第16章 月へ
K大をやめて非常勤講師や講演などを続けている涼音であったが、地理学会の会長である千木良氏から声がかかり御茶ノ水にある地理学会事務局に顔を出した。そこで話されたのは驚くべき内容だった。なんと月資源探査のメンバーとして、月へ行かないか、という話だった。
「私がですか?」期待と怖さと不安と遠慮の入り混じったこの問いを何度も繰り返した。
「惑星科学でも月の地理を本格的にやっているものは少ないからね。最近月開発に着目しているから、専門家は増えたが、君ほど実績と理論のある学会員はそうはいない。よかったな」
「しかし、それなら資源関係の専門家を選ぶべきでしょう。そもそも、そんな訓練してませんよ。」
「君も古いな。専門家クルーは特殊な訓練はいらないんだよ。宇宙船を運転させようってわけではないからな。そんなここと君にさせたら、難破船になってしまうだろ、はっはっは」
「からかわないでください」
「それはさておいても、多少の準備は必要らしい。君にも準備がいるだろう。九州のおばあさんにもお伝えしなければなるまい」
「そうですね」
「詳しい話は、今回の資源探査組織の主体となる欧州航空宇宙局から連絡が来る。すぐ来ると思うよ、担当者はせっかちだからな。あわただしくなるぞ」
月資源探査隊はフランス人のリヴィエイユ氏を建設センター所の所長としている多国籍隊であった。挨拶もそこそこに説明を始めようとするリヴィエイユ氏を制していった。
「ちょっと待ってくださいよ。まだ、自分が選ばれることに半信半疑なんですが」
リヴィエイユはきょとんとして言った。
「そうですか?私たちはあなたがもっとも適任だと思っています。まず月理学の第一人者であるとともに、実績が実に豊富で、よく理解されていると言うこと。第二に地理学の専門家でもあること。フィールドも良く歩いているし、単なる頭でっかちの解析で語る方ではない。そして第三にもっとも地殻変動が激しいといっても過言ではない、日本での専門家でいらっしゃる」
「変動帯の専門家であれば、私より優秀だったり、経験豊富な人が居たりするでしょう」
「ええ。それは否定しません。でも今回のように未知な土地の調査の場合、経験やあまりに専門化された知識は、正しい判断の邪魔をするかもしれません。総合的に判断できること、それはあなたのような若い才能のほうが望ましい」
そこで、リヴィエイユ氏は言葉を切って、ここからは本音ですよ、といたずらっぽく笑って言った。
「まあ、要するに、権威のある大先生は不適切ということです。はっきり言って専門バカ、ってやつでね。その点、あなたは理論と実践を学んでいる。あとはクロスオーバーな経験が欲しい。それを最近じっくり学ばれたでしょう。そう、あなたにとってはつらい思いでしょうが、あの地震災害の報告書は立派でした。必要なのは、専門知識だけじゃなく、公の立場で必要なことを延べられるかどうかです。それには、経験と知識だけでなく、勇気がいる。」
リヴィエイユは、じっと涼音を見つめた。
「もちろん、チームワークという点でもね。結構いろいろな人と調整しなければならない柔軟な方で、加えて月の地理に詳しい方は。あまりいない」
涼音は、ふうむ、と考え込んだ。御し易い、という点で選ばれただけではなさそうであった。あの日本語の報告書を、このフランス人は読んでくれたのか。それがどんなに面倒なことだろう。それが、月や宇宙と言った空間で、どのような役立つのかは分からないが、この人と仕事することは、価値があるだろう。
涼音は、ダドリー先生から言われたことを思い出した。その言葉は。
「わかりました。仕事をするときは…、」
「常に、一流の人とすべし、でしょ」
「ええ?それをどうして知っているのです」
「私、スイスの地層処分場建設の時、所長をしていたのですよ。その時、ダドリー先生にはお世話になりましたよ。住民との対話や我々役人や工事関係者と、それはよく議論しました。みんな一流でしたよ。あなた、秘蔵っ子でしょ?でも、私が選んだのはダドリー先生の秘蔵っ子だからじゃあない。さっきも言ったように、総合的な視点において一流だからです。まあ私の眼力が確かならば、という条件付きですが、そちらは私が雇用者に対する責任です」
リヴィエイユは、そう言ってもう一度いたずらっ子のように微笑んだ。涼音の重い心には、その言葉は百薬の価値があった。その後も、リヴィエイユと涼音は議論を交わした。リヴィエイユは、涼音の疑問にも丁寧に答えるが、専門家でないのにもかかわらず、鋭い感性を持っている、と涼音は舌を巻くことがあった。特に、月の地理に関しては、かなりの情報を持っていたつもりではあったが、それは誤りらしいという事には、嫉妬さえ感じた。
「月の地殻変動はそれほど大きくありません。それほど地形にこだわる必要もないと思いますが」
「これは、いずれお話しする必要がありますが、月の地殻変動は思ったより楽観できるものではない可能性があるのです」
涼音は耳を疑った。そんな情報は聞いたことがない。ということは国家機密レベルでの調査が極秘に進んでいたと言うことなのだろうか。おもしろくない。
「ふうん。それは、初耳ですね」
「実際に調査精度はまだ低いですからね。しっかりした観測が出来る体制は整っていません。そんな中での開発ですから。万全を尽くしたい」
「そちらにも専門家はいるでしょう?衛星写真もあるでしょう。私に成果として何を期待しているのでしょう」
「衛星による詳細な空中写真があるからと言って、それで最終決断を下すには危険が伴います。資源開発とは別な視点で、あなたには資源開発の基地の候補地や様々な構造物の建設の地、月の地形発達史を、直接、その目で調査していただきたい」
リヴィエイユは、建設に伴う構造関係の人間は手配済みであるといった。むしろ純粋な地理学としての適正な判断が欲しいということだった。
「月というのは、すべて処女地です。人間は地球に関しては、はるか先代からの知識が豊富にあります。しかし月に関しては未知なことが多すぎます。工学的・理学的両面からしっかり把握して行かないといけない。それにしては時間がないのですから」
涼音もそれには同意できるが、慎重に言葉を発しないでいた。大村君のように慎重になる必要もある。あの地震を経験したものとして、もうゆるりとしているわけにはいかなかった。大村君のように、神谷先生のように、神成教授のように、そしてダドリー先生のように、引っかかる部分はないか、よく考えなければいけない。それだけの責任のある仕事なのだ。
その慎重な姿勢を、リヴィエイユは意外に思ったようだった。
「私にとっては、もっと喜んでいただけると思っていたのですが、あまり気が乗らない様子ですね」
「いえ、うれしいですよ。唐突でしたし、こんな夢のようなチャンスが巡ってくるとは、信じられないくらいです。出発までの期間はどれくらいなのです」
「出発は来年の2月を予定しています。残り10ヶ月ほどです。一週間ほどは、月の重力に慣れる、練習としていただきますが、その他は月の写真と精度はよくないですが、大雑把な測量結果はありますので、それと存分に格闘していただきたいですね。
「地形調査は、どんなメンバーで行うのです?」
「建設や調査について、基本的な人選は済んでいますが、軍で言えば、私は大隊長です。あなたは中隊長になるので、部下を選ぶ権利があります。最終的にはあなたが選んでください。今年いっぱいは、そちらに専念してください。年が変われば宇宙空間の訓練を少し入れます。宇宙空間の作業をしてもらいたいわけではありませんが、まあ地球の外へ出る必修科目です。それにこの訓練はチームワークの構築にも役立ちます。この訓練は、国際宇宙ステーションISS-Ⅲで行います。そこまでは、ヤコブの梯子ですぐですよ」
ヤコブ…。
「なんです、それ」
「あれ。聞いたことありませんか?旧モルジブ国に建設された軌道エレベータです」
「ああ、確かにうわさでは」
「ご存知なら話は早いですね。まだ試用期間中ですがね。現段階では中継基地まで丸4日かかります。その後ISS-Ⅲで慣れていただいた後、月まで2日です。このプロジェクトが成功すれば、月にもヤコブの梯子を掛けられると、もっとリスクが減ります。」
「月にも、ですか」
「ええ。月の方が、大気が少なくて障害物も少ない分、問題なく設置されると思います。ただ月の重力は小さいので、ジェットエンジンのほうが効率的かもしれません」
リヴィエイユは、涼音の考え込む姿を目に留めた。
「湯方さん、どうかされましたか」
「ふうん。月の神秘性は暴かれつつありますね、寂しいな」
「大航海時代や、航空路開拓時にも、その言葉はささやかれたでしょう。ほめ言葉として、お受け取りしておきます。」
「ほめるつもりはありませんよ」
「開拓者に悲劇や犠牲はつきものです。しかし現在はすでにそういう時代じゃない。ヤコブの梯子は、すでに完成しています。ロケットで爆発物を抱えて行くより、よっぽど安全ですよ。これで安全性が証明できれば、核廃棄物の宇宙投棄も夢ではない」
「科学技術の発展を否定するつもりはないですけど、この時代になっても予想外の自然事象があるのですから、万全とは言わないことですね。地理学も、月理学も全て理解したわけではないですから」
「もちろん。そのお手伝いをぜひ、お願いしたい。実質無職のあなたに、最高のフィールドをあなたに提供するわけだ」
「わかりました。やってみましょう。私も興味があるのは確かです。衛星レーダーの粗いデータにジリジリしなくても済みます。しかし、知らなかったな」
その数ヵ月後、涼音はJAXAの専用機から、広がる太平洋の空を見ていた。過去、ほんの100年前までモルジブという国が、今は小さな小島にすぎないスリランカの存在していた。さんご礁からなる宝石のような島々は今、海の下10mに没している。その旧モルジブ海からさらに数百キロ南、ディエゴガルシア島は海の要塞となっていた。さんご礁だった中心部から、一本のケーブルが延びていて、空の上まで続いていた、それはロケットの軌跡のようであり、天から流れ落ちる一本の墨の雫のようである。涼音は、ディエゴガルシア島に近づくと体を伸ばして、その異様な姿を見た。通称、ヤコブの梯子。涼音は不吉、というよりは不気味なものを感じた。銀色に輝く要塞のような島から伸びる一本の筋。それはジャックと豆の木のようでもあり、天から地球が穿たれるようでもある。
そんなな思いを涼音は頭を振ってかき消した。子供のころから、あこがれてきた月。その月に実際に行って、調査ができる、こんな機会があるだろうか。事前研究にも、リヴィエイユ氏とその機関は、人材・資材も豊富に援助してくれた。
月の地殻変動に関する疑問は、半年の間では結局解明できなかった。多数の地震計と高精度衛星とGNSSによる測量を行わなければ、明瞭な傾向は出ないであろう。地球からの月史では、地殻変動は認められず、熱活動的には死んだ星だと言うのが、通説である。現在までの観測では変動に関する結論は、時期尚早だということにした。
結局、行って見なければ分からない、ということだろう。土木構造や基礎に関する専門家は地球に待機していればいいが、実際の地盤に対しては、現地で判断すべきという事だった。何度考えても責任は重大だと思った。しかしこうして来てしまった以上は、任務を果たさなければならない。状況は違うとはいえ、以前、深層崩壊を予想できなかったような事態は二度と繰り返してはならない。これから向かう月の基地候補は『静かな海』の近く、『沈黙の海』という場所が候補地点である。涼音は、その土地の名も、やはり不吉だと思い、梯子から目をそらした。
ディエゴガルシア島の欧州機構空軍基地へ到着すると、チームのメンバーが何名かいた。たとえば、震災を一緒に経験した藤岡だった。彼はこのプロジェクトの公募がかかったときに真っ先に応募してきた一人である。涼音がリーダーとなる地形・構造チームは、湯方を筆頭に5人の研究者と3人の解析専門の技術者から成っていた。そのほか、並列するチームとして、岩石・地質チームや化学、物理などの専門チームがあり、総勢50の大組織であった。
数日後、涼音たちは、カーゴと呼ばれる、軌道エレベータの稼動部分に乗り込んだ。いよいよ月へ向かっての上昇が始まるのだ。カーゴの中は決して広いわけではないが、座席はゆったりでき、狭いながらも快適に過ごさせてあげようという気持ちが伝わってきた。それでも準備クルーは、こう言った。人の乗り心地は全く考慮していませんから。一緒に月へ向かうメンバーの一人がこういった。湯方さん、エコノミークラスだと思えばいいんですよ。座れる以外のサ―ビスはないけどね。
カーゴは、天上の世界へ向かって、ゆっくりと動き出した。カーゴの中は静かであった。ここ数か月のあわただしい準備期間から解放されたのか、座席で眠りにつくものが多かったが、涼音もそれを見ているうちに、伝播しそうだった。あまり眠りたくないな、と思いながらも連日の疲れですぐ眠りに落ちた。
聞き覚えのある声が涼音に語りかける。
「お久しぶりです。宇宙への旅は快適な様子ですね」
「あ、あの夢の隠者…、っぽいひと」
涼音は周りを見渡す。あの星ではない。日常の記憶では思う出すことが無かったが、今すべてを明瞭に思い出した。電子的に自由で空間を構成するネットワークで生存する生命の人たちだっけ、それに私に接触した理由も。
「前回お会いした頃から少し時間が経過しましたので、受け入れてもらえるかと思いました。前回の記憶はすぐ取り出せるアドレスにしまっておきました。すぐ鮮明に思い出せるでしょう。電子的に自由なのも悪くないでしょう?」
確かに。日常の記憶はすべて思い出せないが、彼らとの会話は極めて鮮明だった。ついさっきまで行っていた会話のようだ。
「理解していただいたように、私たちは電子に依存して空間的にかなり自由です。なので、こうやってあなたの脳に語りかけることが可能です。しかし私たちの仲間には、肉体に憧れを持つものがいます。そして自らの意思で、炭素有機体生命として適した環境で生活するのです。他の生物の場合もあります」
「安定した生命体なのに、無駄なことじゃないの。それでどうするの?」
「普通は、その生命として全うします。SF映画のように、残念ながら肉体を乗っ取っる、ということは出来ません。生物の神経組織は思いのほか複雑ですから、このように忍び込むことくらいですね。私の電子ネットワークではあなたの体を動かしたり思考を制御するといったことは出来ないのです。それは、あなたも経験があると思いましたが。ですので最初から指定した生命体としてスタートするしかありません。それに途中でリタイアできないので、相当な覚悟が必要です。電子的に自由ですが、因果律は崩すことができません。物質間の移動は出来ますが、いわゆるタイムマシンのように戻すことは出来ないわけです」
隠者さんは、重要なのはここからです、と改まってに前置きした。
「あなたはその実施者なのです。あなたは一定の年月が経過した際に、引き戻してくれるようプログラムしていました。しかしながら、その時にあの事故があったのです。電源が抜きとられたやつです。あなたの記録されていたシステムはダウンし、当時最新だった空間電子コンピュータは一瞬で霧散しました。当時はバックアップが完璧ではなかったので、再構築は非常に時間がかかりました。感情を捨てた私たちは残念ながらあきらめの良い種族です。失われた世界にあまり興味がないのですが、一部の空間を割いてもらい再構築を少しずつ行いました」
また突拍子もない。しかし前回と比べ、話が妙な方向へ進んでいる。
「全部、回復できたの?」
「いえ、一部だけです。失われた知性は大きかった。それらの再構築を行うと、あなたはこの地球に有期生命体として学び、地球の進化に携わる実習に出たことを知りました。地球の暦で約200年間の輪廻を繰り返す予定で、帰還予定でした。しかし、その事故に巻き込まれていたことが分かったのです」
「でも、さっき諦めがいい種族だと言っていたよ。感情もないんでしょ。なぜ探しに来たのよ」
私たちも罪の意識はあります。それに、これは言いづらいのですが、私はあなたなのです。私はあなたの複製でバックアップで残されていたのです」
「じゃあ、あなたは一度、霧散したの」
「そうです。やっと再構築され意識を戻したときは相当の年月がたっていました。そして断片的ながら私の記録を整理した時、自分がバックアップで本体は地球にいることを知ったのです」
「ほっとけばよかったじゃない」
「それでもよかったですが、私は自分に命令されています。200年後に探しに来て融合するようにと。私がバックアップなのですよ。ずいぶん時間はたってしまいましたが。通常であればマーカーがありますので、すぐに見つけられるのですが、探すべきマーカーは、自ら解放するか、こちらのキーがないと発動しません。探すのは混迷を極めました。しかし、私は探すしかなかった。一方、あなたは200年後に自分について、目覚めたはずなのです。しかし、迎えは来なかったでしょう。あなたはわずかに与えられた遺伝子能力を使い、この地球で世代交代を繰り返したのです。一つの人生が終われば最初から、リセットして輪廻する。その能力しか持たずにあなたは出かけた」
何のことだかさっぱりだ。確かに妙な現実感のある夢を見たりするが、それはただの夢だろう。大村君のことは、偶然だ。ありえない。
「何をバカな。私は、わたしでしょ。そんな能力しらないよ」
「あなたの記憶と遺伝子情報は、長い年月で少しずつ更新されていったのです。元の遺伝子と記憶領域が劣化するくらい年月は長かった。でもメモリは普通の人よりも多いし、電子の自由度も普通の人よりも高度です。とはいえ空間ネットワークが使えなければ限度があります。途中からどんどん上書きされてしまったと思いますが、不良セクタのように断片的な記録は残る」
「まさか」
「そうなのです。あなたの夢でみたものは、殆どあなたの実体験です。ただ、あなたは長い年月を経験して、記憶が上手く残せていない。夢は上書きされ、印象の強いものが残され、それも断片化し、一部は凍結し、再結線した。でもあなたには地球の進化を担うという使命もあった。これは消え去らない。いつの時代でも苦しんだ」
「う、うそでしょう。そんなこと言われたって信じられないし、困る」
「本当です。だって、私はあなたの分身なのですよ。あなたの始まりを私は知っているのです」
そこで、途切れた。