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天国の月  作者: 羊野棲家
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第2章 夢のかけら

(1)


 北海道・帯広で開催されていた学会からも戻った湯方涼音は、酔い覚ましの散歩を終えてホテルに戻った。片付かない自分のベッドから書類やら着替えやらをあちらに押しのけて、自分のベッドにもぐりこんだ。ああ、わたしは片付かない人間だ、と思う。神谷先生に断り続けている秘書をつけてもらおうかな。研究室は、助教の大村始めみんなが片付けてくれるが、自宅は誰にも頼めない。秘書と言うより、お手伝いさんがいい…。そんなことを思いながら寝付こうとした。


 体を横にすると、ゆったりとして意識が遠のく感覚がなんともいえない。しばらくすると体調さえ悪くなければ何かの夢を見る。毎日夢を見るわけではないが、おそらく目が覚めてからも私はしばらく夢のことを考えることができる。こんな風に、眠っているときの夢を鮮明に思い出せるようになったのは何時ごろのことだろうか。明確な記憶はないがずいぶん小さいことから、ごく普通に目覚めた後も夢の余韻に浸ることが多いと記憶していた。


 夢では、その日の出来事や、ごく最近の出来事で印象深いものから、夢によって再認識するような出来事もある。寝ている間は、頭の整理をするという説もあるようだ。涼音は、自分の夢もそういうタイプの夢だろうと思っていた。しかし最近は、自分を客観的に見る夢が多い。気づいていないだけで幼いころから見ていたのかもしれない。そのうちのいくつかの夢は、簡単に思い出すことが出来る。一つ目は、涼音が生まれたころのことだ。


(2)

 

 自分が生まれたときのことをよく覚えていないのは、普通だろう。しかし人によっては、生まれたころ光を見たとか、確かに親の顔を覚えているといった人の話も聞く。不思議なことだが、脳に何らかの記憶として残ることはありえる。そもそも目が開いていないのに、顔を見たということもないだろう、という人もいるが。人の成長には偏りがあり、誤差もある。少しだけ目の成長が早くて、目が開いたっておかしくない。誰もその子の視力を知っているわけではないのだから。しかし私の最初の記憶も少々怪しい。


竹やぶの中、それも深い竹やぶの中にいる。

静まり返った星たちの下 

私はひとりで夜空と竹やぶを見つめているらしいのだ

やがて夜明けがきて、ほのかに白んだ空が隙間から見える。


 その後、おじいさんとおばあちゃんの顔が見えるのが、この夢のパターンである。生まれて何週間、いや数ヶ月か経った後くらいだろうか。決して生まれたてのころではないと私は思う。覚えているおじいさんおばあさんは、どちらもうれしそうな顔だ。おじいちゃんは数年前に他界したが、おばあちゃんは宮之城に健在である。


 幼少期の記憶なのに両親でなく、おじいちゃんとおばあちゃんの顔を思い出すという事には、両親を記憶がしっかりする幼稚園入園前に事故でなくしているからだと思う。二人とも欧州旅行中に飛行機事故に巻き込まれている。私は幸いおじいさんおばあさんの家で留守番中であったために助かったのだった。


 不思議なのは、この赤ちゃんを私が見ていることだ。玉のようにかわいい赤ちゃんだ。透き通るような白い肌。茶色がかったやわらかいふさふさした髪が少し。赤ん坊は赤色をしているから、赤ちゃんだと聞いたのに、全くおかしい。白ちゃんこそふさわしい。こんなにかわいいなんて、今の自分からは思い浮かばない。これは本当に私なのかと思う。時間と空間が交錯するように私は私の夢を見る。


 赤ん坊の私がおじいさんやおばあさんに抱き上げられる。声は聞こえないが・・・、喜んでいるのはわかる。高く抱き上げられて私は喜ぶ。やわらかい唇に触れて見たい。そんな幸せな時間をすごすと、目が覚める。


(3)


 2つ目に印象深い夢は、私がこの道に進んだ原因となる出来事だ。ターニングポイントと言えるだろう。中学2年の夏のころであった。そのころ住んでいた薩摩川内市のサイエンスフェアに遊びに行った時だ。当時の薩摩川内市には、リプレースの終わったばかりの純国産の最新型原子力発電所があり、科学系の催しが多数あった。小中学生にとって夏休みの課題を見つけるのにうってつけで、人気があった。私も何度も言っているうちに科学好きになっていた。そんなころの話だ。


 私は仲の良い友人だった三嶋響子と二人で、そのフェアにでかけた。ここのフェアが楽しいのは、すべて自分でやることができることにある。実験だったり、パズルだったり、ちょっと体を動かすものだったり。その夏初めてフェアに行ったのだが、早速目新しいものを見つけた友人が元気に声を上げる。私も響子も理科・数学が好きで例年の楽しみにしていた。特にフェアを担当しているのが研究者という事で、話をすることも楽しかったのだ。

「ねえねえ、あれやって見ようよ、すずちゃん!」


 私も興味を引かれて、スケルトンの宇宙船のようなポッドにかけよる。二人で解説を読んだ。

「バーチャル地球構造モデルゲ―ム、だって。面白そう!きっとこれを手で触ってパズルのように組み立てるのよ。ええと、色によって合わせていいモノと、合わせてはいけないものがあります。現在の地形から100万年前の地球を予想することは出来るのでしょうか」

 私が説明を読み上げると響子が、早速チャレンジすることになった。


 それは、そのときはやっていた多次元バーチャルパズルであった。単に複数次元の組み合わせを行えばいいというわけでなく、いろいろ落とし穴があった。複雑にしているのは各パーツのパラメータである。通常であれば一つの分野のパラメータなのだが、このパズルのパラメータは、時間軸、化学的、生物学、地質学の様々なファクターが練りこまれていた。基本は同じ時代であるかどうかなのだが、各パーツ自体、時代の明瞭な表示がなく、他のパラメータから読み解かなければならない。地質学的分野では、断層の活動時期、火山の爆発時期など。生物学的・化学的分野では同じ生き物、食物連鎖、大気組成など、複数の要素がからみあうため、なかなか難しそうだ。私も友人の好奇心を最高に満たす複雑さだった。


 そのポッドの横には、カタコト日本語の外人さんがいた。私と響子は、顔を見合わせた。この人はまだ見たことが無かったからだ。しかしそれはあまり問題ではなかった。私たち二人の順番になった時、最高の笑顔で語りかけてきた。

「ようこそウェルカム。ワタシアチコチ、このゲームセツメイしてる。まだこんぷりーとしたシチューデントいないアルヨ」

 私たちは、誰もできなかったとの一言に、更なる興味をそそられた。まず友人が取り掛かった。

「えっと、これをこうして。このレイヤーはこのレイヤーと組み合わせてと」

 友人は、両手を使ってあちこちレイヤーとブロックを動かしているが、結構苦労している。私はやきもきして見ていた。そこはさっき合わせたところなのに、ちがうよお。

 外人さんも余裕たっぷりに口を挟む。

「ソコ、チガウヨー。三葉虫とアノマロカリスは違う時代の生き物ダヨー」

「うもう、そんなの知らないってば。制約多すぎ!」


 学校では才女でちょっと有名な響子にしてなかなか進まない。属性の多い組み合わせに四苦八苦していた。私も手ごわそうだと思ったものの、怪しい外人の指摘を聞いていると、なんとなく完成後のイメージがなんとなく想像できた。

 制限時間は5分なのだが、彼女は、ある箇所から先へ進めなくなっていた。頭にきているのか、教えてあげても聞いてくれなかった。やがて制限時間が来て、顔をくしゃくしゃにしてポッドから出てきた。響子はけっこう興奮しやすいタイプなのだ。

「もう絶対無理!すずちゃん。別なところ行こうか!」

 私はとんでもないと思った。せっかく友人が進めたのを放っておくのはもったいなかった。

「ちょっと待って。あそこからなら、できそうな気がするから」

 しかし外人さんは、私がバーチャルポッドに入ろうとするのを静止した。

「アナタ、チョットマッタ、途中から駄目デショ。そういうのヨクナイアルヨ」

 そして、さっさとポッドの中をリセットしてしまったのだ。

「アブナイアブナイ」

「あっ!ずるーい」

 響子は騒いだ。途中からだって良いでしょ!とかみついた。まあ確かに途中からやろうとした私の方がズルいのだが。とはいえ、ちょっとがっかりした。最初からやってできるだろうか、という不安はある。しかし、やはりやって見たい。響子には悪いが、彼女よりは進めると思う。何よりこんなに大型のポッドに入って大空間で、パズルを考えるのは楽しそうだった。私は新しくセットされたポッドに入った」


「スタートして、いいですよ」

そういうと、外人さんは目くばせして「特にかわいらしいお嬢さんには、ヒントを上げてもいいのだが」といった。

 ちょっとお、どういうことそれ!と響子が怒るのをよそに、私のポッドがゲームスタートした。

 目の前には5層か10層のサンドイッチを横においたような大型の板状のパネルが現れた。四角の菱餅がたくさん重なったようなものだ。それぞれには属性があり、手を触れるとその情報が分かる。くっつけてはいけない制限も示されている。これを、山や谷がある、決められたジオラマの形に埋め込むのだ。菱餅は曲げたり切ったりすることもできる。

 私は鍵になりそうな菱餅を探した。パラメータを良く見る。アノマロカリスはプレカンブリアの生物だけど、その時代では進化した生き物だ。三葉虫は古生代デボン紀。私は頭の中でイメージしつつ、両者に触れた。そして少しずつ片側を動かす。そしてそれを持ち上げる。ただ相対的にずらすのはよくない。それは様々な原因がありうるから。菱餅は薄くすることも出来るようだ。層を薄くしてやる。ジオラマの一番底の部分に配置してやる。この層はきっと浅瀬だったのだ。この形の生き物は浅い海に住んでいた。引っかかりそうだったのは、湖沼の層であった。これを海の生き物だと思うと、間違いとなってしまうに違いない。この巻貝は海生ではない。それからこっちはさほど暖かくない地域に住んでいたサンゴの仲間だから、サメの歯と一緒にあってもいいはずだ。

 これは楽しい!私はすぐにそう思った。

 慌てずにじっくり考えていると、5分はすぐたった。すっかり時間の事を忘れていた。

「ハイ。ずいぶん惜しいが、残念アルネ」

 怪しい外人はそういっておしまいを告げた。

「あ~、なんか上手く行きそうだったのに、残念」

 響子がオーバーに嘆いた。

 私はむしろ、途中で楽しみを奪われたことに怒りを感じて呆然としていた。怪しい外人がそれに気が付いた。

「そんなにニランデモ駄目よ。世の中にはルールってものがアルよ」

「楽しんでやってたのに。時間だけなら、もっと早くやれるけど」

 ええっ、いいの?そんなこと言って。響子は驚いてこっちを見た。

「ふんふん。挑戦的でいい目をしているね。新しいセットでよければ、やって見るアル」

「いいですよ。5分あれば、おつりが来ますよ」

「すず、本気い??」

 響子が、オーバーに驚く。そんな彼女はかわいい。

 そして私は、再度ポッドに入った。今後は、もう少し近代の生き物が多い時代を選択した。この辺りは学校でも勉強している。楽しまずに、感覚的に進めようと思った。先ほどの古い生物の三次元実体化は本当に楽しかったが、完成を目的とすると時間は豊富ではない。先ほどの面白みがないのだが。そして私は何とかその組み合わせを成し遂げた。時計は、4分33秒。

 一番驚いたのはその外人さんだった。

「偶然ということもアル」

 そういって、他の人も待っている中、別な問題を出してくれた。

 私は、やはりそれを解くことが出来た。立体的なイメージは頭の中で考えるのもいいが、やはりバーチャルで動かせるとなると、やはり私は解ける気がした。できればもう少しゆっくり楽しみたいと思っていたので、努めて不機嫌でえらそうにふるまった。

 そうしてあと2題くらい解かせてもらうと、そのころ周りにはフェアで係りをしていたボランティア研究者たちが取り込んでいた。響子は飛び上って喜び、そして外人さんが半ば興奮気味に、私を引き出してこういったのだった。

「君たち、帽子を取りたまえ、天才だ!」

 この風景を私はよく覚えている。それはよく夢で見るからかもしれない。このときはそれまでの人生で初めて目立った気持ちよさだから、覚えているのかもしれない。面映いような、照れくさいような、隠れてしまいたいような。でもうれしい気分だった。そんな夢を見る。私の心に残る良い、くすぐったい思い出の夢だ。


(4)


 私は夢を考えながら眠れずにいた。いいのだ今日は寝なくたって。たまには恩師のことを思いださないと。亡き人を想い偲ぶことは大切だ…。たまにはこうやって想いに耽ろう。

科学フェアのあと、私は半ば強引に九州の片田舎から、京都の国立大学に飛び級で編入学することになったのだった。数十年前から教育改革が有り、画一的な教育体制からの脱却が図られていた。才能のある個性を伸ばすためであり世界の標準となっていた。日本では、中・高等教育3年から試験あるいは何らかの推薦があれば何時でも大学や高専にステップアップすることが出来ていた。飛び級も極端に珍しいものではなかった。

 あの時の怪しい外人さんは、京都国立大学のレオン・ダドリー教授で、構造地質学の権威であった。ダドリー先生はフランス人で世界初の高レベル廃棄物の地層処分に尽力した人だった。その当時は日本初で世界では最後となるかもしれない5番目の地層処分場が建設中であり、日本の大学で教えていたのだった。

 その当時、地層処分場の建設は開始されていたが、放射性廃棄物の放射線レベルが十分に下がる将来数百年間~数千年後の地形シミュレ―ションは完全とは言えなかった。むしろ数百年前の地形を復元するのにも悩ましい箇所が散在していたのだった。科学フェアは基本的に科学への啓蒙の目的があったが、パズル遊びのような感覚を取り入れることで私のような直感のある人間の発掘を行っていたという話を、ずっと後で聞いた。


 私は16歳にして突然大学生となったが、飛び級だと言う割には、何故かあまり違和感なく周りの人とも接することができた。ちなみに直接研究講座への編入であったため、大学3年の専門課程からの入学となった。1年間で基礎的な地質学と地形学、物理学と数学を叩きこまれた。大学で修士課程を卒業後は、ダドリー先生が副所長を務めたフィンランド・オンカローのスカンジナヴィア国立深地層研究所に3年間在籍し、博士号を取得したのだった。その時で22歳だったのだが、不思議と若すぎるという話は聞かれなかった。それはどうやら私の容姿によるものらしかった。早熟だと昔から言われており、いつも4~5歳年上に思われたものだった。それを不満に思わないのは、私も子供のころから同学年が妙に幼く見えたからだろうか。


 相対性理論では、光の速さに近く動くものほど時間の過ぎる時間が遅くなるとされているが、私の場合はどうだろう。むしろ生き急いでいるような気もした。しかし、今思えば、人の成長などはそれぞれであり、私はちょっとした異端児だったのではないだろうか。時間はあくまで決められた尺度。そして成長は平均論であり、それは一定でなくて構わない。一日が24時間なのは、地球だけの話なのだし。そんな思考は、オンカローの果てしない広い空を見ながら考えたものだ。私の意志ではなく、なにか使命のような運命のような漠然とした不安が付きまとい始めのもこのころだった。


 私の師匠であるレオン・ダドリー先生と北海道の日本初の高レベル放射性廃棄物最終処分施設の検証を行ったときの事である。これは、夢であろうとなかろうと、私にとっては忘れられない一日であるのだが、いつになっても夢にも見る。当時は完成間近の建設所は活気に満ち溢れていたが、全体的には重々しい空気がよどんでいた。施設は完成しても、地形シミュレーションが完全ではなかったのだ。長期安定性に関する問題、つまり100年後、1000年後の地形の発達やその検証の議論は完結したわけではなかった。


 そんなわけで、私を見出してくれたレオン・ダドリー先生の弟子として各地の検証を行うことになった。スウェーデンとフィンランドは花崗岩地帯であり、数百年の間地殻変動はないと考えられていた。しかし日本は世界でも有数の地震と火山の発生数を誇る変動帯に国土を持つ。当然ながら安全上の課題は大きく、土木や地震に対する技術開発は極めて精度の高いものが要求された。しかしながら工学的な課題については困難でありながら材料・素材の開発によりクリアできるものが多かった。


一方で理学的な課題、つまり地理学・地形学的な問題点については、解明できないことは多く、将来の予測も十分とは言い難かった。現在のこの地形がどうして出来たのか、いつからこの地形となったかであり、将来どのようにプレートテクトニクス的な変動が発生するのか、そしてそれは何年後に、処分施設にどのような影響を与えるか、であった。


 私は、この土地を何度か訪れている。この土地は北海道らしい丘と草原、美しい海に囲まれていて実に美しかった。トナカイ牧場のある丘に登ると広い草原を見渡すことが出来る。真っ青な日中の空も良かったが、秋口あたりになると、草原が茶色になり、かつ空全体が茜色に染まる夕暮れが本当に好きだった。涼音はよく立ち入りを禁じられている研究施設の屋上に上って、そのそらを見ていた。海の方角には町の一部が見える。処分施設が出来てからは様々な研究機関が誘致されたが、昔はもっと小さな、こぢんまりとした町だった。そんなことを思いながら、よくぼんやりしたものだった。


 私は、幌富市に居るあいだ、高レベル廃棄物処分場の完成までどのような道だったのかを調べたりした。原子力関係の立地が問題なく済むことは、特に国土の狭い日本においてはありえないのであるが、世界で三番目、変動帯地域での地層処分では世界初となるため、一段と複雑な問題があった。

 高レベル廃棄物最終処分場は、20世紀末に当時のNUMOが候補地の募集を始めてから70年以上の長い時間をかけて幌富市が選ばれた。しかし候補地の選定方法は混迷した。これは国が主導するのではなく、善意の自治体の意思を待つという、理想的な方法ではあるが、決断を投げした、とも言われかねない方法であった。


 公募は、言わば住民の総意が前提となる。もし自治体が資金欲しさに立候補があっても住民投票で反対すれば、応募することはできない。実際に何度か、自治体あるいは首長が立候補を声明することはあったのだが、全て住民投票で否決され、概要調査のステップに上がることすら出来なかった。

 一方で国は高レベル廃棄物を地上施設に保管することに限界が来ていた。資源に枯渇する国の代表として、原子力立国を目指し、発展途上国や新興国に対する原子力市場の売り込んだあと、後処理を引き受けないわけにはいかなかった。地層処分施設の設置は、液体ビスマス高速炉「しののめ」の実用と共に、原子力技術の第一国として信頼を勝ち取るための命題となっていた。


 2060年には当時の政府が公募型を放棄し、政府主導による原子力政策の最重要課題として候補地の選定を行った。それまでの国の方針を日和見的な妥協案として強く否定した後に国内の数箇所を、客観的な候補地として検討する旨の発表を行った。この発表はあまりに強引だとして野党や国民から猛烈な批判浴びたものの、原子力とエネルギーの今後の方針について国、産学、狂信的な保護団体も含めて、徹底的に議論を行った。この点から革命的な転換機となった。

 この議論は政権が代わりながらさらに10年間続いた。そのあと選択の最終段階の候補地が決まった。このときは北海道2箇所、東北では秋田県と青森に1箇所ずつ、関東では茨城の太平洋側に1箇所、北陸は能登半島、中部地方は愛知県・岐阜県の県境、関西は紀伊半島、中国地方は広島、山陰は島根県内、四国では高知県、九州では福岡と奄美大島と、日本各地に分断されどの箇所も均等に調査計画が策定された。


 その本命が、北海道の日本海側の幌富市とオホーツク海側の猿内町であった。特に幌富市においては、深地層研究施設があるため費用および素性が判明していると言う点において理想的な候補地であったが、20世紀から国と北海道庁、幌富市との間には、将来的に候補地としない旨の締約があったため、猛烈な批判キャンペーンを引き出すことになった。当時の政府はしたたかにこれを受け止めながらも説得を試みた。首相は何度も地方自治体に対して水面下の説得と圧力をかけていた。もちろん根回しも用意周到であり、幌富市に世界初となる核融合発電所の実験施設や世界最大の核施設など、核の世界最大の研究学園都市として再生することを条件とした。しかし幌富市はそれを全面的に拒絶した。政府は幌富市とは話し合いを断念し猿内町との交渉を開始することになった。


 猿内町でも人口減少による過疎の程度はひどく、幌富市よりも深刻であった。猿内町は住民に反対されながらも大規模太陽光発電の実験プラントを計画中であるなど、エネルギー事業への理解度があることをベースに折衝を重ねていた。この意外な近くの町における処分場建設の進展に幌富市は驚きの目を向けた。近隣の猿内町に大規模な研究都市が出来れば、幌富市はあっという間に産業的にも文化的にも落ち込むことは確かであった。幌富市はこれまでの研究施設の落とすお金でどうにか生き延びてきたのであり、この施設が閉鎖となり、さらに跡地に何もなくなるのであれば、農業くらいしか仕事のないこの町の行く末は明らかであった。幌富市としてはいつまでも研究を続ける施設であれば当面は生きてゆけるのだ。さらに猿内町に建設された処分場が災害を受ければ距離の違い幌富市も無関係ではいられない。


 幌富市からは立地に関する抗議が寄せられたが、政府は黙認した。政府は、現状で研究施設が充実している幌富市での開発は、予算的も望ましい。しかし一定の譲歩で幌富市が折れないのであれば、猿内町へ対象を変えることは、計画通りであった。最終的にエネルギー事業に理解のある猿内町が了承するのであれば、予算は莫大な量が必要だが、それは前向きな出費として国民にも理解されると踏んでいた。


 幌富市に変化の兆しが現れたのは、ちょうど政府と猿内町との交渉最中に行われた市長選挙であった。この市長選では現職の反対派町長と中立派の新人の一騎打ちとなり、文字通り市を二分する争いになった。市民のほとんどは反対派あるいは消極的反対派であった。しかし猿内町が政府と前向きな話し合いをする中で良好な関係を築いている中で、市民の中にも誘致を考え直せという意見も上がっていた。このような意見には、現政権の圧力がかかっているのでは?とささやかれていた。


 市長選は、小競り合いや集会中のけが人が出るなど大いに荒れ現職の反対派市長が再任された。しかし半年後に実施された市議会選挙では、賛成派の議員が過半数を超え、議会は成立しなくなった。結局市長は、市の再建と賛成派の攻勢に関する議会運営に苦慮し、市議会選挙後3ヵ月後に後事を託す旨の遺書を託し自殺した。再度市長選が行われ、中立派の新人が当選してマスコミ等は大いに騒いだが、町民は子供から市長まですべての人が疲弊した。起すべきトラブル、仲たがい、恨み、憎しみ、すべての問題をこなしてやっと疲れ果てて、合意を得ることになった。その後、幌富市と政府は交渉を再開し、2年後最終的に建設の合意を取り交わすことになった。しかしながら中立派から賛成派となった市長への批判は厳しく、合意数ヵ月後に暴漢に教われる事件が発生した。市長は任期満了後、職を退いて別の地で余生を過ごしていたが嫌がらせは絶えず、激烈な遺書を残して自殺した。みな、何かしらの傷を負って、その上に成り立ったのが高レベル廃棄物の最初で最後の処分施設なのである。


 幸いな点が一つだけひっそりとある学術誌で指摘された。この一連の事象は、19世紀の高度成長期に端を発したダム開発のような、国策と犠牲になる市民という図式の最後のものだろうという事であった。この年2090年はカムチャッカ半島より南のすべての千島列島がロシアから返還され、国はすべてのこの土地を国有化し、資源と自然の共有のために利用することを発表したのだ。そのきっかけとなったのは、液体ビスマス高速炉の実証の成功が国際的に認められ、ロシアへの提供が決まったことであった。


(5)


 私が夢を見る場面は、そんな地層処分施設の工事がひと段落ついたころであった。そのころ私は、スカンジナヴィア国立深地層研究所の主任研究員としてダドリー教授の助手として各地を回っていた。ダドリー教授は、そのときすでに京都国立大学の教授であったが、そのほとんどを欧州ですごしていた。よく海外で楽しんでいると羨ましがられたり嫌味を言われることがあったが私にとっては、自分を振り返る余裕のまったくない時代でもあった。


 幌富市に訪れる機会があったのは、そんな忙しい合間を縫っての一週間程度であった。スウェーデンとフィンランド国内での地層処分施設にも何度か訪問することがあったが、日本の施設は初めての機会であった。私は事前に日本政府のIAEAに対する最終処分場設置許可申請の資料を事前に熟読していた。私は、欧州での安定陸塊での岩石と日本の変動帯の岩石には大きな違いがあると認識していた。工学的には力学的な岩石の強度の問題もあるが、地史解明も非常に難しい。欧州で実績を作った花崗岩類でなく、世界で初の堆積岩での実施というころで100万年後の推定モデルはすっきりしないところも有り、これを現地の研究者と議論しなければならない不安な幌富市訪問であった。


 私は、数日間研究所内で三次元モデルの検証を行っていた。研究の参加者は6名。国の出先機関の監査者1名、研究所の技術者2名、北海道国立大学の准教授とダドリー先生と私だった。ダドリー先生は、敏感な方で、同僚の言葉の端々から問題の有無をさぐるのが上手かった。先生の前では嘘がつけないというのが、ともに研究したことのある人の統一した感想である。

 一通りの問題点を検討し終えた後、私は、気になることがあり三次元モニタのある箇所を凝視していた。以前私がパズルをやったように、手で直接触って地質構造を検討することができる優れた装置であった。


「何か気になることがあるかね?」と先生が聞いた。

 いつものことだ。ここで私は特に問題ないと思います、というか無難な2~3の質問をするのだ。しかしこの日は本当に少し気になった。

「いいと思います。私の思い過ごしです」

 先生は見逃してくれなかった。

「なんだ? 珍しい物言いだな、言ってごらん」

 先生の顔が少し真剣になった。それより周りの研究所と役人の担当者の顔の方が真剣すぎて怖かった。私はむしろその視線を見て、まずいと思った。本当に気にする必要はなかったと思う。些細なことだ。大勢に影響しないと思う。

「いえ、特に問題ないと思います、全体的によい予想ではないでしょうか」

「おい、チョット待ちたまえ、気おされてどうする。君の直感を期待しているんだ。いや君はすでに直感だけで物を語る学生じゃないだろう。自分の発想に責任を持っているはずだ」

「すみません」

「さあ、言って見てくれ。こういうことがあるかもしれないから君を育ててきたんだ。」

「先生、おおげさですよ、嫌ですね」

 そうして私は、地下600m付近のEという層準の分断している不連続線を指差した。

「ここ、断層で接してますけど、気になります」

「…」

 沈黙が流れた。研究所員は顔を見合わせた。役人の顔は変わらない。先生は・・・、表情を変えていない。私は何かまずいことを言ったのか。先生が普段通りの口調で言った。まるでゼミの時学生に諭すように。


「ふむ。理論的にはどうだ」

「ええ。ここの褶曲を説明する変位量に関しては、断層で説明するのがもっとも合理的ではあると思います。しかし、この部分の傾きを考慮に入れるのと、この調査孔の位置がちょっと気になりますけど、これを3m動かせば、こう、ぴったり来ますね。これなら最初の断層をこれほど大きな規模にしなくても説明できます。調査孔の標高、あるいはどこかの層準の認定を確認しておいた方がいいかも」

「ふむ。そうすると、他の場所でも妙な褶曲や断層を検討しなくてもいいか。素晴らしいな」

 先生はそういってくれた、と思う。

「やれやれ、僕も引退だな。この断層は悩みの種だったのだよねえ、マキハラ君!」

 先生はそういって隣に居たやや背の低めでやや神経質そうな研究者の肩を叩いた。いつも通りの陽気な口調だった、と思う。

「そうですね。湯方さんの指摘は思いつきませんでした。そこは場所が結構離れていますから。視野の外でした。見落としていましたね、ううん、まいったな」


 その場は陽気になった先生と今後の修正の方法などを打ち合わせして無事終えた、と思っていた。その夜は、たまたま行われた懇親会の場で、私はいつもどおり沢山のお酒を飲んでいたが、先ほど指摘を受けた槙原氏がやってきて言われた。

「あのモデル解析のアイデア、見事でしたね。あれを僕らは何度も数値モデル計算をしてああでもない、こうでもない、と調査がワンステップ進むごとに議論するんですが。数値計算だと、あの辺りは重要じゃないんですよ。あなたはそれを一瞬でやってのけました。やっぱり計算だけに頼っていてはだめだなあ。全く残念ですね、もう一歩どころか、発想の点で全く足りていませんでした、情けない」

そのうち槙原の発言は、本音らしきものを漏らした。

「それにしても僕らからすると、あんなに鮮やかに答えられてしまうと、自分のやってきたことが、バカバカしくなっちゃいますよ。やはり地形学は直観だな、はあ、もうやめようかな。自分の才能の無さが嫌になりますよ。いや、僕は単に悔しいんですけどね」


 そうだろう、と私も思った。槙原は、こうも言った。

「あのモデルは、一度委員会の審査に通っていることは、承知ですよね。いえいえ、修正することはいいんです。逆にすっきりしますから。それはそれとして、あのモデルで申請するどうか、当時ずいぶん悩んだんです。最終的にその方針で行こうと決着したのは、ダドリー先生の後押しがあったからでした。君たちの説明で納得しないなら、僕が説明する。それだめなら僕は大学を辞任する!といってくださりました。日本の原子力保安院やIAEAの査察対応も先生が控えていてくれたからこそ、僕らで説明できたのですよね。それに、あの決断がなければ、今、ここに処分場が出来ていたかどうか怪しいのです。もちろん、今多少変更があっても、おそらく大勢的には影響ないから、まったく問題ないのですがね。」


 私はその時、自らの不明を恥じた。ダドリー先生はモデル作成や表現方法についてはとても厳しく考え方に思想を求めるよりも、明快な解決方法を望んでいた。自然現象は基本的にシンプルな事象である、というのが、ダドリー先生の考え方だった。その先生も絶妙にさじを加減していたのだ。先生は涼音には、そういう態度はほとんど見せたことが無かった。それなのに、私はささいなことをやっている。自分の小ささが身にしみるようだ。


 懇親会場に先生の姿が見えないと思った私は、いつもになく先生の行き先が気になった。先生は懇親会を抜けて屋上に居た。そこにあがるのを見た人が私に教えてくれたのだ。

 先生は星を眺めていた。フェンスにもたれながら、上を向いていた。

 私は近づいて先生に謝った。先生や研究者たちが血のにじむ思いで、一年一年作り上げてきたモデルを簡単に動かしてしまったこと。

「そんなことを気にしていたのか、さすが日本人は思いやりがあるね」

 先生はあきれたような口ぶりでそういった。

「キミは日本人離れ、いや人間離れした直感的才能があると思っていたが、そんな考えではこの世界ではやっていけないな。研究は自分だけやればいいというわけでない。ライバルや敵も必要だ。彼らに打ち勝って、最先端となるか、二番手の称号で満足するか」

「先生は地層処分の実践者と言うことで1番でしたね」

「まあ、そうかもしれない。しかしそれは蹴落としてきた競争者やライバルもあってのことだよ。そうして技術は向上するのだから、仕方ない。しかし何しろ日本では、やりにくかったよ。私の日本語が下手なのもあるが。フィンランドやカナダとは違って、実際に人が住んでいる場所でやるんだからな。私としては技術的に難しくても、千島列島でやりたかったよ。あんなに立ち退きやら反対運動で人が苦しむのはいやだった」


「そのころ、こちらに居たんですか」

「もちろん。槙原たちと一緒に何度も説明会を開いたよ。しかし反対派というのは反対というベースに基づいて理論を組み立てる。僕らがニュートン物理学に沿って何か考えるように、反対を持って組み立てるんだ。これは、なかなか手ごわい。厳しいライバルだった。しかし彼らの論理も一理あった」

 先生はそこで、言葉を切って、空を眺めた。

「それでも僕や槙原はいいんだよ。覚悟しているからね。もっと苦しむのは地元職員や反対派の人の家族だ。特に子供たちまで容赦なく巻き添えにされるんだ。それは全く耐えられなかった。僕は反対派の集会に借り出された小学生たちの顔が忘れられない。僕らをさげすむような目。僕たちの世代に処理を押し付けるのかと叫ぶ小学生たち。その子供たちは職員の子供たちと決して友達になれないんだ。実際、いじめや怪我人も出た。小学校の中でだよ。槙原の子供もいじめられた。当時は中学生だったんだが、自殺未遂までいったんだ。いじめられても親にいえなかったらしい。どうしてそこまで、と僕は思ったが、そこが島国である日本人なんだなと考え直した。イチからやり直すべきだと思った。僕は小中学校、高校で、すべての親を交えた自由なセッションを組ませてもらうことにしたんだ。もちろん何度も妨害にあったが、少しでも話を聞いてもらえるように努力したつもりだ。」

 そこで、ふうとため息をついた。


「しかし結局、反対派の人とは折り合いがつかず、強制執行となったことは知っていると思う。僕は今でも思うよ。彼らに納得してもらってからこそ、やるべきではなかったのかとね。時間は何年かかっても、納得してもらった上で、はじめるべきではなかったのかとね。19世紀から続いたやり方なんだろうが、これに終止符を打ってもらいたいもんだ」

「そうですか、やはりそんな体験のかけらもない私が、口出しするのは」

「おいおい、そういう話じゃないよ。まあ、キミにそういう話をしてあげられたのは良かったと思うよ。ここの事例はスウェーデンやフィンランドとは違うからね。そもそも人が住んでいない場所なら問題ない。そうじゃなくて、今住んでいる人をどかそうというんだ。これから放射性廃棄物は宇宙か海洋底投棄の可能性がある。日本だって千島諸島がある。もう何箇所も作らないだろう。そんな中で、彼ら・彼女らの反対運動や、心傷ついた槙原の娘たちの青春時代はなんだったのだろう、とワタシは思うんだ」


 そして先生は、ちょっと疲れたな、今日は。とにかく槙原たちとよく議論してモデル作成をやり直してくれと言い残して、自分の部屋へ去っていった。国のため、人間のためといいながら人間はそのツケを人間に払わせる。その歴史は人類史上途絶えることはない。

私は屋上に残った。北海道らしい冷たい風が私の周りをまいた。


 翌日、私は前夜呑みすぎたため、起きたのは少々遅い8時ごろであった。遅いが食堂に行こうと思い、廊下に出ると、玄関で館長とお手伝いのおばさんが何やら議論をしているようだった。聞いてみると、早起きの先生がなかなか朝食時にも現われず、散歩に行ったまま戻らないとの話しだった。私は、一通り先生の好きなコースを捜しに行ってみることにした。寄り道も多い先生なので、どこに行ったのかな、などと思いながら、ゲストハウスに戻ると、なんと救急車が来ており、私は驚いた。私が先生の元に駆けつけたとき、すでに先生は旅たれていた。周りで叫ぶ声があったと思うが、よく覚えていない。机の上にあったメモに見入ってしまった。先生の机には、前日に私たちが議論したモデルのデータが載っていた。そして検証用のメモが手書きで書かれていた。先生は内心穏やかでなかったのだ。私はそのメモをポケットに入れた。


 死因は心筋梗塞であった。過労と極度のストレスによるものではないかと言われた。私の直感的なモデルが何の意味があるのだろう。ほんの10km四方の地質構造の数メートルの違い。あるのか、ないのかわからない不連続な線構造。そのせいでここまで命を削らなければならないのか。それとも、私は、やっぱり思いあがっているのだろうか。


 ダドリー先生は62歳だった。そのお墓は生前の希望により、生まれ故郷であるフランス・パリ郊外のグレ=シュ―ル=ロワンの小高い丘に埋葬された。私は、ふとある方向を見て、そのうつくしい丘に先生の原点を見た気がした。

 私の目線の先には、朝露に輝く草木が穏やかに揺れる形の良い丘があり、妙に高い木が青く高い空に向かって伸びていた。きっと先生の魂は、彼方の地でもまた一番を目指してライバルたちと戦っていくのだろう。


 北方の夜は、徐々に冷え込みながら、夜のさらに深い時間帯を迎えようとしている。私はホテルの窓を、固かったが力を込めて開け放った。しんと冷たい空気が顔を刺し、体にまとわり、肺の中までしみいる。その冷たさは覚めて悲しみに暮れる私の心を温めた。今夜は、眠れずに夢を想ううちに頭は覚め、細部まで思い出すことができた 


今日は残酷だが幸せな日だ

私は人との思い出からできている

これまでも これからも


第2章 了




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