同じ、と言うことはありえないのである。どうするのかは、恋人の二人にとっては難問である。僕らは・・・同じ方向を向いているのか?そして見ているものは同じなのか?未来はいつかひとつにつながることがあるのだろうか。ひとつにつながるのは、今なのか、明日なのか、1年後か10年後か、100年後か?私は、わからない。あの二人にも。

私は自らの思いから抜け出し、二人に意識を移す。

思ったほど夜は、寒くならない。よかった。二人の前途は多難なのだろう。周りに祝福される喜びのかけらもない。枯れる木の葉が集まると意外に暖かいように、不幸と思われる事象の外側に幸福があるとか、誰にもわからないが、未来はそれぞれにとって幸せになるという事はないだろうか。あるかもしれないし、ないかもしれない。でも人は自らの未来を背負って生きていく。道がなかれば探すしかないので。中には、すぐあきらめてしまう人たちかもしれない。私も身は何て不幸なのだと過去をののしる者もいるだろう。ちょっとしたトラブルの相手を恨むものもいるだろう。そして、世界中の自分が一番不幸だと、周りにアピールする者もいる。したければするがいい。

私はひとつだけ知っている。幸せは外に見えるものだけではないことを、内なる幸せは誰にも見ることが出来ず、誰にも知られないことを。歩み出す一歩の価値は後になってわかるのだ。

しかし、その評価できる時期はいつ訪れるかわからない。訪れないかもしれない。

それでも人は生きていかなければならない。希望がひとかけらのビスケットだとしても、希望がほとんどなくても。明日はやってくる。


夜はさらに更けていった。街頭のあかりに私たち木の葉が照らされる。あかりによってシルエットとなった木の枝の先から、一滴の夜つゆが落ちた。

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