第10章 輝ける天国
私は目を開けた。
私の周りには木々がある。隙間から見える空は青く雲一つない。木々の若々しく緑色も濃く新鮮だ。やはり自然は美しい。しかし何か違和感がある。私は頭をくるりと回す。幹の太い木々がそこらかしこに生えている。直径1mは優にある大樹が多いので下のほうはスッキリして見通しが良い。涼しげな風が吹いてくるし、地面には楚々とコケが生えている。木々の間からは明るい青い空がみえる。
これは、夢?
夢には思えないリアルさだ。草や木に触れるといつもの感覚がある。私は自分の姿を見てみた。昨日寝たときと同じ格好だ。昨日は大学時代の同期に誘われるのに応じて合コンに行ったのだ。准教授が合コンもないだろうとは思うが、気分を替えたいと思った。私の人生に気おくれがして、試しに普通の女らしくしてみようと思ったのだ。髪をきれいに結ってスカートをはいて化粧もした。街を歩くといつもより視線がこちらに向いている気がして、きっと気の性なのだろうが、少しばかりうれしいと思った。これで普通の女らしくなっていけるだろうか。珍しくしおらしい考えの自分に失笑した。
お酒が出ると、やっぱりたくさん飲んでしまった。私は話さなくてもひたすら飲める。飲むとそこそこ酔うのだが、どうしても酔い切れないのだ。でもそれは、いつものことだ。私はなぜ酔いきれないのだろう、しかし深く考えても仕方ない。こんなに私は満たされている。十分幸せなのだ。名誉な仕事をしているし。たくさん飲めるし。恋人くらいいない女はいくらでもいる。そのまま帰宅して寝た。送ってくれると言う人もいたが、とんでもない話だ。酔っ払っても十分帰れるし。さて、そんな寝たままの格好なのだから、これは夢で間違いない。
改めて回りを見渡すとやはり美しい森である。少し歩いて見ようと思い私は立ち上がった。折り目がついてしまったスカートをパタパタと払う。それにしても今回の夢はリアルで驚いた。土の湿気を感じる。土の匂いを感じる。
いい森だ。空気もいい。においもいい。しかし以前私の唯一の登山体験である南八ヶ岳の匂いとは少し違う。すうっと大きく肺に空気を送り込む。ふむ。なにかしら、ちょっとした違和感。木の匂いと土の匂い。土質の違いなのだろう。夢に土質の違いなんてあるものだろうか。また私は自らを笑った。
私は歩き始める。あれ、靴がない。ストッキングは、はいてない。確か脱いだ記憶がある。まあでもはだしで歩けそうだ。道はないが、コケと草が生えている。私はなんとなく歩き始めた。何かが起こるまで、自分の夢で何も心配することもない。
道はないが、誘われるように、明るい方向に歩いて見た。もう少し行けば少しは開けているところに出れそうだ。
太い木々が終わって、丘のような場所らしい。きっと広がる素晴らしい景色が待っているのだろう。心が躍る。そして丘にたどり着くと、そこには素晴らしい景色が待っていた。
空は、不思議なくらい濃い青だった。コバルトブルーとでも言うのだろうか。私の知っている空とは違う。しかもその青色は渦を巻いていた。そう台風の雲のように、ここからどれくらいあるのかわからないが、その流れは恐ろしく速かった。台風の嵐の中、雲が渦を巻くのを見たことがあるが、それとは比べようもないくらい、青い雲が、いや本当に真っ青な雲がジェットコースターのように流れ、渦巻き、ちぎれ、のたうつように狂っていた。それが全天を覆っているのだ。しかし今いるこの場所は明るいし、無風だ…。
無風?そうだ。この中には風の流れがないようにも感じる。これがさきほど感じた違和感だったらしい。何かの匂いかと思ったが、風の流れだったのだ。そういえば、目を覚ましたときも不思議な空だとちらりと思ったが。ここは、いったいどこなのだろう?そんな戸惑う私の目の前をふわふわした丸い形状の“何か”が横切っていった。
いつの間にか、目の前に人がいた。背は低く、体にはゆったりした緑色のローブのようなものをまとっている。いかにも落ち着いた感じだ。誰かと似ているようで誰とも似ていない。きっとツァラトゥストラが降りてきたときはこんな感じなのだろう。彼は隠者に違いない。我ながらいいネーミングだ。姿かたちは日本人のようで、外人のようでもある。妙に安心できる顔だった。しかし表情は読めない。そもそも男なのか、女なのか。こんなに怪しい人物だ。そういえば以前夢でこんな感覚に出会ったことがある。でもあの人ではない。私はもちろん警戒した。軽くうなずくだけにとどめておいた。
「この都市にあなたを招待できて、私はとても幸せです。ここは、あなたの知らない世界だ。きっとこの世界が気に入ってくれることを願っています」
声もまた不思議だった。男のようであり、女のようでもある。でも、幼さの残る声だ。きっと警戒を緩めようという作戦に違いない。
「都市?この自然風景が都市なの。冗談でしょ」
そのザ・隠者は実に嫌みのない微笑みを返した。どうにもやり難い。
「都市、不適切でしたか。これだけバランスよく統率された空間を都市と呼ぶのは適切かと思いましたが、よろしくなさそうですね。なるほど、学びました。」
「そうだよ、都市ってのはさ、高層ビルが並んだり、大きな駅があったり。華やかなんだよ」
私は少しおどけてふるまった。まだ酔いが残っているのだから仕方ないさ。
「そうですね。今日は異なる宇宙の星に散歩に来たと思ってください。交わらない別の次元が存在すると思いましょう。次元の位相は合わせることは非常に難しいですが、私たちにはそれが可能です」
ちょっと面白い夢のようだ。
「そんなのあり得ないよ? 二次元世界が存在しても厚みゼロでは、私たちの世界とは交差できないからに。触れることもできないでしょ。甘いなあ隠者さん。複数の次元があるとして私はいた世界に戻ることは出来るの?」
「もちろん。次元の重なりを合わせればいいのです。簡単に言えば2枚の平行な紙を一部だけ合わせこんでやればいい。平面全体を合わせなくても、その人の分だけだ。エネルギーも節約できる」
「なるほどね。異なる次元同士でもいいわけか」
こんな簡単な説明では納得しかねるが、事実だとして私は物理学は得意でない。やめておこう。次の言葉には驚いた。
「そうだ!通常意識して操作されなければ異なる次元の面が一致することはない。完全一致というのは、通常の宇宙界には存在しない。私たちは同じ空間に異なって存在しているわけだ、ドラえもんの四次元ポケットもその仕組みであるな。ポケットを開く動作、ポケットの中には異なる次元がある。まあそれだけでは異なる次元を開くだけですので、3次元世界にゆがみを生じさせなければならない。これは超小型の重力場を利用するのだ。あんた、わかってるか!」
私は目をパチクリした。なんだこの隠者は。
「ああ、そうね。すごいエネルギーが必要でしょうね」
とりあえず相槌を打った。次に回答が来るまで、ほんの一瞬、間が合った。
「そうですな。ただし次元の交差面は質量ゼロですな。エネルギーは取り出し方と保存の方法を工夫すれば、それほど問題ではありませんな。」
調整したな、と私は思う。怪しいなあ、この夢は。私は腰に手を当てて一息ついた。
「あんたたちは出来て、私たちは出来ない。おいこら原始人め!って言いたいの」
「文明がお粗末やねん!いや、違う。違うのだ、違いますね。科学的な事実については知るか知らないっちゃ。いずれ到達することができるのに貴賤はないですよ。到達するまでの時間は関係ないのですよ」
隠者さんは表情を変えず言いよどんでいる。なんか怪しいなあ。
「なるほど。いずれ問題は解決するのか。ずいぶん先になるでしょうけどね」
「さて普通なら時間は有限ですから、話の核心に進むべきですが、夢というのは都合がいい。時間はほぼ無限にあります」
この隠者はわざとふざけているのか、私には引っかかることを言う。
「そうなかあ。どうも納得できないですよ。だって夢だって時間の流れは一緒でしょ」
「とんでもない。だって夢というのは脳内だけで進行するわけですよ。現実的な動きはないのに、空を飛んだり、人と話すような経験ができるわけでしょう。それも神経回路は電気信号です。これはコンピュータと何が違いましょうか。だから時間はほぼ無限です。ただし脳の処理機能に障害がある場合は有限の時間となります。」
上手いことを言う、と私は思った。
「何か上手く言いくるめられたけど、確かにそうだね。実体験ってのはその場だけだから、それを記憶する装置も脳の電気回路だもんね。思い出ってのは、脳のハードディスクにしまった電気信号かあ。味気ないような、言われてみると納得できるような」
「物理的な回路をイメージすると難しいでしょう。こう考えましょう、脳の電気信号は、先ほど言った交差する多次元のネットワークにつながって処理されます。二次元空間と三次元空間の情報量の違いは2+1程度はないでしょう。そして物理学的には四次元に縛られれる必要はない。多次元の空間で処理させればいい。肉体や現実の空間はデバイスであり端末機器でいいのです」
「ずいぶん割り切ったね。私は、いえ、私たちはそうはいかないな」
「生物は、どんな環境にもいずれ慣れるものです。そうでなければ絶えるしかない。」
これ以上の考察は無駄なようだ。
「ここが別な宇宙の生命が栄える星だとして、私には違和感があるな。夢だからなのかな。この環境が人工っぽく見えるのは?」
「人工?そう見えるでしょうか。しかし見ての通り、いわゆる科学文明らしいものは何一つありません。何か、人工、人による工学的な物体がありますか」
なかった…、確かに見渡す限り普通の野山である。そこが怪しいのだけど、あれ、うまく伝わっていないかな。わかりやすく説明っと。
「みかけは自然だけどね。不自然に見えないように、精密な管理をしているのじゃないのかな?例えば、あの空の凄い速度の雲だって、何か科学技術で管理しているのでしょう?」
「そう。あの上層大気は、コントロールはしていますが、作り出したものではありません。コントロールと言いましたが、安定な環境を作り出すのは、長い年月と苦労がありました。ただ気体・流体のコントロールはそれほど難しいものではありません。ただ一定環境を作り出すときは安定させるまで時間がかかった聞いています。なお、ここにはいわゆる春夏秋冬はありません」
「そりゃまた、風情がないわね」
「生命が安定して継続するのに、風情はあまり重要なファクターではないのです」
私はぷっ、と思わず噴き出した。
「あらら、環境団体や芸術家たちが聞いたら激怒だね」
「安定した生命が継続して営めるのに、反対する人がいるなんて、おかしいですね」
「う~ん、そうだねえ。でも四季がないということは、自転の回転が公転軸と一致しているという事?」
「そうではありません。それには膨大なエネルギーが必要です。いえ、太陽からのエネルギーは高層大気で受け止めた後、先ほどの高速の雲の熱拡散によって各地域に分配しています。どの面で太陽光を受けても、均等に地上に降り注ぎます。そのための高層大気コントロールです。」
「なるほどね、面白いね」
「それに太陽からの光を直接浴びることはリスクが高すぎます。地球のように直接体をさらすなんてことは非合理的ですね」
さっきも、わざわざ地球を区別していっていたな。質問してほしいのかな、と思った。よし、期待に応えてあげよう。
「ここは地球じゃない別な宇宙だと言っていたけど、未来の地球とかじゃないの?」
「違います。別の宇宙の天体です。地球の存在する空間とは別ですから、具体的にどこかを答えても意味がない」
「へえ。やっぱり恐るべき科学文明なのね。でもあの高層大気は何であんなに嵐なのに、青くてきれいだね」
「あれはメタンを主成分とした高層の大気なのです。あの大気と、今私たちの吸っている大気では、成分も濃度も違うのですよ。地球の大気構成とは大きく異なります」
「まあ、そうかもしれないけど。とりあえず高層大気はメタンかあ!?それであんなに青いのか」
「高層大気は、我々の生命を守ってくれます。宇宙の冷たさや、恒星からの紫外線、宇宙空間に漂うごみやチリ、隕石や彗星・・・。それらから守ってくれているのです」
「じゃあ、相当厚いんだね。うまくできているな。確かに、大気が厚ければ少々の隕石でも大丈夫か。」
「残念ながら、完璧ではありません。以前、木星に落ちた隕石を観察したことがあったでしょう。あれは地球一個丸ごと入るようなアザができたはずです。まあ木星があまりに大きすぎて、大した影響はないです。相対的な問題ですね。」
「それにしても厚い大気で保護か。それに比べると地球の大気は透明すぎるかな」
「そうですねえ。私たちから言わせれば、宇宙の中にサランラップ一枚で保護されているような感じですね。1000年オーダーであれば問題ないですが、1万年オーダー、1億年オーダーではリスクが大きい、いやいやこのことは地球の学者さんもご存じのとおりです」
「あなたたちの文明も、昔はそうだった?」
「もちろんです。私たちは様々な事象を体験してきました。あなたたちも同じでしょう」
私の知識の限界なのだろうか。このあたりの勉強不足ってことかな。
「上手くできてるね。この暖かい気温は、大気からの放熱だけなの?」
「残念ながらそれだけではありません。核回転による回生エネルギーや放射性元素を崩壊熱も利用しています。ほぼ無限と言える熱源です」
「なるほど、作り出すだけではなく、自然の回転を使うわけか。確かに自転と公転はほぼ無限だもんね」
「そうです。改めて作るより現在あるものを利用する方が効率的です。多次元ゲートを使えば、恒星のエネルギーを抽出することも可能ですが、我々はつつましい。惑星の核の熱量だけで十分なエネルギーが得られます」
「でもそれを利用できるようになるには相当の科学技術が必要だよね」
「そうですが、地球の科学でいずれ実行可能でしょう。理論さえあれば工学の問題です。ただ必要に迫られるまでは手を出さないでしょうね。イキモノというものはそういうものです」
「難しいなあ。それより、大気は重要ですよね。金星だって二酸化炭素で生きるバクテリアやちょっとした生物がいてもおかしくないもんね。でも地球の人は、人類は宇宙の中でオンリーワンだというのが最近の通説だし。100年続いたSETIも結局あきらめてしまったし。」
「地球の人類の歴史は数千年。科学文明がざっと500年位。宇宙に飛び出てからはわずか100年。宇宙の年齢と広さを知っているあなた方が、前半の百億年以上の間文明が栄えないと考えることが、ナンセンスでしょう」
「うん。改めて考えると1億年ってすごい時間の単位だよね。100年×100万回だもんね」
これって夢なのだよね。私は少し心配になった。とはいえ、現実ではない。昨日は合コンなるものにはじめて参加して、久しぶりにちやほやされて舞い上がっているのだろうか、もうこれはいいや。でも話としては面白い。美しい自然の中で、穏やかに話すことができるのは、安心できる。ここは質問を楽しもう。
「この大地は、人工の物なの?いやいや人工ってのはおかしい言葉なんだっけ、自然のままで手を加えられていない?」
「生命が作り出したものです。確かに地球のように多種多様な生物が作り出した土壌ではありません。多様性が生態系のベースだという概念は実は正しい状態とは言えません。すべての生物は環境に合わせて、自らが進みたい方向へ進むものです。誰かに羽を与えられて飛んだ鳥はいない。羽がほしくて、必要だから作り出したのです。そして絶滅にも意味がある。人工とか自然だとかは、人間が自分の目線にこだわったエゴともいえるでしょう。すべては時間と自ら決めるのです」
「う~ん、今私の世界でそれを言うと、袋叩きだね。」
「絶滅種は環境の変化や自らの進化を進めなかった一事例です。地球の皆さんが絶滅云々で盛り上がるのは、自己満足です」
その時、目の前を不思議な物体が横切った。私はわっと言いながらそれをよけた。
「なにこの、白くてふわふわしているもの」
「触ってみても大丈夫ですよ」
「生き物ですか?これ」
何かの綿毛がおおきくなったような、不思議な浮遊物だ。生き物のようで、だの綿の塊の用でもある。意思が無いような気もするが、まるで意思のあるように、あちこちに動いているものもある。私はおそるおそるつついてみた。突いたまま指が刺さる。引き離すとそのまま指の跡がついたが次第に元に戻った。軽くつかんでみるとふわふわで、湿度のないゲル状の軟質物であった。パンを焼く前の小麦粉の塊のようだ。でも軽く引っ張ってもそのうち元に戻っている。
しばらく戯れて遊んだ。
「これに名前はありません。名前がないのには一つ一つに重要な意味があるからです。これは人と植物と無機物の中間に位置する生き物です。ある意味、究極の生命体です。この星、この宇宙で最も自由な生き物といってよいでしょう。自分たちの意思でどこへでも行くことができます。いわゆる人としての意思はありませんが、日当たりが好きなもの、冷たいところが好きなもの、いろいろある。」
そのあと、この物体は質量がゼロだという驚くべきことを教えてもらった、酸素も窒素もいらない。ここで生活するものは自由に元素を配置して物体の形を作っているとのことだった。つまり宇宙空間では別な形態で存在することができる。こう聞くとあまりにばかばかしい。彼らの言うことをうのみにすればわずかな電力によって元素や分子レベルの構築が行えてしまう。物理学では一つの電子を引き離したりするのに途方もない電力や大規模な設備を必要としているというのに。彼いわく、それは通過点とのことだった。トンネルやどこでもドアのように空間と次元を使うことで、物質科学は革命的に飛躍する。本当だろうか。
私たちは丘を降りきって、草原の中を歩く。気温が適切なので不快感はないが、風でも吹けばいいのに、と思った。そう、素敵な丘には風がつきものだ。それを口にすると、彼のコメントはこうだった。
「風はありますよ。ただしわずかです。毎日暴風雨が吹いていれば慣れてしまいますが、私たちには風は感じられます。正確には風というよりは気圧の微量な差ですね」
「土の匂いがないのも、違和感があるね」
「わずかだからです。地球の土壌とは少々異なりますからね、ええっと、地球で言うジオスミンと言った菌類起源の匂いはしないはずですね」
私は周りを見渡した。そよとも揺れていないように見える。でも、慣れればきっとわずかな大気圧差を感じられるようになるのかもしれない。人間は外から来たものを受け入れない本能があるらしい。同じに近親者を過度に受け入れない本能もあるとのことだ。そういう遺伝子レベルも彼らは調整しているのだろうか。理想的な生命体なんて、不自然でナンセンスだと思うのだが。私は考えないことにして、疑問を口に出してみた。
「あなたたちのような知的な生命は食料は何を?」
「栄養の取り方という事ですよね。生命の形態によって異なるものが必要です。例えば先ほどの名のない生命体ではわずかな電気エネルギーですし、炭素有機体であればあなた方と同じように食事をとりますよ。。この家に入っていましょう」
振り返ると、いつのまにか私たちは家の前に立っていた。単純に夢だから何でもありなのか、それとも彼らの得意な多次元空間なのか。
「誰か、知ってる人の家なの?」
「お互いを知る、知らないという概念は存在しない。知識は外部に共有されています。簡単に言えばお互いをすべて知っています。」
私にはその言葉が理解できなかった。考えている間に彼は家に入ると出てきたおばさんと話をして食べ物をもらって出てきた。
「ここに住むものは、皆友人で親しい知人なのです。知らない人でも、同じなのです。食事が必要であれば、だれでも提供してくれる。そして誰かが訪れれば、同じように提供してあげる。だれかが損をすることのない世界なのです。」
私は呆れた。理想的な社会主義?ばかばかしい。おとぎ話のようだ。夢にもボロが出てきたか。
「なんか、現実離れしてるなあ。夢でもちょっと興ざめだね。自分の食べる分がなくなったりしないの」
「そしたら、お隣に行けばいい、今日はたくさん友人が来たので、食べ物がなくなってしまった、ご馳走になってもいいかな?そうすれば、たっぷり食べられますよ」
「それは、理屈だけど。食べてばかりいる人もいるかもしれない。」
「そうですね。そんな人もいるかもしれません。はるか昔には、そういう人がたくさん居たそうです。でもここの人たちはそういうことはありません」
「どうして?」
「そういう考えの持ち主だけが生き残ったのです」
「わからないな」
「長い年月の間、そういう人たちが生き残って出来た世界なのです。食べるだけで、何もしない人はやがて居なくなったのです」
私はあきれた。道徳のおとぎ話でも出来が悪い。
「淘汰ね。実は排除したってこと?」
「そう言った方が正しいかもしれません。ただし力づくで排除したわけではない。そういう遺伝子は生き残らなかった、と言うことだけです、進化ですよ。絶滅する種には理由があるものです。」
「本当?平等主義者が聞いたら激怒ね」
「地球の生命形態に平等はないですねえ。まあ無いものをねだる気持ちはわかります。彼らは主張するために主義を作っているようで実に興味深い。しかし私たちは相当の犠牲の上に平等があります。もし、この世界に異端な方、地球で言う犯罪者が現れたとしましょう。毎日誰かの家でご飯を食べ、物を盗む、乱暴する。でもいくらそうしても、その人はこの世界ではその人だけで終わるでしょう。決して子孫は残せない。いえいえ、ここの人たちが子孫を残そうと言うことで生きているわけではありません。とっても優しい人たちなのです。完全なサイクルの中で生きているのです。」
「そんなことが可能とは思えないな。」
「しかし進化の過程はこういう結論に至ったのです。地球に住む人たちはまだ生物としての淘汰がなされていないかもしれません」
「ふふふ、失礼だな。地球は原始人の住む星だとでも言うの?」
「とんでもない。でも、進化は様々です。その仕方に高い低いはないでしょう。幼年期の終わりというものは、突然やってこないのですよ」
「アイザック・アシモフね?発刊された時は相当ショッキングだっただろうなあ。少し差別の匂いのする小説で、私は好きじゃなかったな。アシモフはきっと完成した生命の形へ憧れを書いたのだと思うけど、進化した生命体ならもう少しアプローチが上手じゃないかな、とか思ったりしたね。それにあの時代の社会的に恵まれた支配者階級と、恵まれない貧困層を欠いているような気がして好きじゃなかった」
「地球には様々な生物が生まれは消えていきました。アノマロカリス、三葉虫、魚類、恐竜、かれらはまとまった生態系を作りながら1億年以上の年月を過ごしてきています。手先が器用で考えるのが得意な生き物は人間だけで、大いに文明が爆発しましたね。項目が違えば、生命の爆発はそれ以外の時期にもあります。カンブリア紀の脊索動物だったり石炭紀の植物だったり。人型生物にも一億年の年月が与えられているかもしれない。長い年月にはいくつかのチャンスがあった。やっと人間の出番かもしれませんね。」
「そうだね。過去の大量絶滅の確率は、数億年に一回くらいでしょう。人間にも白亜紀が5500万年で終わっていたとしても、あと4500万年の猶予があるかもしれない。」
「そしたら4500万年後、どのような人間が生きているでしょうか。そのころになっても、戦争やいがみあいがあるのでしょうか?それとも戦争が起こって、人類は絶滅?それとも銀河を制する帝国を作るのでしょうか」
「それは幼い文明への皮肉?」
「そんなことはありません。私は結構、地球のSFのファンですよ。面白いのは科学技術が進化した未来の世界でも価値観が現在と全く同じ、というところです」
そういって、彼女はくすくすと笑った。あれ、彼女だっけ?彼女はつづけた。
「あなたの求める人間の理想は何なのでしょうね。私たちも同じように、悩める幼年期を通過してきたのです。そして異なる世界を切り開くことが出来ました。あなたたちはどうするのでしょう」
もう、夢に酔いそうだ。
場面は転換して元の草原の丘に戻った。
「あなたたちは、どれくらい生きているの?地球の人類の歴史は5000年くらいとするとプラス5000年かな」
彼女は少し困った顔をした。全然外れているのだ。
「全然違うって感じね、じゃあ1億年?そんなことあるわけないか。100万年」
「違いますね。3億年です」
「はあ?冗談でしょ?」
そんなばかな、と耳を疑った。3億年!?100万年でも冗談なのに。今私たちの人類はおよそ5000年。5000万年ではない、5000年なのだ。それが3億年になるには6万回くり返さなければならない。ましてや文明が発達してからは数百年だ。この加速度で3億年後、恐ろしいほどの科学技術が発達していてもおかしくない。ここまでの話では恐るべき科学技術を持っているはずだ。3億年ともなるとどれくらいの進化があるのか、見当もつかない。しかし高度に発達した技術は魔法にしか見えないそうだし、ここまで見た物が現実だとすれば、あながち間違っていないのかもしれない。
でも夢なら、納得はいく。せっかくの夢なのだ。楽しい方がいい。3億年の英知を教えてもらおう。私の夢が私に挑む発想の豊かさ勝負、ってところだろうか。
「さっきの食べ物はごく普通だったけど、ここで作っているの」
「もちろんですよ」
「食べ物はだれが作っているの?」
「基本的には自分ですね。物々交換のようなシステムはありません。」
あまり面白くない回答だと思った。質問が悪いか。それにしても、必要なものだけ作るなんて、そんな上手くつじつまが合うだろうか…。今の人類でこんなことを言ったら笑ってしまう。もうけを利害視して、気候を完全にコントロールできれば、それもあるだろうか。すこしカマをかけてみよう。
「でも農作業なんて、力仕事だし、大変だからできれば誰だってやりたくないでしょう。もっと楽なお仕事のがいい、ってみんな思わないの?」
「思いません。食べ物を作る仕事は確かに大変ですが、皆の役に立ちますし、喜ばれます。なにせ生きるためには必要だ。やりがいのある仕事ですよ?皆も協力してくれます」
「生きがい?そんなことが?まあ確かに農業は私たちにだって大事だけど。それは奇麗ごとよ。そんな科学が発達していうのなら食べることよりも大事な使命とか、なんかあるでしょ。」
いけない。ちょっと混乱しているだろうか。でもそうだ。人類の進化した形がおいしい野菜でいいはずがない。しかし彼女は思案することもなく答えた。
「おかしいですね。生命の進化にあなたはどんな回答を求めているのでしょう。もちろん、私たちの中でも重力場の研究や素粒子特性の解明は誇れる成果です。でもそれと、個体の生命価値は何の関係もないですよ」
「じゃあ、せっかく究極の文明なのに、ただ、こうやって地上の暮らしをしているわけ」
「そうしたいモノはそうしています。誰も口をはさむ余地はないですから」
「そりゃそうだけど。面白くないな。」
「このあたりでは農業で生活しているひとが多いですね。最も地球に近い環境です。そのほか裁縫をする人、靴を作る人、狩をする人、天気を見る人、時間を知らせる人、必要なことは誰かがやります。町に行けば、美味しいものを作る人やいわゆる医師もいます。ただ、医師の仕事はあまり多くないですね」
「病気がないとか?」
「そう。いわゆる手術、という行為はありません」
「じゃあ、何をするのが医者なの?」
「遺伝子上の異常をチェックすることですね。3億年の遺伝子は伊達でないようで、いわゆるウィルスによる病は無いですね。」
「事故で大けがをしたらどうするの」
我ながら馬鹿げた質問だとは思ったが…。
「丸ごとチリに消えなければ再生は不可能ではありません。しかし、あなた方ほどではありません。この数千万年、大きな病で死んだものはいません」
数千万年だって!??夢で勘定を間違えたか
「戦争や殺人ってのは?事故とか」
「地球で言うような戦争は2億年以上前です。我々の先祖の創世記の数千年以内には、何度か大量絶滅に近いことをやっています。これはあなたも容易に想像できると思います。そのあと、小さな紛争はありましたが、1億年たったころには戦争はなくなりました。それを起こしても無駄なことに1億年かかったのです。悲しい話です。」
「それくらい、かかるのかもしれないね。」
地球だと、あと9999万5000年かかるのか…。世代などというレベルではない。私は暗い気持ちになった。私は焦っているようだ。自分の夢に焦るなんて、なんて滑稽なことだろう。
「あなたは、皆なかよく思いやって暮らしていると言ったけど、いがみあったりすることはないの?あいつは働かずに食べてばっかりだ!とか、あいつはなんとなく気に食わない、とか」
「そうですね。その嫉妬やねたみという感情を捨てるのに、2億5千万年かかっています。今から数えた方が近いですね。5千万年位前にそういう感情は捨てられました。」
「そんなに!」
私は思わず素っ頓狂な声を出していた。あまりにバカバカしくて。でも彼は感情を捨てているだけあって冷静だった。
「私の言い方が悪かったですね。嫉妬やねたみと言う感情を克服したのです。正確には、そういう感情を持つ人の遺伝子は、ここまで残れなかった、ということです。」
夢とはいえ悪質なほど理想論だ。私は気持ちが悪くなった。ついでにもう一つ気持ちの悪いことを聞いてやるべきだと思った。宗教だ。
「宗教は、遺伝子的に生命のコントロールができたころから徐々に廃れました、今でも物語として神話などが読まれることはありますが、それ以上は特に。やはり宗教は苦境な時代に集団を治めるのには向いているのでしょう。私たちのように、恵まれた環境の中では宗教はあまり必要がないのでしょう。お互いを信じることが出来ているのに、どうして物語の登場人物や偶像を信じる必要はありませんからね」
「そう。今の宗教家が聞いたら目をむいて怒るな。きっと」
「お互いが理解するのは、やはり難しいのです。それには整えられた環境が必要なのでしょう。われわれは幸運にも生まれたときからそれがあったのです。先人に感謝としか言うことが出来ません。」
そうかもしれない。宗教と紛争は紙一重のところにいつもある。
私は、あることをふと思い出した。これも人間には欠かせない、悩みの種だ。
「じゃあ、恋とか愛とか、誰かを愛さないと人は子孫を残せない。でも恋や愛は嫉妬を生むでしょ。それはまさか克服したなんていわないよね」
愛とか恋を苦手としている私が、何を口走っているのだろう。大村に笑われそうだ。でも彼はもういない。
「はい、それはもっとも削除の難しい感情の一つでした、でもやはり5千万年前にそれを克服しました。やはり遺伝子のコントロールができ始めた時代ですね。生命がコントロールでき、子孫を作る必要がなくなると、徐々にその感情もなくなっていきました。今、ここに住む人たちは慈愛に満ち溢れています。恋や愛はじっくりと成就します。もし誰かを愛していて、その人が誰かに愛されることになれば、その人は、相手の幸せを心から願います。」
そこで彼は口をつぐんだ。そう確かに彼だ。私は先を促す。
「…で?」
「それだけです」
ほら、ばかばかしい。やっぱり理想論だ。夢の中ではこれが限界かもしれないが、もっと面白くならないだろうか。やっぱり彼女の方がいいだろうか。しかしそんなことはありえない正直、白ける。
「うそでしょ」
「感情を一気に燃えさせるようなことは、一切ありません。」
「できるわけない!」
「そうですね。あなたが理解できないのは当然です。でも残念ながら一気に燃え上がるということは理知的でないのです、ナンセンスなのですよ。地球の恋の仕方がおかしいとは言いませんが、生命が安定して存在するという点において、不条理なのです」
場面が転じるように、彼女が優しく話す。、同情するでもなく、あおるわけでもない。
「感情の呪縛から脱却するのに2億5千万年かかっているのですから。私たちは、確かにあなた方のように勇気に震えたり、熱い感情に我を忘れたりすることはありません。でもあなた方にはない安定さを持っています。こうしていられるのは先人のおかげでしょう。きっといろいろ数え切れない苦難の道があったのでしょう。それに戦い抜き、情熱に心を燃やし、愛と恋に心を焦がした祖先を感謝しています。彼らがいなければ、私たちもいなかった。」
どこかできいた言葉だが、思い出せなかった。私はそれを振り払うように、次の質問を思い出した。
「ね、芸術はどうなの?」
「ああ!その質問には失望してしまうでしょう。ねたみを知らず、人とお互い思いやれるような人間に芸術の炎を燃やすことが出来ると思いますか?」
「廃れてしまったの?」
「はい。残念ながら、芸術らしいものは、すでに1万年以上前から廃れはじめました。今は都市の図書館でのみ、過去の遺産として見ることが出来ます。でも、あまり訪れる人は少ない」
「どうして?」
彼女は私の目を見て、肩をすくめた。考えても見てください!というように。
「必要ないからです。今を生きるのに充実しています。それに満たされているのです。いえ、誤解しないでください。楽しみや趣味がなくなったわけではないのです。お祝い事の日には、我々も歌ったり踊ったりします。それに絵が描きたいことは自分で絵を描きます。音楽が好きな人は、自分で音楽を作ったり、演奏したりします。それは非常に楽しいのです」
「そうか、なあ。自分のために書くのが原点なのか」
「そうです。おかしいでしょうか?」
「え、いや、どうかな」
私は慌てた。どうなのだろう。私はそういう才能はないようだが…。今の時代、芸術家は競って発表する。奇抜ならそれだけでアートだともてはやすし、他の分野でも有名なだけでその作品は売れる。お金になると回りも一段と騒ぐ。芸術家はお金を手にする。お金のために作るわけではないとしても・・・。目的は名声なのか?作曲家、作家、画家、舞踏家、皆何のために書いたり、歌ったり、踊ったりするのだろう。芸術とは、何なのだろう。お金を得ることが目的なのか、名声を得ることが芸術の目標なのだろうか。じゃあもしお金を得ることが全く必要なくなったとき、名声を得ることが無くても満たされた生活が送れるようになったら、その人は芸術活動を続けるのだろうか。
音楽や美術に関しては宗教の影響が大きいことは、歴史を見ればわかる。しかし宗教が廃れても真摯な音楽は歴史にのこり人の心を打っている。ここに住む彼らは必要に応じて、自分たちの歌を、自分たちのために歌う。19世紀、ベートーヴェンの音楽は、様々な人に感動を与えた。ベートーヴェンの叫びはその時代の叫びであり、渇望の声であった。だから偉大な芸術である、そう聞いた。しかしそうだろうか。彼の音楽の本質的な部分はその時代の叫びであり、今の時代の叫びではない。そして、渇望の声は、彼の個人のものであり、私のものではないのだ。強烈な彼の音楽は私の叫びであると誤解してしまうくらい没入させられる。何も考えずに彼の音楽に浸ることで、彼の叫びは私の叫びだと思ってしまう。実施のところ、20世紀の映画やテレビ、インターネットは混とんとした時代に様々な主張を盛り込み、感動し、泣き、怒り、笑う。人はこれを受け入れそこに充実を感じた。お金を払って競って多様な感情を得ようとした。お金さえあれば充実した刺激を受け続けられるから。お金がほしい。こんな刺激が全て無になったら、人はどうなるか。刺激を求めて暴動を起こすだろうか。この思考は今を生きる人として、失格なのかもしれない。人の心の叫びを自分のものにしなくていい、そういう世界が、私にはとても存在するとは、思えないが、ここにはあるのかもしれない…。少し不思議な世界だけど、なんとなく懐かしいし、安心できる。
私が落ち着いたのを感じているのか、彼女は話し始める。
「私たちの最も苦労して捨てきれなかったのは、区別することです。あるいは差別、ただしこれは悪い意味合いがありますね。私たちは、差別する必要が無くなるまで。つまり皆等しく均等にならないと完成しない。でもそんなことって、あり得るのか?ってことです。」
「差別…、人種差別とか」
差別、いやな言葉だ。そこには憎しみがある、妬みがある、呪いがある。喜びや安らぎとは反対にある言葉の一つなのだろう。でも区別はそうではない。彼女たちはそこも区別しているのだろうか。
「差別。もっと汚い言葉もありますよね、蔑視とかね。でもそういう排除の感情をするのは非常に困難です。根っこにあるのは、自分たちを特別で、まとまったグループが形成されていることなのですが、この意識を捨てるのに一番時間がかかりました。私だって、たまにそんなことを想います。あなたたち地球の棲む人たち、私、それ以外の構成物。同じものからできているけど少し違う。それを私たちはいつも取り払いたいと思ってきました。3億年の大半はそこに費やされていたのです」
「で、達成できたの」
「かなりできました。私たちは、生物学的な遺伝子構造をすべて解明しました。見にくい感情を排除するのにこのアプローチは少しおかしいと思うかもしれませんが、聞いてください。実際には遺伝子構造は、二重らせん構造の組合わせだけではなく、さらに1つランク下のたんぱく質の構造にもパターンがあり、複雑な組み合わせ情報が仕組まれていたのです。そこまでの解明をすべて行った結果、生物における生死を無くすことができました。しかし、それはいわゆる地球の人の言う人間らしさを捨てることになりました。生命に限りがあるからこそ生き甲斐があり、生命の誕生があるからこそ、愛情が芽生える。争いがあるから興奮があり、喜んだり悲しんだりします。しかし生命に限りがなかったら。それらは必要ありません。安定した生を得ることができるのに、何か一つでも焦ることがあるでしょうか。この遺伝子技術はそれを開発した生命体にとっても達成することに対する恐怖がありました。最後の戦争はこれが原因です。遺伝子操作に絶対的に反対する人々と、恐怖を克服し新しい生物へと進化を求める人々です。残念ながら、争いとなりました。もともと電子制御されていた人々と通常の人々は同じ都市で暮らしていましたが、過激な自然派の人々は、そうですね。わかりやすく言えば、サーバーのコンセントを抜こうとしました。実際一部は電気的にバックアップが取れずに消滅したりひどく不自由になったりしました。自分の記憶領域を別な場所にバックアップする方式していた方は、自分のすべての記憶を一瞬で失ったりもしました。初めて進化派と、温和な自然派で協力し、過激思想を一掃しました。その後戦争は起こっていません。私たちの得た最後の結論は、お互いに干渉しない世界に分かれるというものでした。生命が分化してきたように、私たちも分化することになったのです。分化というものは後戻りできないとともに、未来に融合することもありません」
私は呆然と聞いていた。彼女の言葉は耳に入ってきて私の脳は言葉を処理して理解に努める。彼女は恐ろしいことを述べている。これは現実なのか空想なのかはさておき、簡単に受け入れることのできない重い話であることは間違いない。
「それは、悲しい出来事だね。同じ種族がそんなふうに決別するなんて。」
「はい。しかしそれぞれに進みたい方向に進めます。良い事であったと思うことにしています」
私は話を切り替えることにした。この話は簡単に受け入れられなかったからだ。
「ここでは夜はやってこないのですか。」
「夜と昼の活動を解消するのは、あまり難しくはありませんでした。ここでは一時的に暗くなることはありますが、真っ暗と言うことはありません。おそらく休息の事を問いたいでしょう。必要に応じて休みます。ここでは誰かが休んでも他人に支障が出ることはないので、自由に休息を取ることができます。この土地には難しい規則はありません。ただ自らの意思に従って自然に調和して生きることが大事なのです。主義や主張は必要ありません。暗くなったから寝なければいけない、と言うことはないのです。労働をして、あるいは何かたっぷり遊んで疲れたから、体を休めると言うことが大事なのです」
確かにこの土地の気候は極めて穏やかである。私は風がないのを不自然に思っていたが、ここにいたって、風というか大気の動きを感じることができるようになっていた。風がないわけではないが、ごくわずかに大気が動いている。水蒸気の動き、水分子の動きは確かにある。しかしその変化はごくわずかで、注意していないと気付かない。この土地こそは、理想郷で、桃源郷で、世界の果てなのだろうか。
「私は、あなたたちみたいに悟れないよ。私はこんな世界を信じることができないな。羨んでいるだけかもしれないけれど。あなたはなぜ私に会いに来たの」
彼女は優しく言った。
「文明の進行具合やどのような生命の形態をとるかは、この宇宙であまり意味はありません。生命の数だけ、好きな形があればいい。お互いに干渉するもしないも自由ですよ。しかし、あなたが今住んでいる地球の人たちとは、大きく異なる一点は熟成した公の心を持っているかなのだと思います。」
「公の心・・・。」
「はい。私たちは長い年月の中で、それを優先することが、もっともうまくいくことを学んだのです」
公の心か。私はダドリー先生に聞いたことがある。今まで、忘れていたが思い出した。
― 僕らの仕事は国のためでも、人類のためでも、電力会社のためにやっているわけではない。すべて公のために考えたり、研究したりしているんだ。それは僕たちがエネルギーとして使ったものの、責任をみんなで取ろうというのだ。俺はいやだ、俺の土地はいやだ、では何も始まらない、と思わないかい?皆で考えることが重要で、一つのベクトルを向くまで諦めちゃいけないんだ。
「あなたは、何?何のためにこの夢はあるの?」
「私たちも同じ生命ですよ。ただ現在の私は炭素性化合物からできていはない」
「ケイ酸塩化合物の生命体とかもあり?でも有機物を構成しないと生命にはならないと思う」
「そうでしょうか。炭素有機体生命型生命は神経細胞の電気的活動がベースですよね。筋肉を動かすのは電気だし、神経細胞を働かすにはやはり微弱な電気の活動です」
「そうだけど、じゃあケイ酸塩鉱物も電気的なやり取りができれば生命だっていうの?鉱物人間?」
「ありえないでしょうか?あなたは手計算でないと計算とは言えない、と言ってコンピュータを排除しようとするのと同じことを言っていように思えます。」
「話をすり替えてる!ありえないよ。鉱物は自分で動いたりしない」
「そうでしょうか、地球は豊かな地殻活動をしています。地質は海で形成される。バラバラだった砂粒は結集し団結して岩石となる。そして隆起活動で何千メートルまで上り詰めるものがいる。転落する。河川の下刻で崩れる。川にたまった石達は、転げまわって小さくなって、また海に戻る。すばらしい輪廻ではないですか。」
「それは生命ではないよ」
「輪廻するだけでは生命の定義にあてはまりませんか。」
「そうだよ。人は考える。選択する。無から何かを生み出すから素晴らしいのでしょ。それに感動したり、泣いたりする。そして生命には目的があり、使命がある。それが人間だよ。鉱物や雲形人間にそんなことは出来ない」
「ふむ。そういうものを人間と定義するのであれば、私たちは人間ではないですね。私たちは物質の変移、相互作用について解を得ることができています。私たち自体は構成物の鎖から解放しました」
「言っている意味が分からないな…。じゃあなたは人じゃあないの」
「いえいえ、人です。だって、人でしょう。けがをすれば、倒れます。遺伝子的には完璧に制御できていますから病気という単語はなくなりましたけどね」
「実在しないとか」
「いい質問です。実験が大事でしょう。触ってみて」
「ある。暖かいし、普通だ。」
十分に差がある科学文明はマジックと同じ、と言われたことがある。でも本物に思えた。
「あなたは、夢であることを忘れている。私は、あなたをだましました。今、神経細胞を伝わる電子を操作して、私に障り、肉体が暖かいという信号を受信させたのです」
彼女は笑った。うそだ。私は絶句した
「すべて自由とはいきませんが、私は物質的に自由なのです。素粒子と次元を自在に扱っていると思ってください」
「不変なものなど何もありません。複数の次元を開放して使用することができれば三次元の素粒子を自由に扱うことは可能です。そう、地上の交通機関が地下や空を使えるようになることで、これまで想像できなかった飛躍があったでしょう。四次元世界に棲むことは出来ませんが、利用することは出来るのです」
そうかもしれないが、それをすることは普通の科学では無理だ。まさかとは思うが、これこそ未知との遭遇なのか。そんな生命がいたら、隠し事は一切できないのではないか。思考を乗っ取られたりすることだってあるのだろう。
「そんなことはしません。私たちは、あなた方の人生に興味をもちません。古風な思考であれば宇宙を征服するなんて野望もあるのでしょうが、宇宙を征服することは必要ない事を知っています。誰も脅かさず、だれからも脅かされないのであれば、争いは必要ない」
そうだった。彼らはそんな感情を自分の意志で捨てた生命たちなのだ。生命の存在理由、なんて意味がないのだろうか。私にはとてもそう考えられない。地球に住む人間の殆どは同じだろう。
「生命の誕生に目的があったでしょうか。生命が最初に生まれたと時に使命感を持っているとは考えませんよね。あなたたちの祖先、類人猿の時に使命を携えていたでしょうか。もっとも、今の地球の人々のように人間が生命を全うするために目的はいるかもしれません。しかし目的があるから人が生まれてきたのだ、などというのはとても高度な生命体の言葉とは思えません」
「だって、悲しいでしょ。何もないのに生まれて、何も残さずに死んで行ったりしたら」
「生命に限りがあるから、人は成果や目的を持ちたがるのかもしれませんね。もし、生命が無限に続くことがあったとしたら、そのような目標は必要なくなる。植物は悲しい、鉱物類も悲しい。地球や太陽の存在も悲しいと皆さんはおもっているわけではないはず。人もその一部です。その存在価値に尊卑はない。でも、もっと踏み込みが必要です。その答えは一人一人ではなく、一種類の生命体としていずれ回答を得るでしょう。」
私は決定的な一言を踏み出そうと思った。お飾りの言葉ではだめだ。生命は継続することを目標にしている。それは悟った文明だろうと課題のはずだ。絶対逃げられないのだ。
「でも!あなたたちだって死ぬでしょう」
「死ぬ?生命体として終わりを遂げるということでしたら、もちろんそれも可能です」
可能って何?、なんて間抜けた答えだ、と私は思った。
「生命としての終え方を決めるのはその生命自身です」
「あなた、何を言ってるのかわからないよ」
「そうですねえ。実例をあげましょうか。私たちは電子に依存して空間的にかなり自由です。なので、こうやってあなたの脳に語りかけることが可能です。しかし誰でもというわけにはいかないのです。そして、あなたはその特異な事例なのです。これがあなたのにアプローチした理由です」
続く