第6章 希望を失った人が断崖にて思うこと
私は一日考えきって疲れた頭と体を横たえる。私は思う・・・。
眠りは、人にとって休息の場であるはずだ。一日働いた頭と体を休める。二足歩行動物が体を横たわらせることは、どれくらいの回復効果があるのだろうか。地球に何億か生き物のほとんどは、皆眠って休息する。この休息が必要と言う点で、生き物たちは平等だ・・・。
私は、まるで意味の無いような、物思いにふける・・・。
遥か遠いアフリカの大地にはキリンが立ったまま眠っているだろう。
そのキリンが目を開けると、暗い夜の中に月が輝いて見える。
漆黒の空に浮かぶ月。その月に照らされるのは、キリマンジャロだ。高く聳える大きな山。そして山から吹き降ろす冷たい風が吹く中にキリンやライオンが立ちながら寝ているのだ。彼らの今日と明日はどんな違いがあるのだろう。彼らの生まれたときと死ぬ時には一体何が違うのだろう。人によこしまな心があるように、キリンやライオンにもよこしまな心があるのだろうか。人が、恋しい人を思いながら涙を流すように、キリンやライオンも、涙を落とすだろうか。落とされた涙は輝く月を映しているだろうか・・・。
そんな他愛もないことを思いながら、私は眠りに落ちる・・・。
青い空がとてもきれいな場所に私はいる。海も遥か彼方までよく見える。彼方には山々が見えた。私の足元には、整然と亀裂の入った岩石、断崖絶壁を形成している。安心して立っていることができる。私のいる周辺は、道らしきものはない。ここはおそらく孤島か、人の来ない半島の先なのだろう。もしかすると、千島列島の、ごくごく小さな島かもしれない。
私の感覚は、いつもより鋭敏だ。私の夢には暖かさや冷たさ、においや、手の感触は、まるで現実のようだ。これはいいことなのかどうか、わからない。日常だけでなく夢の中まで実地体験をしてしまうのは、頭の休息にならない。夜の夢くらいは傍観者となっていたいのに。でも傍観者だったら本当にただ見ているだけでいいのだろうか?それは、今の私では答えを出せそうもない。いつか、答えを出せる日が来るのかも、わからない。
そんなことを考えながら、私はしばらくこのまま美しい景色を楽しんだ。夢の世界だとしても、このような開放的な場所で、美しい景色を見ると私の心も少しだけ和むようだ。
人の気配がして、私は通常と同じように身構えた。でもここは夢だからそんなに臆病にならなくていいのに。私は周りを見渡す。がさがさと草むらの中から人の姿が見えた。ここまでやって来るのは珍しいと言えるだろう。ここは断崖絶壁だし観光で来るのは刺激的な場所だ。
その人は少し不思議な感じがした。それは私には一人と思えなかったからだ。私には確かにふたりの気配がした。私の感覚の目にはふたりの存在に思えた。それは、観念的な意味では無く、二人の人間の様で有り二つの意思であり、二つの性質という感覚である。 その心に触れるのは、難しかったが私は静かにその人を見守っていると、やがて彼のトゲトゲとした心の針は小さくなっていった。そこには当然誰もいないから、その人は心を開放しても良かった。
私は、その人の心をそっと感じた・・・。
*
僕は決心してここまで来た。この土地は、想い出のある場所のはずだ。この風景は覚えている。しかしここで何が起こったのか記憶が、確かでは無い。僕はここで大事な経験をしているはずなのに、思い出せない。
僕の記憶は薄れている。しかし内面の僕はせっせと話しかけて来る。思い出せなくてもいい、無理に辛い事を考えなくて良い!と。それは優しい声だが、最近はその声がつらいのだ。普通の人間として生きていくなら、物覚えが悪いことは致命的だろう。そんなこと、誰だってわかる。僕は人として、まともにやっていけない烙印を押されている。そして、僕は、今日この断崖にやってきた。
今考えると、不思議に内面の声を自然と受け入れていたのだが、僕に声をかける内面の声といつからか話しが、できるようになっていた。
それは、いつからだったろうか思い出せない。僕は今、余り昔の記憶が無い。先ほど、内面の声を自然に受け入れたと考えたのだが、それだって怪しいものだ。そんな気がするだけだから。
今は、頭に二つ分の思考があることが、はっきり見える。そのせいで、昔のことを忘れつつあるような気がする。そう気がついたのはつい最近のことだ。ふと思い出せない昔のことが多過ぎる。二つ目の自分が、記憶の領域を食い尽くしているのだ。きっとそうだ。
そう気づいてからは、昔のことや友達など次々と忘れていることを感じる。
しかし僕は、まてよ、と思う。昔から友達など居ないのかもしれない。それなら納得できる。実際こちらが忘れてしまったことと比べて、何の違いがあるだろう。これは記憶喪失の一つなのだろうか。それとも、本当に僕はおかしくなっているのだろうか。
その証拠に、僕は社会から隔離されたのだ。僕は、二重人格になったと判定された。最近まで病院に入っていたのだが、今は抜けだしてここにいるというわけだ。実はもう、いつから病院に入っていたかの記憶も曖昧だ。
そんなに重症ではないのかもしれない。二重人格だって、医者から言われたのか?それとも癌だといわれたのかもしれないぞ?何せ忘れっぽいのだからな。本当の、真実の僕は、なぜ入院していた?
病院で、お前は気狂いだと言われた。確かに、頭の中もう一人の自分がいて、話しかけて来る。それは異常なことだと思ってはいなかった。しかし僕の物忘れは、そいつのせいだと医者が言ったのだ。確か医者だったと思う。その日から、僕はそいつのことが邪魔になった。でもそいつは馴れ馴れしく話しかける。これが異常なことだと気になってしまうと、もう止められない。結論は、僕は狂っている。そして入院した。その経緯はすでに覚えていないが、今考えても、こうするべきだったと確認する。最も常識的だ。常識?僕に常識が残っているのか、疑問ではあるが? そもそも社会に常識はあるのか?僕には僕のことしかわからない。それなのに、常識とは何なのか? てんでわからない。
僕の頭にいるものよ。何か考えてみるがいい。
**
この人は、私が話しかける声を聞いてくれなくなってしまった。脳の中に共存する私との相性が良くないのか。私の声のかけ方が悪いのかこの人の心が挫けてしまったのか。
この人とはもう長く一緒にいる。おそらく十年以上になるだろう。残念ながら私には時間の観念がないが、それくらい長いと思うだけだ。私自身は、記憶の整理を行うこともできない。
私は、この人が色々つらい目にあったことを知っている。そして様々なできごとに直面していく内に少しずつ感情が抑えてしまった。昔は私の事を認識し色々な話ができたが、今は頭から追い出そうとしている。この人は、私を追い出したいが、私は、彼から生を受けて以来、脳の一部を間借りしている。彼が生きている以上、私も生きている。彼は今、私を認めたくない。残念だけれど、私には、この人が閉じ込めた記憶を見る事ができない。私は、この人の頭の中に、片隅にちょこんと座っているだけの、間借りの思考者だ。
でもこの人は、記憶を消し去りたいのではなくて、何かを思い出したいのではないだろうか。私は、間借りの脳でふとそう考えることがある。
私はもう一度彼の考えに心を寄せる・・・。
**
僕はこの美しい断崖から青い空と、凪いだ海を見ながら何も考えないでいられる。この空と海に吸い込まれてしまえば、心も体も楽になると思う。もう最期の決意を固めている。これで色々な心配事とは、おさらばできるのだ。
改めて断崖から海と空を見つめる。その時、待って下さい、という声が聞こえて僕は驚いて声のした方を見る。あまり広くない、この断崖の空間の草むらの向こうに二つの人影があった。そしてふうわりと、その一つがこちらへやってきた。知らない、おそらく女性だ。どこかで見たことあるような、でも間違いなく知らない人だ。でも僕の記憶に正解は無い。砂漠に水をあげた時のように覚えた事は直ぐに消えてしまう。こんな些細なことでも、僕はもう人として生きる意味が無いように思う。こんなときこそ、内面のひとは、教えてくれないのか。役立たずめ!
待ってください。もう少しだけ、そう言ってその人は、僕に不安のない距離で立ち止まった。
その人は僕の思考を読み取るかのように、話しかけてきた。心の和む声で・・・。
「わたしとあなたは昔の友人でした。あなたの頭の中にいる人とも友人だったのです。あなたが絶望の淵にいるのを知って私はこの地に来たのです」
僕は、そんな話を聞かずに、断崖へ飛び込んだっていいのだが、その人は僕の頭の中の人と知り合いだという、その言葉に惹かれて僕は少しだけ付き合うことにした。それに、もしかしたら、僕の記憶を取り戻してくれる人かもしれない。
「あなたは僕の知人で、僕を助けてくれようと言うのですか。それは少し難しいですよ。僕は衝動的に行動しているわけでは無いのです。でもこんなところで出会うのには、何か縁の有る方でしょう。話は聞きます」
しかし、その人は、困ったような顔をして言った。
「ええ、ありがとう。でも残念だけど、私にはあなたの記憶を取り戻したり、あなたの内に住む人を切り離したりする事は出来ません。もちろん安らかに永遠の眠りにつかせてあげる事も出来ませんから。」
僕は、心底面白くなかった。これから、死んでやろうという人間にそんな言い方はないだろう。慰めがほしいわけではないが、理解はしてもらいたいものだ。
「それじゃあ、今の僕には全然役に立たない。ぼくはここから飛び降りるつもりなんだ。」
「知っています。一体どうしてそんな事になってしまったのでしょう。私に教えて。」
「自分の心を守るためですよ。もうまともじゃないが、それでも僕の心を守りたい。僕は病気なんだ。昔の事を覚えて居られないこの病から、僕を守りたいんだ。」
「そう。あなたは死ぬ事で、あなたの心を本当に守ることができるのでしょうか。」
「揚げ足取りはやめてください。少なくとも、もうこれ以上悩まずに済むでしょう。僕は苦しみにもう耐えられない。それだけでも十分に死ぬ理由になります。僕はもう晩年なのです。何も生み出せない。人を愛することもないし愛されることもない。愛したかも知れない。愛されているのかも知れない。でも僕には記憶がないし、覚えても居られない。そんな状態でどうして生きて居られますか。僕は何のために生を受けたのだろう。もしかすると、すでに何かを成し遂げたのかも知れない。まてよ、人を殺したかもしれない。覚えていないだけでね。でもやっと僕は死の中にオアシスを見つけたのです。そこには、安らかで深いねむりが待っている。オアシスは、薔薇のような高貴で甘い香りがしている。僕を猛烈に誘う。こんな苦しみを抱えているのに、甘い誘惑に逆らうことはできないでしょう。オアシスの横のヤシの木の下で気持ち良く眠りたいのです。そう本当に、僕はそろそろ休みが欲しい。人は、与えられた肉体が朽ちるまで生きなければならないのでしょうか。僕には神への冒涜とか宗教的な意味は通用しません。何故なら既に記憶を失っているから。過去の偉人がどれだけ偉大でも教えが正しかろうと、僕には関係無いのです。ただ僕は疲れて、寂しいのです。そして記憶を失ったまま生きることに耐えられないのです。」
「記憶。何故あなたは記憶を失ってしまったのでしょうか。何か、事故に遭ったのか、病気なのか、それともべつの何か原因があったのでしょうか。私から見ても、確かにあなたはとてもつらそうに見えます。何があったのか、良ければ教えてくれませんか?」
「病気ならまだいい。事故ならさらに良い。それは僕のせいでは無いのだから。記憶を失った原因ですって?知りませんよ。でも多分原因は僕のせいなのだ。その原因は僕にあるにも関わらず、僕は忘れてしまった。人なら少しは物忘れする事はある。つまらまい事とかちょっとした嫌な事とか。でも僕の場合は少し違うのだ。後ろからすっかり記憶が無くなって行く。もう一ヶ月前の記憶がほとんど無いのだ。これは、もう人としてまともじゃないでしょう。これでは喜びも悲しみもない。」
「記憶が蓄積できないからあなたはもう死ぬしか無いというのですね。でも記憶がないとしても、感情がなくなって訳ではありませんから、笑ったり、泣いたり、感じたりすることはできますよ。」
「それほど単純なわけでは無い。きっと記憶が戻っても死のうというとは思います。大きな原因なことは間違いないでしょう。」
「記憶が無いと幸せになれませんか。牛や馬はそれほど記憶が達者では有りませんが、幸せとは言えないでしょうか。植物は考える脳を持っていませんが、不幸な生き物で、自ら死に行くべきなのでしょうか?」
「そんな、坊さんや宗教のような、説法じみた話はやめてください。生き物はそれぞれ存在する意味合いが違うでしょう。全てを同じ型に当てはめるのは良く無いですよ。
僕にも記憶は無いが、何か納得出来て居ないものがあるようです。なにか不遇を囲ったか、人に騙されたりしたのか。とにかくこれ以上、生を重ねる事に意味があるとは思えません。」
「そうなのですか?その忘れてしまった、不遇な出来事に直面したのででしょうか。それではやはりその原因を考えたほうが良いですよ。それによっては、もう少し生きなければならないかもしれません。」
「それさえも忘れてしまう自分が本当にもどかしい。そんなことは無かったのかも知れない。もしかしたら、あなたが言いたそうにしている通り、僕は逃げ続けているだけなのかも知れない。それは仕事か人間関係か、恋に破れたのかも知れない。犯罪を重ねたのかも知れない。」
僕は、凪いだ海に視線を向けた。夕焼や朝焼けが血の色に見えた。こんなことをいい続ける自分が悲しく、むなしく、否定したい・・・。
「お願いです。僕をもう止めないでください。このまま死なせて欲しいのです。生まれるのが自分の意思で出来ないのなら、死ぬときくらい自分で決めても良いでしょう?自殺はいけないと言いますが、頭脳をもつ人間ですよ。自分の死ぬ時期を解っているのなら、自分で決めてもいいでしょう。」
ここまでは、会話を楽しんでいるように見えた、その女性が、少しだけ、強い口調に変わった。
「そうはいきません。あなたは、あなたが思っているよりも関わっている人が多いのですよ。」
「僕はそれを知らない。悲しいことに。そんな重要なことが僕には分からないのですよ。悲し過ぎます。僕が必要とされている事が確かにあったのでしょうかね、信じられないな。」
「それはあなたが全てを忘れてしまおうとした嘆きが、きっと大き過ぎたから。あなたは、あなたが悪いわけでは無いのです。
少し、もう少しここで考えて見ませんか?あなたの知らない大事なあなたに関する出来事が、まだ残っているという事は無いでしょうか。もしかしたら、記憶も少しだけなら、思い出せるかもしれません。こんな素敵な青空の下で、考えたら、少しは思い出せることが、あるかもしれません。もう死のうと決めているのなら、ここで少し努力してもいいですよね。」
「まあ、死ぬ瞬間にはそれまでの人生を走馬燈の様に思い出すと言われていますから。まさに死ぬ最後という訳だ。でも思い出せるだろうか。一度失った物は取り返せないとも言いますよ。信頼とか信用とか愛する人とか。ねえ、あなたは私のことを知っているのでしょう?僕にも愛する人がいたのでしょうか。信頼出来る友人や知人がいたのでしょうか。それともただ一人で空を寂しく見上げていたのでしょうか。でも、僕は今、孤独にあこがれる。
孤独は誰も傷つけない。
孤独なら愛に悩まなくて良い。
孤独なら嫉妬しなくて良い。
孤独の中でなら僕は生きていけそうだ。
でもそれは生きるということなのだろうか。
人が生きていく中で、孤独を愛してしまうということは、存在する意味がないということでしょうか。やはり、人々の中で生きるのであれば、僕にはどうにも生きる価値が見つからない。想い出にあふれる楽しそうな人を見ることは、苦しい。そんな思いをするのは、もう嫌なのです。ならば、孤独を愛するしかない。この世に存在する意味はない。」
「そんなに断定は思い込みで、事実ではありません。あなたが正常に記憶があったとしても、過去を正視するのは勇気がいります。それより、あなたは一人でないことに気がついいるはず。さあ試してください。あなたの内なる心に気づいてあげてください。嫌な事なのかも知れません。でも、あなたの一部であるはずです」
「内なる心?、この頭の中の存在のことですか?この存在があなたにはわかるのですが。僕だけじゃないんだ。でも、これはきっと、ただの二重人格ですよ。僕の弱い自分の姿です。B面なのです。情けなくなるから、やめてください。」
「思い出しましょう。二重人格などではないでしょう。その声はあなた自身のものです。たとえあなたの本心で無いとしてもあなたにとって大切な話なのでは無いでしょうか。今良く無い事と思える事でも大事な何かが秘められている可能性も有ります。あなたがいま疎く思っている内なる心は、あなたにとって重要なのです。聞いてみてください」
「いいですよ。でもずいぶん拒否してきたから、あちらは話し方を忘れたかもしれない、抑え込むのは大変だったんですから」
僕は、ただ心を静かにした。それだけだった。
― そうです。お話をするのは久しぶりです。でも貴方を見捨てる事なんて、そんな事無いですよ。私はいつでもあなたを見守っていた。それは私があなたの中に住む者だから。ほかに逃げようもない。私はあなたの視点でしか物を見ることしかできない。わたしとあなたがどういう経緯で一緒の頭の中に生きていられるのか。それはあなたの暖かい犠牲によるのです。元々私とあなたは異なる生き物でしたが、私がひん死の状態にある時あなたは、私を迎え入れてくれた。
― でもそれが原因であなたの脳や精神に負担が生じて記憶の領域が冒されてしまった。こうなってしまそれなのに、あなたが記憶を無くしつつある時でも私はあなたの記憶を保ってあげることができません。あなたに負担を強いているのはわたしの存在なのに・・・。
「それじゃあ、あなたは、僕の何を知っているっていうんだ。生きている時幸せだったのか。それだけでも教えてくれ」
― すみません。私は、ただの間借者なのです。あなたの記憶を整理することはできない。でもそうだ。あなたの記憶の断片を読み取ると、あなたの記憶を失った人生は愛情に満ち溢れていた。私が今、こうやってあなたの脳の片隅で、心安く住むことが出来ているのが、何よりの証拠。私も残念ながらあなたの見たものや聞いたもの、それを記憶をできない。私は今のあなたしかわからない。しかし、あなたの脳の中に生きている様々な断片は、ここまで触れ合った存在すべて、そう関わった全ての人が残っている。だから、安心してほしいのです。
「そんなことで、安心できるもんか。そんな、慰め事はいくらでも語れるでしょうよ。僕が可哀想だと思えばいくらでも。あなたは、僕の一部だから僕に優しい人だけなんだ。でも僕は事実が知りたい」
― そんな事はしません。それはあなたにも、私にも、誰の役にも立たないから。わたしの知っている断片的な事実が告げているだけ。私にできるのは、今ここにある断片を解析するだけ。
「そうですか。実のところは、あなたは何も知らないのだ。ではやはり僕はこのまま死ぬしか無い。少し期待してしまったが、残念だ」
「待て」
僕は、いつの間にか閉じていた目を開けた。目の前には、先ほどの女性とは別な人がいる。しかし先ほどの人は女性と分かったが、今度のは存在のはっきりしないぼやけた人影。その人は僕が何か言う前に口を開いた。
「死ぬ死ぬ、言うのではない。一度肉体を失えばもう二度と手には入ることはできない。この世界というものは、努力や運で多くの物事を手に入れる事が出来るが、できない事も有る。みんな生きとし生ける者は、そのことを本能的に解っている。でも人は、そのことを理解出来ないと思い込んでしまう。人間はそれをプラスに使うことを学んだ。当たり前の様に思うかも知れないが、その様な遺伝子が残されたためにこの様な進化を遂げた。今ある文化や芸術、スポーツや政治、経済、できることに制限があると考えたら、その終着点を知っていたら、人間の発展は遂げられなかったと思わないか。
もちろんデメリットもある。そのために人間は希望や夢、高い理想が無いと生きていけなくなってしまった。これは一つの到達点だが、生命として決してマストな命題ではない、と思わないか? 本当に理想が高くないと人間として、いやここは生命としてというべきだな。考えに考えることが本当に最高なのだろうか。
あるいは愛や生きがい、という事象こそは、人間が存在する第一の理由と考えるものもいるな。いずれにしても、それらの理由が無いと生きる価値が無くなったりするのだろうか。そして、お前の言う全てのことを記憶しながら生きて行くことがかけがえの無い幸せなのか?お前は、自らのと言うことに囚われ過ぎていないか?
私は、ただの行きずりのものだ。お前が記憶を失った理由や、お前が幸せだったかどうか、という問いに正しく答えられない。しかし、考えられるヒントは持っていると思う。いつの時代もどんな生き物でも結論を導き出すのは、自分自身なのだからな。
ヒントが知りたいのか?自分で考えて見るのだな。例えば、お前が当たり前と思っていたことが、実は間違っていた時、普通の人間なら、それを“受け入れない”だけで終わる。こう言うんだ“私とは違う人間だから… ”それでおしまいだな。知らなかったことにすれば、もう考えなくてすむから。便利なものだ。
でも、お前には、記憶がないのだから、その選択肢で、受け入れることを選ぶことができる。直面している事実を受け入れた上で、新しく素晴らしい生き方ができるはずだ。それは、お前にとって辛く厳しい選択かも知れないが、無駄にはならないだろう。いつもその場でベターな判断ができるのだ。過去にとらわれず。少し冷静に考えてみろ。このまま生きて行くことに意味が、本当にないのかどうか。」
僕は、この人は勝手なことを言うのだろう思う。この人は、声は女性のようだが一方的で断定的だ。僕を理解しようとしない。うっすら怒りすら感じる。
「それは嫌だ。記憶を失ったまま何の幸せがあるのだ。記憶を失っているだけでも、その不安感は耐え難いのに。あなたは人の気持ちもわからずに、よくもそんな事を言えるものですよ」
「その記憶云々については、自分で選んだ道だろう。耐えるしかないな。多少、私が手伝ってやってもいい。今は辛いかも知れないが、必ず納得できる日が来るはずだ」
「いやだ。だめです。お願いです。わたしに記憶を戻してください。あなた、できるのでしょう?僕に引導を渡しに来た人なのではないのですか?ねえ、一瞬でも記憶が戻れば私は喜んで地獄に落ちましょう。私は孤独という不安に耐えられないのです。孤独という深い穴から這い出す事を望むのです。」
「そうではないだろう。お前は、ただ孤独をマイナスな感覚としてイメージしているのだ。だが孤独というのは、悪いことだけでは無い。孤独の中にあればこそ、様々な痛みや悲しみが分かるはずだ。記憶は深く残らないとしてもお前の周りには暖かさが満ち溢れるだろう。なあ、毎日の生活と社会的な意義に追われることは、本当に人生をかけるほど大事なこと言えるのか? 私はそう思わんな。お前が、今を本当に心から納得できるような営みこそが大事なんだ。
しかし、人間はどうして自ら呪縛を作り悲しみながらその中でもがく事を喜ぶのだろうな。人間は、個性的なものや人と異なる事を優遇するくせに、群れの中にいる事を望むのだ。全く、矛盾している。」
「それは群れに中に居るから自分の個性が引き立つのです。一人では個性なんて意味が無い。」
「では聞くが、全員が個性的になったらどうするのだ。」
「それはあり得ない。個性的になる、と言うことは、教育や社会を活性化するための論理ですから。みんなが個性的になったとすれば、もう個性は無くなり、まともな社会は形成されない。その中で個性も協調も無いですよ。まあ、確かにいたずらに個性的であれ!というのは詭弁ですけれどね。例えれば、誰でも儲かる本を、皆が実践すれば儲かるということはなくなる。個性を求めれば、それは時期に個性で無くなるかもしれない。しかし、実践するのは一部の人でしょうから。個性や儲け本はなくならない。」
「そんな個性なんて意味が無いだろう。人と違う事するという目的や金銭的に意味があるような個性は本当に必要なのか。わからんな。」
僕は、もう正直に言うと、個性なんてどうでも良かった。
「そう。でも問題は社会の仕組みではない。僕の抱える問題なのです。あなたの言うことは正しいのかもしれない。でも僕は今、温もりが欲しい。僕が一人でなかったという。」
人影は僕を見つめる。
「お前は、昔も今も一人だ。それより、お前の心にはすでに支えがあると思うがな。他人が作って言葉を真に受けて、いたずらに孤独を怖れているのではないか。お前は今、新しい一歩を踏み出せるのではないか。厳しい一歩なのかも知れないが、普通では経験できないほど、貴重な一歩になると思うぞ。」
僕は、人影を見つめる。ぼんやりとした中にも顔のあたりには光る眼がある。その光は美しかった。子供のころ、ビー玉を太陽にすかすのが好きだった。ガラスの中の気泡は、同じものはなく、様々な形できらめいているのを見るのが好きだった。そんな記憶をふと思い出した。
僕は人影と対峙する。
「しかし、僕は今を生きる普通の人間ですよ。そんな偉大な人になりたいわけでないのです。僕が、今死のうという言う道を進んだのは一つの事実ですから。これは、ここまで生きてきた僕自身のきっと覚悟の上だと思う。記憶を忘れているが、きっとそうです。こうなるのを少しは予想していたのだと思う。でも、僕は最後に暖かさを感じたい。それだけあれば安らかに死ぬことができると思う。」
人影は、やはり僕の目を見ていた。じっと見ていた。
「ふむ。どうしても記憶を戻したいのか。上手く記憶が戻るかどうかはわからないぞ。記憶が戻っても戻らなくても、お前は、それを選択した以上、その後を生きる事はできない。本当にそれでいいのか」
僕は、やった、と思う。お礼を言わなくては。心から、お礼を言いたい。
「僕はそれを選択する。ありがとうございます。覚悟しています。僕は、きっとすでに生きる事に執着をなくしているのでしょう。これが、一時的なものか、そうでないのか、私にもわからないです。ただ、僕は記憶を戻しても死を望むような気がするのです。そんな気がします。これで記憶が戻ったとしても、生きたくて後悔する事になるとは思えません。」
僕は、心からそういった。
「生まれる事に自由が無いのなら、死ぬ時は自分の判断をしたいと、思うのです。自殺がいけないのは宗教的倫理的にいけないのでしょうが、考える事の許された人間の特権と言うことはできないでしょうか。動物の中には自分の死期を悟ると姿を消す物も居ると聞きます。本能的に自分の晩年がわかるのでは無いでしょうか。それは動物なら体の健康でしょうが人間ならそれに精神的な健康度を付け加えるべきでしょう。僕はその点ですでに健康ではありません。今、得たいものがあるという目的を達成して死ねるという、絶好のチャンスを逃してしまえば、後の生活は、生きる屍になるかもしれない。僕はそれを恐れます」
僕は一息つく。
「そもそも、理想論だけでは生きる事はできないと思いませんか。もしあなたたちの説得に折れて今後も生きるのなら、その後の生活は、あなたたちに対する義務で生き続ける事になりますよ。僕はそうして生きる事にどこまで耐えられるか、見当もつきません。いずれあなたたちの手を振り切って死のうとするでしょう。」
僕は目を閉じた。人影は言う。
「それでも、生きてほしいものだな。―人が生きる事は何かの義務を背負う事になるのは避けられない。もちろんそれから逃げるのも自由だが、生きていれば、もっと重要なものにめぐり合えることは間違いない。それを放棄してしまうことになるのだぞ。」
「いや、だめです。もう、ね。いいですよね。死なせてください。もう十分ですから。」
人影は言う。
「そうか。残念だが、そういう結論もあるかもしれないな。いいだろう。さて肉体的には正常と言えるお前の肉体が死ぬのだ。身体と心に大きな負荷がかかる。死ぬのも楽ではないぞ。覚悟しておけ。それから、これも重要な事だが、お前を支えている内なる心の持ち主は、お前の心から分離する。その時に記憶はいくらか戻るかもしれない。お前の傷ついた心への良い贈り物になる事を祈っている」
「良かった。内なる心の持ち主は死なずに済むのですね。道ずれになる気がしていました。でもやはり私が勝手に想像した頭の中の産物ではなかったのですね。良かった。気が狂っていたわけでは無いのだ。」
「私は、お前に生きて欲しかったがな。お前の心は内なる心が引き継いでいくかもしれない。お前の心の死と内なる心の生が、真に正対した時、新しい何かが生を受ける。」
「僕自身は、生まれ変わったりはしないのですね。」
「生命が終わるとき、新しい何かが生まれることもあるということだ。でもそれは、すでにお前ではない。たとえばだ、老年の星が新星爆発を起こして、その核から星が生まれる時、組成は変わらないとしても、やはり違う星といえるだろう。」
「十分です。僕は、魂云々は信じないたちです。でも超新星の様に新たな星のかけらになるならそれは嬉しいですね。僕は僕が誰と話しているのか分からなくなって来ました。」
僕の気持ちは、晴れ晴れとしつつあった。そして無性に悲しくもあった、しかし。しかし!このような女性や内なる声に見とってもらうのは、悪くない。ものすごく、悪くないではないか。
僕は、そんな気持ちを隠したくて、つまらないことを口に出すしかなかった。
死ぬのはどれくらい苦しいのだろう…、と。
人影は、もう何も答えなかった。しかし僕を何年も付き合ってくれた親友をみるような優しく暖かな光で、見つめてくれた。僕はうれしかった。そんな、今ここにある優しさだけで、生きていけそうだと思うくらい、優しい光だった。内なる心の声が聞こえる。僕は、涙を流すまいと、言葉を続けようとしたが、体が自由にならなかった。ただ、聞く。そうだ、この声は、僕の心に明かりをともしてくれ続けた、あの声だ。
― わたしはあなたと一緒にいられた事を忘れてしまいます。でもあなたと過ごした時間はけっして失われずに私の心の一部として永遠に残るでしょう。それは私の個性の一部として、私の遺伝子の一部として確かに受け継がれます。ありがとう。そしてさようなら、です。
僕は思う。忘れていた記憶が少しずつ戻るようだ。僕の失われた記憶が、何かから解放されていく。僕は思う。確かにこの世に生きていた。そして、僕は、確かな存在のある人間としてこの世の別れを告げられる。悲しいことがあった。喜びもあった。忘れていた単純な感情。こんな簡単なことは慣れてしまうと分からないのだろう。でも今、僕は痛烈に感じる。
僕は懐かしくて優しい思い出に包まれながら、意識が薄れるのを感じている。想い出は感情の多様性を示す。あまりに多様な感情が僕を襲って、僕は怖くなる。恐怖や怒り、怒号。底なしの闇に捕らわれる。想い出はいいものだけではなく、苦しみや妬み、それは僕の気持ちだけではなくて、人から受けるものもある。僕は忘れていた。感じられることが、僕の唯一の頼りだった。その喜びが、それが僕を底なしの暗闇から救う。生まれて来て良かったんだ。いろんな人と出会えて良かったんだ。僕はいろいろ経験していた。忘れていることもあったが、これで良かった。そして、そうか、僕はあまりに悲しい思い出から逃げるために、あなたと出会っていたのだ。あなたは私の記憶を消して、内なる心を埋めてくれた。苦しいが、うれしい。今まで、ありがとう。さようなら。
― 去ってしまった。この人は。自分の記憶を抱いて、二度と思い出すまいとして閉塞した悲しみをわざわざ思い出して、ほんのわずかな暖かい思い出に浸りながら。私はまだ温かい彼の体から離れられずにいる。心臓は脈打とうとしない。少しずつ体の温度が下がる。脳の複雑な電気回路が閉塞する。
人影が言う。
「お前の務めは終えた。ご苦労だったな。お前はこの人の心を引き継ぐこともできるが、固有の記憶を残したままでは、お前に今後再生の機会がなくなってしまう。お前の成長はお前固有のものだ。それ以外は残せない。立ち去りなさい」
― もう少しだけこの人の温もりを感じていたいのです。あるいはこのまま海に蒔いていただくのは、駄目でしょうか。
「その願いは、かなえられない。心から出たほうがいい。これ以上は、お前まで召されてしまう。さあ。新たな生命として生まれ出ていくのだ。また彼のような心の持ち主に会うこともあるだろう」
― わかりました。あなたにお任せします。私はまたヒトの命に触れたい。穏やかで暖かい命に。
傍観者だった私の意識が、その女性から離れたとき、三つあった何か、魂のようなものが、ろうそくの日が最後になってふっと消えるように、感じられなくなっていた。そしてもう一つの気配が静かにどこかへ去って行く。残された一つの心は、しばらくそこに居続けた後、静かに立ち去って行った。私はただ、凪ぐ海と青い空を見つめていることに気がついた。そこには、誰も居ない。何の存在も感じられなくなっていた。全く、何の苦しみもなかったかのように・・・。
何かが、終った。
いつのまにか目覚めていた。涼音は自分の頬がぬれているのを感じた。わたし、私は誰だったのだろう。混乱の中から徐々に現実が見えてくる。悲しい。ただ悲しくて泣いていたのだ。夢は映画のようなものだ、ただで映画が見られるなんて、得だと言う話を聞いたことがあるが。私はお金を払ってもいいから夢を見たくない。それでも夢は内容を選択しないで、私に見せ付ける。私は夢の中で何をしていたのだろう。何もしなかった。何も出来なかった。あの人は死んでしまった。夢であれ、死を見取るのは寂しい。
涼音は、自分は何か精神的に参っているのだろうか、と思った。みんなこういう夢を見るのだろうか。自分にあまり関係がない世界。そんなまるでパラレルワ―ルドのような、別世界の夢を見て絶望を感じているのだろうか。どうにも頭の中では、解決しづらい。
それに一つの肉体に心がふたつ宿るなんて、おかしすぎる。昔から小説は沢山読んできたが、その影響なのだろうか。こんなことを考えるのは、どうかしているかもしれないが、あの世界が実現するものだとしたら、こんな悲しいできごとが、あの世界で開放するときがあるのだろうか・・・。私は悲しいし、あの世界に人たちを慰めることもできない。最後に天に召されたあの人は、幸せに死ぬことが出来たのだろうか。幸せかどうかは、もちろん私には分からない・・・。しかしあの人は、納得はしていた気がする。それで人の悔いや悲しみは癒されることがあるのだろうか。彼の気持ちも、彼の頭の中から新しく生まれた何かも、そしてただ寂しそうに海を見つめ続けるあの女性の気持ちも、わからない。




