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天国の月  作者: 羊野棲家
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第18章 星と光の海

 空洞内の救出活動が本格化されたのは、涼音が行方不明となってから10日もたったあとだった。立坑内が、ガス噴出によって安全性が十分たもつことが出来ず、二次災害の恐れがあるからだった。

 涼音が最後に送信した大気分析計には、CO2と水酸化イオンが検出されており、基地に居る皆を驚愕させた。その情報は、月に関する根本的な考え方の変更を促すものであった。深部には多量の水がある可能性を示していた。ただしそれは氷の状態であった。これはむしろコントロールしやすく開発には好都合であった。当初の資源開発については再考の必要があったが、水の存在は新たな局面が開ける可能性もあり、天文学上の大発見といえた。


 新たな発見で基地が沸く中、管理センターはひっそりとしていた。リヴィエイユは心中では、涼音の遺体を回収したかったが、二次災害の危険が去るまで、その許可は出さなかった。藤岡や地形・構造チームがどれだけ泣いたり叫んだりしても、全く動じなかった。それはどんな根拠や嘆願があっても許すわけにはいかなかった。

 藤岡はリヴィエイユの判断が正しいものだとしても、決して納得せず、とにかく根気良くリヴィエイユに交渉した。さらには他の部署の知人と救出計画を練っては、奏上した。

 結局、基地や周辺施設の安全確認まで事故から5日必要とし、さらに縦穴周辺の状況確認と救出用の資材運搬で2日かかった。

 涼音は最深部の深度450mの位置から、岩石と、氷のハザマに倒れているのが見つかった。その足元には大気分析計が設置されていた。涼音がどうやって、深度180mの位置から、底まで降りたのかは、誰にも分からなかった。


 リヴィエイユは、救助隊の状況を細かに確認していたが、その顔は苦悩に満ちていた。救助を初日に行うのは無理としても、もう少し早く決断してもよかったかもしれないという事であった。しかしリヴィエイユは、完全でなければ決断を出すわけには行かないのだ。個人的には、誰が遭難したにせよ、すぐにでも救助したい。しかし、リヴィエイユには、被害は最大限に抑えなくてはいけない使命がある。もちろん、このプロジェクトの最も早い効率的な進歩に貢献するためである。しかしもっとも大事なのは、人の被害を最低に抑えることであった。安全を十分に確認できないうちに、救助隊を派遣することは、もっともやっていけないことなのだ。

 涼音の遺体を発見したとの一報を受けたとき、リヴィエイユは、大きなため息をついて、所長室の椅子にぐっと体をもたれかけた。

「損傷程度はどうなのだ」

「無傷ですよ。彼女は運がいい」

 それはよかった、と思った。無傷で地球に帰してあげられれば、まだ救いがある、と思った。しかし基地設営後、初めての死者である。得たものは大きいかもしれないが、命を懸けるべきものではない、と思う。この後は、絶対一人も死者を出してはならない、とリヴィエイユは自らに誓った。

 しかし涼音が基地に到着すると、基地は騒然となった。どうしたんだ、と聞くと驚くべき答えが返ってきた。


「湯方さん、まだ生きています」

 まさか!とリヴィエイユは思った。

「心臓は微かですが動いています。呼吸もわずかにあるようなのです。」

「ばかな。あの事故から10日もたって、酸素がないはずなのに、生きているのか?ありえない」

 救助班の一人が、気になることがある、と所長に言った

「実は、酸素濃度の調整値が減らしてあったんですよ。あれ、入力式なので偶然には変わらないはずなのですが・・・。自分でやったのかな。」

「酸素濃度?一体いくつにしてあったんだ?」

「5%。この消費なら、確かに15日程度持つのですがね。脳神経は酸素不足でやられているはずなんですが」

「それで人間は生きられない」

「はい。実際、今の状態は、仮死状態であるわけで、生きているといっていいのか」

「自分で賭けに出たのかな。もしかしたら、命だけでも助かるようにと。」

「しかし5%にした、代償があります。排気量も少ないので、宇宙服を通過した放射線を吸っているようです。内部被爆している可能性があります」

「意識の戻る可能性は?」

「分かりません。というか、普通なら単にゼロです。全ての生命力は極めて微弱です。ただ確実に生きています。推移を見守るしかありません。」

 リヴィエイユは、涼音の眠る姿を見た。その姿はまるで普通に寝ているようであった。外傷も泣く、肌の色も悪くなかった。これを死んでいるとは、とてもいえない。しかしこれからどうするかは難しい。


 救出から一ヶ月たったころ、基地も少しずつ平静を取り戻しつつあった。縦穴には、詳細を把握するべくプロジェクトチームが送りこまれ、徐々に氷とトリチウム、そして大量のヘリウム3の存在や分布が明らかになりつつあった。この存在が月の地下全体に広がるものなのか、この場所だけなのか、その辺りは全く不明のヴェールに包まれていた。調べるほど、科学者の悩みを増やしたが、月と地球の研究者たちは熱気に包まれていた。地球では、月の緑化や、酸素定着による移住など、月ブームが盛り上がりつつあった。

 藤岡は、休養の意味でしばらく研究チームからはずされていたが、現在は地形・構造チームのリーダー代理として、あわただしい調査と、解析、議論に追われていた。それでも毎日、涼音の元を訪れること欠かさなかった。藤岡と一緒にゴンドラで上がった同僚は上半身を強力なガンマ線でやられ、こちらは、造血細胞の停止など、臓器に異常があり、意識不明の重態で意識がなかった。一方、藤岡は、軽い放射線障害で体調不良であったが、入院するほどではなかった。

 藤岡は、地球への報告がひと段落付いた後、いつものように涼音を見舞った。涼音は伝染病や感染病の恐れがあったわけでないため、医局の許可さえ得れば自由に見舞うことが出来た。

そこには多忙を極めているはずであるリヴィエイユが居た。

「今、安定してるうちに、取りあえず地球へ返してあげるべきではありませんか。ここでは、どうしてあげようも無いですよ。」

「しかし医師は今動かすのは危険かもしれないといっているんだ。それにISS-Ⅲ行きのシャトルは、まだ予定が立っていない」

「かといって、ここでは見取るだけでは、心配です」

「それでいいじゃないか。いずれにしても僕らに出来ることは少ないよ。基地の見直しもしなければいけないんだ。」

「そうですね」

「ところで、センター長は毎日来ているのですか?」

「すまない。さすがに、忙しくてね。一週間ぶりくらいかな」

「そうですか、実はこの数日、ちょっと顔つきが変わったと思うのです。穏やかになったというか、なんといえばいいか、何か違うんですよ。複数の人間が言っています」

 まさか、と思いながら所長は苦笑した。それは、涼音が来てから何度まさか!と言わされただろうと、ふと思ったからだ。確かに毎日顔を見ている藤岡ならば、そんな微妙な変化も分かるかもしれないな、と思った。それに藤岡たちの涼音を慕う姿は、良く理解しているつもりだった。理想的な関係だと思う。

 ベッドの棚には日本人研究者が織ったのか、鶴の折り紙が置かれていた。リヴィエイユは、改めて涼音の寝顔を見た。意識はないが、穏やかな顔だった。穏やかになっている、というか。まるで年を取っているようであった。


 数日して、ISS-Ⅲ行きのシャトルが到着することになった。その話と、涼音の容態が変化したという報告をリヴィエイユは受けた。

「すみません、所長、医務室です」

「どうした」

「脈と体温が落ちています。ほんのわずかで自信が持てませんでした。統計処理しないとわからない程度ですが」

「意識はどうなんだ?」

「無です。顔色も変化ありません。どうしましょう。」

「どうするって、とりあえず藤岡に現状を全て知らせてやってくれ。あとは今までどおりに」

 そう言ってリヴィエイユは電話を切った。


 医療センターには、異変を聞きつけたのか、心配そうな顔をした関係する職員がぽつぽつと集まっていた。その中には当然、藤岡や地形・構造チームのメンバーも含まれていた。しかし、表情もあまりかわらず、寝ている涼音の姿に安心していた。

 涼音の体は呼吸と鼓動を止めなかったが、少しずつそれはゆっくりになって行くようであった。それはまるで青い葉が少しずつ紅葉していくような息の止まるような時間であった。

 リヴィエイユには、その姿は皆に死を納得させるようだ、と思えた。みんなが死を受け入れるのを待っているのではないだろうか。リヴィエイユは、ずっと昔、病で妻を失っていた。心臓病の妻は、リヴィエイユや娘の行く末を最後まで憂いていたが、なくなった後、心の整理には数年の歳月が必要であった。葬式を済ませた後も、妻が亡くなったことを頭では理解していても、心ではとても理解できていなかったものだ。娘と妻のことについて、普通に話せるようになったのは十年もたったころだった。そんな悲しみを和らげるために、彼女もがんばっているのかもしれない、とリヴィエイユは思った。そして、そばに居る藤岡を諭すような口調で話しかけた。

「藤岡君、彼女をひとりにしてあげよう」

「一人にしたらさびしがりますよ。かわいそうです」

「そうだ。さびしいかもしれない。でも彼女は、静けさを求めているのかもしれない。彼女はきっと病や傷で苦しんでいるのではないのだ。彼女に与えられた生命と運命を抱えて今、無に戻ろうとしているのではないだろうか。 運び込まれてからのデータを見ていたんだが、恐ろしくゆっくりと機能が低下している。ほとんど誰も気が付かなかった。統計学の世界だ。医者泣かせだよ」

「そうでしたか。湯方さんらしいですね」

「もう、十分僕らの気持ちは伝わったと思うよ。この顔を見ると、僕はそう思う」

「僕には、わかりませんよ。でもあきらめる必要もないでしょう」

 涙を流す藤岡を擁きながら、所長は病室を出た。所長は、何も声をかける必要はあるまい、と思った。ただ、LEDライトが静かに消された。光の残像が漂う中、所長は静かに扉を閉めた。静かに、彼女を驚かすことが無いように。


 明かりの消された病室では、ただ機械の光だけがかすかに点滅していた。それは、かすかな涼音の命の鼓動のようであり、遥かかなたの北方の地で、途切れ途切れに電波を発する通信機にも見えた。


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


私は夢を見ていた。

遥か遠くまで続く草原、深く緑に覆われる山々、凪ぐ海のやさしい水色、砂漠の風紋、深海にたまる砂粒やマリンスノーたちの青き静寂。北海道で舞う雪虫たち。


風にゆれるスイセンの花たち、茜色の空にそよぐコスモスたち、八重桜、タンポポ、そしてつつじ。深い夜空に瞬く星たち、白銀の月。そして月の光に照らされた桜の木から最後の花びらが落ちる。風に吹かれた花びらは涼音の手のひらを逃れ、風に舞う涼音の黒髪を巻くように空の彼方へ去っていった。明るい月の光がその行方を見守る


私の目の前にはきらめく無数の星が広がっている。まるで星の海のようだ。すべての空間が星で満たされてまぶしくて目を閉じようとしたとき全てが無になるような感覚を得た。私は、少しずつ忘れてゆく。穏やかに、すももの匂いに誘われる。緩やかに、何かが失われて行く。

このまま死ぬんだな、と思う。


でも何か異質なものを感じた。私はそれが何かを、知っている、知っていた気がする。たぶん、よく知っている人の気配がする。私に囁く。懐かしい匂いだ。誰か知らないけど昔 触れた匂い。


頑張りましたね


これ、もしかして大村君か?あ、え?そんな馬鹿な・・・。懐かしい。しかし私は驚くのをやめた。そう彼はいつも用意周到だ。私の席は取ってくれてあるはず。驚かないでいい。私は平静を保とうとした。もう死ぬ人らしく。私は彼に話しかける。待たせたかな?私の席はあるんでしょうね?ありがと。


彼は私の問いに答えずに言う。死にかけているってのに相変わらず手間をかけさせますよね。私のが先に死んでるんですから、勘弁してくださいよ。さて次は、どこへ行こうとしてるんです?何処へ帰るのですか?


さあ。そんなの知らないよ。きっと三途の川でしょ。今から死ぬの。ちゃんと身代わりを準備したからね。ついて行ってあげるわ。死ねるといいんだけどね。


死ぬんですか。そうですか。でも私はお勧めしませんね。


いやだね。わたしは君についていくよ。君なら、大丈夫でしょ。時間がかかったけど、わかったもん。遅いかもしれないけど、君が必要だからね。

  

掃除夫として、お手伝いさんとしてでしょう?


ま、そんなところだよ。でも必要な人として。近くにいたいから。


すみません。今回ばかりはお勧めしません。


いやだよ。私は知ったの。必要な人は得難いって。だから、もう、絶対ついていく。


大丈夫ですよ。私は、あなたのそばにいます、から。離れていても、見守っています。そうだ。バッグは役に立ちましたか?


バッグ?ああ。私はずっと昔の記憶を引っ張り出す。私に記憶はもうないと思っていたが、意外に思い出せた。でも痛い!そうだ、バッグね。カリマーだよね。あたた、痛かった。うん。あのバッグありがと。神成さんにして喜んでたよ。


ほら、他にも思い出がまだあるでしょ。僕に教えてくださいよ。


あるけど、もういいよ。思い出すと痛いし。


だめです。思い出すんです、ひとつづつね。時間はある。そして最後にどこへ帰りたいか教えてください。


私は彼になだめたり、怒られたりしながら、一つずつ思い出を引っ張り出す、でもそのために痛烈な痛みがある。私は痛みと思いでの悲しさと温かさに泣く。


そうだな、やっぱり、みんな懐かしいな…。帰れるなら、帰りたい。けど、


けどは、余計です。その言葉を待っていました。さあ、言ってらっしゃい。


どこへ行くの?一緒に行くんでしょ?


いえいえ。私は、あなたと一緒に行けないようです。


え?そうなの。でも、もう、いやだよ。一緒に行きたい。もう、失くしたくないよ。


私には全ての記憶がありませんが、自分の役割を知っている。私に出来る最後の仕事です。さ、背中を押しますよ。さあ。


いやだ。いやだ。いやだ、あんたと一緒に、そのために。ここまでがんばった、いやだ、いやだよう。


私は泣きじゃくる。しかしかれはやさしく頭を撫でてくれる。終わりはない、私がうんと言うまで、幾らでも時間はあった。私は、負けた。また彼の言うなりだ。


「あんたが、いうなら。わかった。帰る」


私はそうして懐かしい何かに身を任せる。今この思い出と共に、大きな何かを失うような気がした。それは今まで恐れていた、しかし切り離すのも怖い何か。でも今なら、できるような気がする。


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