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天国の月  作者: 羊野棲家
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第14章 沈める月

1

海。深い青色。透みきった広い空。眼下には、大きな白い船がいるが、止まっているようだ。しかし、この船は悲しみと動揺に満ち溢れている。私が招かれたからには幸せな場はありえない。これは軍用ではないようだ。とりあえず戦争による死人は見なくていいようで、それだけでもほっとする。しかし私は、今度は何を見なければならないのだろう。私は怖れる、不幸な予感におののく。

船の奥から大声で電話している声が聞こえてくる。私の意思は近づきたくないが、私にはどうしようもない。彼らの今と行く末を見届けなければならない。なぜ見届けなければならないのか、私にはわからない。怖いが耳を澄まそう。


「正確な位置なんてわかりません!こっちも津波であわや転覆だった。とりあえず、海底1万mで〝ちしま〟が行方不明になっているということだけです」

 そのあと、無線らしきざらついた音が聞こえたが、私には良く聞こえない。

「分かっています!全力で探しますから。それより応援のりゅうきゅうに連絡たのみますよ!彼らを救えるのは、りゅうきゅうだけなんですから」

「向こうからは連絡ないですよ。現在音信不通ですから。え?事故かどうかは、はっきりしません。ちょっと無線の状態が悪くて聞こえません?おい、まわり、うるさいぞ!今、調べてますから。生死?それもいま調べてます!!何時分かるかは未定です」


別の部屋では、役人風の男と、つなぎ服を着た技官風の船員が話していた。こちらは場慣れした人たちらしく、冷静である。しかし、心の中は二人とも動揺していることが私にはわかる。

「事故だったとしたら、どう救助にいくのです」

「それは、浅部の場合であれば、ちしまには緊急連絡用のケーブルブイが1000m分あるので、それで位置を確認した後ケーブルを使って回収します。1000mというのは資材の量と水圧を考慮した限界点ですが」

役人風の男は、聞きたい事はそれじゃないとは、わかるだろうという、雰囲気を出しながら、静かに聞きなおす。

「それより深いときはどうする」

「それより深い場合は、今回の場合がそうですが。水中GNSSで位置を確認したあと、救助に行き、直接ドッキングして救助するシナリオです。今さらですが、以上の場合は浮上を最優先するシステムになっています。潜水艦の場合は基本は浮上することは難しくありません。大きなクジラにあたっても、浮上は可能なように設計されています。一体何があったのか。あの地震と津波が原因だと思うのですが、それが音信不通になる理由はまだなんともわかりません」

「ふむ。で、現在の調査状況は?」

「周辺環境については解析中ですが、地震時に何らかの衝撃があり、その後通信が途絶えています。水中GNSSも反応ありません。発信機自体が壊れるたのか、単純に地震による海底地すべりで深海底の変動があったか、相当砂やマリンスノ―でかき乱されていると思われます。通信不能なのが、その攪乱のせいなのか、電気系の故障なのか、故障ならば航行不能なダメージなのかどうか、わかりません。最悪な事象は海底地すべりに巻き込まれたか、回避中に複雑な海底地形に落ち込んだ可能性もあります。なにせトラフの最前線ですから」

「ふむ。で、こちらからの打つ手は?」

「海中の攪乱が収まれば、GNSSの発信が開始すれば位置がわかります。ただ、深海底に巻き上げられた土砂は簡単には沈降しないでしょう。それと事故直前の位置は明確ですのでと、周辺地形を解析し、何がおきたかのか予想することは可能ですが、この付近の海底面のコンタは5mですし、これから地形図は作成予定でしたので、どこまで正確なシミュレーションができるかはわかりません。とにかく、簡易でも事象解明しないことには進みません。その後、ベクトル解析などで判明した場所にいるかどうかを確認していきます」

「ふむ。さっき話していた、ドッキングできる救助船はスタンバイできているのだね」

 そこで技官風の男は大きくため息をついて首を振った。

「いえ、おそらくだめでしょう」

「なぜだ」

「日本が独自に開発した、高性能調査潜水艦で現役は今遭難している「ちしま」を含めた3機です。実は残りの2機は、解体整備中です。常時2機を稼働させる余裕はないものでして。それに先ほど話していた『りゅうきゅう』という姉妹艦は、売却予定の解体整備中ですので、契約からも中止させるのは難しいでしょう。ただ整備は始まったばかりですから、再稼働は可能かもしれません。あと、世界では、深深度の調査潜水艦は、もう一機あります。今アイスランド付近で活動中の欧州機構の海洋探査船ディスカバリーⅣ号です。これは救助要請を依頼しました。これが今すぐに動ける船体です。外務省を通じて救助を依頼して、協力すると返事をもらっています」

「ふむ。アイスランド?地球の裏側も同然だな。来るのにどれくらいかかる?」

「そう、場所が悪いですね。三週間ですね」

「そんなにかかるのか?まあ、そうだろうな。」

「ちしまの方は、もし動けなくても、破損が大きくなければ大丈夫だと思います。船体には圧縮材で美味くはないですが1年分の食事をつんでありますし、原子力電池による電力も十分です。海水から酸素と水もちゃんと供給できます。ただし、緊急脱出ポッドに入った場合は、多少居心地は悪いですが」

「ふうむ、三週間程度なら待つことは可能と言うことか。そうだな、その欧州機構の艦、空輸できないのか?」

「いいアイデアですが、一般的な装丁ではないので、重いんですよ。特に深深度の調査潜水艦は。水中で浮力を考慮された中で沈んだり動いたりしなければならないですからね。パワーもある分、重いんです。ばらせばいいが、こちらで組立できないし。」

技官風の男は、ため息混じりにそう答えた。

「わかった、私もできるだけのことはしますよ。折角、楽しみな視察に来たのに、疫病神だったな」

「そんなことはありません。が、事態をなんとか収拾しないと。ぜひ、首相に口を利いていただいて、『りゅうきゅう』の売買契約の交渉をしていただきたいのと、英国ディスカバリーⅣ号を早く来させる方法を検討するようにお願いして欲しいのです。私よりも頭の柔らかい連中がアイデアを出してくれるかもしれません」

「わかった。この指揮艦の状態は大丈夫かね?」

「は。先ほどの津波の影響でけが人が船長を含めて十人ほど出ています。海上保安庁のヘリがもうすぐ来ますので、それで運び出します。船体にも損傷がありますが、捜索に問題はないと思います」

「よし、頼むよ。僕は電話をしてこよう、君も少し休めよ。地震から丸一日たっているが、まだ寝ていないだろう」

「その点は大丈夫。数日寝なくても」

「ヘリが来たな」

彼らの耳には、本土からのヘリコプターの音が聞こえていた。


 そのころ、船内のオペレーションルームでは、通信復旧と海底での状況把握のために様々な作業が慌しく行われていた。

「通信回復したか?」

「まだです。攪乱がひどいようです。しかし吹き上がった未固結の粒子なんて、一ヶ月以上しても安定するものでしょうか。」

「それは、君は考えなくていいよ。僕らは今、彼らの通信回復と状況把握に全力を尽くそう」

「地形に関しては、流体力学の専門家に解析を依頼していますが、まだ解析中です。いい地形図もないしなあ。5mコンタレべルでは子供のブロックと同じですよ」

「あ、微弱な音波を受信しました! 」

「よしっ!やっとか」

「動いてはいないようです。この分ならいずれ、通信も可能だと思います。」

「艦内の制御コンピュータがSOSを発信しています。」

「よしよし、他のデータ受信送信が可能になるといいが。存外元気じゃあないのか?」

「いや、余り良くなさそうです。SOSは発揮していますが、他のデータは断片的ですね。ノイズなのか、コンピュータの故障か、センサの故障か。現在の取得データは専門家に再整理してもらわないとだめかも」

 断片的なデータを再解析した結果、以下の通りであった。艦は45度の傾斜で倒れている。原子力電池は正常であるが、艦の一部のひずみ計が破損しており浸水している模様。電気系は衝撃のためか、相当な箇所がショートしているのだろう。使用できる機器は限られている。通信はコンピュータを通じれば可能。動力計は、不明な理由により稼動していない。何らかの高い負荷がかかっている。作業員3名の生存情報はなし。

その後の作業で、通信はコンピュータ画像にメッセージを送付できることが分かった、すぐに、メッセージを送ったが反応は無かった。見ているかについてはわからない。その他、室内のセンサはほとんど壊れているが、酸素濃度や室内温度などの情報は分かった。酸素濃度は30%、室内温度は14度であった。しかし依然として、乗組員の安全は不明であった。


2.

 海上の指揮艦からではまるで手探りだった。通信は回復しているはずなのだが、送信することができないのか。直すにも乗組員がいないと無理な状態だ。解析メンバーは手詰まりになり、焦りを感じ始めていた。

「くそっ、なんで物が燃えたわけでもなさそうなのに、あいつら返事しないんだ」

「コンピュータから音声を発生させることはできないか?昔のSF映画にあるじゃないか」

「そういうモジュールはつけてないんですよ。艦内設備は極力少なくしていますからね。艦内の有線電話はありますが、コンピュータとはつながっていませんし」

 ここで、一人の作業着を着たものがぐっと体を入れてきた。それは、端末をたたいているメンバーに比べてたくましい体つきをしていた。

「管理用の服を脱いでいるかもしれません。船内でトラブルがあったら、あんなもの着ていられないからね。それより船内の温度センサのついているものを三次元的に解析して、空気より温度の高いところを探せないかな」

「なるほど、さすがは『りゅうきゅう』のオペレータ高島さん。それは、いいアイデアかもしれません。室内気温14度なら、体温が浮かび上がるかもしれませんね。解析の連中にやらせてみます」

「こういうときこそ機械の目で見てもらおうじゃないか。体力を温存しているかもしれない。奥野たちはそんなに馬鹿じゃないはずだ。何か理由がある」


 高島は、海底調査船「ちしま」の予備乗員として控えていたオペレータであった。「ちしま」は1人の操艦オペレータと2人の研究者による3人構成である。高島は、大洗の『りゅうきゅう』解体作業を行っているところ、事故を聞いてヘリに乗って三沢基地からやってきたのであった。高島はさらに続けた。

「この電気系統のショート具合を見ると、浸水してる可能性ありますね。船体の下部にある機械類の電気系はほぼやられています。やはり何かに衝突したのかな」

「船内には水圧計はつけていないからなあ。船内気圧は?」

「平常よりちょっと高いくらい。どこか漏れているかもしれんね」

「じゃあ、浸水はセンサの位置までは来ていないのか。見込みは、あるかな。こちらから何か信号を送れば、向こうも反応をしてくれると思うのだが」

「モニタにメッセージをだしています」

「モニタが破損している可能性があるぞ。電気系のショートも結構あるだろう」

「そうです。メッセージを送っても見れるかどうか」

「やるだけはやっておこう。それより原子炉は正常でよかった」

「原子炉じゃない、電池だぞ、言葉に気をつけろよ」

 高島は、ふんと鼻で笑ってその後を飲み込んだ。

「温度三次元センサ、出力しますよ」

 モニタには、様々な場所にある温度センサを使った等温度分布図が描かれた。

「このおそらく、14度よりわずかに低い場所が水面だろうな。」

「そうですね。ええっと、制御室には20度以上の場所はなさそうです。」

「どこか、別の船室にこもっているのだろうか。逃げたのかな。全ての区画に浸水はしていないはずだ。他の区画の解析結果は?もっと探そう」

 それから、彼らは一時間ほどかけながら、測定できる場所を順番につぶしていった。

「緊急脱出ポッドや、制御室にいないとすると。しかし。どうしようもないぞ。おかしいな。死んだとしたら…」

「まあ、待てよ。死んでいるとしても、まだ20度くらいの体温はあるはずだ。」

 高島は悲観にくれるオペレータの肩をたたいていった。

「どの区画にいるのか分からないが、緊急用の最前部区画に入ることが出来れば、脱出ポッドはあるが」

「温度センサの反応しない場所があるってことは?俺もあんまり考えたことはなかったが」

「原子炉室、じゃなかったバッテリー室はもともとテレビ監視だったからなあ」

「原子炉は故障していないんだよね」

「は。放射能漏れもないです。炉の閉鎖はコンピュータ作業でいつでも可能です」


 皆、おし黙った。炉の閉鎖はいよいよ探査船を断念するときに行う最重要課題である。もし万一、そのときには、原子炉は閉鎖し、ウラン238とプルトニウム239を鉛で囲った、ただの石にしておかなければならない。幸い、積んでいるウラン238とプルトニウム239は500g程度である。この程度なら海水があっという間に放射能を引き取ってくれるだろう。やがて放射性物質は深海に沈み、海底に引きずり込まれる。大量の細粒物質は放射性元素を吸着し、無害にしてくれる。そしてマントルにまで引きずり込まれるのだ。万一、地表に現れることがあっても固い岩石の一部となって、見分けもつかないだろう。

 沈黙に耐えられないように、ある男が口を開いた。

「ポッドが壊れたかな。もしかしてケーブルで上がってくるつもりかな」

 高島は、うかつに話す船員に本気で怒った。

「本気で言ってるのか?出られるわけないだろ!」

「わ、分かってますよ」

 その男は、うろたえるように言い訳した。

「なら言うな。海溝の最深部なんだから、1万メ―トルの水圧に耐えられる服はないんだ。今装備されている脱出用の耐圧服は大陸棚をイメージした200m用だ。出たとたんに恐ろしい水圧がかかる。一瞬でつぶれるかもしれない。ケーブル上がるという望みは、ない。わかってるだろう。そんなつまらないこと、みんなも、分かってるなら言うな」

 口を出した男は、恥じるように小さくなったが、沈黙に耐えられなかったのだ。

 その後、特に良い解決方法がないまま、1時間が経過した。高島にしても、時折、温度センサに変化がないか尋ねるくらいのものであった。

「温度センサ、変化ないですね。」

 センサを見守るものが、ため息混じりに言う。

「むむ、なんともわからん」

 高島も手の出しようがなかった、もう少し何か情報が欲しい。何か、困った状態なことは確かだ。そのとき、別のメンバーが、思いついたように言った。

「あいつら、見えないところで何か作業しているのじゃないか。温度センサって全艦についているわけじゃないだろ。どこか安全な場所に避難するとか」

 なるほど、と高島も思った。それはありうる。見えない場所をあぶりだせば、状況がつかめる可能性はある。上手く行けば、何をしているかもわかるかもしれない。

「よし、もう一度、センサの探査範囲を確認しよう」

「設計図を出せ」

 そこにいるものは、すべてこの作業に借り出された。

「挙動センサの設置していない場所のリストです。」

「音響ソナー室、各自の居室とか。あとはエレベータ区画や排気口とか、結構たくさんあります。センサ射出庫、これは部屋とは言えないな」

「そこにいて、意味のある場所だぞ。エイリアンじゃあるまいし、エレベータ区画にはいないだろうよ。水没している可能性が高い場所は除こう」

「かなりの部分はダメじゃないか。」

「調査用センサも水没範囲ですね、くそっ」


 高島はしばらくだんまりして、図面を見入っていた。調査用センサは50個ある。これを海中にばら撒くのが大きな任務のひとつだった。これが水没しているとなると、調査員としては忸怩たる思いがあるだろう。やつら、がっかりしただろうな。調査センサを射出する場所は、艦の下側にある。俺でなくても確認しに行くはずだろう。多少面倒でも。ふむ、俺ならどうする?

「まさか、とは思うが、この射出室から、こう進むと、緊急脱出ポッドにつながっている」

 珍しく、船長代理が声を出した。

「高島、それはありうるな!」

 これは俺の推測だが、と高島は続けた。射出室にはまだ発射していないセンサーがあるはずである。しかし水没していると言うことは、センサを通常の形で射出することは出来ないと考えられる。しかしセンサは外に出しさえすれば、遠隔操作あるいは指定位置まで自己稼働させられるのだ。

もし俺が乗っていて、致命的なダメージを受けていて、生き延びられないことがハッキリした場合、と高島は続けた。

「俺ならセンサを射出室から、緊急脱出ポッドに移し、ポッドを浸水させた後、遠隔操作で、外に出す。ただし、条件はある。二人以上生き残っていて、一人は脱出ポッドで外に出たあと、ドアを手動で水中へ解放しなけりゃならん。そいつはほぼ即死だな」

「そこまでしなくても。センサは水没したって回収可能で設置しなおせばいい。”りゅうきゅう”とか、欧州機構のディスカバリー号が来れば、回収できるんだ」

「それはそうだな。ただ、そのあと、動作確認やら、解体確認をすれば、1年くらいの時間はかかる」

「新しいのを作った方が早そうだな」

「そう言っても、待機したまま辛抱して待てばいいだけだろう。無理に死ぬ必要はない」

 高島は、彼らの意見をもっともだと思いながら、聞いていたが、自分の思うことを口にした。そんなことではないと祈るが。何か理由があるのだろう。待てない理由が。


「確かにそうだ。普通に動けないだけなら、安全を確保して3週間待てばいいんだ。そうなんだが、きっと事故で何か危険が迫っていると思う。それほど時間がないのだろう。たとえば、数時間しか時間がないのなら、そうするしか手はないと思う。俺たちの知らない事態が何か起こっているんだ。俺もそれ以上はわからん。浸水で時間がないか、ほかの何かか」

そこまで言って、高島はふと気づいて言った。

「なあ、そういえばセンサの現在位置はわかるか?起動してさえいれば、追跡できるんだろ?」

「はい。まさかそんなことはあるとは思わず、システム稼動していませんでした」

慌てて、50個あるセンサの受信機を稼動させる。通信には時間がかかるうえに、座標の解析をしなければいけない。誤差もある。ちゃんとした判断ができるものなのか、皆半信半疑であった。しばらくすると結果が出る。

「現状画像でます。2箇所に分かれていますね。約40個がすでにポッドの位置にあります。5個は射出室ですね。それと、1個が、動いていますよ。これだ!」

 そこにいるみんなの、歓声が沸いた。事故が起きてから30時間経過していた。

「やっと見つけたぞ。あいつら、きっと今頃気づいたか、と悪態たれてるな。」

「向こうで、こちらが観測しているかどうかわかるのかな?」

「わからないですが、センサが受信しているとはわかるでしょう。双方向システムでよかった」

「こちらから監視していることは伝わるんだな。とりあえず、誰かは生きているか」

「うん。少なくとも一人では稼動は無理だから」

「さっきの外へ射出する方法だけど、こちらから遠隔操作できればいいんじゃないか」

「いや、電波を受信するだけで、こちらからセンサの移動を操作できる仕組みになっていない。予備の機械はあるから、アイルランドのディスカバリーⅣ号が来るまで待てば、海中1㎞範囲内なら操作できますよ」

 いや、高島がつぶやいた

「やはり、何週間も、何日も待てないってことだな。何か急な事情があるのだろう。俺たちには、わからんが。今の作業ペースだと、事故後すぐ開始したとすれば、この作業ペースだと、残り2時間か。この作業が終わったら連絡してくるかもしれん」

 一体何がおきているんだ、教えてくれ、大村、奥野、荒井!何かサインはないのか、と高島は懇願する気持ちだった。結論はハッキリしていた、だが理由がわからない。センサは水圧に耐えられるのだから、回収できれば、再利用できる。船体に異常があるか、浸水が激しくてあと数時間しか持たない可能がある。あと数時間持たないような、何かか?


 一時間くらい後に、不思議な顔をした解析担当班のものが現れた。

「何か信号らしいものを見つけたのですが・・・。」

「信号?やったじゃないか。」

「いや、まだわからないんです。まだ作業中ですが、一応ご報告をと思いまして。」

 解析班のもう一人のものが口を挟んだ。

「きわめてノイズに近い状態ですが、なんとなく法則のあるノイズなんです」

「ふむ。そんなに難しいことはやらないだろう。」

「信号だとすると、なんらかの伝えたい事情があるのかもしれない。」

高島は少し希望があるかもしれないと思った。もし信号の意味がわかれば、絶対何とかしてやる。がんばれ。ただ、疑念もあった。やつら事故後、すぐにセンサを運び出し始めている。そんな通信を調査している時間があるだろうか・・・。

 船長代理は解析担当者に尋ねている。

「ところで、解析する前に聞いておきたいのだが、これが誰かの信号だとして、こちらから送信することは可能なのか?」

「難しいですね」

「おい、希望だけを持たすのはやめてくれ。難しいけど出来るのか、出来ないのか、どっちなんだ」

「できません。理論的にも。」

ふう、船長代理は、大きなため息をついた。

「よし、一応理論的にだめでも、君は伝達する方法がないか考えてくれ。それからそこの3人はこの信号らしきものの解析を始めてくれ。何か人為的なものならやれるだろう。遺言なら、聞いてやろう。」

 高島は、相槌は打たなかったが、そうだな、と思った。せめて何か伝えることがあるだろう!しかしもし死んだとしても、必ず、遺言は聞いてやる。『りゅうきゅう』でいつか必ず迎えに行くから。


3.

 海底探査船『ちしま』。日本が開発した10,000m級有人探査船の第5号機である。10,000mには無人探査船がすでに1980年代に到達していたが、有人での探査が可能になったのは、2050年になってからであった。強度のある材質が画期的に飛躍したことが、深海底に人を送り込む要因となっていた。フラーレンナノチュ―ブの大量生産や、ハイパー繊維の大規模な開発が可能になり、10,000mでも十分な安全性と動作性が確保されたのである。それに、小型の原子力電池が開発されたこともある。電池といえば聞こえはいいが小型の原子炉であった。それに海底の地形が明瞭に判明してきたことも安全性に信頼が高まってきたのであった。

 第一号機『するが』はプロトタイプとして、無人による探査を行った。そのまま改造されて第二号機が『なんかい』として南海トラフの探査に従事していた。第三号機『さがみ』は、引退する『なんかい』の成果を反映して製作された。この二機によって相模、駿河、南海トラフの解明が格段に進んだのだった。

そして第四号機『りゅうきゅう』、第五号機『ちしま』は兄弟艦として、最新の超高水圧自動制御システムを掲載し、武装していない最強原子力潜水艦に近いと言われていた。また長期間の航行を可能としていた。『りゅうきゅう』は『ちしま』の2年前に就航し、琉球列島の両側のトラフと、日本海の海嶺調査を終えて、1年間の解体整備作業に入っていた。原子炉を持つ艦の解体作業は徹底されたものでならず、まだ半年以上の工程が残っている状況であった。『ちしま』は昨年就航した最新艦であり、処女航海を南海トラフで終え、目的地であるカムチャッカ・千島列島の日本海溝を探査するために北上したのだった。

南海トラフとフィリピンプレートの解明を目的とした探査船の目的は、新しい深海の世界の解明に向かおうとしていた。地震のメカニズムの解明と地震予測はもう一歩のところまで来ていた。物理学と地震学と変動地形学を専門とする技術者の悲願であった。


 その新鋭機は今、千島海溝の最深部、深度9,550mの光のない世界に体を傾けて横たわっていた。その船体が受ける水圧は1cm^2あたり約10トンである。その周りにはもうもうと緑色の粉末が舞っていた。それは少しずつ、ほんの少しずつ沈降して、『ちしま』を蔽いつくそうとしているようだった。それはわずかな音さえしない、暗闇の中であった。

 一人の男が、明鏡のように静かな水面を見つめていた。男は、その微動だにしない水面を眺めているうち、ここにいる自分が夢でも見ているような気がし、自分の存在が不思議に思えきた。これは現実じゃないのかと思えたが、少しだけ動かした体の痛みがその思いを一瞬で否定する。

 水面は、きわめて奇跡的な、均衡を保っている。恐ろしい水圧がこの向こうに控えているのだが、僕らは艦内の気圧を調整して、なんとかその均衡を保っている。

 男は、暗い水面から目を離す。その目の動きだけで、体がきしむ。45度ほど傾斜してしまったこの艦の中を歩いたりするのはもとより、止まっているのすら厳しいものがある。それは体力的な緊張であり、少なくともひびが入ったらしい肋骨、骨が見えていた大腿骨付近は、ちょっとしたことですぐ軋みをあげた。それだけではない緊張は、おそらく精神的なものだ。深海10,000mに取り残されたというストレスは、むしろ感じない。しかし、艦内の気圧はわずかに高くなっているが、その圧迫感を妙に緊張をそそるのだ。


 彼はもう一度水面に目を映した。

 水面がわななく。

 まさか!均衡が崩れるのでは、と思ったが、手にしていたロープが引っ張られていた。

 彼は強い力で引っ張った。先端に相当重いものが付いているのだ。それは、一台70kgのセンサである。浮力があるとはいえ、相当重い。特に水際から空中に引き上げる時が一番きついのだ。この作業は、二人でやらないと、腰をやられる。もうすぐ死ぬってのに、腰を心配するのもどうかと思うが、まだ我々にはやらねばならないことがある。たかが、ぎっくり腰だが、腰痛を治す時間がない中では致命的な負傷になってしまう。そして、作業ができないことは自分たちの最後のプライドと使命感をずたずたにしてしまう。それだけは、避けなければならない。


 そうして、センサの最後のヒト上げを保留にして待っていると、やがて水面に影が現れ、水がわなないて、人が現れた。水しぶきを上げ、はあはあ言いながらその男は、開口一番文句を言った。

「ちくしょう!はあはあ、もう二度ともぐらん!はあはあ」

 僕は、彼の肩をたたいて、をねぎらう。それくらいしか出来ない。

「お疲れさん。これで、最後のセンサだ」

「はあ、資材も含めて全部上げた。射出室にもう用はない。はあ。俺はもう、疲れたよ」

「うん、ご苦労さん。でもこれを、ポッドに担ぎ入れないと落ち着けない。もうふたがんばり必要だ」

「わかってる。でも少し休ませてくれ」

「ああ、もちろんだよ」

 僕たちは、痛む体を引きずって、センサを担ぎ上げて、傾いた廊下を進んだ。そして、はあはあいいながら、脱出用ポッドに担ぎ込むのだった。

 やがて、50個のセンサをすべて、脱出ポッドに担ぎこむことに成功した。僕らはどっと疲れて45度に傾いた艦内に座り込む。

「うし。これで、悔いはないかな?」

「そうだ。やるべきことはやれそうだ」

「よし、それを聞いて安心した」

「大村、わるいな、こんなことになっちまって」

「何を言う。別にお前が悪いわけじゃないだろう。事故なのだから。それも多分、不慮の事故だろう。いまだもって原因はわからないがね」

「そうだが、この深海底に誘ったのは俺だからな」

「関係ないさ、俺も、来たかったんだ。俺は地震学の専門家ではないが、構造地質の専門家だよ。潜って見たかったさ。とはいえ、そちらの分野では全く無名だったから。紺野氏が辞退して、君から打診があったときは、飛びついたよ」

「そうか、ならいいんだ」

「吹っ切りたいこともあったしね」

「なんだ?前の大学のことか?」

「そう。思いいれもあったし、まあ良い思い出をひとつ胸に去ったわけだ」

「よくわからない言い回しだが、まああとで手紙でも書いとけ。それより上のやつら、もう気づいたかな?俺たちのやりたいこと」

「さあ?気づいたかもしれない」

「驚いたかな」

「ふふ、そうだなあ、センサが一人歩きしていたらさすがに驚くだろう」

「俺たちの意図には気づいてくれているよな」

「うん。多分ね」

「これであとは、圧壊が先か、埋もれるのが先か、どちらかを待てばいいのか」

「そうは行かないよ。センサを打ち出すのを忘れたのか?それに残ったものは、原子炉を止めないと」

「ああ、そうか。そうだった。そしたら、電源も落ちるのか。まあ、すべてはこのチリの下に永遠に埋もれるわけだ。これだけ深いと化けても出られんなあ」

「どちらにしても、酷だな。ま、そういう人生だったよ」

「そうだな。少し休憩しよう」

 ちょっとまて、と奥野が言った。奥野はなにやらPDAを出して計算していた。そのPDAには最新の重力加速度計が装備されている。相対的な現在座標が正確にわかるのだ。

「あれから3cm沈んでいる。脱出ポッドが埋まるまで、あと5時間くらいだ。」

「ちょっと沈むのが落ち着いてきたってことはないかな」

「然だな。だが加速度もついてはいない。実に正確だ。ああ!気持ちいいね!」

「気休めでも、沈まなくなったって言って欲しいな。奥野君や。」

大村は、そういって体をずらした。この45度傾いた艦の中で快適に過ごすのは、非常に難しい。二人は体を通路の角にL字になるように座ったり、横になったりしていたが、どうも安定しない。平らなところのない状態になっていた。ただでさえ狭いこの調査艦が、彼らの体力と気力を少しずつ奪っていく。その苦痛を紛らわすように、大村が口を開いた。

「この沈下、上のやつら分かっているかな?」

 奥野はううむ、とうなって考えていたが、やがてこう答えた。

「まだ難しいだろうな。海中GNSSの精度はまだメーターオーダーだからな。沈んでから丸二日。80cm沈下しているからね。そろそろ気づいてもいいころだが、精度に問題があるからな、トレンドで出ていればいいのだが。決定的には判断できないだろうな」

「でもまだ、やつら原子炉は止めていない。沈降するとわかっていれば、原子炉は閉鎖するだろう?」

「それはわからないな。止められないのかもしれないし、こうやって電力が供給されているのだから、コンピュータが生きていて、海上の船にデータを送っていると思うのだが。もしかする熱源センサとかで俺たちが生きているのを知っていて、待っているのかもよ。案外どこかに隠しマイクがあって、聞こえているかもしれない」

 それだと良いな、と大村は思った。もし俺たちの声が聞こえているなら、遺言を言おう。誰を連れてきてもらおうか。地元でさびしく一人で暮らしているおふくろか、すっかり音信のない、いや音信をなくしているのは俺のほうか、それは妹のことだ。それとも、あの人か。大村はそこまで思うと、振り払うように、話を続けようとした。まだしんみりするには早い。

「なあ、奥野。しかし一体、何がおきたんだろうなあ」

 奥野はうつらうつらしていたようで、ぐっと背伸びをした。

「まだまだ深海は謎だと言うことだよ。ロシアの潜水艦と衝突したとかさ。いやこれは謎じゃあないか」

「そういってしまえば、元も子もないだろう。たとえば、深海の海流のポケットに入ったとか、岩にぶつかったか」

 岩なんてあるかなあ?と奥野は考えながらいった。

「突然ガクンと揺れてこの水圧なのに、叩き込まれるようだった」

「その動きからするとぶつかったというよりは、海流のポケットかなあ。転がり落ちたような気配はなかったが。それとも海底火山かな。低温の泥火山というのもあり得る。深度がわかれば少しは予想も出来るのだが」

「やっぱり、未知の深海流かな」

「ま、俺としては未知の深海巨大生物に一票。」

「いやあ、どうかな。あの一発目はすごかった。まるで地震みたいにさ」

 地震?大村は自分で言ったくせに、はっとした。思わず奥野の顔を見る。そうか、地震だ!といって二人は笑い転げた。

「よく考えれば地震のゆれと同じだったな」

「それで、あんなに堆積物が舞ったんだな。ごつごつしていたの何だろう」

「もしかして、メタンハイドレードじゃないのか」

ああ、そうか。そうだよ。間違いない、そう大村はつぶやいた。笑いはすでに去っていて、もう何も面白くなかった。どっと疲労が感じられた。おそらくこの疲労はもう癒されることはないのだ。永遠に。


 海上の船内では、解析を担当していた技師が、つかれきった顔で現れた。それを見て船長代理と高島はすべてを悟った。

「その顔では、難しかったみたいだな」

「だめですね。特に意味はないようです。モールス信号かとも思ったのですが、規則性がないです。そんなに特殊な信号を送るとも思えません」

「そうか。しかしセンサを移動させたのだから、生きているのは間違いないだろう。」

「そうですね。」

「次はおそらく誰かが、センサを射出するだろう。そうすれば生き残るのは、一人か、二人だ」

「そのあとは?」

「危機が迫っていれば、自分たちでいずれ原子炉を止めるだろう」

「電気と酸素の供給が止まるな」

「バッテリーを最大限利用すれば、しばらくは生きられるだろうが、ディスカバリーや“りゅうきゅう”を待てるほどではない。待てない理由は何なのだ。海上ではわからない現象が起きているんだ!くそっ」

 高島はイスをけりこんだ。イスが激しく横転した。三人は、それ以上言葉がなく、黙り込んだ。


 一方、『ちしま』でもしばしの休息の後、二人を不安が襲ってきていた。事故が発生して以来、落ち着いて腰を下ろしたことがないので、疲労感がなかなか抜けきらず、寂しさと悲しさと失望感が、彼らにして作業意欲を失いつつあった。

「脱出ポッドが埋まるまで、どれくらい時間ある?」

「あと3時間くらいかな」

どうする?と大村は聞いた。できれば動きたくない。疲れた。

「待っていても仕方ない。そろそろ作業を始めてもいい」

 奥野は果敢に言った。

「いや、ぎりぎりまで待とう。通信が戻れば可能性もある。」

「ギリギリはまずい。万一、脱出ポッドが埋まったら、どうしようもなくなってしまう」

「よし、わかった。1時間だけ、のんびりしよう、手紙でも書いておこうかな。2~3週間もあれば、だれかが見つけてくれるだろう。」

「うん、そうだな。意地でも引き上げるだろう。そうでないと困るよ。金もかかっている。全部濡れたとしても耐圧隔壁だけでも回収するだろう。ハイパーチタン合金とナノフラーレンだから高いよ」

「なら、耐圧隔壁に遺言を書いておくか。それはいいな」


 大村は、昔読んだ本で、遭難した漁船が、果てしない大海原で行方不明になって数年後に船が見つかったとき、船に家族へ遺言を残していたことが書いてあったことを思い出した、あの内容はなんだったか。確か、子供に船乗りにだけは絶対なるな、といっていたような気がした。自分は、遺言として、誰に何を残せばいいのだろうか。

 そんなことを考えていると、奥野が話しかけた。

「なあもし、生き残ったら、また潜れよ」

「もういやだよ。そんなこというな。希望はなくても、そんなこと言うな」

「悲観的になっているわけじゃないんだ。でも現実にあわせて行動しないとすぐ一時間立ってしまう。言っておくべきことは言っておかないと、な」

「お前、子供二人いるんだろ?

「ああ。手紙書くよ。実際、もう書き始めている。」

「ちょっとまて、動画取るから」

「いや、やめておこう動画も良いんだが、悲しすぎないか。文章で、しっかり伝えるよ。」

「なあ、奥野考え直せ。ポッドで出るのは、俺にやらせてくれ。俺ならおふくろと音信不通の妹だけしかいない。恋人もいない。お前のがこの船にもなれている。条件はそろっているよ、俺がやるよ」

「ありがとう。でもちがうんだ。これはセンサの仕組みをしっているし、正しい位置に設置しないと意味ないだろう。お前が最後の操作をしないと、だめなんだ」

「しかし。その辺にセンサを展開するだけでも御の字じゃないか。ランダムだって良いだろう。そこまで欲張らなくても。俺たちは良くやっただろう」

「おい、大村、お前本気でそういってるわけじゃないだろう?」

「本気だよ。奥野に生き残って欲しいだけだ」

「その気持ちはうれしいよ。でも、ここで順番が遅くなっても生き残っても、助からないんだ。手順通り原子炉を閉鎖すれば、あとバッテリーは10時間くらい持てば十分だ。酸素供給も電気もそこで終わりだ。工夫すればもう少し持つかもしれないが。10時間では誰も助けにこれない」

「わかってるさ。わかってるよ。本当はな、お前に先に死なれるのが、つらいんだよ。寂しいんだよ。どうしようもなく、泣かにゃならん」

「ああ、そうだよな。逆なら、おれだってそうだ。」

「“りゅうきゅう”が解体検査中でなかったら良かったんだが」

「もう、そんなこと言うのは、やめよう。こういうのには、タイミングもある。“りゅうきゅう”が稼動していても、すぐ助けに来てくれるわけじゃない。きっとほかの海で探査中だったろう。もう言うな。それより、上のやつらはどうしてるかなあ。いろいろ考えてくれているだろう。」

「ああ。高島やセンター長がやきもきしてるよ。」

「さ、やっぱり動画を撮ってくれ。早くやらないと、泣けちまう」

 奥野は、意を決したように立ち上がった。

 大村は、それを見て思った。それは次の動作が、死に繋がるものだということがお互いわかっていた。奥野はそれを見届けなければいけない大村には、言い出す踏ん切りがつかないと思ったからだ。

「ああ、わかった。わかったよ。わかったよ」

 大村は、潤む目をこらえて、そういいながら立ち上がった。ここで涙を流している時間はない。それより、残される人のために、もっとしておくことがある。このまま死んでしまうしかない自分たちは、まだいいのだ。残される立場の人たちはどんなにか悲しい意だろう。しかし残された時間は少なく、優先準備の高い、やるべきことがまだ沢山ある。それが終わったら、俺たちのことを考えてもいいのだ。最後の休息は終わったのだ。二人の顔には疲労が蓄積していたが。思い体を動かし始めた。そして、止まることはできない。


4.

 自分たちの置かれた過酷で絶望的な環境の中で、使命に燃える技術者たち。そんな情熱と、哀しみと、死への恐怖の折り重なった世界。戦争でもないのに命を捨てなければならない、勇気ある人。そんな心と、私はどうかしていた。

 そんないつまでも染まっていたい、心から私は自分の存在を切り離して、自分をようやく思い出す。船の会話を聞いているうちに、私は彼らと同化してしまったようだ。現実感のあるような、ないような感覚。まるでテレビでも見ているような、それは違う。痛みを、悲しみを自分の心で感じているから。そう言い訳をしても私は卑怯な存在なのだ、病の苦しみを抱えるあの女性を見ているときも、私は単なる部外者で傍観者だった。

 私はひどい、卑怯な存在なのだ。きっと地獄に落ちるに違いない。そして今回もそんな悲劇を傍観するのだ。それが私の試練だという。私は混乱の余り、自分が誰だったか、朦朧として思い出せない。何か重要なことを忘れているような気がする。気のせいかもしれないが、思い出せない。こういう時は必ず、ものすごく重要なことを忘れているのだ。私はそういう人間なのだ。

 私はこの狭い空間の中を見渡す。暗い闇の中に見える。光がないわけではないが、この空間は絶望に満ちている。きわめて硬質で厚さのあるひんやりした鋼鉄の柱が縦横にある。鋼鉄の柱は細かな水滴がついている。この部屋に希望の光はないのだろう。

 それにこの暗闇には、血のにおいがする。確信はないが、血だ。目を空けてしばらくして、この空間に慣れてくると、何かぼんやりと見えてきた。完全な暗闇ではないようだ。ほんの少し、光があるようだ。水蒸気に光の反射が見える。真の暗闇は光が存在しないのだから。

 私は移動して視点をずらす。

 何かがごそっと動く。暗やみに声が聞こえる。

「ううう。もしかして荒井か?もしかしてまだ生きてるのか?そんなはずないよな。ありえない。制御室の浸水で、俺たちをかばって内側から、鍵をかけやがった。ばきゃろうめ。そろそろ俺も弱ってきた。冷えてきたよ。冷たい。ああ、冷たい。独り言もあと少し。」

それは、誰に放たれた声なのか。きっと私ではない。ただの傍観者の私ではないはずだ。また無言になる。そして私がちょっと身動きしたとき、明かりがついた。

「おか、おかしいな。あれ、間違いなく、何かいるようだな。あれ、あんた、誰だ・・・?俺の声は、まだ声は出るか。・・・幻か?深海の生き物か?いよいよお迎えが来たようだな。」


 あんた?私が見えているということか?私は誰なのだっけ?この人には私が見える。私はこの人が誰だったか覚えていない。いや知っている人だ。誰だった??彼は私の事が見えているのか、見えていないのか、そんな目をしながらも話し続けた。

「いやはや、人魚?いやいくら人魚でも10,000mまでは潜れないよな。じゃあ、お迎えが来たかな?天使?天使なら返事してくれ。何しに来た。こんな深海の一人ぼっちで、誰かと話せるなんて、無性にうれしいんだ。水深10,000mで幻を見るってのも、いいな。自分のほかに絶対誰もいない中で見えるものなら、間違いなく幻と証明できる。うん、悪くない。最後に真理を得ることができた。もう十分」


 あなた、誰?だっけ?と私はほうけて尋ねる。きっとこの人のことは知っているのに思い出せない。ホロコーストのときは意識だけは私のものだったのに、体も、意識も私は失うのか。


「僕かい?ええと、なんだっけ。あ、まあいいじゃないですか。あんたは、どこか僕の先生に似ている。いや、違うかな。初恋の人に似ているのか。ごめん、意識はかなりトンでるんだ。あはは。あんたは、なんだろう。幻には違いないのだが、ぼんやり見えるだけで、幻覚だと思う。幻覚に謝るなんて、どだいおかしな話だが、まあ良いじゃないか。おれは一人ぼっちだ。もう泥やメタンハイドレードに覆いつくされ虫の息だ。原子炉を止めて、バッテリーも切れた。酸素の供給はストップだ。どんな偉大な、神様だって、この深海から俺を救ってはくれないだろう。いやはや、酸欠かな。えっと、誰かに君が似ている話だったかい?」


―初恋の人?

「そ。初恋だ。ええっと、中学3年かな。麗しのその子は、中学1年で入ってきた・・・。」

「当時は片想いだった。彼女は頭がいいのに、誰にでも優しかった。みかけ美人でないのも好きだった。普通の髪の長い制服の似合う女の子だった。」

「だけど、他にもてたという話は聞かなかった。ブラスバンドではフルートを一生懸命練習していた」

「むむ、どうして死ぬ間際にこんなことを思い出すのだろう。やはり走馬灯なのだろうか。僕は走馬灯なんて見たことがないよ。でもこの夢は馬のように速くない。そうか。じっくり真綿で首を絞めるようにやるつもりなんだな。えっと、何の話だったか・・・。そうだ、彼女に、なぜか好きだとは、言えなかった。いや、実は言わずにもっとすごいことをやってしまった。妹にキスしてしまったんだ。」

「最初、いや一度してしまうまでは、一度だけできればもう二度と会わなくてもいいと思っていたんだが。それくらい僕の妹への愛情はプラトニックなものだと思っていた。ああ、そうだとも、青臭いほどプラトニックで純粋で悲劇だった。しかし一度してしまうと、もうとまらない。それはとても甘い唇だったんだ。僕は彼女の唇をむさぼるように求めて、抱きしめてしまった」

「でも、信じて欲しい。それ以上進まなかったのが奇跡だけれど。それでも、毎日のように抱きしめてしまった。彼女はいやな顔もしないで唇を寄せてくれた。でも少しだけ寂しそうな顔をしてでもにっこりしてこういってくれた。兄さんなんかじゃなければいいのに。確かに言ったと思う。僕の幻覚かもしれないが。僕は幻覚も抱いてしまっている。もう今となっては、何が本当におきたことで、何が幻想なのか」

「でも許されなかった。当然ながら。なぜなら、それは僕の妹だったからだ。僕は妹を姉妹として好きになるならいい。でも、僕はプラトニックを超えて、彼女を求めようとしていた」


沈黙しかなかった。


「高校は下宿の男子校に入ることになった。僕は、逃げたのだ。毎日抱き合っていたのを、親が気付いていたのか気付いていないのか良く分からなかった。でも、分かれるときの悲しさといったらなかった。独りで下宿に住んだ後、毎日寝られないし、毎日動揺していた。でも会いに行くことはなかった、手紙すら出さなかった。でも日々苦しみにもがいていた。

 でも、あるときふと気付いた。最初はただ一度抱きしめられれば満足だったのだ、と言うことを思い出した。それなのに、僕は今、こんなに強欲なのだ、ということを。痛感した。

妹は、優しかった。僕にたまに手紙をくれた。僕は怖くて出せなかった。

 妹は少しずつ、日常を取り戻して言ったかのようだった。ある時、妹は、好きな人が出来ました。という手紙を送ってきた。僕は、よかったね、と気丈な返事を送ったが、もはや僕は絶望のふちにいた。たちがる気力もなく、すべてが自暴自棄だった。自らを処してしまいたかった」


 この時は本当にこの世から、この僕と言うものを無くしてしまいたかった・・・。友人には何も話せなかったが、恋の悩みだというと、そいつは、気の毒だといって僕の部屋で焼肉をやってくれた。でもなにぶん学生の身分だったので、とり皮と豚足だけの焼肉だった。それを焼くと白煙が出た。友人は、ちょっと離れていた僕に向かって窓、窓!といって叫んだのだが、僕は、オーバーだな、などと思いながら、僕も白煙に包まれた。猛烈な白煙だった。僕らはあわてて外へ出た。

「あ。夢か」

 大村は、息苦しさに正気に返った。今、確かに夢を見ていた。独り言も口走っていたことを覚えている。それにひどい昔の夢を思い出したな、と思った。胸の苦しさは酸素濃度が下がったからだろう。酸素濃度計がなくてよかった。あったら、とっくに自殺していたろうな。それにしても、酸素の量はまだ豊富にあると思うのだが。あるいは、二酸化炭素濃度が上昇したか、どちらかだ。どちらにしても今のところどうしようもない。

 自分は、かなり朦朧としているようだった。脱出ポッドをなくしたら、もう外には、出られない。もっともハッチを開いたとて、何の意味もない。荒井も奥野も去ってしまった。荒井は、最初の衝撃の後、制御室が浸水すると同時に僕らをソコから押し出した。ヤツは血まみれだった。そしてニコリとも、最後の挨拶もなく、ヤツはハッチを閉じた。荒井の魂は、海の神の元へ無事たどり着いただろうか。それとも天使とともに、雲上の世界に達しただろうか。頭の中に真っ赤なイメージが広がる。大村は、耳から血がどっぷりと流れたような気がして、思わず手を耳や顔に当てた。それは気のせいだけだったらしく、どこからも血どころか、水気さえなかった。しかしやはり血が流れているような気がして、何度も耳をぬぐった。

 気のせいか。本当に、朦朧としてきたらしい。いよいよいけねえな、と大村は思った。飲料水の入ったペットボトルを、わずかな計器の光にすかす。わずかな光は散乱して、いくつもの星となる。水分子が重なって作る屈折は、光を様々な方向に分散する。ただの光は海の中に吸収されて、青い光だけ反射する。吸収された他の色の波長は、海だった水に吸収され、様々に跳ね返る。その色彩の星たちは今僕の中にある。

ああ、まずい。気持ちが悪い。


「ねえ、見て、この水の入ったフラスコを光にすかすと、それだけで光はいくつもの輝く星になってくれる。僕はこんなきらめきが好きだ」

「福井県の三方五湖は、塩分濃度がどれも違って全てが違った色に見えるんだ」

「妹はそんな僕の無邪気な発言に、いつもうんうん、とうなずいてくれていた。いろいろな楽しい話をしてくれた。読書家だったし、頭も良かった。こんな楽しい本を読んだと話してくれる顔はとても輝いていた。それを妹の友達や、クラスの男子まで振りまいているかと思うと、いつも腹が立った。ものすごくいやだった。学校なんか休んでしまえ、といってやりたかった。もちろんそんな大それたことも言えず、僕も微笑んでいただけのように思う。少しばかり、嫉妬のようなことを言っても、少し困ったように微笑む程度の、いつも優しい人だった」

 ああ、いかんいかん、と頭を振る。また何かに向かって、話しかけている自分がいる、と大村は思った。


 また、夢のような現実のような朦朧とした、深い霧の奥に取り残されたような感覚。もうどうかしている。ただ、自分を弁護するならば、頭がどうかしているのは、この状況ではごく自然だ。この調査艦に乗る前に酸欠に関する講義を受けたが、酸素濃度は確実に16%を下回っているだろうな。確か10%以下ではもう長く生きられない。人間の体、酸素に関してはどうしてこんなに敏感なのだろう。こんなことで、大きな時間のスケ―ルで人間は生き残っていけるのだろうか。ちょっとだけ、地球が回転を遅くして大気濃度が変わったら?隕石が海に落ちたり、火山が何度も爆発したら、生きていけるのだろうか。

 ふと、のどが渇いたと大村は思った。この渇きも酸欠によるものだろうか。この隔壁の向こうは膨大な水がある。しかしその水に触れることは出来ない。1cm四角あたり1tの圧力のかかったとてつもなく重い水だ。僕の生への行き先の選択肢は全くない。

 酸素がなくなってしまえば、生き様もない。この船は10,000mで作業できる唯一の船だ。この船を作るのに3年かかった。いまから作り直して救助に来るとして、自分は3年は持たないな。体力的に、精神的に。水も食べ物もがんばれば半年分くらいはあるか。海水から酸素を取り入れる装置でも作っておけばよかったのに。でも密閉しないとこんなに深くには戻れないから、それは無理だ。ああ、なんで。しかしこの頭痛は酸素がないからなのか、二酸化炭素が多いからなのか。二酸化炭素なら減らしてしまえはいいのに。減らしてしまえば、酸素濃度があがる。酸素の量自体はまだ大丈夫だろうに。

「?」

まてよ。二酸化炭素を減らす機能って、水酸化リチウムによる二酸化炭素除去だよな。たしか、万一の時の備品セットの中に水酸化リチウム溶液があったような。

ああっ!大村は思わず大声を出した。

「しまった。脱出ポッドの中だ」

大村は、意識が遠のくのを感じた。


5.

 私はただ見ている。何度手を伸ばしても彼を助けてあげることができない。何度か彼は昏睡から目覚めた。とても息苦しそうだ。冷たい海の底に沈もうとする命は、風前の灯だ。それはあまりに、か細く無力。

 この深海ににはたくさんの生命がある。それはきっと深海魚だったり、ナマコの胎児だったり、ヒトデだったりする。それよりも小さい生き物たち、小さくて透き通り体を持つエビやクラゲ。それらの命は、この深海でも気高く息づいているのだ。彼らはこのような過酷かな環境でも生きるすべを知っている。しかし地上の生き物は、この深海では、永く生きることは出来ない。宇宙や。深海にさえ自由に行き来できるはずの人間の命が、不自由に命のともし火を消そうとしている。


 私は気がついている。私は、この人を見守ることができても救うことはできない。それはこれが私の想像の世界だからだ。私は何度も、この人の意識に呼びかけているが、通じない。彼が幻覚を見たときは確かに私の気配を感じていたはずなのに。自らの無力を思い知らされるために、こんな仕打ちがあるのだろうか。私の試練のためにこんな場が用意されているのだろうか。残酷すぎる。こんな悲しい世界に私はもう居たくない。安らかに、心を静かにしていられる世界で過ごしたい。私は、こんな苦しみに耐え抜かなければならないのか。いつになったら終わるのだろう。救いの手を差し伸べられないこの悲しみ。私はただの傍観者だ。張り裂ける悩みを私が変わってあげられれば、あの人の痛みも半分になるのではなのに。

 人の運命は変えられないということを私に学ばせようとしているのか?わかりました。もう十分にそれはわかりました。だからあの人の命を救ってあげてください。お願いです、彼に必要なものを与えさせてください。電気を、光を、酸素を。しかし私の手は、彼の体を素通りするだけだ。試練ではない。ただの苦痛だ。悲しみに耐えろと言うことなのだろうか。なぜこのような夢を私に見せるのか。このような事実がある。それだけなのだ。いや!ここにある現象は、夢だ。彼は苦しんでいるようだが、夢なのだ。私の後悔が作り出した夢だ。

 でも!私は夢でもいいから彼を助けたい。


6.

大村は、傾いた艦内で横になりながら眼を開けていた、こうやって意識を戻すのは、これが最後かもしれない。意識は相当朦朧としている。水酸化リチウム?何に必要なんだっけ?良く思い出せないが、その件でショックを受けた。でも、今は忘れた、もう忘れていいはずだ。もう死ぬことは分かっていたし、今、僕は生に執着しているわけではない。人間ってのは欲張りだな。命あるものは皆滅びるし、人間もどんなきっかけであれ、いずれは死を迎える。延命したところで、死からは逃げられない。それでも人は執着する。何故、生にこだわるのか。

僕はもうやることをすべてやった。ひと目、会えるなら、妹か、湯方さんに会いたい。でも、やはり湯方さんかな。あの人を抱きしめた温もりを最後に思い出しながら死ぬなら、まだましだ。自分を鍛えて戻るつもりだったんだが。約束、守れなかったな。


7.

 人間の英知で作られた機械はもうほとんどすべてをマリンスノーと巻き返された土砂に覆われていた。土の粒子たちはその重さに耐えかねて、水を吐き出す。吐きだされた分また土の粒子たちは仲良く近づいたそして、また重さが伝わる、水を吐き出す。長い年月をかけて、全ての水を吐き出すまでそれは続く。

 私は誰も救えない。高い志を持つものや限りない勇気を奮うものを。暖かい心に満ち溢れたものたちを、私は何一つ救えない。ただ傍観するだけ。命が途切れていくのを私は見つめる。これが私の試練なのか。そしてその試練は何のためにあるのか。私にはわからない。


続く


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