第3章 森と湖と月
1.
太陽がK市の町並みをギラギラと照らしている。嫌な梅雨の時期を終えてやってきたのは、連日強烈な暑さの夏であった。大学は夏休みに入り、ほっと一息つける時期であった。
涼音は、大村から意外な申し出を受けた。
「温方先生、気分転換に山でも登ってみませんか」
涼音には余り楽しくなさそうな話であり、いかにも気が乗らない様子で返事した。
「山ぁ?この暑いのに?それに、調査でさんざん田舎で山に近いところにいるのに、どうかねえ」
大村は、その返事を予想していたかのようだった。
「まあまあ、そんなに大変なことではないですよ。少しは気分転換も必要でしょう。最近ずっと大学に缶詰でしたよね」
「大村君もでしょう。そんなものでしょう、みんな」
「山は涼しいですよ。実は、それほどきつくなくて楽しめる、良い山があるんですよ」
「涼しいっていっても、汗だくになるんでしょ」
「夏ですからね、汗はある程度かかないと、逆に体調悪くなりますよ?」
「そおかなあ?平地を歩くのはまあ、自信あるけど。山となるとからっきし自信ないな」
「大丈夫ですよ。涼しい山中に満点の夜空、帰りには温泉も有ります」
「ふむ?おんせん?・・・、満点の夜空に温泉か、なんかいいね」
「でしょう。よし、そうと決まったら日程なんですが・・・」
涼音は上手く言いくるめられたと思ったが、いつも世話をかけている大村であるし、付き合ってあげても良い気がした。おそらく、付き合ってくれる山友達がいないのだろう。こういうのも、准教授として上司の役割なのだ、なかなかつらい仕事だ、と思った。
大村が、友人から借りた車で涼音を迎えに来たのは、まだ夜明け前、それも相当前の時間帯だった。そのようなな時間に起きたことのない涼音には、前もって聞いてはいたが、苦行としかいえなかった。さすがに準備を手伝うといった大村の申し出は断ったものの、準備が整って外へ出てきたのは、かなり後のことだった。一応申し訳なさそうにしていると、大村が気を使った。
「まあまあ。織り込み済みですよ。しばらく車の中で寝ていてください」という大村の得意げな顔は涼音の罪悪感を消してくれたが、怒る気にもなれないくらい眠かった。
「もちろん、そうさせてもらうよ、道案内なんて期待しないように」
「地形学者にナビさせるなんて、豪華だ思ったのに!」
そう言いながら、おんぼろな車だなあ、と涼音がまじまじ見ていると、大村が少し得意げな顔で言った。
「この車、いいでしょう? 友人に無理言って借りてきたんです。今じゃもう売ってない車で、ディフェンダーという車です。エンジンはモーターに改造してありますが。粘り強いトルクは健在です。いいでしょう。この渋さがいいんだよなあ。今でも英国陸軍で… 」
「いやあ。そうね、まあ、古くていいんじゃない…ははは」
嬉しそうな大村には申し訳ないが、涼音には、こんなぼろい車で山道などを走ったら途中分解するのではないかと思い、いくつか車の外側にむき出しのリベットを確かめた。
出発後高速道路で2時間、さらに登山口まで悪路を2時間たっぷりかかった。涼音は、これでは登山じゃなくて、ドライブじゃない。だまされたな、などと思った。ウトウトしながら車に揺られて登山口についた時、時計は7時をさしていた。
登山道は起伏が大きく数時間で到着すると言う割には、歩きには以外に手間取った。初心者でも行ける登山道という振込であったが、確かに林道のような道であった。もう何年も車は入っていないようだ。
涼音は、とにかく黙々と歩くことに専念しようと思っていたがが、森の中に入ると、さまざまな匂いを感じた。これは懐かしい自然の匂いだ。コケだったり、松脂だったり、知らないものも多い。
「もう少しで峠に出ますよ」
涼音は、うう、と小さくうめいた。この分だとまだまだ歩かされそうだと思って、つい泣き言を言ってしまった。
「結構疲れたな、一休みしたいのだけど」
「もう少しなんですけどね、しょうがないな.じゃああそこの尾根まで行くと小屋が見えますから、そこで一休みしますか」
「ふう、よかった!」
そのあとの、尾根まで出る道は急傾斜で大変なのだ。とはいえ、ほんの15分くらいであるのだが・・・。大村は、この“わずか15分”のつらさを良く知っている。大学時代はワンゲル部で様々な山に行ったが、鍛えていなければ当然つらいし、鍛えていれば、それだけスピードも上がるわけでやはりつらい。結局山を登るのはその試練から避けられないのである。それを承知で山へ登る。単なるストイックだとか、修行だとする人がいるが、大村はそうは思っていなかった。それに見合う、何かがあるから。他の人も全て同じではないだろうが、大村にはとても大事なものであった。それが涼音に合うかどうかは分からないが、分かってもらえそうな気がしたから誘ったのだ。そこには、地上では見ることのできない、素敵な“何か”がある。それは、一度は見る価値があって、はまる人は。そのまま山好きになる。だめでも、その“何か”は一生記憶に残る。
尾根直前の最後の急登では、くそ~だまされた!などと涼音らしからぬ悪態をついたが、そんな悪態をつく涼音を見ることができて大村はうれしいと思った。今回こそはいい気分転換になっているのではないか、と思った。
尾根を越えて、一息つける場所に来ると・・・涼音はえらい剣幕で怒り始めた。
「ちょっと、山小屋なんてないじゃない!だましたってわけ?」
大村はうれしかった。大成功だ。
「ははは。そうでも言わないと登ってくれなさそうだったので。すみません。だましました」
大村は冷静にそういった。正直に言うと、尾根に登れば小屋は見えます、と言ったのであって、小屋があるとは言ってはいない。しかしそんなことは、どうでも良い。
「まあまあ。でもあそこですよ、山小屋は。もう10分です。見てください。きれいでしょう」
大村はそういって、尾根の反対側のずっと下に見える赤い屋根をゆびさした。そしてその周辺は深い森林に覆われていた。
小屋の隣には湖があるんです。気持ちがいいですよ、と大村は言うと腰を下ろした。
涼音は、景色を見たくらいでは心穏やかにはなれないと思った。あっさりだまされたのは不覚だったし、ここらで形勢を逆転しておく必要もある。しかし・・・。
小屋の方を見つめた。小屋は少しくぼ地のような地形をしており、それはかなり広い。そして向こう側には屏風のようにまた別の山が立ちはだかっている。こちらの尾根よりもずっと高い。こちらの山もそうだが、びっしりと深い緑に覆われている。その緑色は、深い、静かな緑色だった。その中にぽつぽつと湖、というか池がある。平坦な地形が広がっているからか、地下水位が高いのだろうか。でも火山の地形だ。多孔性の岩石は地下水位を低下させる。だからそうではない何かがあるのだろう。
そんなことを考えていると、重い荷物をどさっとおろした大村が言った。
「よし! すこし、休みましょう」
「うん」
涼音もつられて腰を下ろした。しょったザックを降ろすと、恐ろしく体が軽い。心まで軽くなった気がする。
「うわぁ~気持ちいい。こんなに体が軽いなんて!」
「でしょう。頑張って背負った甲斐があったといういもんでしょ。何かしら山でやることってのは、報われるものですよ。それに、登りがつらいのはここだけです。あとは湖と森を歩くのと、少し林道歩きがあります」
「ふん、もうだまされないわよ。その少し、ってのには」
涼音は、下りはラクだろうと思っていたのだが早々に裏切られた。木の根をつかんだり、岩をつかんだり、結構な落差を降りたりして、なかなか歩くだけというわけではない。しかし5分もそんな道を下って振り返ると、さっきまでいた尾根はずっと遠ざかってはるか遠い位置にあった。
結構たくさん降りたんだな、登るのは相当な時間がかかったのに降りるのは簡単だなと思った。その後は次第に傾斜がゆるくなり、しばらくすると平坦地になった。木々の育ちもよく深い森だった。森が深いためか、中背の木が成長することはなく地表付近の視界を良くしている。道沿いには、コケがびっしりついており、美しい緑のじゅうたんのようだった。絨毯は地形や岩なりに張り付いており、縦横無尽に張り付いている。それは涼音に、自然が作り上げた庭園のように幽玄な感覚を引き起こした。やはり火山性の地形の表面には耐水性の表層があるのだろう。これだけ植物がしっかり成長するには、何万年もかかっているだろう。
さらに5分ほど歩くと山小屋に出た。山小屋は、ログハウスのようだが、そのカタカナの与える洋風な印象とは異なる、と涼音は思った。そう、単純に森の中の家という存在だった。見事に自然に同化している。人間が住んでいるが、それも自然の一部であることを証明するような建姿であった。
「いい雰囲気でしょう・・・」
大村はそう言いながら、山小屋に近づいてゆく。涼音も従い歩きながらよく見まわすと、山小屋の周りには、太古の昔からそうだったように平坦地が広がっており、涼音一人では抱えられそうもない大きな木々が立っていた。庭には、リスや小鳥でも来るのだろう、えさ置場や、巣箱がある。それは人為的なものには違いなのだが、違和感はなかった。こういう形で自然と同化できたら、どんなに幸せだろう。
山小屋はがらんとしていた。しばらくすると奥から主人と思しき人が出てきた。しばらく大村とそのおじさんは見合っていたが、ずいぶんお久しぶりでないの?というおじさんの一言で二人は前回訪れたときの事を話し始めた。
それがひと段落すると、涼音は自己紹介しておじさんに山小屋の中を紹介してもらった。とはいっても何部屋もあるわけでない。特に寝る場所は屋根裏部屋としかいえない場所だった。しかし木の懐に抱かれるような、そんな木の匂いが充満する心地よい感覚であった。
そんな感覚を大村に話すと、そうですね。しかし…、と大村は続けた。
「満室だと悲惨です。基本的に山小屋は来た人は拒みませんから、入らなくても、詰め込まなければならない」
「そうそう。わしも何度も満員で、管理人室も解放して畳み半畳で寝たよ。もうあれは悲惨だな。寝れたもんじゃない。一晩中ごそごそして、他人のいびきを聞く、もっと腹が立って、眠れなくなる。外でテントでも張ったほうがどれだけマシなことか。」
「テントも、すごし難さは変わらないですよ。雨の中のテントは、なお寝れない。おまけにラジオを聴くとさだまさしの鐘楼流しなんかを聞いてしまって、余計しんみりする」
「だなあ。何しに山なんかにくるんだか」
そういって二人はガッハッハと笑っている。
他人の経験は、たいていはつまらないものだが、涼音はまるで自分が体験したかのように楽しいと思った。山と言うのは不思議な空間だ。もしここが高級マンションで、お風呂に入ってソファに座ったとしてもこういう感覚は得られないだろう。ここにはお風呂もない。そうさっきの登りで汗びっしょりなのに、シャワ―を浴びることも出来ない。だけど少しだけぬらしたタオルで体を拭くと十分気持ちがいい。山の中だが、都会よりずっと人臭い・・・、そんな場所だがとてもいい気持ちになった。
さっぱりすると、おなかがなった。階段を下りると、荷物の整理をしている大村がいたので、おなかがすいたのが分からないように、さりげなく聞くことにした。
「食事は何時からなの?」
「お腹がすきましたか?それは良かった。たまに食べられない人がいますが、そうなると明日の歩きは少々つらい。お腹がすいてれば大丈夫」
そんな太鼓判を押されるより、なにか食べたかった。
「食堂で食べるんでしょ」
とんでもない。僕に任せてもらいましょう。大したものはできませんが、といって大村はザックから調理道具取出し始めた。
「しばらくそこらをブラブラしてください」
おじさんもやって来ていった。
「そうだね、小屋は基本的に泊まるだけのものだ、食い扶持は自分で持ってくるのが基本だな。それに、簡単でも作った方が上手いよ。まあ、御嬢さんは湖一周くらいしてきたらどうかな?小さい湖だけど」おじさんも同調した。
「とはいっても、期待しないでください。そういえば以前、山で焼肉をやったことがありますけど、疲れていてほとんど食べられなかった。余った肉を泣く泣く小屋に寄付したな。勿体無かったな。そうそう、豪華な食べ物といえば、ワンゲルでは先輩にスイカを持たされてね、そのヒモが切れて転がって谷底でぱっか~んと割れた光景は一生忘れられない。もう皆で大爆笑でしたよ」
もういちどガッハッハと笑っている二人を見て、涼音は、言われたとおり、小屋の外で散策することにした。まだ十分明るいし問題ないだろう。いい空気を思いっきり吸おうと思った。
ああ、ちょっと待っておなかが空いているんですよね。と大村がとめて何かくれた。酢昆布だった。
夕方、大村の手作りの食事は、涼音にとって驚くほどおいしかった。食事の内容は、白いゴハン、マーボハルサメとお味噌汁だった。どれも美味しかった。マーボハルサメが、こんなに美味しいものだとは、涼音は思いもしなかった。それに味噌汁は、ダシが効いていて、味噌は少ししかいれていないようだ。でも味はしっかりしていて食欲をそそった。白いホカホカご飯については、炊飯器もないのにどうやって炊いたのか、つい聞いてしまったが、嬉々として涼音を散々からかった挙句、教えてくれなかった。
食事後、すっかり日が暮れたが、外に出て見たいという涼音を、大村は止めた。
「やめてください。ライトを持っていても危ないですよ。山では夜行動しない方がいい。ちょっとしたことでも、何か起こると大変だ。まあ、尾根の小屋でないから大丈夫だとは思いますが」
「大丈夫ならいいでしょうが。ちょっとそこまで行くだけだから」
「しょうがないですね」
大村はそういってヘッドライトを2つつかんだ。
「別に付き合ってくれなくてもいいから」
それは言葉通りに受け取ればいいのか、大村にはよくわからなかったが、とにかく安全が問題だ。
「いや、心配ですから。一人になりたいのはわかりますが…。それなら何も言わないでおきますから」
「はあ、そこまでしなくてもいいよ。とりあえず、外の匂いを嗅ぎたいんだけだってば」
まあいいでしょう、といいながら、大村はもう靴を履き始めていた。
小屋から外に出ると、大村が心配したような闇夜ではないようだった。涼音は少し意外に思った。こういうところでは、真の闇が経験できるのかと思っていたが、そうでもなさそうだ。しかしこれは人工の光でないことをすぐに気づく。
「あれ、意外に明るいな」
続いて出てきた大村も意外そうな声だ。
涼音がある方向を指差す。
「ほら、あれ!わああ・・・すごい!」
小屋を出て何歩か歩くと、小さな湖で空が開けるが、その空が見事に晴れ上がっていた。快晴の空には硫黄岳という荒々しい峰が立ち上がり、そのはるか上に月があがっていた。まん丸な満月だった。
「おお…」
大村もこの場所で、満月を見たことはない。この小屋は五度目くらいだが、こういう機会はなかった。
静かに波ひとつ立たない湖を取り囲む森。空は天井なしの空間のように真っ暗で全てを飲み込みそうな暗さだ。そして真ん中には丸い月が、輝きを放って存在していた。それは月ではなく、恒星のひとつのようだ。その月があまりに明るく、周りの星星は全く見えなかった。まるで宇宙空間にひとり放り投げられたような、一人ぼっちに感じさせる、そして他の色彩を全く感じさせない壮絶な美しさだった。
ふたりはしばらく無言でその月を見つめていた。静止した空間の中、ほとんど止まっているような景色だが、月が動いているのが分かるような気がした。地球は、自転により、ほんの少しずつしかし確実に動いていた。その動きすら感じることができる、長くも美しい時間と空間の狭間がそこにあった。
しばらくその時間と空間を堪能した後、涼音がポツリとつぶやくように口を開いた。
「空気がきれいで、周りに全く光がないから、こんなにきれいなのだね」
「そうでしょうね」
涼音は、周りを見渡した。
「ずいぶん目が慣れてきたよ。ここはきっと数十万年前までは火山が活発で焼け野原だったのだなあ。それがこんなに緑豊かになるなんて自然の力ってすごいよね。ああ!感激だな!」
その言葉を聞いて、大村は、なるほどなと思った。この人は構造地質が好きなんじゃなくて、自然の作る造形美が好きなのだ。地質学者じゃなくて、地理学者なのだ。こうやって、地球が作り出した土、岩石、海、川、そしてこれらを削ったり流したりする水や大気。こういったものに取り囲まれるのが好きなのだ。研究室にも、曲がりくねった雨竜川の空中写真や野付半島、サロマ湖など写真が飾ってあったり、その辺においてあったりする。きっとそれらに取り囲まれているのが安心するのだろう。
「懐かしい感じがするよ。こうやって緑の森に取り囲まれていると…。きっと私たちの祖先から持ってるDNAが刺激されるんだよ。まるで宇宙の中に取り込まれそうだよ。怖い… ちがうな、おそれかなあ。ふふふふ。人の悩みなんて宇宙の底なしの広さに比べれば何ともないよね」
不思議な感覚を持っている人だ、と大村は改めて思った。
2.
大村は、なんて答えればいいのか迷った。この人は何を抱えているせいで、このような発言をするのだろう。大村は、涼音とは数年程度の付き合いであるが、十分に理解で来ているとは言えない。この人は、ふれあいが深くなりそうなところになると、それを避けようとする。そういう人との付き合いは、これまでもあった。さまざまな人との出会いという点で大村は自信がある。高校卒業以来、浪人、大学、大学院、研究所など一つとして同じところに棲んでいない。そうやっていろいろな人と出会い、友人となったり、別れて音信不通になったりしたから、大抵のタイプには出会っていると思っていた。しかしこういう人とは出会ったことがなかった。最初から人との交わりを避けようとする人もいる。それは、本来話すのが苦手な人だったり、自分にあまりに強いこだわりのある人だったりするわけだが、その程度であれば時間をかけて話をしていけばある程度わかりあえるのだ。しかし涼音は、そういう孤独を愛する人たちと同じではない。では何が違うのか。一つ感じることがある。涼音は、自分の本質が人に理解される事を嫌がっている。そのような感情は、大村自身の経験で言うと開き直って何度か披露してしまえば、恥ずかしさに慣れてしまい、なんでもなくなるのだ。恥ずかしく隠しておきたい“ちょっとした何か”というものは、人にとっては大したことのない戯言であることのが多く、自分の強力な決意の元にそれを語っても、あっさり流されたりする。ただ、人と違うのではないか?という思いから告白できないものだが、涼音の場合は、何かもっと重大な、話すことを誰からか禁じられているような、そんな気がするのだった。そういう気持ちを開放する機会がなかったのだろうなあ、と大村は思った。
他の同僚は、あの人は孤高の人だからね、ある意味変人だよ、だからあんな不思議な才能があるんだ、と言っていた。そうかもしれない。それを全部否定するつもりはない。でも、いつか“ちょっとした何か”の断片でもいいから語ってはくれないだろか。それが言い出せないなら、そういう機会を作ってあげればいい、それも、長年の旅の生活で大村が学んだことであった。
とはいえ、こんな美しい風景を目の前いにして貴重な体験をしているのに、溝を感じるのは、あまりいい気分ではない。涼音もこの風景を特別な目で、耳で、肌で、感じているはずだ。何か特別な話が出来るチャンスだと思うのだが…。しかし今、涼音は自らの世界に入り込んでいて、取り付く島がないように思えた。大村にとっては、身近な上司である涼音の孤高さは、誇りでもあるが、身内にそれでは困る。とにかく言葉を交わさなくては理解できないのだ。二人はお互いにすれ違いながら何かを模索していた。暗闇に浮かぶ月は、静かに暖かく二人を眺めていた。
3.
散歩を終えた二人は、山小屋に戻った。そのあと、談話室でおじさんたちと雑談をたっぷりした。テレビもパソコンも、携帯端末もない。天井にぶら下がるランプの化学反応の匂いの下、人と、言葉だけがそこにあった。何もないが、実は必要なものは全部あった、懐かしい空間だった。大村の話によれば、今時こういう古き良き山小屋はきわめて少ないそうだ。有名な山小屋では、衛星ネットによる支払いや無尽蔵に使用できる電力、水などなに不自由しないことも多いらしい。大村はそれらを寂しそうに、失われた文化と言った。涼音は今までそう言う事を考えたことがなかった。自然と人との結びつき。ただ人間は独自に進化してきた分けれはない。しかしながら涼音の生きる現代は、どこかで自然との共存を置き去りにしているのかもしれない。大村は最後にこう言った。
「資源と平和を勝ち得た人類は今、正念場です。これからどう進んでいくのか。自然と共存を取りもどすか、行くべきところまで突っ走るか…」
その後まだ8時くらいだったが、涼音は大村に合わせて、寝支度をした。夜はずいぶん冷え込むということで、寝袋と毛布を重ねた。大村は寝袋には入らなかった。
不審に思って、涼音は大村に聴いた。
「以前、初めて山に登る友人を、晩秋の南アルプス南御室小屋のテント場に泊めたのですが、やけに冷え込みまして・・・。夜中全く眠れず、寒さで殺す気か!となじられたことがあります。今日は小屋の中ですし、寝袋なしで大丈夫と思うのですが、先生用には、一応持ってきておいた、ということです。必要に応じて使ってください。僕は慣れているので、大丈夫です」
「そう?じゃあ遠慮なく・・・。まだ、随分早いわよ、お酒でも飲む」
大村は驚いて言った。
「まだ飲むのですか? 始まったなあ。今日はやめときましょうよ。さっき、散歩から帰った後にビール2杯飲んだでしょう。どうしてそんなに酒好きかなあ…、僕はもういっぱいいっぱいです」
「うふ、実はさっきおじさんにもらったの。ワンカップ、あなたの分もあるよ」
「はあ… しかしサケ強いですよね」
「だって、子供のころから飲まされていたし、私のせいじゃないよ」
「先生の武勇伝はいいですよ。それより、まあ、さっさと飲んで寝ましょうや。そうだなあ、僕が昔この小屋で聞いた物語でもしましょうか。本当かもしれないし、本当じゃあないかもしれない話です」
いいね、子供に帰った気分ね、と言いながら、涼音には子供時代の記憶は、竹やぶの記憶以外にほとんどないと気がついた。あれどうして私には、こんなありふれた記憶がないのだろう、と思った。
4.
その日は大雨の中、この山小屋に到着したんです。もうひどい雨で途中で引き返そうかとも思ったのですが、こういう日の山小屋と言うのは、結構すいていて快適なんです。それでがんばってゆっくり上りました。あの尾根をひいひい言って登り終えたとき、雨がすっと止んで、ものすごくきれいな夕焼けが見えたんです。大気中に水分が多いと、夕日がとっても赤くなることは知っていますよね。それくらい、格別にきれいな夕焼けでした。そのとき、ヤマビコが聞こえたんです。こんな雨のときに上ったヤツが、いたんだなあ、と思ったのですが、それ以上、気に留めませんでした
山小屋につくと、あの親父さんが出迎えてくれました。やはりその日は私だけでして、ゆっくり話をすることができました。岩茸を食べさせてもらったりもしました。
私は、ヤマビコの話をしました。私より先に誰かここを通過しませんでしたか?やまびこが聞こえたんですよ。
ははあ、あんたヤマビコを聞いたか、と親父はしみじみ言ったんです。
あんたも、ってことはおじさんも聞こえたんですか?と僕は尋ね返しました。
今、聞いたわけじゃあないが、俺も何度か聞いたことがあるんだ。そのヤマビコには、たまに聞こえるのだが、こんな話がある。俺も聞いた話なので、本当かどうかはわからないが・・・、と親父が語り始めた。
ずっと昔のこと。この山の向こう、谷を挟んだ向こうの土地には、昔、鉱山があったりして、それなりに銀や鉛が取れていたそうだ。そんな山中に貧しい夫婦が住んでいた。
夫婦は、大変仲が良かったが子供が無かった。お互いそれは残念に思っていたが、責めるわけでもなく日々を暮らしていた。じいさんの仕事は炭焼きで、つつましい暮らしをしていた。まじめに働きお金があるわけではないが、お互い不自由も無かった。そうなると二人とも内心、子がないのが残念でならない。しかし二人は口には出さなかったのだ。ある日,夫婦は共通の夢を見た。夢の中ではカミサマが現れてこういった。
「お前たちは、まじめでよい行いをする者たちだ。お前たちはいつも子供が無いのを残念に思っているだろう。お互いにそのことはいわないが、私には分かっている。地の神としては、お前たちがふびんでならぬ。だから子供を授けてやろう。ただし、わしの言うことを良く守るのだ。そうでないといずれ悲しい目にあうかもしれない。明日、白鷺の羽を集めて人形を組み、東の山の一番大きい竹の節を切ってその中に入れるがいい、よいな。」
翌日、夫婦は顔を見合わせた。同じ夢を見たのかどうか聞きあぐねたが、お昼ごろにはついにその話をした。お互いに子供が出来ないことに関して気を使っていたから。相手を悲しませたくなかったのだろう。二人は驚いた、あんたも同じ夢見たのかと。
白鷺の羽。それは里に下りて、捕まえないといけない。なかなか難しい。
夫婦は頭を抱えたが、お告げを同時に見たのも、何かの縁だと思い、じいさんは試し討ちでしか使ったことのない銃を担いで、里におりて田圃で数時間待って見た。夕方少し寒くなってきたころやってきた。その白鷺は美しい飛形で田圃の上を二三度回ると、すうっと降りてきた。そしてすぐにえさをついばむと思いきや、じっとソコに立っていた。その姿は微動だにせず、立つ姿は凛としていた。その姿にじいさんは、銃も構えずにしばらく呆然と見つめてしまった。
じいさんは,正気を取り戻した。あれは撃ってくれといわんばかりだ。あれなら自分でも打てるかもしれないと思い、その気になって,手持ちの銃を構えた。しかし銃の先を白鷺に当ててふと思った。その姿は整った美しい姿だった。撃てばあの白鷺は死ぬ…、それでわしらの元に子が出来る。それでいいのか…。
しばらく黙考した後、やめた!といって銃を投げた。
それは山で生きる自分たちの苦しさと厳しい自然の中で生きる動物たちに共感なのかもしれない。山で生きるものは全て何か関係があるのだ。じいさんは、獲物なしで山を登ってうちに帰った。
ばあさんは、白鷺を持ってこなかったじいさんをごく普通の一日と同じように迎えた。
夕餉の時間になって、白鷺が夕方に下りてきたこと、狙いを定めたが、上手く撃てなかったことをばあさんに話した。ばあさんは、じいさんの気持ちが分かったようで、黙っていた。そしてこういった。
そうだね、そんなきれいな白鷺を撃っては、かわいそうだものね。撃たなくてよかったよ。きれいな白鷺はきれいな子を産んで、わしらを楽しませてくれるよ。
そして二人で考えて、こう決めた。せっかくお告げをしてくれた神様にもうしわけねえから、ワラで人形編んで持っていこう。なに、夢なんだから・・・。
夫婦は、白鷺の羽の代わりに藁になったことを変えた意外は、夢のお告げとおりにした。それから3日3晩たった。3日目は大雨で雷もなり、大荒れの天気だった。そして3日目もくれようということ、どんどんと扉をたたく音がした。
扉を開くとそこにはかわいい女の子がいた。夫婦はこれこそがお告げのことに違いないと大喜びし,ウチの中に入れた。それから長いこと夫婦とこどもはたのしく暮らした。おじいさんが山で木を切って帰るときはかならず,こちらの山から谷を挟んだ向こうの家におおい~かえるぞ~と声をかけたもので,この辺でその仲のよさを知らないものは無かったそうだ。
やがて女の子は大きく成長し、器量よしのその娘は村で評判になったが、娘は嫁に行こうとは思わなかった。夫婦はそれをうれしく思っていたが、ある日、夫婦二人は、よく相談して、娘を呼んで話をした。夫婦は、お前を授かったことで、短い間とはいえ、どれだけ幸せに暮らすことができただろう。老い先の短いわれわれだ。お前へのお礼というわけではないが、われわれから離れて,お前の幸せを歩んでほしい、と。娘は強く反対した。私はこのうちから外へ出たくない。おじいさんとおばあさんと一緒に暮らすことが、本当に楽しいの。私の望みは、ただそれだけなのと言った。しかし、娘の幸せとしては、しっかりした身持ちの男との結婚であると考えた夫婦は、二つ山を越えた大きな町の息子との結婚を約束してしまった。その男は、見栄えこそよくないものの、正確は温厚で、よく仕事も出来る若者だった。
それを聞いた娘は、さめざめと泣きましたが、父母が、娘の結婚でもらえる宝物で、後々ゆっくり暮らせるのであれば、仕方ないと考えました。そして嫁入りを承諾したのです。最後の別れの日が来ました。
―お父さん お母さん,長いことありがとう
―町は遠いので,なかなか会えないかもしれない仲良く暮らしておくれ.
―おまえも,幸せにな.わしらも肩の荷が下りるわ、達者でな
そうして裕福な町へ嫁ぐことになりました。老夫婦は寂しさを感じたものの、婚礼で得たいろいろなものや娘からの心尽くしの贈り物などで、静かに年を取ることが出来ました。そうして、2年もたったころ。扉をたたく音が聞こえました。夫婦は驚きました。なぜならその音は、娘が始めて扉をたたいた音と同じように聞こえたからです。あのときのことが鮮明に思い出され、不幸なことを思いました。娘が帰ってきたものと思いました。あわてて扉を開けましたが、そこには誰もいませんでした。おかしいなあ、夫婦は思いましたが、気のせいだろうと思い、その日は寝てしまいました。翌日、娘の旦那がやってきてこういいました.まことに、申し訳ない。嫁さんが死んでしまった。
夫婦は驚きました。
旦那の言うには,つい最近体調を崩し,急に寝込んだきりになり、昨日息をひきとったそうでした。水が合わなかったんだ。病気でも,よく働こうとして無理していた。いい嫁だったよ。本当に、申し訳ない。
その日の晩,夫婦悲しみにくれました。
次の朝、今度は小さくとんとんと扉がなった気がして,じいさんは目が覚めました.どうした?と聞くばあさん。いや,いまとんとんって扉が、聞こえたんだが。二人は半信半疑に扉を開けました。
が,やはり誰もいませんでした。
―気のせいだよ
おじいさんは、言いました。すこしだけ期待していましたが、やはり娘ではありませんでした。
―そうだね
おばあさんも同じでした。
二人は、夜明け前、遠くに光る宵の明星を寂しく見ながら、ふと足下を見ました。すると、なんとわらの束を縛ったものがおいてありました。しかしそのかなりの部分は歯抜けになってボロボロの状態でおいてありました。抜け落ちたわらは、見える限りの道に、点々と続いていました。
夫婦はすべてが分かったような気がしました。夫婦は藁の束をやさしく取り上げ,ウチの中に入れてやりました。
―私たち,悪いことをしてしまったね。
―そうだねえ、嫁になんてやらずに、ずっとウチで三人で暮らせばよかったなあ
―でも,ここに戻ってきたくらいじゃ
―御霊はこのうちに戻ってきているよ
―そうだなあ
二人は東の山のナラの木の根元に藁を添えて、簡単な祠を建ててあげました。そのあと,何年もたって夫婦はなくなりましたが、そのあとでも,たまに大雨の翌日スッキリ晴れた日に、向こうの山からヤマビコが聞こえることがあり、娘が元気なころをしのんでおじいさんが声をかけていると言うことだそうでした。
**
これで話は終わりです、と大村は言った。
「うん、悲しい話だね」
「そうですね。この話には、ありがちな教訓がないでしょう、そこがいいんです」
「ん…? 何故?」
「うまく言えませんが、昔話や童話とって妙に説教くさいところがあるでしょう。これにはそういうのがなくていいと思うんです」
「いい話だったよ。夢に出そう」
「悲しい夢をみてしまいますかね。すみません」
「そうだね。でも不幸でない話でしょう。おじいさんもおばあさんも娘の良い思い出を抱いて残りを暮らしたと思うよ。もともと夫婦はお互いだけで、中むつまじく暮らしていたのだから…」
「え!そんなことないでしょう。夫婦は相当悲しみましたし、後悔すらしたんですよ!」
そんな部分は、あったかな?などと涼音は思ったが、夫婦は人の死だと認識したのか、ちょっと疑問だった。夫婦は、与えられた運命の自分たちの生き方のスタイルを変えるような人には見えなかった。何かある意味かたくなに、守ろうとしている、とも思えた。
「ううん、娘がいないことを幸せっていう事ではないよ。ええっと、でも娘は、彼らの幸せにとって必然ではなかった、と言う気がするの」
「そうかな…」
それは大村にとってとても不満な考え方だった。久々に自分の心の中に土がついた気がした。
「そう思うよ。いてもいなくても幸せだった、でも娘がいればもっと幸せ、彼らは自分たちの生き方がわかってる。私とは違う」
大村には、涼音がひどく冷めたく、冷酷に見えて仕方なかった。老夫婦は悲しんだんだ。そうでなければいけなかった。
「そうですかね…。それくらい愛していた子供がいたのだと僕は思いますよ」
「それなら、どこにでもある普通の子供と親だよ。彼らは棲んでいる場所だけでなくて、何か違うものを感じるよ」
「む…」
「きっと老夫婦は、夢を見たのよ。それが昔話として伝わった、という感じかな。そんな娘がいたらいいなって」
「それは…、そうかもしれませんが、僕はそう思いません。なぜなら、これは僕が作った話だからです」
涼音は、全く驚かなかった。それも大村には不満だった。
「そう。でも、私はそう感じたよ。悲しいけど逃げられない現実、それに立ち向かって生きていく人々、いい話だよ」
「そうですか…」
空気は、そよとも動かなかった。そんな時間が無限につづくように思えた。風が山小屋を少しだけ揺らす。
「少し、風が出てきましたかね、明日に備えて今日は寝ましょうか」
大村は、少しばかり乱暴な動作で、ランタンを消した。闇が二人をゆっくりと包む。
森と湖と山小屋を取り込む夜の静かな時間を白銀の月が見守っていた。




