表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天国の月  作者: 羊野棲家
18/20

第17章 青い月

 涼音が目を覚ましたとき、他の皆はまだ寝ていた。ISS-Ⅲまではあと10時間とのモニタに出ていた。居室には窓が無いことから、時間や位置的な感覚がなく、果たして地球から無事に離れているかどうかさえ良く分からない。涼音は一人起き上がろうとして驚いた。体を起こすと、跳ね上がるように持ち上がったのだ。重力がかなり小さくなっているのだ。確かに、私は地球を離れつつある、と涼音は実感した。

 涼音は、今にも浮きそうな体をうまくバランスしながら居室から出て、デイルームへ向かった。そこには、このカーゴ唯一の窓があり、離れ行く地球や美しい星空を見ることが出来るのではないかと思ったからだった。デイルームは、質実剛健な移動ボックスの中で、最も贅沢な場所であった。宇宙と月を存分に眺めることが出来るからだ。実際、初めてのメンバーは何時間でもそこに入り浸ることが出来た。このエレベータが将来丸一日くらいで到着できるようになったとしたら、この場所の取り合いで争いが置き、皆徹夜してでも、この景色を見ただろう。

 しかしこの日は3日目も後半とあってメンバーのほとんどはぐっすり睡眠を取っていた。涼音はデイルームをひとり締めできることに相当の優越感を味わえた。実際すごい景色だ。地球は足元にあり、すでに球体として認識できる。地上からは完全に隔離された世界である。地球から孤立したような感覚すら得られるのだ。初めて宇宙を飛行したパイロットは、やはりそんなことを考えたのではないだろうか。

 涼音は、これからのことを考えると、気分は晴れなかったがもうしばらく、このままでいようと思って、窓に体を寄せた。


 月では変動計の設置、高精度GNSS機材の設置などを行う一方、住居区設置の調査が行われていた。涼音は悲しみを振り払うように仕事に没頭し。そんな中、調査基地の選定については、当初より2050年に発見された地下空洞を用いることになっていた。これらを利用して地下空洞の掘削が進んでいく。

 涼音は、多忙が故に今日が何日かよくわからないことが多くなった。それは仕事が忙しいことももちろん関係している。月で調査した結果は、基本的に月で解析、とりまとめを行っていた。それに蛍光X線分析器や、EPMA、電子顕微鏡や質量分析計など、たいていの実験室と分析器はそろっていた。ただし手は足りていないので、分析は自分たちで実施する。藤岡は率先して手伝ってくれたが、彼らにも自分の仕事が山積みだった。そんな月での和みの場所といえばやはり展望室であった。この地『嵐の大洋』からは、地球をいつも見ることが出来る。太陽が出ていても、地球はきれいに見えた。

涼音は何も考えずにぼうっとしていた。


「ホームシックになったのではないですか?」

 突然後ろから聞き覚えのある声が聞こえて驚いた。

「あなた…」

 そこには、涼音そっくりの女性が立っていた。実存する形で出てきたのは、初めてだろう。

「お迎えに参りました」

涼音は、睨みつけて言った。

「私は戻らないよ。これくらいでは驚かないからね」

 彼女はいつもの余裕ある姿を崩してうろたえた。

「そんな…。本当にこちらに残るおつもりではないですよね。あれから考えられたでしょう。あなたも困っているはずです。整理できない夢にうなされて、相当苦しまれているはずです。それにあなたの繰り返し寿命はどんどん短くなっている。あなたの遺伝子情報は1000万年前の地球環境に適合しています。当時の地球は酸素量が少なかったので、必要な酸素量はわずかでいいはずです、今の大気は活性化しすぎているはずです」

それで、人より成長が早いのか、涼音は納得した。そして、もう一つの事象も納得がいく。早死にするわけだ。

「私たちの世界に戻れば、記憶を再整理して、体験を生かすこともできます。なにしろ、安らぎが待っています」

「もう遅いよ。私はあなた達と生きたいとは思わない。理想郷かもしれないけど、私の世界じゃない。何世代前はそうだったかもしれないけど、私の記憶はそうじゃない。多分、もう私は、この地球のただの人間だよ。私なりに生きるしかない」

涼音はそこで思いふけるように言葉を切った。それを受けても彼女はひるまなかった。

「はっきり言います。本当の意味であなたは死ねない。そう設定されている。肉体は死んでも勝手に電子コンピュータが再構成してあなたを再生させる。混乱した不良なメモリと一緒に。あなたが自分で変えるには私たちのところへ来るしかない。これからの月の生活はチャンスです。あなたは事故で亡くなったことにして、記憶を電子化してこちらの空間に来ればいいのです」

「死ねってこと」

「地球上ではそうです。でも、実質はちゃんと元の形態に戻ることができます。もう地球の学習と進化への貢献は十分果たしています。それにあなたは帰ることをプログラムしている。忘れているだけです」

「私は知らない!」

「忘れているんです。あなたは戻らないといけない!」

これまで丁寧な言葉だったのが、感情のある言葉づかいで涼音は驚いた。感情は捨てたのではなかったのか。

「わたしだってあなたをやっと見つけたんです。ここまでものすごく時間がかかりました。私はあなたと融合して元に戻りたいんです。私は、いまのままでは、ただの複製扱い。いずれ正規品ではないという事で、処理されます」

「間違ってるよ」

「なにがですか」

「私は、スクラップだよ。あなたの話を聞く限り、私の記憶は無理に押し込もうとして壊れている。ただ単に混線しているだけなら戻るかもしれないけど、私のは小さい箱に多くの情報を詰め込もうとして破たんしてるでしょ。無理だよ」

「うう、でも」

「お願い、もう現れないで。私はただの夢見が悪い女だよ。それだけだから。かぐや姫じゃないんだから。お迎えだなんてばかばかしい」

そういって、涼音は部屋を飛び出した。かぐや姫なんて本当にばかばかしい。


 その後、彼女は現れなくなっていた。涼音はできるだけ一人にならないようにした。研究室で寝たり、食事中も独りにならないようにしていた。ただそれも、たまに忘れてしまうほど、忙しい日々であり、夢を見るほどゆったり寝ても居られない日々が続いた。

 そうして月に来て3ヶ月がたったころ、今後の調査の進め方に少しずつズレが出てきているのを皆が感じつつあった。資材は順調に集約しているのだが、肝心の調査の進展が芳しくなく、設計にもズレが出て生きているのだった。とはいえ、今後何年も基地として使用しなければならないのであれば、調査や解釈も慎重にならざるを得なかった。涼音は力学的な面を除いた地形・地盤のチーフの一人であったが、焦る工程管理者と研究者との間では、何度か軋轢が発生していた。特に施工管理を行う工事監理部門長はこう言い放った。

「ある程度のリスクは背負い込まないと進みませんよ。作れといわれば、多少障害があっても作れます。調査はある程度分かっていれば、別に必要ありませんよ。」

 統括管理者で、基地建設センター長のリヴィエイユは、短く刈り込んだ白髪にやや面長な顔、細い目を動揺することもなく言った。

「工事長、ちょっと待ちなさい。また100年前に起こした過ちを繰り返そうというのですか?それは、新しいように思えるかもしれないが、古い考えですよ。この月基地の計画は失敗できません。それにコストも無限にあるわけではない。作るだけでいい計画ではないのだ。安全で、コストダウンできて、順調に進まなければならない」

「それはわかっています。しかしながら概ね状況が把握できているのなら、われわれに引き渡してくれれば、安全かつ、工程面でも十分着工可能です。」

「工事長は、現在の状況で十分だと、言い切れるの?」

「それをリスクとして想定に入れた対策で施工しますよ。」

「リスクの確率は推測がたっぷり入るけど、なにで計算するの?」

「我々には経験がある。たっぷりと、十分なリスク計算はできる」

「それは、地球上のでしょ」

「それは、まあ、そうだが。そのあたりはリスクを上げておく」

そこでリヴィエイユが割って入った。

「よし、そこで正確な月でのリスク判断をするに当たり専門家の意見を聞こう。地形・地盤評価チームリーダーは、十分といえるのか」

 涼音は答える立場にあった。コストと工程。調査は7割方完了していたが、気になることもまだある。しかし今妥協することで、上手くいけば、基地は遅れを取り戻し、誰もが損をせずに済むかもしれない。委員会のときの私の発言で、相当費用がかかり、工程も遅れて嘆いている、施工者の姿を思い出した。

「湯方君?」

 涼音はふと、昔、ダドリー先生がなくなる前、天野に言われたことを思い出した。

「不十分です。工程の面で遅れていることは分かっていますが、今着工すれば思わぬ被害にあうでしょう。例えば…」


 数十分後、継続調査が一ヶ月と決まった後、涼音がチームリーダーを務める地形・地盤評価チームの担当者数名が所長室に呼び出された。所長室の前で、工事長に会った。涼音は藤岡ともう一人の三人であったが、工事長は迎え撃つように、彼らの前に立ちはだかった。

「センター長に、これ以上何を言うつもりだ。この延長で、1億円は追加費用がかかる。その成果を挙げられるんだろうな」

涼音が、何か言おうとしたとき、藤岡が口を出した。

「人一人死ねば、1億円以上プラス家族の恨みを買うんだ。あんたこそ、それを引き受けられるのか」

「なんだと、若造。俺は今まで現場で人が死んだことがない。この仕事で30年やっているが、俺が現場を管理してから、一人もだ。いいか!そもそも、お前ら・・・」

「待って、私はあなたの経歴のために調査してるんじゃない。基地を作れるかどうかの評価を現有の知識100%を使って行うだけ。それでも誰か死ぬかもしれない。未知の地形・地盤に対して私たちは万能じゃない。でも、全力を尽くす。それはあなたたちにとっても、無駄にならないようなものにする。だから、一ヶ月だけ、待って。」


 そこへリヴィエイユが、顔を出した。

「おい君たち議論するなら、非公開にせんか。中でやれ。」

 工事長は、ちっと舌を鳴らすと、リヴィエイユの方を向いて、いえ結構ですよ。ちょっとした雑談ですから、などと答えた。そのあと涼音らに向き直ってこう言った。

「工期、忘れるなよ。まあ、期待しておこう。」

 工事長はそういって、廊下をのしのし歩いていった。

「君ら、用があるんだろう。入りなさい。僕は待ちくたびれた。」

 リヴィエイユは、そういって、明るい部屋の中に入っていった。


「で、まあ、ああい言った以上、君たちにとことん調査させてあげたいのだが。やはり工程もコストも無視できない。あと一ヶ月伸ばすことにしたわけだが、それでいいな。」

「はい。限られた中で万全は尽くします。」


涼音たちは、どうしても詳細にこの地下空洞を調査せざるを得ないことを説明した。

「直接歩くのだね?」

「そうです。無人探知機でレーザー計測や各種写真画像はたくさんありますが、実際のところ」

 藤岡が答えた。

「人ってのは、見ないとわからないモノなんだな。人の脳は最高のセンサと不安の塊だからな。まあ仕方ないか。このままでは先に進まん。それにしても、あのあたりは、不明な割れ目も多いし、危険だな。出来ればやめてほしいのだがね。それは君たちの安全が確保できるかどうか、ということでもある。月基地は重要だが、命をかける必要はあるまい」

リヴィエイユは、そういって、私たちを見回した。

「まあ、キミらにいっても駄目か。とりあえず、極力無人探査機を使いつつ、肝心なところだけはキミたちに直接歩いてもらわないと、確かにはっきりしないか・・・。しかし事故だけは絶対駄目だぞ。」

「ありがとうございます、センター長」


 数日後、涼音と藤岡を含めた4名が、空洞調査のために、宇宙服を着込んで月面に降り立とうとしていた。藤岡が半ば興奮気味に周りと話している声が聞こえる。

―月で、宇宙での踏査なんて世界初めて、いや人類初めてだよ。興奮するなあ。いやさもちろん緊張もあるけど、ドキドキするよ。

 涼音は、そんな声を聞きながら、大村君ならどんな顔をしただろう、と思った。藤岡ほどではないにせよ、やはり高潮た顔で、こう言っただろうか、湯方先生について初めて報われた、と思った!とか何とか。涼音はそんなことを、純粋に考えられるようになっていた。彼が去ったことには、重大な意味があったはずだ。それは。彼が言った通り、彼が成長するためだったのだろう。ちょっとしたトラブルさえなければ、彼はきっとこの地で宇宙服を着ていただろう。それは、運命とか、運が悪かったとか、そういうものではないのだ。私を含めて、皆自分の成長のために一生懸命、道を切り開いているのだ。遠回りかもしれないし、断念することもあるだろう。それでも彼が彼らしく、ある限りは、そのような選択をして生きていかなければいけない、彼にはその決意があったのだ。私は、青い星でただ安らかに生きることを夢見ているのではなく、彼のように生きることにあこがれなければならないな、と思った。


 地球外の天体で宇宙服を着ながら地質踏査は、人類史上初だったが、そんな高ぶりは一切なく、準備が進んでいた。5日間の予定で、遠隔操作の機械や、リモートセンシングで分からない割れ目や縦穴を主体に計画されていた。3日目、ほぼ宇宙服を着ながらの作業になれたところで、地域最大の縦穴の調査を実施することになった。調査箇所の成因と現在の構造、工学的特性に関するディスカッションが連日時間を惜しまず進められていた。

「この縦穴は、古い溶岩による空洞でしょうね」

「それを確認するだけの調査なら、最も気楽なんですが。今までの調査結果を見ると、それだけで説明つかないなあ」

 涼音もうなずく。

「考えられるほかの原因というと?」

「もちろん隕石による瞬間的な高温・高圧化に伴う変動とか、液化流動ほかには、古い時代の地殻変動、まだ表層が熱い時代の名残の可能性もありますねえ。どれも現在は証拠がない」

「場合によっては、地下構造物に不適切の可能性もあるけど、どんな状況だとそうなるのかしら?」

「そう、地球上で言えば膨張性の地山だったり、高圧地下水。熱水変質に伴う水蒸気爆発。どれも水に係りますが、これらは除去していいかな」

「でも、行ってみないとわからないからね。推定されるすべての可能性は頭に入れておいてよ。教科書は持っていけないんだからね」

 皆はうなづいた

「でも水に関する何らかの情報があるといいね」

 他の研究者は顔を見回している。

「まあ、そうです。でも、突拍子もないかなとは思いますが」

「確かにそうなのだけ、今まで月の地中の調査は全くなかったのだから。固定観念は捨てていきましょう。もしかすると地下水があるかもしれない。それとも凍っているか・・・。今何度?」

「マイナス25度です。」

「暗示的ですね。期待しちゃうなあ」

「あ、あのクラック、大きいな。中に入れそうだね」

「入るんですか?」

「もちろん」


 数日後、現地調査がスタートした。涼音たちは自動ウィンチでロープを下ろした。藤岡ともう一人が先頭に立って中に入っていく。ロープの長さは150mに達しても、止まらなかった。

 これはすごいな、と涼音は思った。これだけの鉛直な亀裂は水のあるところにはできないだろう。やはり水はないか。187mに達したところで、ウインチが止まった。上に居る涼音たちは、よかったと胸をなでおろしたが、聞こえてくる藤岡は、雑音まじりの無線で意外なことを言って来た。

「まだ下に付きませんが、割と大きなテラスがあります。一度ここで仮基地を設けましょう」

 涼音らは顔を見合わせて肩をすくめた。この縦穴はどこまで続いているのだろうか。涼音は、すぐに必要な機材と一緒に、ウィンチで降りることにした。縦穴の周りには目立った傷や模様はない。火山でできた噴出口なのだろうか。意外なのは、入り口は直径約5mくらいなのだが、入り込んで行くに仕上がって広がって行くようであった。所々に大小さまざまな穴がある。いったいどこにつながっているのだろう。180mほど行くと、藤岡が待ち構えていた。

「湯方さん、ここ、マイナス5度ですよ。それに湿度は1%あります。ひょっとすると、ひょっとしますよ!簡易大気分析計も今おろしてもらっていますから」

 藤岡は興奮気味に言った。涼音もそれを聞いて驚いた。もしかすると水か、氷があるかもしれない。これだけ深部であれば、温度の変化はあまりないし、安定した状態が保たれている可能性はある。氷や大気があるとなると、それは大発見だ。月の開発もぐっと現実味が沸く。

 藤岡たちの居るテラスは、直径10mほどに広がった縦穴の、一部の5m四方くらいのスペースがあった。藤岡たちが装置を組み立てているあいだ、涼音は、奥に続く空洞に足を踏み入れた。

「危ないですよ、ほかの皆が来るまで待ってくださいよ」

 涼音は、似たようなせりふを昔聞いたような気がした。が、さすがにこの未知の領域に興味を禁じえない。

「大丈夫。そんなに奥には行かないから。少しだけ、少しだけ」

 そう言って、そろそろと足元を確認しながら空洞の奥に入った。できるだけ、一人で居ないようにしていた意識はわすれてしまっていた。

 涼音は、水の存在を示唆するものがないか、つぶさに岩石の壁を見て行った。見たところ水を介在したような堆積構造はない。しかし水分があれば岩石の表層は変質を受けるはずだ。その証拠はないか。

 壁にきらっとした何かを見つけたような気がした。これは白雲母のような変質鉱物では?雲母は水成の粘土鉱物である。どこかで水と化合しないと生成しない。どこかが、異常な興奮が涼音の感覚を鈍らせていた。

 それが発生したとき、涼音は油断していた。一人になった。


 彼女、前と同じ姿で現れた。私たちが軽いとはいえ宇宙服に身を包み、酸素を供給しながらよちよち歩いているのに、彼女は、ゆっくりではあるが、すうっとすべるようにこちらに向かってきた。その非常識な姿に頭がくらっとした。この人たちは、本当に別世界の人だ。恐ろしい科学文明があるのだろう。どこでも同じように振舞える、ということは今の涼音の常識からすると別格だった。彼女は、そんな涼音の不安感を予想だにしていないのだろう。過去と同じようなやわらかい笑顔で話しかけてきた。


「お願い、戻ろう?」

「もう現れないで、とお願いしたでしょ」

「そう言わないでください。私もあなたと一緒になりたいの」

「それができなければ、あなたは消去されるとか?」

「はい」

「でも私はあなたじゃないんだよ」

「ちがう!私はあなただ!もう待てない。お願い戻って、戻るよ、ね、いいよね」

 彼女が私に近づく。どうするつもりなのだ、知識を電子化するというのは、どうやるのか知らないが、そうだ知識だけ持って帰ればいいだろう。夢に入り込めるんだ。

「私の知識をスキャンすればいいでしょ。あなたの科学技術ならそれはできるはず!」

 彼女は立ち止った。

「できないよ。炭素有機体生命の神経組織や記憶形態はそんなに単純じゃないんだ。前に言ったでしょ、人を操ったりすることは出来ないんだ。つまり…」

 とりあえず、彼女を足止めすることは出来た。どうする。おそらく私は彼女が脳内入り、私がマーカーを開放して彼女に知識と意識を伝達するのだろう。そうすると、私は抜け殻になって、見かけ上、肉体的に死ぬのだろう。マーカーというのは、多分、第三者視点の夢を見たときのような事を言うのだろうか…。

 その時、涼音は、私は今、どこに居るのだろうと思った。落ち着こう。ここは、月だ。その縦穴180m下の水平空洞。思わず壁に手をついて、ざくっとした感触があった。すぐ思い出した。今我に返ったのは、振動があったからだ。彼女がふらつくのが見える。顔は勝ち誇ったようだ。


「しまった、ですね。ふふ。私は所詮コピー、再構築も不完全。私は人を学んだ。こういうの妬みっていうのです。学びました。もちろん、あなたを妬むのです。そうするしかない。実存化するときにウッカリ岩盤を壊しちゃった。脆いのね、月の岩石って。うふふ。今から行くよ」


 その時、振動があった。涼音はその振動でわれに返った。涼音は彼女に背を向けて、入り口のほうへ向かった。それはわずかな揺れで、彼女は気づいていないようだった。実存化は慣れてないといった。感覚器と脳神経系の関連が不完全なのだろうが、追いかけてくる。彼女の話だと、実存化は赤ん坊からスタートしないといけないはずだったのに、いきなりタンパク質合成や神経組織を作成したのでは不完全も仕方ないだろう。おそらく、私の情報をコピーしたのだろうが。無理しているに違いない。それでも追いかけてくる気配がある。早めに引き離しておかないとややこしいことになりそうだ。

 周りでは振動に合わせて断続的な落石が始まっている。後ろでドシンと大きな音が起きているが振り返る時間は無い。涼音は急いで洞窟を戻る。後ろでは何か恐ろしい反応が起きている。振り返らずに洞窟の入り口方面へ急ぐ。あと50mくらいか?。

 入り口に来た瞬間、背中からもうもうと出る煙と同時だった。その中で作業をしている藤岡と顔を合わせる。

「どうなってる?」

 藤岡は煙る中で顛末を話した。大気分析計と、それを稼動するための資材を下ろす途中にウィンチに故障がした事、振動で荷崩れをおろして、それらを落下させたとのことだった。その資材には、掘削機器や大型バッテリーも含まれていた。今回収作業を始めるところという話だった。

「分かった。でもすぐ上へ戻りましょう。ウィンチはどうなってる?」

「今、下がってきてます」


 その時、縦穴の中をのぞいていた、もう一人の研究者が、ぐらり、と体を倒した。涼音と藤岡は慌てたが、何とか抱き留めることができた。

「おい、おい、大丈夫か?」

 意識がない。藤岡は彼をゆすったりして冷静さを失いつつあった。とりあえずゆするのはやめさせたが、詳細はわからない。これは酸欠か硫化水素の症状に似ている。この宇宙服は酸素を精製しつつ、不要な二酸化炭素を放出するシステムだが、その排出部から硫化水素が入り込んだのだろうか?宇宙服の気密性は何度か確認している。彼の顔は真っ青で、やはり意識がなくなっている。

「すぐ上げないと、まずいな」

 一方、周辺にはますます白煙が広がりつつあった。まだ縦穴全体を覆うほどにはなっていないが、時期に穴の中は煙で満たされるだろう。視界の悪い中、資材などを片付けていると、ようやくゴンドラの付いたウィンチが下がってくる。しかしゴンドラは、二人乗りだ。

とりあえず先に上がりなさい、と涼音は強引に二人を乗せた。そして無線で連絡する。

「最高速で上げて。これで壊れてもいいから。一人は意識がない。すぐ基地に連れて行く準備をして。酸欠の可能性がある。余裕があれば、この白煙の成分を分析しておいて。それと所長にも連絡を。大きな振動が発生すると思う。これはすぐ連絡して」

涼音は無線をきった。藤岡は抵抗せず、多くを語らずに、すぐゴンドラに乗った。

「すぐおろしますから、待っててください」

 涼音は素直にうなずいた。ここで議論している暇はない。彼はわかっている。現場の様々な体験で成長したからだろう。

「うん。お願い。上に上がった後の処置も頼むよ」

「わかってます」


 白煙の中、ゴンドラはあがっていった。一人が倒れた理由を考えようとしたが、よく分からなかった。まあそれは後で考えてもよい。それより彼は何を落としたといったのだっけ、涼音は反芻する。大気分析計に、掘削機器。それが落ちて白煙。底のレゴリスが舞い上がったのだろうか?底には旧火山の硫黄分がたまっているかもしれない?

 これは火山ガスじゃなくて、何か別のものなのか?彼は穴をのぞいていた。あと何を落としたのだろう。あ、大型バッテリーか。原子力電池。まさか、電池が壊れてプルトニウムがむき出しになった可能性もある。脆いとはいえ玄武岩だ。底にあるレゴリスはヘリウム3を含んでいる。そして、重水が氷としてあったとしたら。涼音の頭に恐ろしい答えがよぎった。制御できなくなったプルトニウムの出すアルファ線がレゴリスのヘリウム3と重水で核融合を起こす。

 その時、ドドンという揺れがあった。涼音は、縦穴のあるほうを見ようとした。でも本能的に覗いていけない、と誰かが言った。その瞬間、縦穴の下から上へ、青い光がフラッシュのように吹き抜けた。それを見たと同時に涼音は吹き飛ばされた。消え去りそうな意識の中、チェレンコフ光だ、なんて美しい光だろう、と思った。


 地上では、最初の揺れで地震警報が出ていた。

「これは、潮汐による地震じゃないぞ!今までのものより遥かに大きいな」

 観測班があわてて、モニタにしがみつく。直後に、リヴィエイユから基地内に放送が入る。

「緊急体制レベル2だ。すぐに状況報告しろ」

 月基地におけるレベル2とは、緊急脱出準備を行ったうえで、監視体制の強化と人名および基地の保持が最優先される危機管理体制の上から二番目に危ない状態である。

 リヴィエイユは、副所長に状況把握を指示しつつ、研究班に聞いた。

「今誰が出ている?」

「今出ているのは、地形・構造チームの5名です。空洞調査中です。あの縦孔に入っていますよ」

その時、放送が入った。

「所長、震源確認です。北西の方向、5kmの地点です。大縦孔付近。震源は浅く約1km。揺れは継続中。月の普通の地震じゃないな」

「おい調査隊は全員引き上げさせろ。すぐに連絡しろ。またゆれるぞ」

「中央制御室、自動隔離完了。他のブロックもオーケーです」

「よりによってこんな時に、こんな場所で地震とは」


 地震は、調査隊のうち地上で待機している2人にもすぐ分かった。

 地上の二人は煙が縦穴から噴出すさまを震えてみていた。とにかく早くウィンチがあがって欲しかった。しかし早く上げすぎれば、モーターが壊れてしまう可能性があった。

そのうち、青い光が立ち上がった。その光は何度かに明滅し、強くなったり、弱くなったりした。その時無線がなった。

「地上の二人、聞こえる?光を覗いちゃだめ。それとゴンドラを早く上げて。全速力で。モーターの負荷は気にしなくてもいいから。その青い光にさらされないように早く上げなさい!」

 それを聞いて二人は、すぐにモーターのスピードをMAXにした。モーターはうなりを上げて高速回転した。あと50mだ。

 

 45m、40m・・・、少しずつ距離が短くなるのを、恐怖に駆られて眺めている間の時間の長さは、まるで永遠に続くようだった。ゴンドラがあがって来るや否や、かれらは駆け寄った。一瞬ゴンドラには誰も居ないように見えたが、一人が立ち上がった。

ふらふらの藤岡は光を浴びうながら、同僚をおろしながら、倒れこんだ。

「はやく、ゴンドラを降ろせ。湯方さんが居る」

 一人は、無線にかじりついた

「湯方さん、いまからゴンドラを降ろします。」

「とりあえず、私はいいから、早く二人を基地に運びなさい。一人はきっと放射線障害よ。ガンマ線のフラッシュを浴びてる可能性がある。はやく治療すれば間に合うから。硫化水素じゃないだけましだよ。あきらめない事。あと、所長に連絡してすぐレベル1体制で、宇宙服でもフラッシュを浴びないように。外に出ないよう、連絡して」

「ばかな。先生はどうするんです」

「大丈夫。まだ洞窟が奥にある。逃げ込んでみる。後で探しにきて。悪いことだけは続かない」

そこで無線が突然切れた。

「あれ、先生!先生!もしもし、もしもーし」

「おかしいな、突然切れたぞ」

「今の、P波だぞ。横波が来るぞ。ショック体制を取れ」

ドーンという音ともに、あたりは猛烈に揺れた。それが収まりつつあるなか、藤岡は朦朧とする眼に ゆっくりと、水滴が降り注ぐのを見た。

 

 月に雨が、降ってる。


 涼音は、何度かの衝撃と、なんらかの水分の飛沫を浴びつつも、なんとか岩の影に身を寄せた。放射性物質が撒き散らされているのは、あきらかだったが、この飛沫はなんだろう。しかし涼音は頭がくらくらした。うまく意識を取り戻せずに居た。死ぬとしても彼女に連れ去られるのはいやだ。

しかしその努力もむなしく、彼女らは現れた。実存した彼女は岩石にあたって血だらけだった。


「見つけた。連れて帰る」

「あなた…、まだいたの」

 涼音は思わず駆け寄って彼女を見た。あちこちが落石で負傷している。なぜ月に地球と同じ姿で現れるのか。同じ重量ではないものの、加速度はある。彼女は弱々しい手の動きで涼音をつかんだ。

「ふふ、捕まえた。でも私、動けない」

「ひどいけがじゃないの」

「ふふ心配しないで、やっと捕まえたけど。でももう、私帰れない。ねえ、どう?私も実存化してみた。かわいい?」

「バカじゃないの、その姿は、地球でしなよ」

「時間、なかった。私コピーだし」

「それくらいの知識あるでしょ」

「ううん、ネットワーク切られた。もう、戻れない」

「え?」

 もう戻ることができないことを示しているのだろう…、それは彼女にとってどれくらいの意味の事かが分からないが…。彼女の姿はあまりにも絶望的だった。

「まあ、実在化してよかったじゃない。人のけがってのはたいてい治るんだよ」

「うふ、多分無理」

「いいから、だまってて」

彼女は立ち上がってひらひら舞いながら言った。

「だって、もう不良品だから、適当に実存化した。タンパク質不活性、手足もボロ」

 手足のけがは物理的なものだ。涼音は、今まで聞いた話をまとめると脳神経が大丈夫なら生きられるのではないか、と思ったが、そこまで考えたところで、継続する振動が気になっていた。原子力電池の破壊でむき出しになった重元素が核分裂し、中性子線や電子線を派生させ、それが穴の底に多量にあるヘリウム3と、これは推定だが、氷の中の重水と反応したのだろう。地下には何かがある。表層は太陽光で温められるが、地下ならマイナスだろう。こればかりは月とはいえ、表も裏もないはずだ。地下にあるもので、熱で溶けて振動する。氷山みたいに…。もしかして氷?。

 そうだ。藤岡君は大気分析計を下ろしたと言っていた。大型バッテリーは壊れてしまったが、内臓バッテリーでいくらかは持つだろう。少しでも基地に送信できれば。氷が融ければ帰化して水蒸気が出る。水の存在を伝えることが出来るかもしれない。それだけやれば、後の道筋が付く。ただの事故で終わらせずに済む。私は、慌てて準備する。あまり時間はない。おそらく私の体にとっても。今は、おじいさんやあの星のことではなく、今私のできることと、私の大事な仲間たちへ未来をつなぐことが大事だ。あの基地が私の家なのだから。


「さあ、戻るよ、お姉さまぁ…」

 うわごとを言っている彼女の頬を思い切りたたいた。

「ちょっと!しっかりしなさい。ホントにあなた、元に戻れないの?」

「うん、やっと電子化する気になった?もう遅いよ。お姉ちゃんのばか。せめてあなた死ぬの、私は幸せ。ざまあみろ。感情って楽しいのね!」

「私は諦めないよ、あんたもこともね。地球人は諦めにくいんだからね」

「いいの、もういいの」

 乱れる彼女をがっちり捕まえる。

「聞きなさい!あなた、今の地球の設定で実在化して来たんでしょ」

「え?うん」

「まだ私の脳に入り込める?」

「うん、それくらい出来る、と思う」

「じゃあ、おいで。私のマーカーを開放するから入ってきて」

「え?その方法、忘れてるんじゃ?」

 

 私は首を振った。多分、覚えてる。今まで気づいていなかっただけだ。いや、忘れていたというべきか。

「でも、記憶でいっぱいだって」


 それに、私は二つの心を持ったことがある、はずだ。

「だから、あなたの記憶で消してちょうだい。私の過去を、お願い」

「それって…、いいの?」

「いいよ。おいで」

「うん。ありがとう、うれしい、こんな方法もあったんだね」

 二人が体を寄せ合った時、その姿は猛煙にかき消された。


つづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ