第13章 病める月
はっ!
これほど不快な目覚めを涼音は、経験したことがなかった。体には何とも言えない不快な臭いをまとっていた。涼音はとにかく飛び起き息をしたが、あまりに苦しく、息は詰まる一方だった。涼音は、とにかく息がしたく、良く目をひらくこともできないまま、窓の方へ歩こうとしたが、足は重く、考えたように歩けずにすぐに頭から転倒した。ものすごい音がしたと思った瞬間、その転倒の先には運悪くテーブルが会ったようで、涼音は、しこたま頭を打った。そのまま少し動けなくなったが、気持ち悪い感覚が顔を覆うので、手をやって顔をぬぐい、やっと視界がはっきりした目の前には血まみれの手があった。自分の血の臭いを十分すぎるほどかいで、吐き気を催したが、声が出なかった。
同時に、隣の部屋の同僚が激しく扉を叩いた。
「ちょっと!大丈夫、どしたの!?」
そのあと扉を開けた隣人の叫び声で寮全体が目覚めた。
しっかりと目が覚めて見ると涼音は、意外に元気であり、幸い救急車は呼ばれずにすんだ。見た寮長はてっきり強盗でも入ったものだと思ったらしく、パトカーさえ来そうな勢いであった。
「もう!ただの寝ぼけだなんて信じられないわよ、まったく人騒がせよね」
「ごめん、ごめんなさい」
涼音は、とにかく平謝りした。自分自身、しばらくは何がおきたのかさっぱりわからない。昨夜の夢は頭を打った瞬間に忘れてしまった。相当悪い夢を見たようで、後味の悪い感覚だけが残っていた。
「私の寿命が縮まりそうだったわよ。一体どんな夢を見るとそうなるわけ?」
彼女にはは、何度か嫌な夢をよく見るという話をしていた。
「ごめん、でも思い出せない。忘れてしまった。」
「へえ珍しいね。いつも夢は大体覚えているっていってたでしょ。」
それはウソだった。何となくおぼろげなシチュエーションを適当にでっち上げていただけだ。彼女が喜ぶから。
「うん、そうなんだけど、今回は、覚えてないな。私も不思議。頭打ったからかな」
「そうだよ。でもあんな叫び声あげるんだから、まあいい夢じゃないよね。よしよし」
そういって隣人は私の頭をなでいた。叫んだのは、私ではなくて、隣人なのだが。
「いたたっ」
「ごめんごめん。あれどうしたの?涼音?」
涼音の顔から血が引いた。思い出した。夢の内容を…。オティリエの事…。私は忘れておきたかったが、思い出した。涼音はしかしすぐ笑顔を取り戻した。
「大丈夫。痛かった」
友人は今度はその部分に触らないように頭を見てくれた。
「小さいがタンコブになってる。髪で隠せると思うけど。触られると痛いだろうなあ」
「ふう。分かった。ありがと。」
「あの東北内陸地震以来、あなた働きすぎで疲れているのよ。はたから見ていても、痛々しいもん。 全部自分のせいだって思ってるような気がするけど、大丈夫?」
「それは、だって私の責任だし」
「そんなことないよ。そのための委員会でしょう。それにあんな規模では誰だって予測不能でしょ。地震学会だってそういってたよ」
そういって友人は立ち上がっていたが、私の前に座った。
「テレビでもネットでも誰もあんたたちのことをなじったりしていないし、むしろ危険を冒して崩壊の犠牲になった村のことを報告したのをたたえられたりしてるのに。どうして、自分で抱え込んでるの?なにか、最近おかしいよ。前のようにゆったり構えていないというか」
「ううん、そんなことない。今までが、適当だったんだよ」
そういいながら、涼音は頭の中に妙に感傷的なものが広がるのを感じた。これは、地すべり事故のとき、神成教授に大村のことをなじられたときと一緒だった。そう思ったとき、隣人があわてた。
「ちょ、どうしたの!何で泣いてるの。ごめん。私余計なこと言ったかな」
あれ、私泣いてる。
「100人以上の人が亡くなってる。私は何もわかっていなかった。それだけ」
「そんなの、どうしようもないよ。あなたのせいじゃないんだから」
そうだ。これ以上、友人を困惑させては、いけない。涙を拭いて涼音は言った。これ以上心配させないようにしなくては。
「ごめん。そうだね。よくかんがえてみるよ」
「大丈夫?まだ言いたいこと、あるんじゃないの?」
友人はそういった。彼女は涼音ととっても親しいというわけではないが、何か大きな間違えた思い込みをしていないか心配になった。涼音は見かけ以上に若く見られる事は無く、一方で天才肌の人間として、周りも人目置かれている存在ではあった。しかしとっても親しい友人関係のものがあるだけでなく、良くも悪くも孤高の存在に見える。孤高の存在といえば、聞こえも良いが、口の悪い人間は、お高く留まっているといわれたり、冷たいといわれたり、大先生の七光りで出世したと陰口をたたかれているという事実もあった。隣人は、あわてて涙を拭くような、この涼音の仕草にこのとき言いようのない寂しさを感じた。
「今日は休みなんだからゆっくりしてなさいよ。何か困ったことがあれば、相談してよ。話すだけでも、自分の頭が整理できるよ。いい?じゃあね。」
そうして、騒動は最終的に散会となった。
ようやく一人になった涼音は、時計を見ると5時半になっていた。隣人には大丈夫だといったものの、言いようのない体全体の疲労感を感じていた。その疲労感は、肉体の疲労であるはずなのだが、前の日にそのような運動をした覚えが無いことを考えると何か別の理由のようだった。
涼音はベッドに横になって天井を見ながら考えていた。最近見る夢は現実離れしてきた。特に昔の夢は自分の経験で忘れられないシーンの回想が多かったのだが、いつからか未知のストーリーや他人の人生のターニングポイントに出会うような、難しく、悲しい出来事を見ることが多くなっていた。ましてや昨夜は、100年以上も前の戦争中の話だ。私に何の関係がある?昨夜見たものは、私と関係があるのだろうか。それとも、単純に私の精神状態が何か異常をきたしているのだろうか。いや、そんなことはない!と涼音は、強く思った。メルヘンチックなSFの星の夢もあるが、これはきっと、自分の願望だったのだと思う。ただそれだけの話だ。今日のような夢は、地すべりの辛い体験、あの村が全滅したことに責務を感じているから見たのだろう。そうとしか思えなかった。あの災害は紛れもなく、私の責任だ。私だけではないにせよ、私には、ほんの一部にせよ、責任がある。これは確かなことだと思う。私のなまぬるい、浮ついた姿勢があのような悲劇を生んだのだ。もし、あのような事象が発生する可能性を、事前に指摘しておけば、何人かは助かることが出来たかもしれない。
友人は慰めてくれたし、委員会や関係者も慰めてくれたが涼音は、どうしても自分を許すことが出来なかった。むしろ自分を許す理由が見つからなかった。そしてそのことは、自らのこれまでの土台に間違いがあったのではないかという恐れを抱くことになっていた。
そして地震から二ヶ月が経ち、委員会や学会としての報告書が仕上がった今、涼音はある決意を固めていた。しかしその前に、あの人の前にだけは、顔を出しておきべきだろうと思った。
その後、身支度をした後で、涼音は、いまだ入院している神成教授に会おうとK市を離れた。神成教授は東京のJ病院に入院していた。あの時遭難にあったもので、最後まで入院しているのが神成であった。もう年であったし、回復は遅く、一部では大学の戻れないのではないか、とまでささやかれていた。
しかし涼音の顔を見た、神成は元気一杯であった。
「元気そうじゃないか。さすが若いね。しかし、だ。今頃見舞いとは遅すぎるな」
「すみません。地震の報告書作成で忙しかったものですから」
「俺が再起不能で、祝杯を挙げてると思ったよ」
「とんでもありません。まだまだ色々ご教授願わなくてはなりませんから。ところで、委員会の報告書、目を通していただいていますよね」
「ああ、見たよ。内容はともかく、君は今回ずいぶん精力的に現場を見て回ったそうじゃないか」
「そうです。私なりに現地を徹底的にやってみました」
「私なり、とはなんだ。あれだけ被害が出ていて、私なり程度ではいかんだろう。足が棒になるまで歩かないか!」
「ちょっと、あなた」
いきなり怒鳴った神成教授の声に、奥様が飛んでやってきた。
「すみませんねえ。すぐ怒鳴るんだから」
「いえ、その通りです」
神成は、涼音にしてはしおれた物言いに、少し意外だと思ったらしい。
「なんだ、ずい分殊勝な物言いだな。さすがに応えたか」
「はい。報告書ごらんになられたでしょう。いかがです」
「あいつらのまとめそうな報告書ではあったな。普通だよ。あんたは余り口を挟まなかったようだな、そんなことでいいのか?察するにベテランに押し切られたんだろう」
その答えは涼音にとって意外だった。
「あれ、ほとんど私が書いたんですよ」
「何!?ちっ」
神成は、あからさまに舌を鳴らした。
「お前はただの土木屋に成り下がったのか。あんな報告書、土木コンサルなら100万も払えば誰でも書くぞ。馬鹿か、お前は!」
神成はわなわなと震えて、まくし立てるようにしゃべり始めた。
「2ヶ月もかけてそれだけしか分からないのなら、お前が歩く意味があるのか。そんなことは誰かに任せておけ。自分は、他にやることがあるだろう。あそこで死んだ100人は浮かばれないぞ」
「いえ、私には実際の現場の知識が足らないと」
「そんなものいまから鍛えてどうする。おいおい、一体どうしちゃったの。今更おまえさんが改心して山なんか歩いたって無駄だよ。俺たちと違う意見を出さなきゃいけないのに俺たちと一緒のことをしてどうする」
神成は涼音が話すのも聞かずに話し始めた。涼音はどうかしてる、と思った。どうしてそんなに怒るのか、分からなかった。
「しかし、発生の仕組みはこの目で見なければ」
「それは当たり前だ。たとえ節穴でも、見て肥やしにするんだ。それはいい。しかし、あの報告書は何だ。まるで目新しさがないじゃないか。ちゃんと事象をまとめればそれだけでいいのか?それが将来を背負うもののやり方なのか?」
「それは…」
皆が納得いくような報告書には、確かに達していなかった。しかし2ヶ月しかない中で纏め上げるのは、これが限界だと思っていた。委員会と関係学会の担当者は数日寝ずに、議論を交わし纏め上げてきたのだ。この世界に詳しい神成がそれを知らないわけではない。知らないふりをしているのか、私をそこまで嫌っているのか?と涼音は思った。
「こういうときこそ、あんたのキッチュな3Dイメージングを活用するべきだろう。普通の山歩きももちろん大事だ。しかし俺たちと同じことをしてもまったく無意味だ。その道では俺たちの積み重ねた経験には勝てない。わかってるのか?」
涼音は、どう答えればいいか分からなかった。神成は何が言いたいのだろう。本気なのだろうか。私を蔑むのか、それとも何かを伝えようとしているのか。この人も教師としての矜持があるのか。
「なんだ。降参なのか?ふん、今回は骨身にしみたろう。しかしこのままでは、あそこで死んだ村民の方や、俺たちの仲間も、報われないぞ。近代土木が確立してから200年も立つのに、地すべりひとつすら、予想できないんだからな。あんたみたいな若いのは、才能があるからといって。つけあがっちゃいかん。おもいあがっちゃいかん。まあ、今回良く歩いたのはいいとしても、それの生かし方が点でおかしいことは分かっただろう。俺たちべたな土木屋や地質屋さんと同じことをあんたがやったって勝てない。あんたの才能を生かせばいい。俺たちはあんたのやり肩書きに食わないが、驚くこともある。お前さんは、お前さんのやりかたで予測する方法を見つければいいんだ。一体何をやってきたんだ、時間の無駄だ。この馬鹿野郎!」
「そろそろ、お休みになってはいかが?」
奥様がそういってくれた。そうならなければ、涼音は延々と神成の説教を聴かなければならなかっただろう。涼音は呆然として、病室を後にした。涼音にとっては、余りにさびしい訪問となった。痛烈な言葉はいい。しかし自分のしなければならないこと、それを間違えた方向に焦って進んでしまったこと、私の求められていること。それがやっと現実ように見えてきた。何もわかっていなかった自分が、あまりに情けなかった。
提出した報告書には3Dイメージングのことは確かに触れられてはいなかったが、それは手法を明らかにしていないだけで、思考法や最終章での検討には、その考えかたが反映されている。それだけは、委員会全員で相談して一節を裂いているのだ。しかるべき検討を行えば、十分予測可能であると言うのが、その報告の結論であった。委員会内ではそのような結論とするとことに反対を唱えるものが何人もいた。そのような記載は、敗北を認めた、と考えるものであり、記載するならば委員を降りるという者もいた。
神成の元を辞した涼音は、廊下で大きく深呼吸した。息が詰まりそうだった。J病院は、街中にある。その込み入った街の作りが、空気がそうさせているのか、神成との悲しいやり取りが原因なのか。きっとどちらも関係あるのだろう。ある事象は、ひとつの因果によって導き出されるわけではないのだ。二つ、三つあるいは何年も前の出来事が複雑に絡み合って何かの事象を生んでいるののだ。そんな簡単に理由は見つからない。それは分かっていても、たった一つの原因でも摘み取りたいと、涼音は思った。
涼音は、とぼとぼとバス停に向かって歩いていたのだが、ずっと向こうの大通に、似たような年かっこうの女性が大きな通りの向こうを歩いているのが、ふと目に止まった。その女性と、涼音と同じように何か抱えているように見えた。それは気のせいかもしれないが、とにかく、そう見えた。その女性は信号で立ち止まったようだった。非常に厳しい顔をしていたのだが、ある方向を見てふっと厳しい顔が緩むのが見えた。
なんだろう?涼音は、その方向に何があったのか、涼音はものすごく気になった。涼音は少しだけ小走りに、その道まで歩いた。バス乗り場まで少し戻らなければならないが、そんなことはどうでも良かった。その女性は右側のコンビニに入ったのだろうか?すでに姿は見えなかった。しかしそれよりも、“顔を緩ませた何か”が分かればいいのだ。道路に出てその方向を見ても、目ぼしい建物があるわけではない。そうだ、あの顔の向きはきっと空を見たのだろう。涼音も顔を上げた。夕方の茜色に染まった雲にひとつだけ明るい星が見えていた。金星だ。きれいだった。2車線の狭い道路にちょっとした歩道。すきまもなく立っている3階建てはあるだろう店舗や家。空には何本も電線が行き交っている。そんな中、空は埃にまみれず、本質的な美しさを保っていた。そしてちょうどバランスよく輝く宵の明星。本当にあの見知らぬ女性の顔を緩ませたのが、あの金星かどうかは、わからないが、涼音の心にはその明るさが心に響いた。
一本逃したバスを待ちながらベンチに座る。涼音は、今自分を惑わせる何かについて、無理をするのは辞めようと思った。自分には、何かが近づいている。それはターニングポイントなのか、週末なのか、あるいは期待していない幸せなのか、とにかく何かは判らない。そんな中で、修正すべきことは、すぐにやらなければならない。たとえば、神成とはもう関わりあう必要はないだろう。お互いにとって。正直な話、3Dイメージングは災害予測には不向きであるということを、この数ヶ月で把握しつつあった。手法のアイデアが枯渇した科学技術の中で画期的なアイデアとされた3Dイメージングであるが、涼音は限界も感じていた。それならば、どうして研究など進める意味があるだろうか・・・。恩人である神谷教授には申し訳ないが、幸い同業者や諸先輩方に印象の悪い涼音にとっては、引き時である気がした。よし、大学は辞めよう。涼音はそう決心した。
その年の春と呼ぶには寒いある日、涼音は、研究室で私物の整理をしていた。片づけが苦手なだけあって、学生に手伝ってもらってもなかなか荷物は減っていかなかった。デジタルデータについては、割と整理されていたが、図書関係や地形図・空中写真・画像解析図などの紙の図面関係については、この研究を進めないのであれば必要のない資料が多かった。そういうものは極力大学に残して行ってあとで整理してもらうものとして、必要なものだけ片付けていった。
「すずちゃん、ちょっといいかい?」
神谷が、ひょっこり研究室に現れた。何度か引継ぎは行っていたが、細かいところで幾つか引き継いでいない内容があった。離職を申し入れたとき以来、神谷と会うたびに涼音は、申し訳なく思っていた。ダドリー先生の弟子とはいえ、彼亡き後に強く講座に戻るように言ってくれたのは、神谷一人であった。もちろんダドリーとは親しい友人であったし、涼音も顔見知りでは会ったが。きっと涼音のことをダドリー先生から頼まれていたのではないかと思う。そうでなければ、いくら前の所属で成果があったとはいえ、日本国内で全く無名の涼音を迎え入れてくれるはずがない。
その神谷は、涼音が思うより、ずっとすんなりと退職願いを受け取ってくれていた。そして、穏やかな口調で語った。
「いつかこういう日が来るとは思っていたよ。何とかがんばって貰ってこの世界を盛り上げて欲しかったが。まあ仕方ないね。大村君を手放したのが痛かったなあ。お世話役がいなくて君もさびしかったろう。君にミスがあったといえば、彼をすんなり手放したことだよ。彼、全く引き止めてくれなかったと、恨み言を言っていたよ」
涼音はまた、奈落に引き込まれるような気持ちになった。そんなことがあった、とは。そんな気持ちがあったとは、思っていなかった。知らないことが多すぎる。知ろうとしなかっただけなのか。そのツケが回っているのだろうか。
神谷は、そんなに大きな事を言ったと思っておらず、さらに続けていった。しかし、涼音には上の空だった。
「それに、君には不幸な事故もあった。乗り越えるにはもう少し時間がかかるかな。でも、それも君の選んだ道だからな。ぶち当たるしかないさ」
涼音の心は、深く思いに落ち込んでいた。私は、何を見ていたのだろう。そして何を聞いていたのだろう。人に必要なものとは何だろうか。学業か?知識?夢?信頼のある友人?どれも大事なのだろう。しかし、それには自分の周りを見つめられなければならない。何が自分にとって必要な存在なのか。物も、人も。損や得といった問題ではないのだ。必要とか必要ではないというのは、どうしたって後で分かることだ。それはいい。いいが、私にとって失うものがどれだけ多いのだろう。もう少しだけ、何かしておくべきではなかったのか。自分をだましてまで、自分を独りに追い込むことが必要だったのだろうか?
神谷はまだ語っていた。
「悲しみはいつか癒える、と僕は思っている。耐えられない悲しみは無いと僕は信じている。まだ仕事は決まってないらしいが、またここに戻ってくれるといいな。今度は、難しい理論でなくて、学生に科学の面白さを語ってくれるといいな。待っているよ」
今、大学を辞めることは、後悔せずに済むことだろうか。また自分は、過ちを犯さないだろうか?そして猛烈に大事な、もう二度と得られない何かを棒に振ろうとしていないだろうか。しかし自分には、これ以上わからない。いままでも分かろうとしなかった。そして今、分かろうと努力してもすでにそれが何かすら、それさえ見えない人間となってしまっているのではないだろうか。こんなことで、この先、こんな夢や後悔をしながら生きて生けるのだろうか。
「大丈夫かい?すずちゃん」
「ええ。ちょっと慣れない片づけで、頭痛いですね」
涼音は、今、自分はどんな表情をしているのだろうと思った。たまらなく悲しく、さびしい。
「ははは、君らしいなあ」
神谷は、そこまで微笑むと、そこらの資料を見ている手を止めて、真剣な顔をしていった。
「今頃言うのもなんだが。機会もないだろうから言っておこうか。君は、自分がダドリー先生のご威光で、ここに招かれたと思っているかもしれないが、それだけではない。K大をなめてもらっても困る。学問的も教育体制的にも君のような感覚の人間は必要なのだ。西山田君のように携帯をへし折る教師や、君のような若くて才気が伝わってくるような空気を持った教師、いろいろ居る、それが大学なんだよ。講座のことばかり言っていたが、ここは教育機関だ。まず社会に出て恥ずかしくない人間を作らなければならないんだ。」
「そういうのは、やっぱり大村君にまかせっきりだったですし、私は、ダメでした」
神谷は、資料を右から左へ写しながら言った。
「そうでもないよ、大村君は君の授業には舌を巻いていた。君はどういうわけか、まあ、接し方は冷たかったかもしらんがね。そういう点で、君と大村君は二人でよくバランスが取れていたよ。研究室のドアを取っ払ったり、やたら呑ませてみたり。君も思い当たることがあるだろう。」
「そうですね」
涼音は、あのころが一番幸せだったのかもしれないと思った。どこでこんなことになってしまったのだろう。
神谷が去った後、涼音は大村の次の就職の案内とか、引越し先の住所の資料がないか探して見たが、ほとんどは引越しのダンボールに入ってしまっていたし、とりあえず詰めるという主義で皆に押し込まれたため、もうどこにあるか発見できなかった。しかし涼音は無性に大村が懐かしかった。彼が存在した、という証拠を見つけたかった。それで、闇雲に2つ、3つ私物の入っていそうなダンボールを開けたが、てんで分からなかった。涼音は今こそ、自分の片付けられない癖を呪った。しかし、このダンボ―ルという砂浜の中で、落とした指輪を見つけることは、とても不可能に思えた。涼音は、ふと昔夢で見ていた、中学生時代の自転車事故の時、助けてくれた青年を思い出した。あの時も、私は探し出せなくて諦めたのだ。私は片付けられないのではなく、探せない人間なのだ、ということに涼音は今気付いた。何時でも私は気付くのが遅すぎるのだ。それは心にとても痛い、悲しい、実感だった。
大学での片づけをようやく終えて、寮に戻ったのは深夜になっていた。とぼとぼと歩いていると、小さな公園が目に付いた。少し酔ってしまった時は何度か、この公園にお世話になった。桜の木の下に、ベンチは今もある。今、花は咲いていないが、緑の葉が沢山ついていて、樹勢は旺盛である。この公園もあと何回見ていられるだろうか。寮にいられるのも、あと数日なのだ。その日はベンチに座る気持ちの余裕もなく、寮につくと、その日の疲れがどっと出た。最近は、仕事場では頑張りが効くが、休みの時間帯の疲労感は著しいものがある。すぐに横になるのだが、涼音はすぐにぐっすりとは眠ることができない。横になって目を瞑ると、悲しい出来事が走馬灯のように頭を横切るのだ。私の経験したこと、していないこと、最近の夢に出てくる理想郷な別世界、断崖の自殺者、病に苦しむもの、戦争の犠牲者、生まれ出てこない子供。もう悲しみを抱えたくないのに、また涼音は、引きづられる。涼音は、寝てしまうのがとても怖い。恐ろしい。