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天国の月  作者: 羊野棲家
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第1章 春の公園で最後の桜が咲くとき

1 春の公園で最後の桜が咲くとき


浦河では、西北西の風、風力9、にわか雪、1002ヘクトパスカル、氷点下2度。

根室では、西の風、風力5、曇り、997ヘクトパスカル、氷点下4度。

ウラジオストクからは入電ありません。

ウルップ島は、西の風、風力5、曇り、1001ヘクトパスカル、氷点下14度。

パラムシル島からは入電ありません。

長春では、風向・風力は不明、快晴、1022ヘクトパスカル、氷点下15度、・・・。


 今日は、ウルップ島からの入電があったのか。珍しい、というより初めて聞いた。ウルップ島は千島列島を構成する島の一つだ。択捉島の向こう側にある大きい島だ。気象通報を聞くと私は、なんとなく気持ちが落ち着く。いつも気象通報を聞いているわけではない。夜10時ごろ帰宅しており、ふと思い出したときだけ聞く程度なのだ。


 私にとって未知の世界である北方を想うのは楽しい。ウルップ島より北には、旧ロシア領であるカムチャッカ半島まで無数の島がある。この地は、地球の中でも地殻変動の激しい場所で火山が多い。火山によって地形が改変されることが多いので、植生は樹齢が短く、深い森は存在しない。しかし島々は、美しい緑色に覆われている。人の姿はなく、道もない。


 湯方涼音は、ラジオのスイッチを切った。そして窓を開け大きく息を吸い込む。大気は、少し湿り気を含んでいる感じがした。やっと春が来たのだろうか? この匂いは初夏を感じさせて、とても気持ちがいい。外へ出てみようと涼音は思った。

 北陸国立大学若月台職員寮と書かれた門を出て、近くの駅に行く間にあまり高くない丘陵地の斜面に張り付いたような小さな公園まで歩く。涼音はもうすぐ寝るつもりだったため、スウェットスーツにカーディガンを羽織っただけであった。涼音は風を感じた。その風には、わずかに南方の温かい匂いがする。この風はどこから来たのだろう、南鳥島?それとも大東島だろうか?


 少し強い風が、涼音の長い髪を舞わせた。もう一枚羽織る物が必要だったかな、と想いながら涼音は慣れた手つきで長い髪をひとつにまとめてゴムで縛った。公園にはもう誰も居なかった。もう11時を過ぎている。公園には春の名残となった桜が何本も植えられている。どれも立派で、満開のころはさぞきれいだったろうな、と思う。今は何本かに花びらが残っているものの新芽がその旺盛な生命力を見せ付けている。桜のピンク色と新芽の若々しい緑色は不興だという人も居るが、涼音は、美しい花びらが力強い黄緑色に変わる様はとても好きだった。


「あれ? 」

 涼音は、公園の奥のほうにピンク色の何かが散っているのを見つけた。もしかして八重桜?と思いながら近寄ると、すこし日当たりの悪い目立たないところに、まだ十分に花びらをつけた小ぶりな桜を見つけた。日中では目に入らなかっただろう。夜、散る花びらを見とめたからこちらに歩いてきたのだ。その桜の花は触れるだけで。花びらを落とした。これでは今夜の強い風ですべて落ちてしまうだろう。よかった、今年最後にいいものを見ることができた。桜の幹に手を触れてみる。ひんやりとした幹に触れていると根や幹が水をくみ上げるのさえ、分かるような気がする。

 

 あなたは、ここで何年もの間、何を見続けてきたのかな。

 

 そのとき、ゴーッと音がして、斜面のすぐ下を電車が通り抜けた。

もう!気が効かないな、涼音は心の中で思った。しかし興が冷めたわけではない。これくらいでへこたれていては、ここでは暮らしていけない。

 涼音は、桜の木に背にもたれかけて、遠くを見た。小さな丘陵地だから、いい眺めではないが、住宅地が広がっていて一軒一軒に光がともっている。家の光はやがて消えるが、街頭やネオンの光は夜中消えることはない。涼音は夏の匂いが僅かにする風を感じながら、思いに耽る。


 はるか北の地には、どんな夜のとばりが降りているのだろう。ウルップ島には、灯りが燈っているだろうか。もうずうっと入電のない千島列島の最北の島、パラムシル島では、たった一つの光があるのだろうか。それともアザラシが深い眠りについているだけで、人の営みはないのだろうか。

 涼音は、まわりが明るくなったのを感じて空を見上げた。ちょうど流れる雲間から月が顔を出すところだった。満月だ・・・。涼音は月が好きだった。白く輝く月。ひそやかに控えめに空に咲く純白の花のよう。月の前にはシリウスの力強い知的な青白い光も、アルデバランの燃える情熱のような赤い光も、スピカの清楚な乙女の輝きもあせてしまう。

 わずかに風が吹き、今年最後の桜の花が舞う。涼音の長い髪が満月の光に流れるように輝く。


2 


 北陸国立大学は、金沢市の郊外に位置する総合大学である。21世紀の後半からの深刻な少子化のあと再編され、その地方を代表する学府として、したたかに生き残っていた。町の中心部から郊外に拡張のため移転して、その後地域に密着した市民との交流の深い大学として人気があった。

涼音の所属する理工学領域―地球科学学群―地球環境学科は、理工学棟の25号館の4階にあった。涼音は、准教授として5年目となろうとしていた。狭いながらも2部屋に分かれている研究室を与えられている。

 涼音は昨夜、夜更かししたため眠い目をこすりながら、多量の電子メールに目を通していた。さらに目の前には整理のつかない、書類が山盛りになっている。これを裁かないと、助教や院生がうるさい。扉は外されている。この扉は、助教のアイデアによるものだ。どちらかと言えば学生との交流が苦手な涼音に対して窓口を開けておこうと言う考えであった。そこからひょいと初老の品のいい顔が現れた。神谷教授だ。穏やかな振る舞いで人気がある


「すずちゃん、今度の学会用の発表は自分でやっているかい?」

「おはようございます・・・。あの、もうその院生時代の呼び名は、そろそろやめていただけませんか。私もちゃんづけされる年でもありませんし」

「なんだ、つまらないことを気にするね。じゃあ、准教授らしく湯方先生、がいいかな。」

「ええと、先生と言われるほどでもないですけどね」

涼音は、恥ずかしがっているようなせりふを口にした。

「いやいや、謙遜だね。高レベル廃棄物処理場のための地層モデル作成において、複雑な地質構造を簡単に解明した実績は、見事としか言いようがない」

「とんでもありません。いままで皆さんが解明してきた一つ一つの積み重ねに少し味付けしただけですよ」

「そういう君の謙虚なところもいいのだけれどね。そういえば、先週、僕がいないときにローレンスバークレーの研究所から誘いがあったらしいじゃないか。鉱物学講座の松本先生に怒られなかったかい?知らないって、そうだろうな!怒られたのは僕だよ。松本大先生曰く、彼女が出て行きやすい環境を作るのが、学部長の仕事だろう!とね…。まあまあ、あれで松本先生もここのことを心配しているんだよ。外でもしっかり勉強してまた戻ってくるもよし、そのまま大成するもよし」

「そうなのですが、私はこの土地が気に入っていますからね」

 神谷は意外な顔をした

「そうかい?僕にはそう見えないがなあ。君を見ていると、どこか遠いところを見ていると思うよ。何を目指しているのか、僕らにはわからないし、言ってくれないしなあ」

 涼音はしまった、と思った。ついついこの町が気に入っているなどと言うのは、あまり考えていないが、ついつい口走ってしまったものである。


「もちろん、悪い町ではないがね。君はまだ5年くらい過ごしただけだろう・・・。そういえば、君はどこの生まれだったかな」

「鹿児島です。宮之城という小さな町です」

「ふうむ。九州か納得だねえ。君の欠点と言えば、その姿に似合わず大酒飲みなことだが、もうひとつ、月の研究も、まだやっているのかね」

「やっていますよ。私の本職は月の地形の研究ですから」

 涼音はわざと得意げな口調で言った。

「ほらほら引っかかった。だから、それは絶対言うなよ。教授になれないぞ」

「私はこの大学で教授になるのが目標というわけではありませんから。それに昨今、月開発は具体的な課題になっていますから、無駄にはならないと思いますが?」

実際、月へは何度も探査船や観測機が持ち込まれて、居住地というよりも資源開発や地球では行いにくい化学実験や核融合炉の実験目的で開発計画が上梓されていた。数年後には最初の本格的な研究施設がEU,米、日本で建設予定であった。


「分かった。その重要性はわからないわけではない。正直に言うとだ、外にいかないなら、ここで僕の講座を継いでくれないかな。悪くない話だ。僕もそれほど長くないのだから、引退後は、君に任せたいのだ。君は、ひっそりと人気があるからね。この講座を盛り立ててあげてほしいのだよ」

涼音は、そういうつもりは毛頭ありませんと言いたかったが、その言葉は、飲み込んだ。神谷教授には、この大学に拾ってもらったときから、お世話になっている。今までどおり、上手くやらなければならない。


「ふう。その話は今度にしましょう。ええと、帯広の学会の件でしたか?」

「いや、それもあるのだが…。その前に、苦言を呈さないといけない。これが今日の本題だ。原子力委員会の新設高速炉建設部会で言いたいことを言ったらしいじゃないか。ほどほどにする必要はないが、無駄に敵を作るのは賛成しないな」


 その話か。私だって腹が立っている。

「そんな、敵を作るような無理難題は言っていないと思いますが」

 涼音は、神谷の顔をうかがうように言った。それに委員会でもめたのは、学術的な事柄ではない、むしろ立地などに関する課題だ。

「そうだね。しかし新設高速炉の問題は立地問題ではないだろう。地層処分の時のような課題を引っ張るのはどうかと思うが。あのころとは、建設技術は革新的に変わったのだ。今そこまで地盤モデルにこだわる必要があるのかい」

「神谷先生のお言葉とは思えませんね。すべて構造物の原典は地盤にあります。人間の予想は所詮人間の考えたものです。自然は人間に想像しうる以上のことを起します。我々の経験なんてほんの数千年です。私は、私の専門分野から、リスクを想定して…」

 神谷はわかった、と涼音を手で制した。

「ん。まあいい。すずちゃんの言うとおりだ。いい弟子ができて私は満足してるよ、少々頑固だがな。そうだね、その帯広の学会では、T大の神成教授がてぐすね引いているという話を聞いているよ」

「そうらしいですね。どうしてかな。神成先生には、気に入られないようです」

「君が、みんなが悩みつくしていた問題を、あまりにすっきり解決するので、カチンときているのだろう。その中には、ほっておいてもらいたかった問題も幾つかあるからね」

「そういわれましても。どこかおかしければ、ぜひご指摘してもらわなくては。私の考え違いもあるかもしれませんからね」

「いやいや心眼としか言いようがないよ。三次元モデルによる地質解析はこのコンピュータで解析が出来るようになってからの100年で相当発達したが、やはり人間の感覚は切り離せない。システムやコンピュータは発達したが、人間の感性もすばらしいと私は感動しているよ」

「そんな、バケモノのように言わないでください。ちょっとイメージできるのが当たっただけです。私も直感としか言いようがないのですから」

「バケモノならみんなあきらめるのだが、暖簾に腕押しの妙な子だからなあ。」

 それは一体褒めているのか、さすがに涼音は反応に迷った。


 そこへ扉が開いて、本と書類の束を抱えた男が入ってきた。

「あれ、取り込み中でしたか?」

「いやそうじゃないよ、大村君さ、君の師匠によくよく講座をつぶさないようにお願いしていたところだ。君も、この講座の助教として、良く見張っておかないと大変なことになるよ」

「ははは。私はもう限界ですよ。講座をつぶす、ですか?いいですよ、いっそのことつぶしましょう。もっとも、湯方先生が酒でつぶれているところは良くありますね。身代を酒でつぶすってのは、こういうことなのかと・・・。神谷講座は勉強になりますよ・・・。」

「大村君は、つまらないことを言ってないで、よく師匠を見張っておいてくれよ。特に公の場でね。何を言い出すか分からないからなあ。」


 それに対して大村は明快に答えた。もう何度も考えてきた話のように。

「無理です。神谷先生。このセンセは、結構燃えやすいタイプですし、そのくせ言い方が丁寧で理論的ですからね。言われた方は、納得するやら、腹が立つやら。先日の新設委員会でも、湯方先生の独壇場でしたよ。ずいぶん不備を指摘していましたからね。そのあと原電機構の方と話しましたが、確かに泣いていましたね・・・。金は出さないが調査をしろってのはひどい!って」

「ちょ、調査しろ、なんていってないよ。そういう成果で十分だと言い切れるのですか?という質問なのだから。十分なら“コレコレの理由で十分だと判断しました”って言えばいいじゃないの?」

神谷は、ううむ、と腕を組んで、そういったのか?と大村に聞いた。

「は、間違いなく」

「涼ちゃん、それはだな…」

 神谷が全部言う前に、涼音は降伏した。

「ああ、もう。わかったわよ。いい子になりますよ」

 涼音は、本心から調査が不足しているか、事業者側の考え方を聞きたかったのである。調査しろという意味ではなかったのだが、そうは聴いてもらえなかったようだ。しかし結果的には他の委員や、事業者側も十分ではないという不安を抱えていたのだ。追加調査の検討をするという。

「そうだなあ。ダドリー先生の弟子だし。あの人は人情と正攻法だったなあ」


 そう言ったが神谷は、涼音の正直さが好きであった。恩師を思わせるしつこさがある。しかし人情の面はどうだ。あの人は熱い心を有しながら一切人情の面は見せない人だったが。

「しかし事業者である原電機構や国にも限界はある。実際十分に調査することになるとして、新設は1年以上完成が遅れることになるかもしれない。その影響は未知数だ。まあ旧型機で胡坐をかいていた原電機構が悪いのだが、それは人の作る歴史だからね、繰り返すのだよ」

 神谷はそこで一息入れて、二人を見直して言った。

「いろいろしがらみは多いと思うのだが、それは期待されている裏返しだよ。神成さんだって、そういうことだと思うのだよ。その辺を汲み取ってあげてよ。頼むよ、すずちゃん。それと大村君も本当に頼むよ。部屋の片付けばかりやってないで、本来の意味で面倒見てくれ」

神谷教授はそういって出て行った。


 神谷が出て行った後、大村が、申し訳なさそうに言った。

「実際、原電機構も難しい立場ですよ。新設機の運転開始が遅れると、影響が多いのですからね。現在稼働中の高速炉「しののめ」8基のうち、4基が液体ビスマスの原因不明の異常α崩壊のために、交換で止まっている状況ですから。それも再開のめどが立っていませんから、100年ぶりの電力不足は避けられない。かといって国民の目も欺けません。新設9号は、これらのトラブルを全て改善した複合型の最新式制御システムの載っている鳴り物入りですからね。地形・地質問題で、それも今まで8機作っている場所の隣接箇所で、あまりもめたくないのでしょうね。新設型は小型ですから、今計画している月移住計画にも採用されているようで、日本の売込み中の発電機ですからね。あ、先生は、月計画は反対なのでしたね」

「ううん、反対とは言わないけど、高速炉を設置するのは、難しいのじゃないかしらね。月は地質学、地理学的には未知の世界よ、だって誰も歩いたことないのですからね。そんな場所で原子炉や核融合炉ってのもどうかなあ。月は天体としては静的死の状態にあるというのは、楽観的すぎるでしょ」

「一応衛星による監視はしていますからね。」

「そんなの天体の年代からしたらほんのわずかじゃない」

「まあ、そうですが。こと月のことになると先生は厳しいですよね」

「そうねえ、私にとっては、やっぱり聖地みたいなものなのかな」

「聖地?」 

「そう、ちょっとした思い込みよ。月は故郷なの、みたいなね」

 涼音はくすりと笑った。涼音の生まれ故郷である宮之城は、竹が多いことで、かぐや姫伝説の発祥地ではないかと言われていた。あまり知られていないことである。

「気にしないで。趣味みたいなものだから。それより大村君だって、構造地質学じゃなくて、したい研究があるのではなかったかな」

「は?いやいや、いやだなあ。何の話ですか」

「いや、待って。構造地質じゃなくて、海洋地質研究がやりたいと聞いたけど?沈み込み帯の現地調査をしたいと。」

 少し間が空いて、大村は苦しそうに言い訳した。

「誰が、そんなことを言ったのでしょうか。はて、何のことでしょうかね」

それは図星ではあった。が、それだけが全てではない。現在構造地質学は古臭い学問であり、大村は沈み込み帯や海嶺地帯における再生可能エネルギーに貢献のできる海底変動地形に関する研究がしたいと考えていたのである。しかし、今の大村にはもうひとつ、この古い大学のこの講座が、居心地が良い理由があった。

「無理しなくてもいいのよ、私も同類だから」

そういって、涼音は大村の肩をぽんとたたいた。

「最終的には、やりたいことをやんなさいよ。私はそうするから」

「…」

大村は黙って資料にパンチで穴を開けていた。

「あれ、意外に口が堅いわね…。わたしの良くない噂は垂れ流すくせに」

大村は、だまって穴の開いた資料をバインダーに閉じた。

「何のことでしょうかね。引っ掛け問題には勘がいい方なんですよ。神谷先生に鍛えられてますから」

「そうだよね。普通は、本音は言わないほうが賢いよね。私なんかは、つい思ったことを言ってしまうけど。」

 涼音はふう、吐息を一つ吐き出して、頬杖をついた。

「そうだね・・・、難しいね」

「先生は正直なだけですよ。それで誤解されることもあるようですが。」

 大村は、そんな涼音を見つめると、いつも悲しい気持ちになった。なぜこの人は、こんな悲しい顔をするのだろう。この人は5年前初めて会った時から、そういう人だった。頭が良く、人情もあり、学生の質問もよく答えていた。しかしどこか寂しげであった。それは思い込みなのか、やや物静かで地味な顔つきがそう見えるのか、よくわからなかった。


3


 構造地質学会で訪れた帯広を訪れたのはもう梅雨のたよりが南国から届きそうな5月も下旬だった。この年は記録的な寒波や北ヨーロッパでの火山の噴火などもあって、冷夏が心配されていたのだが、この時期にしては十分暖かかった。

 涼音は、関係者の挨拶を、最低限にして早々に済ませると、町へ出ることにした。涼音の口頭発表は午後でしばらく先である。先ほど大村には、今日だけは会場にいてくれときつく言われたが、トイレに立った後、トイレから見える空の美しさを見ると、外を歩きたい気持ちはもう我慢できなかった。トイレから出て廊下を見回したが、大村は居ない。さすがにトイレまでは、来ていない。せっかく北海道まで来たのだから羽を伸ばしに行かなければ。

「これ、重要だよね…? うんうん」

 そう言いながらそそくさと会場の外へ出る。


 学会は駅の近くのホテルで行われていたため、ちょっと涼音の好きそうな場所へ行くには、少々歩く必要があった。涼音が北海道を訪れたのは、初めてではなかった。おそらく初めては、大学時代に友人と旅行したことであろう。思い返すとちょっと悲惨な旅行だった。一緒に言った友人は途中で体調を崩し急遽帰還して、涼音一人で残りの半分の行程をこなさざると得なかったのだ。このつらい思い出は、今でも忘れることはない。夢にこそ見ないが旅と言うと、この時の思い出がよみがえる。


 帯広の中心地から音更・上士幌方面にずんずん歩いていくと十勝川に出る。その間でも、涼音は豊かな自然を満喫した。道端には桜が咲いていた。山桜が主体のようで、やや濃い目の花びらが青空に映えて一段と綺麗だった。まれにピンクの濃いものがある。八重桜だろう。本州では時期をずらして咲くのだが…。道路沿いには植えてあるのか、自生的なのかよくわからない植え方でつつじも咲いていた。紫のものが多い。桜とつつじが、同時に咲くのは、少々不思議な感じだが、一度に満喫できて、得をした気もした。涼音はつつじの花をひとつ取り、匂いをかいで見た。涼音は幼いころ母親からつつじがいい香りね、といわれた記憶があったのだが、そのあと、どの匂いを嗅いでも、つつじがいい香りをすることはなかった。

「ふむふむ、おかしいわね、お母さん」

 気持ちよく、つぶやく。母がうそをついているとは思えなかった。涼音にとっては、これが母に関する唯一の思い出だった。涼音は両親ともに幼いころになくしており、ほとんど記憶がなかったのだった。そのなかでの唯一の記憶がこのつつじの匂いの話なのだった。もしかしたら、生まれ故郷の宮之城あるいはどこか他の土地には、匂うのかも知れない。だから涼音はつつじを見つけたら匂いを嗅ぐことにしていた。


 涼音は、しばらく色の違うつつじを、あれこれ引っこ抜いて匂いを嗅いでいたが、やがてあきらめて回りを見渡した。すると小さな公園があったので、中に入って見ることにする。公園には、やはり桜やつつじが咲いていた。

「帯広のつつじも、匂わない。どうしてかな」

などと怪しい節をつけて歌いながら、広い芝生のある広場へ向かった。

 芝生からは無数のタンポポが花を咲かせており、タンポポのお花畑となっていた。タンポポも、これだけたくさん咲くと、黄色が映えてきれいである。もう少し歩くと、平屋の家の庭にはチューリップが咲いていた。さらにあろうことか、スイセンも咲いていた。スイセンは冬に咲くというイメージだったが、きれいに真っ白で小ぶりな日本式と華やかな輸入物も咲いていた。


 涼音は、細い指で推薦に花びらに触れた。少しだけ厚みがあってしっとりする。きもちがいい。涼音は、立ち上がって大きく深呼吸して空を見上げた。大地の匂いがする。土の匂い、草の匂い、木の匂い。このすばらしい大気の中に同化したい。この真っ青な大空に引き込まれてしまいたい、と強く思った。


 涼音が学会の会場へ帰ったのは、すっかり日が傾いてからだった。大村がこちらを見つけたらしく血相を変えてやってきた。その顔を見て、あ、忘れてた! と思った。

「湯方先生、どこへ行っていたんですか!僕は、僕は、もう、あきれ果てましたよ!」

「あらら、忘れてた。今日だっけ? 今日だよねえ…。でも大村君も共著者だから、大丈夫だったでしょ?」


 涼音はしらばっくれて言った。多分、無理だろう…、と思いながら。

「先生の奇怪な3Dイメージングの説明なんか私は説明出来ませんよ。ここぞとばかりに他の先生の追及がひどかったのですから。今日という今日は、僕は怒ってます」

へへ。ゴメンナサイ。そういって涼音はぺこりと頭を下げた。

その顔はいつものような暗さがなかったのを大村は見て取った。大村には、久しぶりの屈託のない笑顔に見えた。こんな笑顔を見せられると、大村は、猛烈に気恥ずかしかった。

「くそぅ。いいですけどね。先生の行動不審には慣れていますから。トイレに行かせたのが間違いだった」

「ごめん。こんどおごるからさ」

 いつもこんな笑顔だったらいいのに。この笑顔が見れるなら、もう一回くらい矢面に立っても買わないのに、と大村は思った。

「ねえ、T大災害研の神成教授はどうだった?」

 涼音は、神成教授の動向がさすがに気になった。自分が発表するのならば、全く気にしないが、大村では気の毒である。

「どうもこうも…。ニコニコしながら、僕の説明できないところを的確に攻撃してきましたよ。あのひと良く分かっていますよ。しまいには、十分に理解できていない人を共著者に乗せると言うことは、学会として、論文の審査段階でよく反省すべきではないか…、とか言われましたよ」

「それはひどいな」

「はは、確かに僕がしっかり予習していなかったのが悪いんですよ。もう少し資料が早く出来ていれば予習したんですけどね…。それに先生の論理は最後のところで理解できない。まあ、落ちこんでますよ。これで僕は、この世界で絶対に出世できないな」

「う~ん」

 涼音は、さすがに本当に申し訳ない気持ちになった。

「ま、前向きにやるしかないです。多少有名にはなったかな。ははは。」


 自虐的な大村に対して、涼音はうまくフォロ―の言葉をかけてあげられない自分がもどかしく思った。

大村は、涼音に対して、比較的ざっくばらんに接してくれる。涼音にとってそれは、居心地がよいのである。それになんとなく、言わなくてもこちらの意思を理解してくれそうな気がしていた。それはきっと思い過ごしだし、もしそうなら、もっと親切にしてあげなくてはならない。ただ、そういう行為は苦手だった。そのとき言えばいいことを言うのが苦手。あとでこういえばよかったなと思うけど、それをいえない。まだ文章にするのは多少出来るのだが・・・。

 夕暮れが進む帯広の空を見ながら、その気持ちをそっと心にしまった。


 涼音は、学会後の懇親会という名目の飲み会を終え、喧騒が収まらない帯広の飲み屋街をゆっくり歩いていた。飲み続けることについては、問題ないのだが、今日は途中で抜けてきた。あとは大村と何人かの学生が何とかしてくれるだろう。また大村君に任せてしまった。また頼ってしまった。でも少し一人になる時間が欲しかったのだ。


 北海道の町は、どこも道が広い。それに日中は、かなり気温が上がったが、夕方から夜になると、しっかりと空気が張り詰めて温度が下がる。その夜のきりっとした大気の匂いも良かった。北海道に転職しようかしら・・・。涼音は私にも何か目標があれば、それもいいかもしれないけど、私には何があるのだろうか、と思いながら、小さい公園のベンチに腰を下ろした。


 匂いのある遠方の土地で佇むことは、しばし私を感傷的にする。その匂いは、私に何かを示唆しているかのようだ。何か大事なことを伝えようとしているのだろうか。思い出せない過去の記憶を引き上げてくれるのだろうか。それともどこかへ私を招こうとしているのか。その答えが分かるのはいつだろう。月のない暗い夜空を見ながら私は考えた。月がない夜は淋しい、と思う。涼音は月が恋しく思う。いつからか月への憧れを持っていた。それは、生まれた故郷である宮之城のかぐや姫の伝説と、自分が良く見る竹やぶの夢のせいなのだろうか。それでもいい。白く輝く月を見るのは、私は大好きだ。できれば、もう少し近くで月を見てみたい。真空の宇宙の中で光る月。できれば、宇宙の中で月と地球を見てみたい。月は、なんだか私をひどく惹きつける。


 月になんか行けっこない。そんなことは、分かっている。でも、こう思う。月は私にふるさとのような感触を与えるから…、好きなのだ。まだ見ぬ故郷のような。それはきっと夢だから。私はその気持ちを大切にできるのだろう。


 涼音はいつからか月について独自の研究を行っていた。それは大学の研究とは別の一面だった。特定の天体に対する研究は、遥か昔からアマチュアによって発達していた。しかし22世紀になると数多くの探査機や衛星により、少しずつ衛星や惑星の素性がはっきりしてきていた。特に月は、最も近い天体であるが、アポロ以来、人は到達していなかった。しかし多数の人工探査機が調査を行っており様々な豊富なデータが得られていた。しかしながら、データは豊富にあるもののまとめ切れていないものが多い状況であった。探査や観測データは、国家あるいは国家に属する研究機関が行っているものが多く、バラバラでデータ同士が連携されることがなかった。涼音は、一定期間たって公開された複数のデータを時間を見て解きほぐすのが好きだった。涼音はその時間が一番幸せを感じていた。絡まったデータの山。それにはどんな情報が詰まっているのか。単なる地震のデータの場合もあれば、別な気象データとつき合わすことで、新たな知見が得られることもあった。それは考えるだけでうきうきできるほど、涼音には楽しかった。涼音は、できるだけその時間を作りたかったが、日本で教職につくと、なかなかに忙しく時間が取れなかった。そうなると、正直言って資料を片付ける時間も惜しかった。月のデータを見ていると、全く関係がないと思われがちだが、地球のある場所の地形データと共通点があるように思えたりすることがある。常識的には、水が介在して地形を作る地球と、絶対乾燥状態である月とでは、同じ地形は作られるはずがない。しかし涼音にはそんな常識はどうでもよく思えた。感じるときは、感じるのだから。涼音はそんな瞬間がたまらなく好きだった。資料を取り出してみると、やはり無関係だったりする。しかしそんな出会いがいつか、実を結ぶかもしれない。そんな時間が、大好きだった。


 涼音はゆっくりと空を見た。そして、星の海が漆黒の闇に浮かび上がるのを見た。

 時間はゆっくりと流れ、時計の張りがゆっくりと進む。ある小さな公園のある小さなベンチは、まるでアインシュタインに特別に指示を受けているかのように緩やかな光の波に包まれていた。



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