第7章 病の苦しみ
夢を見た数日後、涼音は、東京へ向かうリニアに乗った。東京に住んでいるある重病の友人をお見舞いに行くことになっていた。揺れるリニアに身を任せながら涼音は、この旅がここ数日の暗澹たる気持ちを切り替えることを期待していた。
私は病院の近くで私を誘った京都国立大学時代の友人であると待ち合わせした。友人の一人は和泉という。私と彼女らは、あるサークルの仲間だった。とはいえ私はそれほど熱心ではなかったが。飛び級で入って色眼鏡で見られるかな、平然と話しかけてきたのがらと知り合ってからはサークルも楽しくなって、卒業当時には、勉強だけでなく本当にやめずに居てよかったと思ったものだった。学部は三人とも、いやもう数名仲の良いグル―プがあったのだが。学部や専門もまちまちだった。
再会を喜んだあと、すぐに病状の話もしづらく、お互いの近況を話した。
「涼音は、忙しいのでしょう。いま大学の先生でしょ」
「先生と言っても准教授だよ、士農工商・准教授と言われるくらい、便利屋なんだから」
とはいいながら、准教授の面倒な仕事は助教の大村に押し付けているのだが。それは言わなかった。
「本当だよ。准教授なんてやるものじゃないよ。もういろいろ義務が多くて大変なんだから。」
それを聞いてが言った。
「そりゃ、そうでしょう。その年でちゃんと大学の先生なんだから、それなりに苦しんでもらわないと。これからの科学技術や教育の行く末を担うんだからね。」
涼音は、中学高等一貫課程6年のうち、4年目に京都国立大学の3年に編入していた。、15歳に大学に入り、皆が卒業する4年の卒業時の時でも、18歳になったばかりであった。そのあとはスウェーデンにあるスカンジナヴィア国立高レベル廃棄物研究所で学位をとった。
「もう、そんなことないって。ねえ、ところで、志乃が病気だなんて知らなかったな。結婚したあと発症したのだっけ。年賀メッセージだってかわいらしい子供と元気な顔だったのに、知らなかったよ」
「うん」
和泉の顔は明らかでないが、一瞬で不穏な顔になった気がした。私は和泉の言葉を待った。
「私、彼女と親しかったんだけど、もともと体、弱かったのよ。でも最近、急にね、ぐっと悪くなっちゃって」
「悪くなったって、どれくらいなの?」
病院へ向かう中で、千代の病状を語ってくれた。
和泉の話によると、彼女は不治の心臓病ということであった。その病は手ごわいもので、人工心臓を受け付けないばかりでなく、心臓移植の相手も様々な理由で拒んでいるのだった。発病したのは娘を産んで2年ほどしたころであったと言う。しばらく育児のつらさによる変調だと思い、医者に行けなかったということであった。
そこまで離してくれたところで、和泉は、全部聞く?と私に念押しした。
私ともう一人の友人は躊躇せずうなずいたが、私は不安を禁じえない。私の不安は聞いてしまうことにあるのと、聞いた後、どんな話であれ、私がどう反応すればよいのか、迷うことがなければいいという不安も混じっていた。私はすごい悲劇に対してちゃんと反応できるだろうか。みんなと同じように悲しんだり、泣いたり出来るだろうか。
「志乃が教えてくれたんだけど、医師の話では、遺伝的な要因がある可能性が高いらしいのよ。現在の医療では完治は難しいらしいの。今の状況では、心臓移植の提供者を待つか、実験的な人工心臓を、死を覚悟して試みるしかないらしいの」
涼音は、驚きを通り越してあきれた。あまりに絶望的な状況だ。
「・・・」
何も、いえないよね、と和泉は言ってくれた。涼音も頭を整理する時間が欲しいくらいだ。
「私は、入院したすぐのころから知っていたんだけど、あまり人に言わないでって、志乃に言われていたの。だから、みんなにも知らせなかったの。ごめんね。でも最近、入院して2年になるんだけどね、いつまで生きられるか分からないなら、みんなと沢山あっておかないと、って彼女が言い出して。それが、おかしい事だって分かっているけど。特に親しいということで、お医者さんや、ご主人と話したけど、むしろそうした方が言いかもしれないと言われてしまったの。私も悩んだんだよ。どうしようかと」
もう一人の友人が黙っていられないようすで口を開く。
「本当に、そんなに危ないの?でも、ほら、何か他に方法はあるんでしょ?」
「それが、今はないらしいの」
「そんな。でも今のままでも待ってればいいんでしょ。頑張って待ってれば」
「・・・でも今の心臓も悪くなっていくのよ。」
「そんな・・・。」
私たちは目を合わせずに、それぞれ沈黙した。
私たちは病室へ入る前に、彼女のご主人と話をすることが出来た。彼女は個室に入っているのだが、その隣には患者やその家族が自由に話せる半個室の部屋が何部屋か準備されていた。そういう点で、良い病院だった。ご主人さんとは、私は初対面であった。重苦しい空気の中、挨拶を済ませたが、彼はその挨拶すら気もそぞろなようで、苦悩に満ちた顔で私たちに向かって話し始めた。
「私は最初、育児ノイローゼじゃないかとすら思ったのですよ。子供が1歳とか、2歳のあたりは子供の反抗期もありましたしね。実際よく泣く子供だった。でも、それが普通なのだろうと。いや、普通は育児ノイロ―ゼになる、というか。良く泣くのが普通なのだろうと思い込むことにしたと言いますかね。妻だって、ノイローゼに少しくらいなるのが普通だろうと思ったのです。ああ、今考えれば、なんてひどい夫なのだろう、と思いますね。全く。僕が少しでも速く病院に行けといって、連れて行けたら、たったそれだけのことなのに、仕事なんてどうでもいいのに」
涼音たちは、何もいえなかった。彼のせいではないのだ。おそらく。遺伝的要因もあると聞いている。そうであれば、遅かれ早かれ発症しただろう。涼音は言うべきかどうか、迷ったが、口を開けなかった。
「そんなことないですよ。旦那さんが一生懸命外で働いてくれなきゃ、もっと早く倒れていたかもしれませんよ。」
和泉は優しくそういった。
涼音は、そんな和泉がうらやましかった。和泉は心のやさしい人だ。私は、そう上手く言えない。その言葉は彼を少しでも救うことになるのか、迷うからだ。そう考えること自体が寂しい人間であり、きっと上手く言えないのでなくて、私は人を慰めることすら出来ない嫌な人間なのだろう。
ご主人は、苦渋に満ちた顔で、ありがとうございます。そういってもらえると少し気はラクになりますが、実際こうなった事実を考えると、と辛そうに語っていた。
そうだろう、と私も思う。ご主人は気が楽に、と言ったが、私には、ほんの少しでも楽になったとは思えない。ただその台詞を言えるかどうかが、この人間社会では必要なのだ。彼女たちを責めるつもりは、全くない。普通だ。普通の良い人たちだ。しかし私とは違うようだ。この何か、私と彼女たちが違う、という事を彼女たちも分かっているのだろうか・・・。
私は良くこのことを考える。私が彼女たちと違っているのが分かるように、彼女たちも私が彼女たちと違うということを思っているのだろうか。それは普通なのだろうか。
そして、私はどうしてこんなに普通であることや人と違うことにこだわるのだろう・・・。
ご主人との話は5分くらいで終わった。私は極力口を利かないようにしていた。ずいぶん冷たい人間だと思われただろうな。こういうときは何も言えないのが私なのだ。和泉が私を心配して声を掛けてくれた。
「大丈夫?ショックだよね。でも志乃もつらいから、病室では、話しかけてあげてね。すずなら大丈夫だと思うけど、絶対泣いたりしたら駄目だよ」
「わかってる。大丈夫」
涼音は、そう返事した。それしか言いようがない。そして私はみなに期待されるように気丈に賢く振るまうのだ、私は、私を演ずる。
その後、病室で彼女と会った。千代は思ったよりにこやかな顔で私たちを迎えてくれた。しかし私は脳天の何かで叩きつけられたような衝撃を受けた。ああ。私はひどい人間に違いない。彼女がものすごく美しく見えた。彼女の顔は悩みと苦しみに打ちひしがれながら、家族への愛と自分の戦う姿への強い意志に満ち溢れているようだった。しかし病の影響は、もう、全く明らかに彼女を蝕んでいた。そのアンバランスが彼女を孤高の美しさに押し上げていた。
私のこの直感。悪魔のような感覚器は一体どこにあるのだろうか。
その日は彼女の体調もあまりよくなかったようで、挨拶と少し話をしただけで病院を後にした。私は病院を立ち去って、皆と別れた後も、彼女の美しさに魅了されてしまっていた。神々しいまでの悲しさがあふれ出していて。私は心をガ―ドするのを忘れてしまい。彼女に惹かれた。それはほとんど恋と同じようなものだったのかもしれない。それすら良く分からないままに、彼女の美しさに取り込まれたのだった。
私は再度、彼女をお見舞いした。とはいえ、私は上手く彼女を慰めることはできない。しかし幸いにも私は話を聞いてあげることが出来る。彼女とご主人の話し相手になって上げることはせめて慰めることになるだろうと思って、東京への委員会や学会があるたびに通った。
ある日私は、何度目かのお見舞いに出かけたが、やはり私はよこしまな心を持っていた。私はその日ひどく疲れていたのだが彼女の顔を見たくて、病院へ出かけたのだった。
見舞い客の待合室は雨が降っていたこともあり閑散としていた。この病院は近代的でスマートな建物だが病院らしい人情味に少しかけていると思う。私はいつもお見舞い時間になってからゆっくり病院に入るのだが、この日は雨だと言うこともあり、早めに来て待合相室で待とうと思っていたのだった。時期は秋雨に近い時期であり、まだ夏の蒸し暑さが残っていた。病院の横の小さな池のそばには中途半端にコスモスの花が咲いていた。この花は病院には似合わない寂しさがある、と私は思った。とても可憐なのだが、すらりと立ち上がって、群れているようで独立して咲いている。そして花びらは色鮮やかだが、際立った色彩でありとても目立つのだ。
私は、池の前で少しそのコスモスを眺めていた。秋雨の細かい雨に打たれるその可憐な花びらは、病と闘って花を散らそうとしている彼女のように美しかった。私はまた不穏なことを考えている。
私は、彼女を見つめるのと同じように目を離しがたくなったそのコスモスからやっとのことで目をそらした。この病院では外来患者と入院見舞い客をICチップで管理している。特に見舞客は病院内のどこにいるかをチェックされるのである。
私はその見舞い客受付に入ろうとして屋根のある部分に入り、浅黄色の傘を閉じた。そのとき私はふと髪を重く感じた。気の迷いというわけではないだろうが。私の長い髪は私の心に敏感だ。いやただ湿気の多いこの大気が髪にまとわりついたのだろうか。今日は髪留めを持ってきていない。私はとりあえず髪をまとめて左側の肩にまとめて通した。
「きれいな髪ね」
私は後ろから声がして少しばかり驚いた。
小学生くらいの女の子が立っていた。それにその傘、とってもすてき。番傘みたい。面白い傘ね、と続けてその子は言った。私は、突然妙に褒められて、どきどきした。それも小学生の子供である。
「どうもありがとう」
私は少々気おされながらも、その子を見た。小学生らしく黄色い帽子に最近流行っているらしい縦長のランドセルだ、いやランドセルではなく、バックパックに近い。頭はおかっぱ頭でしっかりした目をしている。鼻はやや高めで口もきりっとしていた。私にはすぐ分かった。
あなた、志保ちゃん?、私は思わずそう聞いてしまった。
彼女はそれを聞いて意外なような顔をしたが・・・、うん。じゃあ、おかあさんのお見舞いの人?と続けて聞いてきた。
「うん。古い友達なの」
「ふうん、じゃあ本当の友達なんだね、お母さん、あまり病気の事、人に話さないでって言っていたから。」
その顔は真剣な顔つきだった、私はさっきしっかりした目をしていると思ったが、普通の小学生の目ではないと思いなおした。彼女ほどではないが、志保ちゃんの目にも憂いがあった。
あたりまえだ!と私は思う。お母さんが心臓病の不治の病。お父さんの後悔を含めてかなりのダメージを受けている。どうして、ただ無邪気に生きていけるだろうか。子供だからこそ感情に敏感だ。いや子供なら誰でもというわけではない。しかし彼女とご主人、これまで会った二人の性格からすると、やはり感受性の強い子供が出来たのではないだろうか。それもごく普通の家庭であれば、こんな憂いを含んだ目には育たないだろう。私は彼女のこれまでの生活を思うと、いたたまれない気持ちになった。
そしてまた、今も、私は上手く彼女たちを少しでも慰めてあげるような言葉が出てこない。
「お母さんのところ、行かないの」私は受付のところで立ちすくんでいたようだ。彼女は少し言ったところでこちらを振り返っている。私はこのまま病室に行くことが、急にあつかましいのではないかと思った。娘と母親の貴重な時間を邪魔することにならないだろうか。
「行くよ。でも、もう少し後にしようかな?志保ちゃんだって、お母さんとゆっくり話したいでしょ。邪魔しちゃ悪ければ、今度で直したっていいんだから」
「そんなことない。おかあさん、喜ぶよ」
「そ、そうかな」
私は彼女の言葉に従おうと思った。すくなくとも私よりも、素直に物事を考え直感に対する感覚も鋭そうだと思った。
清潔だが、少しだけ薬品のにおいがする廊下。いつ来ても入院病棟の病室と廊下には時間の止まった様な、いやそうではない。外界とは縁の切れたような独特の時間が流れていると感じる。光さえも脱出することの出来ないブラックホールには、事象の特異点というものがあり、それより一度ブラックホ―ルの内側に落ちてしまえば、どうあがいてもそこから逃れることは出来ないという。そして外側から見ている、落ち込む人間・物は光の速さに達するため、時間の流れが限りなく遅くなるため、その場所に永遠にとどまっているように見えるということだ。
そう。病院の中は一種の特異点の内側なのかもしれない。抜け出すことが出来ればよし。しかし一度内側で重大な病にとらわれてしまえば、永遠に外界と離れたような感覚になってしまうのだ。
私は、そんなことを考えながら、智子ちゃんについて彼女の病室へ向かうのだった。私と志保ちゃんが一緒に病室へ入るのを、志乃は、いらっしゃいと言いながら優しい目で認めてくれた。
そして私は、いつもは出来るだけ話しかけようと努めるのだが、この日はあまり話さないようにした。あえて言うと、私が自分から口を離すような雰囲気ではなかった。母と娘の日常がそこにあった。私はソコに居られるのが不思議な感覚だった。その場に確かに存在しているのに、居ないような存在。しかしお互いに存在は認識していて放っておかれているわけでもない。うれしいような寂しいような、宙に浮いて、ほんの少しだけ繋がりのあるような感覚。
「それでね、今日はハルカちゃんにひどいこと言われたの。クラス替えから、もう3ヶ月経ったのに、あんたはまだ友達が居ないでしょう!って、ひどいよね。でも私怒らなかったよ!」
「でもね、そのあとナミちゃんと一緒に外で遊んで楽しかった。ナミちゃんはよくお話を聞いてくれるしひどいことも言わないんだよ。帰りも一緒に帰っちゃった。これは良かった話ね!」
志乃は、優しい微笑で志保ちゃんの話を聞き、相槌をうち会話をしていた。それは、あるときは理想的な母と娘の姿であり、娘の考えを理解できない母親の姿であったり、娘を諭す母親だったりする。それはごく普通の風景なのだ。ここが病室でなければ、良かったのに。私がこんなところに居なくて、小さくてもきれいな家で、西日がチョットさして暑かったりするけど、普通の母娘で居られたのに。
「前の担任の井戸田先生が、廊下であったとき、おかあさんの具合はどう?って聞いてくれてたよ。ちょっとうれしかったよ」そして、次の言葉により事象の地平線から私は外に投げ出された。
「今度の手術が終わったら、おうちへ一度帰れるといいね・・・。」
そして私の存在が現れ、西日は消えた。子供は全ての場において、大人にとってあまりに残酷になれる。正直すぎるその心は誰にでも傷つくし、誰でも傷つけることが出来る。それは子供がそれをしないと成長できないからで、誰にも罪はないし、そして誰も責めることはない。
「大丈夫。きっと帰れるよ。私も貧乏学者だけど、今の科学は日進月歩だから。新しい方法はどんどん考え出されているからね。もし智子ちゃんがその気なら、もっと勉強を頑張ってお医者になると言う手もあるよ」
私は、志保ちゃんの柔らかい髪をなでながらそういった。優しい感触だ。志乃もうんうんとうなづいて、ベッドに志保ちゃんを引き寄せた。
「早く退院したいな。それでみんなでおうちで暮らしたいね」
私は泣いてはだめだった。この場に居られるものの第三者である最低条件としてそれは絶対犯してはいけない約束だった。私などが涙を流してはいけない。彼女たちはきっと山盛りの涙を流してきただろう。その涙と私の涙は価値が違う。今日、こんなものを作ってきたの、と思い出したように志保ちゃんは、かばんから何かを取り出した。
それは、赤い和紙で作られたハートの形であった。
お母さんの心臓が、ずっと丈夫になりますようにって、七夕にお願いするの、と智子ちゃんは言った。
ごめん、ごめんねつらい思いをさせて、と志乃は言った。
「そんなことない。お母さんがいたから、私も生まれたんだから。病気は悲しいけど、それはうれしい」
私はその場から遠く離れて事象の地平線の外から眺めている意地の悪い観察者のようだ。子供と母親の愛情。子供から母親への素朴な愛情。私にはそんな愛情のかけらもないようだ。何かから遠くはなれて、全てが遠ざかってしまったように感じる。宇宙に私だけ取り残されたような、星は沢山あるけれども会話も出来ない、意思の疎通も出来ない、実質的に一人ぼっちのようだ。その孤独な感覚は、まるでパタゴニアの草原の真っ只中に取り残されたようだ。草がある、土がある、川もある、しかし立ちすくむ私は何にも繋がりのないような、一人ぼっち。サハラの砂漠の中に置いていかれたような、砂がある、丘がある、ほんの少しの草はある。しかし、突き抜ける青空にはなんのつながりを示すロープも降りてこないような一人ぼっち。空のかなたには一筋の飛行機雲、しかしあれは私には遠すぎる。遠すぎる人の気配。そこにあることが分かっていたとしても、遠すぎれば、やはり一人ぼっちなのだ。
すっかり遅くなってから病室を訪れたご主人に挨拶をして私は病室を去った。
病院からはバスに乗らないといけない。しかし私はコスモスの咲いてある小さな池のベンチに座りなおした。
私は…。私は千代や智子ちゃんのことを想う。私は彼女たちの悲劇がうらやましくさえ思えた。嫉妬さえ感じる。あの感情とお互いの優しさ。私はあの人たちのかけらの豊かな心があるだろうか。きっとないと思う。いやないのだ。
彼女たちに比べれば、私は日常をただ暮らしているだけと同じだ。私とて、なんらかの使命があると感じてはいる。しかし彼女たちのように生命には影響がない。もちろん命を賭ければいいというものではないだろう。しかし日々生きることに関して、生きていることに関して、麻痺しているかもしれなかった。これは私にとって、彼女たちに比べて、なんと堕落しているのだろう。私は彼女に恥じない毎日を送っているとはとても思えない。あなたがいるから、私も生きていられる、ありがとう、という言葉を私は今、誰に対しても言えず、誰からも口にされることはない。
周囲は少しずつ暗闇に変わりつつあり、ERを示す赤い表示がライトに照らされているのをじっと見ていた。涼音は、来たときは雨が降っていたが、今は止んでいるのに気がついた。私は例の浅黄色の番傘を忘れたのに気がついた。あれは志保ちゃんに上げてもいいと思った。今からそうするより、あとで二人に手紙を書いてあげよう。ちゃんとした便箋と万年筆で、そう何色のインクにしようか。二人の喜びそうな色で。私の出来るほんの少しのこと。あの母娘の心の少しでも慰みになれば、私はうれしい。私も彼女たちのように少しでも近づきたい。
涼音は空を見上げた。あんなにどんよりしていた分厚い雲なのに、ぼんやり明るくなっている箇所があった。あの向こうには満月があるのだろう。今の私の心のようだ。よどんでいるのだ。でも、いつもあんなにどんよりしているわけではない。しかしあるとき、体や心が疲れきったとき、心が折れてしまったとき、すぐに目標や夢は見えなくなって、よどんでしまう。私は、いつからか、そんな空模様の心になってしまっているのではないか。それはいつのころからだろうか。
ぽつりと頬に雨粒を感じた。
薄明かりの、低く厚ぼったい雲から搾り出すように雨が降り始めていた。私は、なぜか立ち上がることがでなかった。頬に当たる雨は、一つ一つが私をしかっているような気がした。
私はそのまま、そこで罰を受けた。