第12章 赤い月
2111年東北内陸地震から2ヶ月が立ち、涼音の周りもすこしずつ落ち着きを取り戻し始めていた。涼音もこの地震の調査委員会に立候補し、現地調査では骨身を惜しんで調査や分析を行った。それは感覚的なイメージ云々ではなく、現実の災害を対象としたものであった。
この間、ほとんど周りのニュースに耳を傾けるような暇はなかったが、それはこの仕事に関する誰もがそうだった。しかしそんな段階も落ち着き始めたため、涼音は久々に若月台寮へ戻ったのだった。片付いていない自分の部屋の匂いがなんとなく懐かしさを感じた。これも少しずつ片付けないと、いつまで経っても大村君離れが出来ないと皆に言われちゃうな。そんなことを想いながら涼音はベッドに横になった。涼音の心の中では、まだ地すべり地での神成教授の言葉や学生の言葉が忘れられない。
―あの押しつぶされた人たちに、先生にも責任があるでしょう
―あきれ果てたんだろう。上司を選んだってことだよ。
涼音は、自分がもっと良く全体を見ていればあの規模の深層崩壊を見抜けたかもしれない、と思っていた。神成教授はそれを直感的に感じていたのではないだろうか。ただし神成教授は、現地での経験を踏まえての直感なのであろう。涼音にはそんなものは無い。それに涼音の解析は、言ってしまえば単なるパズルなのだ。組み合わせのイメージの直感なのである。これでは、勝負は決定的だろう。涼音は、実際に崩落が発生してやっと、この事実に気づいたのだ、と思った。ダドリー先生も教えてくれなかった。それはダドリー先生には責任がない。斜面や地殻の変動に関する防災研究に手を出したのは、ダドリー先生が無くなって日本のK大学に戻ってから、神谷先生の紹介もあって始めたのである。神成教授や実務のコンサルタント関係の技術者とは、素養が違って当たり前なのだ。今更ながら、涼音は自分の不明を恥じた。
この2ヶ月は、そんな自分の落ち度を取り戻そうとするように、災害が発生した現場を歩き回った。しかし悲惨な状況や悲しみは募るが、相手は巨大すぎて圧倒されるばかりだった。神成教授がおらず学会の中で、期待されるのは分かるが、彼らの期待にこたえられる実地の経験の無さは、現地を回るにつれて露呈し始めた。そして残念なことに、涼音の3Dイメージのひらめきは、なぜか現場では、全く働かなかった。周りの皆もうすうす感じ始めている。こいつは現場を知らない。ただの研究のネタを作るアイデアマンだと。
涼音は、これからどうしようか、と思った。相変わらず妙な夢を見ることも多かったが、それよりも現実でも悲しみを抱えなければいけない。そして夜は毎日やってくる。よくわからない悲しい朝を迎えるのは、もういやだ。いつから私はこんなに悲しみを抱えるようになってしまったのだろう、自問自答しても全く答えには近づかない。
連日の崩壊現場での調査で疲れ果てた体は、眠りを要求していた。涼音は、自分の心がまた、何か深く悲しい夢を見せられる気がして、眠るのが怖かった。しかしそれでもあの災害の日よりも痛々しい出来事はないだろうと思った。あれに比べれば、まだ夢での悲しみは、哀しみに近い。
眠りに落ちた私を待ち構えていた夢の中は、悲しみに満ち溢れていた。絶望や悲しみ、涙は、そこにかしこにあるのを感じられる。私は今までとは違う何かを感じて鳥肌が立っている。どこを見ても赤く燃え、森も嘆いていた。
ぼうっとする頭を振ってから、ここはどこなの?と私は周りの景色を見極めようとする。もしかしてあの土と岩と水に呑み込まれた村じゃないのか!と思ったが、どうも様子が違うようだ。
人が折り重なっている。そして動かない。私は目の前に倒れていた人を揺り動かすが、その人は動かないし、この反応は死んでいる。しかし彫りの深い顔は日本人ではない。私は急に恐ろしくなり立ち上がろうとした。そのとき、何かの力が強く私の頭を抑えた。
「ばか!立ち上がらないで。死んだふりをしなさい」
うっ、と声を上げようとする私の口を手が塞いだ、ずいぶん乱暴だ。
「しっ、静かにして」
何か良く分からないが、近くを叫んだり、わめき声が通り過ぎていった。ここはやはり新たな悲しみの土地だ。私は逃亡者なのだろう。しかしその後、さっきと同じ声が、今度は優しく頭の上から聞こえてきた。
「もういいよ」
「よく解らないけど、ありがとう」
「いいの、でももっと命を大事にしなさい、わかった?もう、麻痺してるかもしれないけど。ここではもっとも安く扱われるものなんだから、あんたこの辺りの土地の者ではないわね。こんなとこにどうして迷い込んだの。察するに収容される途中で、逃げたのね。ふん、お嬢さんっぽいわね」
「そんなことないの。私は、えっと」
えっと、私は誰だっけ…。大事なことは思い出せなくなっていた。私は顔にべったりついた紙をはがそうとしてみた。金髪だ。いっそう私が失われてゆく。でも、悠長な時間はなさそうだ。
「ごめん、えっとあの、名前を聞いてもいいかな?」
「オティリエよ。オットラと呼んで。あなたは?」
「わたし?わたし、誰だっけ?」
オットラは、あきれた、という顔をながらもすぐ同情のまなざしを向けてくれた。
「分かるよ、きっとつらいことを経験してきたんでしょ。思い出したら名前は教えてね。お互い名乗っておけば、誰かが生き残ったとき、その人の子孫に出会ったとき、伝えられるかもしれないわ」
「悲しいこと、言うんだね」
「ここで生きていくのなら、当然でしょ。あなた、どこから逃げ出してきたの。でも、まあいいわ。思い出さなくても。そのままの方が幸せなこともあるわ。それに今はとにかく生き延びることが大事。生きていけば、いつかいいことがあるわ。とはいえ、ここがどこかくらいはわかってる?」
「クラコウ」
私は、すぐに答えた。でもそうに違いなかった。クラコウは、ポーランドの地方都市。収容所あり。ポーランドのクラコウ、私の背筋に寒気が走る。まさか第二次大戦中なのだろうか。そして私は知識としてそれを知っている。私が青ざめたことは目の前に立っている女性に伝わったようだ。
「思い出して気かしら?頭は大丈夫なようね。よかったのか、よくないのかわからないけど。どこから来たかは思い出せない?見たところ、その顔立ちは何人かしら?あまり見ない顔ね。髪はきれいだけど、ハンガリー人かな?スラブ系ね」
「ごめん、まだ思い出せない。どうしてここに来たのかも」
オティリエは、仕方ないわね、と腕組みをしていった。運の悪い連れに出会ってしまったと思っているだろう。
「よくわからないわね。まあいいわ。ここから抜け出したら教えて頂戴。いまはチャンスよ、やつらを混乱に陥れてやったから。脱出できるわ」
やつらって、と聞こうとしたとき、先ほどとは少し離れた場所でざわついた声が聞こえてきた。
― あ、あそこにいたぞ。止まれ!
パン、という音がする。これは銃の音。きっとそう。私は音のするほうを向く。私とオティリエは自分たちが狙われていると思い、体をこわばらせる。しかしそうではなさそうであった。どうやら逃げ出した別の人間を、兵士が追いかけているらしい。まるですぐ近くにいるように、兵士たちの声が聞こえる。
「ちっ、面倒掛けやがって、ユダ公め、ここで殺してやる」
「まて」
「うるさい、どうせ死ぬんだからおなじだぜ、今日はむかついてんだ」
「まて、やめろ」
「うるっせえ!ガキのくせにむかつくぜ。」
兵士らしいその男はそのまま、銃の引き金を強く握ろうとした。
そのとき、一人がその兵士の後ろに立った。
「きさま、命令が聞こえんのか」
兵士は声を上げられなかった。頬には鋭いナイフの刃が当てられていた。すさまじい速さでそれは頬に当てられた。
「それはきさまの仕事じゃない。いいか、命令を忠実に守れ、それができないなら、すぐロシアの前線に送ってやる。今、あっちではわんさと兵が必要なんだ。たくさんな。何故か知ってるかキサマ。たくさん死体を作るためだ。知ってるか死体ってのはな、生きてるやつを殺して作るんだぜ。敵でも見方でもいいんだ。たくさん死体を作ってるんだぜ。死ななきゃ戦争は終わらん。たくさん死ねばすぐに戦争は終わる。お前も協力してきたいのか。あ?」
「うっ。わ、わかった」
「わかったら、このガキどもを連れて広場にもどれ。同じことを二度言わすな」
兵士たちは、荒々しく子供たちを引っ張り帰った。残ったのは二人だ。
「あいつはペテルブルクに送ってやれ。賢ければ、そのとき事の重大さに気づくだろう。その後のことはオレのしったこっちゃない」
「はっ!」
引き立てられた子供は二人、つかまりながらも何とか逃げようと体をもがいた。しかし先ほどの荒れた兵士が静かにしろ、手こずらせやがってと銃底で叩く。
「にいちゃん!」
さらにもう一つ鈍い音がして、あたりは静かになった。
「まずいわね。あのまま処刑されるかも」
一部始終を見ていた私はぶるぶると震えていたが、オティリエは、私の肩を抱きながらしっかりした声でつぶやいた。
「え、え、何?あの子供・・・、知ってる人なの」
私は震えながらかろうじて聞いた。
「うん。助けなきゃ」
「た、助けるって、だめだよ。ここから安全なところへ逃げるんでしょ」
「それは、ある前提のうえ、だったのよ、前提は崩れた。戻らなきゃ」
「前提?」
オティリエはすでに立ち上がっていた。
「あの子達と私たちは一緒の村から逃げてきたのよ。私、これでも先生なのよ。あれは、多分私の生徒。助けないわけに行かないでしょ。じゃあ、元気でね」
「ま、待って」
「付いてこないで、収容所へ戻りたいの?」
私は、私が何者かもよく分からないが、うなづいた。いく必要があると思った。
「本気?どこから逃げてきたのか知らないけど、今後こそ死ぬわよ」
「私も、教師なの、多分」
私は、そう、確か教師、そんな気がした。
「ほんとに?住んでいた町で?ふうん。それなら仕方ないか。でもそんなプルプル小鳥みたいに震えて大丈夫なの?邪魔しないでね」
オティリエは森の中をたくみに歩いて、ある村の近くまで来た。道は泥濘化していて、さらには物々しい軍用車両が止まっていた。
「あそこが、私がいた学校。みんな上手く逃がしたつもりだったのに、何人戻されているのかしら」
「あそこへ行くのはやめた方がいいと思う」
私はオティリエの腕をつかんで言った。
「仕方ないわ。子供たちを取り返さないと」
「絶対捕まるわよ。ここからみたって兵士がいるのに」
「あいつらは油断してるわ、大丈夫。あなたはここでじっとしていて、わかった?」
「大丈夫じゃない、やめて」
私は、彼女の腕をぎゅっと掴んだ。
「いくわ、それじゃ」
「待って!だめ!」
オティリエは、私を振り切って果敢に出て行ったが、捕まることは目に見えていた。すぐ兵士に捕まり、縛り上げられるに違いない。だから言ったのに。命を粗末にするなと言ったのは、彼女なのに。実際オティリエは叫び声も上げずにつかまった。建物の中に忍び込むことは出来たようだが、抜け出すのに失敗したのだった。私はその姿を呆然と見送った。やはり私にはどうすることも出来ない。
翌朝、じとじとと雨が降って、霧が立ち込めていた。暗く重くかびたような臭いのする霧だった。私はいやな予感を振り払うことができない。オティリエは大丈夫だろうか。そしてあの兄弟は無事なのだろうか。昨夜も何度か銃声が聞こえた。逃げ出したのか、その場で撃たれたのか。死んだのか、脅されただけなのか?私にはわからない、何も見えない。
あの建物の方でにわかに物音がしている。トラックだ。軍用のトラックが来たようだ。兵士が出てきて荒々しく扉を開ける。中には子供たちがいる。昨夜見た子供二人だ。他にもいる。三人、四人・・・。中には、もっと多くの子供たちがいるようだった。兵隊が、子供たちを次々とトラックに詰めている。子供は出てくる。まだ出てくる。次々と出てくる子供たちに私は、呆然とした。オティリエの言ったことは・・・ほとんど間違っていたのだ、全員逃げられなかったのだ。私には涙を流すことしか出来ない。あの子供たちの運命はもう分かってしまうのだろうか。
最後の子供が出てきた後、向かいの建物で銃声がした。私は涙に濡れた顔ではっと振り向く。オティリエだった。何か叫んでいる。銃をもう一回兵士が銃を鳴らす。一人将校がやってきたようだ。あれは、昨日ペテルブルク行きを命じていたやつだ。オティリエはその将校に強い剣幕で語りかける。あの二人は知り合いのようだ。
「私も連れて行きなさい。ユダヤ人でも教育は必要だわ!」
「ひとつ忠告しておこう。私は彼ら、そして君に出来るだけチャンスを与えたいと思っているのだ」
「なにが、チャンスよ。死ぬチャンスってことかしら」
「そうじゃない。もちろん生きるチャンスだ。無駄に殺すことはしたくない」
「うそつき」
「本当だ」
「よくも同じ村で育った知人を殺しておいて、そんなことを。あんたは許せない!」
「そうだな。私は地獄に落ちるさ。だからいいだろう」
「私を連れて行きなさい」
「やめておけ。君まであの子たちについていっても、どうしようもならん」
「まだ付き添いが必要な、子供たちよ」
「そうはいかん。聞いてやりたいところだが、あきらめろ」
「でもあの子供たちには付き添いが必要なのよ」
「君は相変わらずだな。昔と変わってない。わかった、好きにしろ」
オティエリは引き立てられて、トラックに載せられた、細かいがしっかりとした雨が降り続いて、重い霧が立ち込める。子供たちの顔が、雨に濡れている。顔をぬぐうもの、そのままでいるもの、頬を伝うのは雨なのか、涙なのか、私にはわからない。彼らはどこに行くのか、行く先に希望はあるのだろうか。たったひとかけらの希望は、あるだろうか。私は、あると思いたい。しかし現実はどうだろう。
屋根のないトラックはしぶきと泥を巻き上げて出発した。動き始めると、荒れた道に車輪を取られて大いに揺れて、すぐに見えなくなった。私はどうすることもできない。止めたのだ。あそこに行くべきではないと、しかし彼女は振り切った。こうなることは分かっていたのに。
私も移動を強いられる。この先は見たくない。彼女や子供たちがどうなるかなんて、見届けたくない。夢はここで覚めて欲しいのに、その願いがたった一度すらかなえられたことはない。私は一体、何を見ようとしているのだ。トラックを視覚的に追うことはすでに出来ない。私は感覚的にトラックを追う。あまりに確信のない、今にも途切れそうな、しかし絶対切れない何かが、彼らを探し当てる。
夜になった。暗い中にいくつもの粗末な舎が見える。オティリエの姿は見つからない。私は、今、はだしの足を大地につける。冷たくざらっとした小石が足の裏を刺す。粘土質な湿り気がすごく不快だ。声がした。少年の、いや青年だろうか、まだ繊細な神経が荒ぶる年頃の声だ。私は足裏の感覚から粘着力を引き剥がしながら、その声のするほうへ小走りに掛ける。周りには人の姿はない。私の姿は兵士に見つからないだろうか。あたりにはサーチライトがウロウロしている。サーチライトが当たっても、私は何故か、見つからない。私は自分の姿を見る。白かったお古のワンピースは泥だらけだ。汚いから見つからないのだろうか。それとも私は何者でもないのか。私は少年の声がする舎の壁にぶつかった。おそらく子供たちは、ここに居るのだろう。
入り口はあるのだろうか。それとも出口も入り口もない舎なのかもしれない。それは何を意味するのか。しかし入り口はすぐに見つかった。少しだけほっとしつつ、しかし私が姿を見せるのは問題があるかもしれない。私の存在のはかなさは無駄な心配をあおる。そして扉を開けることはやめて。最初にぶつかった引き戻る。途中で足の裏に大きなとがった破片で足を切った。足元を見ると血がついていた。私はまだ人間だ、と言う思いを覚醒させてくれた。
声の聞こえる付近で意識を集中した。
「シュテファン、悪夢なんかみてんのかよ。へっ、えっらそうだな。自分だけ苦しみやがって。でも悪夢なんてここでは、ただの夢だ。現実が悪夢となってるんだからな。ここで見るのはただの夢だぜ。悪夢は普通。そして夢を見たくないなら、死ぬしかない。死人と俺たちの違いは夢を見るか見ないかだけだ。もう、死んでいるんだ。」
「そうは言ったって、悪夢だよ。夢の中だけくらい、自由にしたいよ。なあヴィル」
「悪夢は現実でも、夢でも俺たちの前に立ちふさがる。夢は俺たちにとっては、壁なんだ、高くて高くて絶対上れない、壁なんだ。生きて見れない。でも死でも見れない。悪夢の向こうは覗けない」
「ばかなヴィル。そんな抽象的な話をするなよ。ばか、俺たちはまだ死んじゃいない。死ぬなら、やるだけやって殺された方が、まだましだ。なあヴィル」
「じゃあ、また脱走するのか」
「するさ、もちろん、今度こそだ」
「できるもんか。ここで上手く切り抜けるんだ。連合軍がやってくるまで、生き延びるんだ。アメリカはユダヤ人に優しくしてくれる。みんないっせいに殺されない以上、誰かは生き残る。」
「そんな甘いこというな。こんなとこで生きていけるもんか。」
「毎日何百人かいなくなってる。この数ヶ月で、会わなくなったヤツがいるだろう。」
「ヘルマンとも会わなくなったが、ほかのゲットーに移ったと聞いたが」
「あいつは、ロゼにヴァイオリンを認められて他のゲットーへ行ったんだ。うまく生き延びやがるよ、きっと。」
「ちっ、ナチ公のために音楽かよ。あいつはいいヤツだと思ったのに」
「みんな待て、あいつは、いいやつだ。俺、最後にあいつに会ったんだ、あいつのヴァイオリンの裏に俺たちの名前を書いた布切れを仕込ませてもらった。あいつ、絶対生き延びるよきっと」
「まだ、そんなこと言いやがって、弱虫野郎!そんなことじゃ、すぐ撃たれて死ぬぞ。それとも自分も汚く生き抜こうって腹か?お前もナチ公のけつでもなめてこいよ。ロゼみたいにな。」
「ヘルマンはそんなヤツじゃない。あいつは俺たちと別れるのがいやだったんだ。俺が説得したんだよ。それに俺だけが、生き残りたいわけじゃない。俺だってみんなと生き残りたい。死ぬときだって、一緒でもいい。でもな、みんな一緒で、そのあと何も残らないのは悔しすぎる。せめて俺たちが生き延びようとした、あのドイツ野郎から抵抗して名前を残して鼻を明かしてやりたいんだ。いつかそんな日が来る。だから、できるだけみんなの名前を聞き取って、生き残るやつに託す。きっと誰かは生き残る、そいつは、俺たちの名前を刻んできてくれる。そしてだれかが、絶対生き残る。そして生きていれば、おやじや、妹たちに俺たちの名前を伝えてやってくれ。もしお前たちが脱走に失敗したら、お前たちを、俺が、俺がだめなら他のヤツが、お前たちの親父やお袋に伝えてやる。これが俺の復讐なんだ。」
「わかったよ。シュテファン、本当はわかってる」
「お前たち、ほんとに行くのか。いつなんだ」
「明日だよ。もともと、お前を誘うつもりで来たんだ。」
「じゃあ、今夜でお別れだな。シュテフ、俺の話を聞いてくれよ、デュッセルドルフに住んでいるおれの妹は、別嬪じゃあないが、ちょっと器量よしでさ」
私は多分、彼らの将来を知っている。私は足元から水分をたっぷり含んだ緑色の粘土に足をとられていた。体温も感じない、緑色の粘土は私から体温を奪い、私を意識だけの存在に変えようとしている。座り込んだまま、動けない。動かない。感覚を伝わる頬を伝わる涙に温度はない。やがて、私の目の前を二人の少年が走り去っていく、そしてもう一人。最後に一人の少年が飛び出してきたが、なぜか、私の方を振り向いた
「あ、あなた、誰?」
私の姿が見えるのだろうか?少年はそう聞いてきた。少年は目をこすって、こちらに近づいてきた。
「誰?て、天使?」
私は言葉を発することが出来ない、もう動けない。ただ、先ほどから涙が感覚なく頬を伝っていて私には止められない。少年は瞬時に顔色を満面の笑みに変えて、私の前に跪いて、祈りをささげ始めた
「これを、絶対神様に伝えてください。天使さまなら安心です。お願いします」
そして、私の手にすっかり厚くなった垢と血で汚れた布を私の手に、私の手元に、確かにおいた。
おい、どうした!という押し殺した声が前の少年が走り去った方向から聞こえた。まって!と私の目の前の少年がそちらに向かって小さく叫ぶ。
「聖なるマリア様、私は死んで何もなくなるのが怖かったんです。でも本当に天国があるのなら怖くない。みんなと一緒に脱走します。見守っていてください」
この子は何か考え違いをしている。私は、マリア様ではないし、天国などない。
まちなさい、行ってはいけない、と私は思う。しかしこの場に限って声は出ない。緑色の粘土は私の体も蝕みつつある。少年に私がどう見えているのか知らない。行けば死ぬ。私は知っている。少年四人のむごたらしい死を。
私が天使ならば、少年に死を与えずにできないのか。
少年は再度胸で十字を切って、少年三人が走り去った方向に消えていった。
「おまえ、いいのかよ。手伝うだけで十分なのに」
「いいさ、誰かが生き残る確率はぐっと高くなる」
「お前、生き残って俺たちの話を伝えるってのはどうなったんだよ。全く」
「大丈夫。今、驚いたぜ。外で天使にあったんだ。俺たちの名前は全部預けてきた。大丈夫。だって受け取ってもらったんだぜ」
「本当か?誰か親切な兵士に合えたのか。たまにいるけどな。そういう人は早く死ぬんだ」
「いや、本当かもしれん。俺は信じるよ」
「ああ、俺もだ」
私は・・・何?
私は緑色の粘質分に全身をおおわれ動けない。一人の兵士がやってきた。ペテルブルクに行ったはずの兵だ。まだ出立していなかったのか。私の方に向いて、目を留める。私に気づいたのだろうか。視線は夜でよく見えない。私は兵士が、少年たちの方へ行こうとすれば、私がおとりになってやろうと本当に思った。しかし、兵士が目に留めたのは、私でなく、私の手元だった。私はそれをとられてはならない。少年が必死に守ろうとしたその布、何が書いてあるのかさえ私はまだ見ていない。兵士の顔は見えないが、怪訝そうな心でその布切れをみつめている。気づいてはいけない。あちらへ行きなさい。私は必死に心で叫ぶ。あの少年は私が何も考えなくても気づいたのに、この兵士には私が訴えても何も反応しない。兵士は布切れに銃先を伸ばした。おそるおそる先でつつく。私の手からその布は滑り落ちる。私はその布が落ちるのはいやだった。少年の命の代わりの何か、どんな価値のある宝よりも重みのある何かが、そこに記されているのだ。このような兵士にそれが分かるだろうか。兵士は、その布切れを取り上げて見た。その布にはびっしりと書かれた文字、名前と隙間には彼らの物語が、きっと書かれていた。その兵士はそれを見た。その兵士はそれをつぶさに読んでいた。そして、私には暗くて顔は見えないが、確かにニヤリと笑った。
そのあと、名前を書かれたもので舎に残っていたものはすぐに呼び出された。脱獄した四人のことはすぐ判明し、手配された。名前の書かれたもので生きているものは、舎の広場に集められひどく痛めつけられた。
「おまえが奴らのの脱獄に手を貸したことはわかっている、これがどんなに大きな罪にあたるのか分かっているのか。まだ仲間がいるだろう。そいつらの名前を二人言えば、お前は許してやる」
口を割る者はいなかった。兵士は銃を突きつけ、ひどく簡単に引き金を引いた。その夜、むなしい引き金の音は13回響いた。何回が恐怖をあおるための空砲だったのだろう。私は緑色の絶望に包まれ、その音を自らが撃たれたように聞いたが、死んだのは他の誰かだ。私ではない。
人は、生を依存することはない。しかしこの異常な空間では生も死も他人にゆだねられている。それを受け入れられるか、受け入れられないか、それは受ける側の問題であり、現実的な問題としては、すでに解決している。意思のある自由はない。なにもない。それとも、もともと生は人に依存しているのだろうか。
私がその舎から抜け出たのはそれから数日した後だった。私はいまさらであったが、少年たちが駆け抜けた方向を追いかけた。柵が、巧みに修理された箇所があり、それを私は潜り抜けるとき、すこし痛みが走った、その痛みは私にはうれしかった、きっと私はまだ、人間だ。林の中に、手がかりはなかったがなぜか私は彼らの進む先が分かっていた。しかし、ある木の幹にはべったりと赤い血がついていた。何があったのか、私には考えられない。しばらく進むと急な5mほどの崖があった。そして、その下は、恐るべき急流が流れていた。私は胸騒ぎがした。私は苦心してその崖を降りた。すぐそばには少年たちの姿は見えなかった。下流に行けば、上手く流されて生きたのかもしれない。しばらく川を下ると、やや浅瀬となったところに、私の探し物があった。・・・そこには。折り重なった3人の少年の姿があった。彼らは数発の銃弾を受けていた。寒さで死んでしまったのか、失血による死なのか。しかし彼らはお互いを抱えるような姿であった。せめて兵士に殺されなかっただけでも、良かったのだと私は思うことにした。
私にはかれらがあの4人のうちの誰なのかは分からなかった。あとの一人はどうなったのか、わからない。しかし、私には分かっている。しかしそのあと数キロ下流を下ったところで、私に跪いた少年の姿を見つけた。私はもうすっかり慣れたが、意気消沈し、舎の前のあの処刑の場に向かった。血と雨にまみれた、泥の中にあの布を見つけた。が、私にはどんなに繰り返してもその布を拾うことは出来なかった。何度手を伸ばしても、手は布を素通りした。どうしても、どうしても拾えなかった。そのうち雨が降って霧が濃くなった。私の周りを灰色の霧が囲む。私はどこへも連れて行かれたくない。あの布を拾わなければいけない。あの少年が命を欠けた、あの布を。
また朝が来た。昨夜の霧や悲劇は忘れ去られたように、美しい青い空だった。その収容所には、子供の姿が多く認められた。そんな中で、オティリエを見つけるには、そう時間はかからなかった。オティリエは当然ながら兵舎内での子供の待遇について申し立てを行っていた。その態度は尊敬を得るものであったが、ゲットーの管理者からは疎く思われているのは容易に感じられた。私はオティリエがひとりになるのを見計らって、そばによってみた。
「ねえ、オットラ!もう少し、言い方をかんがえないと」
「あら!あなた!どうしてこんなところにいるの?あれからあなたも捕まったのね。だから私と一緒に行動しない方が良いと言ったのに!」
「ねえ、あなた解ってるの。目をつけられるわ。ここに来た以上逃げるのは難しいのだから、生き延びることを考えて欲しいの」
「わかってる。でもあれくらい言わないと、動かないのよ。基本的に何もしようとしていないのだから」
「それは」私は言うべきことをぐっと飲み込んだ。
「あなたこそ、ちゃんと生き延びなさい。わかった?。私がここにいれば子供たちには手を触れさせない」
「違うよ、オットラ。私が言いたいのは、子供たちを生かしたいなら、もっと彼らと上手くやりなさいってことよ。彼らがあなたを目障りだと思えば、殺すのは簡単なのよ」
オットラはこちらをじっと見た。
「あなた、名前もまだ聞いてなかったけど。ありがとう。でも彼らのやり方は正しくないわ。戦争でいろんなことがおかしくなった。でも子供たちを守って成長してもらうためには、ギリギリのところまで頑張らないとね。いつか戦争が終わった時、彼らが国を支えていくんだから」
いや、違うな。彼女が願っているのはきっと個人の幸せのはずだ。今彼女は大義名分を自分い背負わせることで気持ちを高ぶらせているのだ。彼女は自分の死を悲観的に考えていない。
「わかる。でもあなたが長生きして救える人もいるはず。そういうカギになる人は長生きしないといけないの。目の前を救う事だけが、将来につながら付か分からないよ。今燃え上がることだけは考えないで、お願い」
私はそういうと、オティリエの肩を抱いた。
そのころ、強硬なオティリエに手を焼いた所長らは、あるリストの筆頭にオティリエを加えていた。オティリエは健康であったし使えると判断されていたものの、収容所経営で失敗することのできない所長は排除せざるを得ないと判断した。所長たちは、オティリエの知人である元教師を使った。もちろん真実を話す必要はなかった。
「オティリエ、ついにあなたの話が通ったみたいよ。待遇のいい場所に移動することが決まったみたい」
「え!本当なの」
オティリエは、すぐに笑顔を見せるほど楽観的ではない。罠の可能性は十二分にある。
「うれしいけど。移動先がいいかど。それに移動の方法も気になるけど。家畜列車では困るんだから」
「はあ。せっかくいい話なんだから聞いておいた方がいいと思うよ」
「話は聞くけどね。恩着せがましく厄介払いでは困るんだからね。ここで環境をよくすることが一番なのだから。いずれにしても下見が必要でしょ。それをさせてもらえないと、すんなりうんとは言えないわよ」
「あちらさん、わかってるみたいよ。下見に行けって言ってたもん」
「ふうん、それなら行ってもいいかな。でも全員でないと動かないわ。あなたたちの言うことは信用できないし」
「私もあんたを信用してないよ」
所長はそういってふんぞり返っていたイスから太った体を起こした。
「お互い様だ、しかし俺もあんたもうまくいく方法だろう。俺にはあんたに使う金は無い。あんたはここが気に入らない。もううちでは面倒見切れんよ。まず次に行く場所の下見だと思って、移動してくれ。あんたが満足すれば、ぜひそろってそっちへ行ってもらおう。それから全員一度は無理だ。移動については一度には無理なんだ。ゲシュタポのアイヒマンって課長が列車の運行にうるさいんだよ」
「どこのことなのかしら、それくらいは教えてもらえるのよね」
「テレジエンシュタット」
「知らない土地ね」
「聴いたことはあるだろう。プラハの北50kmほどだ。ちょいと距離はあるがな。そこは子供が1000人ほどいる。待遇はここよりはいい、それなりの子供がたくさんいる以上、それなりの対応が必要だからな。ここよりは、設備は整っているよ」
「わかったわ。」
「出発は2日後だ。支度をして先に100人ほど連れて行きたい。先導するのだから、弱った子供が優先だろうな。あんたの目で選んでもらっていい。まあ、一応私も見ておこう。その100人の後は、何度か往復してもらう。それから、これは、お願いだが子供たちには騒がしくなるのでおおっぴらには言わないでくれ。順番だといっても理解されんだろう。選抜された子供にあんたから言う分にはいいかもしれないが、私が言っても信用されん」
「わかったわ」
翌日、100人の子供たちとオティエリは、長い列車の旅だということを理由に温水のシャワーを浴びることになった。それは施設から少し離れた場所にあった。
「こんなところにシャワー室なんて、あったしら」
「ティレジエンスタットまでは、長旅だからな。病気になっては困る」
「まちなさい、ちょっと所長と話させて」
「今さら困るぜ、俺たちだって忙しいんだ。旅行の前にさっぱりできるなんて羨ましいぜ、なそうだろう」
そういいながら、兵士たちはオティリエを含め、小さな子供たちばかりをその部屋に押し込めた。子供たちはオティリエが選んだ、先に移すべきであろうと考えた、まだ年端も行かないものであった。そして、みんな死ぬ。それだけだ。
兵士は外から頑丈な鍵をかけた。後は簡単な手続きだ。ここクラコウでは初めてだが、他ではいつもの日常作業らしい。
「これで、働けないやつと口の達者なヤツは処分できた。」
「まったくだ。うるさい女だったよ。」
私は、オティリエと子供たちを見届けなければならなかった。胸が張り裂けてもそれはやらねばならない、と思った。シャワー室の中では阿鼻叫喚の地獄を覚悟したが、そこには何もなかった。いや、祈りをささげるオティリエとその子供たちが跪き、祈りをささげていた。静かだが、祈りの声は震えている、いまにも泣き出しそうな中、オティリエの存在だけが、子供たちの支えであった。
私はどうすればいいのだろうか。そのときこの間の私に布きれを捧げようとした少年が私に気がついたのを思い出した。私にはこの子供たちとオティリエを救うことはできない。しかし私の姿は彼女たちに見えるのかもしれない。
私はオティリエの近くに立ってみた。そして恐怖で震えるオティリエと私の心を落ち着けようとした。彼らと同じように。子供たちの中に立ち、祈りをささげた。私は祈りの文句は知らない。しかし、子供たちとオティリエのことを祈った。震える声が少し収まったような気がした。
やがて、外で音がし、空気の漏れる音がした。私は目を開けた。
100人と1人すべてが倒れていた。そこには安らぎも天国も神の国もなく、ただ、ただ青白き死臭があった。私は、それを見て大きな声で叫んだ。頭の中は何も考えていなかった。しかし、どれだけ叫んでも私の声は、涙は、心は、ここにある現実世界に干渉できなかった。何も無かったかのように、私はただの、でくのぼう、のようにそこに立ち尽くしていた。
兵舎の外には、大きな月が上がったところであった。暗闇にぬうっと上る、深紅の月。死臭は霧のように月の周りを覆い、月ののっぺりとした紅色だけがぼんやり浮かび上がった。そして一粒の赤い涙がそこから滴った。
続く