あざやかに
【謝辞と注意】
拙作にアクセス頂き、誠に有難う御座います。
本作の後半に、大変「胸糞の悪い」シーンが御座います。そういったシーンが苦手な方もいらっしゃるかと思いますので、お読み頂く場合はご注意ください。
気に入らないと、そう思った。
教室の隅。不機嫌そうに机に頬杖をつき、眼鏡越しに彼女を盗み見ながら。
いつも笑っている杉原のことが、気に入らないと……強く。
杉原未来とは、中学二年で初めて同じクラスになった。「未来」と書いて「みき」と読む。一学期の初めにそう自己紹介した彼女は、両親が希望を託して与えたであろう名の通り、未来に多くの輝きが保証されていたように思う。
月光を塗りたくったような白い肌。細長い手足。卵型の小さな顔。
二重瞼に飾られた目は吸い込まれそうな程に大きく、肩まで伸びた黒髪も艶やかだ。濡れた桜の花を思わせる薄桃色の唇も目を引き、整った綺麗な顔をしていた。
そんな彼女だから、田舎の中学校では何処にいても目立つ。
容姿に優れているのに飾らない性格をしていて、男女を問わず友人も多いようだ。輪の中心に立ち、いつも笑っている。勉強はそこそこだが、運動神経に優れ、バレー部では三年に交じってレギュラーとして活躍しているという噂だ。
陽の下を屈託なく歩く存在。杉原未来。
一体いつからだろう。いつから意識し始めたのかは分からない。気付くと僕は、そんな彼女のことが気に入らないと、そう強く思うようになっていた。
僕は自分のことをよく知っている人間だ。地味で運動神経が鈍く、身長も低い。目鼻立ちも整っておらず、眼鏡を掛けているが、格別に頭が良い訳でもない。
友達と呼べる友達も出来たことがなく、周りの同じ小学校出身の奴なら覚えているかもしれないが、小学三年の頃と五年の頃に二度、苛められてもいた。
苛められた原因は、よく、分からない。
僕が何も持っていない人間だったから、標的にし易かったのかもしれない。そんな僕は、自分に与えられた物を中学入学時には見限っていた。植えつけられた卑屈さは、簡単には刈り取れない。育ってしまった性格は、殆ど一つの運命だった。
だからこそ未来は自分で取りに行くのだと、そう誓っていた。
待つことには、もう飽きたのだ。
人から話しかけられることを。非日常的な何かが自分に訪れることを。
都合の良い偶然が与えられることを。運命が……自分に味方することを。
そういった待つ行為に、待つだけの自分という存在に、飽き飽きした。
だから取りに行くのだ。未来は。自分の手で。そう決めていた。
そんな覚悟を抱いて中学に入学した僕は、日々勉強に打ち込んだ。人に話し掛ける練習をするだとか、自分を変える為の努力をするだとか、そんな嘘くさい、世の中に掃いて捨てる程ありそうな妄言は、本質的な悩みの前には役に立たない。
世の中は力が支配している。妄言には耳を貸さず、勉強こそが唯一、現在から自分を守り、未来へと自分を引き上げてくれるものだと、頑なに信じていた。
中学生の地味な僕にとって、恋愛やスポーツに比べ、それほどに楽な道もなかった。苦痛を耐え忍び、誘惑を断ち切り、ただ問題と格闘するだけで良い。
小学生の頃にゲームばかりしていた僕は、欲望が対象を認識した瞬間から生まれることを、知っていた。目を合わさなければ、それは自分の内側から発生しない。
ぽっかりと空いた虚無感。ゲームを一人でした後の、未来へ繋がらない、どうしようも無さも、よく、知っていた。だからやることがあるのは、助かった。
部活は悩んだ末、地味な図書文芸部に入部した。運動系の部活に所属し、友人らと汗を流す自分が想像出来なかったからだ。笑い物にされ、パシリにされ、嫌なことを押し付けられる自分。そういう自分なら、アリアリと想像できたが。
勉強だけは出来る奴という立位置も案外、悪くない。漫画だと苛められることも多い印象だが、そういったこともなかった。地味だからこそ、人は安心するのだ。
「アイツは勉強くらいしか、取り柄がないしな」と。
青春が群れをなして歩く中、未来を掴もうと躍起になってペンを動かす毎日。そんな退屈な人間に同級生は無関心で、クラスで空気と化した自分は嫌いじゃない。
「三組の吉田、未来ちゃんに告ったらしいよ」
「えっ? マジで? それでどうなったの?」
「いや、撃沈だって。今は誰とも付き合うつもりがないとかで」
「マジかよ、吉田ってバスケも出来てジャーニーズみたいな顔の奴じゃん。アイツでダメとか……まぁ、でも、その方が未来ちゃんらしいっちゃ、らしいか」
クラスに一人だと、色んな話が聞こえてくる。その中で、杉原未来の話は毎日、うんざりするほどに聞こえてきた。皆が、彼女のことを噂するのだ。
天真爛漫という言葉が似合う杉原未来。才能に恵まれてか、どんなことでもそれなりにこなす。体育祭では活躍するし、文化祭でも話題に上る。彼女と関わり合うことに、クラスの男子も女子も色めき立っている。いつも輪の中心にいる彼女。
そんな杉原を、教室隅の自分の席から時折、盗み見ていた。
――与えられたものだけで、チヤホヤされる女。杉原未来……気にくわない。
だけど、
「…………」
そのせい、だろうか。その輪から外れているからこそ、自分一人だけが、皆が知らない、杉原未来の顔を知っているような気がするのは。
彼女はいつも楽しそうに笑っている。彼女の周囲も楽しそうにしている。
けれど、時々、ふと、顔を曇らせることがある。
杉原未来。
そんな彼女とタイミング悪く目が合うことがある。輪の中心に立つ彼女が、どこか寂しそうに見えるのは、悲しそうに見えるのは……気のせい、なんだろうか。
そんなことを考えていると、杉原の笑い声が聞こえてきた。
「あははっ」
特に何の思い出もないまま、中学二年の冬を迎える。
学力は確実に向上していた。努力が着実に成果に結びつくのは、中学生という時期だけかもしれない。学年五位以内をキープし、志望校にも目星をつけていた。
取りに行くのだと誓ったあの日から、どれだけ経つだろう。じっと鏡を眺めて映るのは、まだ何も手に入れてない、目の充血した、地味な田舎の中学生の僕だ。
自分をつまらない人間だと感じながらも、それでも僕は、前を向いていた。
「ねぇ」
放課後の図書室で杉原未来に声をかけられたのは、そんな頃だった。
勉強を中断してノートから顔を上げた瞬間、僕は自分を見失った。横目で見ていただけの、話らしい話すらしたことのない彼女の顔が、直ぐ傍にあった。
「……なに?」
内心の動揺とは裏腹に、冷静な声で返せたと思う。
「勉強、楽しい?」
高くハスキーな声で、知り合いに接する気軽さで、杉原はそう尋ねてきた。
考えた末、少し不機嫌そうに響くように答えた。
「悪くない」
すると彼女は、笑った。いつもみたいに。
「あははっ、悪くないって、面白い答えだね」
「そう?」
「うん。楽しいって聞いて、悪くないって、あはは、面白い」
「そっか……それで?」
僕が訊くと、杉原未来は目を丸くした。
「何か用?」
それはきっと、今まで経験したことのない反応だったのだろう。
困惑したような間が生まれる。
「あっ、ううん、大したことじゃないんだけど。いつも勉強してるから、凄いなって思って。何か夢とかあるの?」
慌てて応える杉原。
夢という言葉に意表を突かれる思いだった。
僕が掴みたいのは夢ではなく、未来だと、そういうことが、言えずに……。
「別にないよ。ただ、自分は何もないから……勉強してるだけ」
「え? 何もない?」
そこで自嘲を零すと、視線を合わせず、僕は皮肉を述べた。
「うん。杉原みたいに、僕は、持ってないから」
「え……」
沈黙の海に、杉原が素足を晒す。それから言った。静かな声で。
「それ……勘違いだよ」と。
「私の方こそ、何も、持ってないから」と。
怪訝さを表情に隠さないで、顔を杉原に向けた。
一瞬だけ、例の、寂しそうに笑っている彼女の顔が、見えた気がする。
「ゴメンね。変な話で勉強の邪魔しちゃって」
だがそれは、幻であったかのように、掻き消された。屈託のない杉原の笑みで。
謝ると、彼女はその場から離れようとした。
気付くと僕は、
「なぁ、杉原」
「ん? 何?」
そんな彼女を呼び止めていた。
「寂しいのに、笑うなよ」
そう、告げていた。
「え……?」
静寂が横たわる。
杉原は見たこともないような真剣な顔で、僕を見ていた。
淡色の影絵のように、彼女の存在が希薄になったような感触に苛まれる。
しかし、それも、僅かな間のことで……。
鼻から息を抜き、杉原はやはり寂しそうに笑うと、
「私、生きてる間くらいは、笑っていたいの」
そう答えた。
僕は言葉を失う。
「それは……」
「うん」
「寂しくてもか?」
「うん、そうだよ」
何でもないように、杉原は答える。
「悲しくてもか?」
「うん、そう」
泣きそうに、微笑んで答えられると、僕にはもう、返す言葉がなかった。
「そうか」
「そうなの」
「なら……」
それでも僕は、何かを言おうと思った。
でも結局、その後に言葉を続けられず、
「それじゃ私、もう行くね」
杉原未来はそう告げると、背を向け、遠ざかって行った。
その日は、勉強がはかどらなかった。絶えず頭は何かを考えようとしていたが、問題集に視線を這わせることで、僕はそれから逃げ回っていた。
そんな頭で、方法論が、知識が、経験則が蓄積される筈もない。
立ち止まると、抑えつけていた何かが溢れてきそうになる。試みに足を止めてみても、その何かが分からない。その事実が僕を腹立たしくさせる。
きっと、杉原未来のせいだ。あの、物悲しい、笑顔のせいだ。
そう八つ当たりのように考えても、その考えは、僕を楽にしなかった。
それが契機となり、杉原が僕に話しかけてくるとか、僕が彼女に話しかけるとか、そういうことはなく。中学二年は終わった。三年になってクラスが別れる。
廊下ですれ違うこともあった。その時も杉原未来は友人に囲まれ、やはり笑っていた。目が合うと、どこか寂しそうに笑った。
『私、生きてる間くらいは、笑っていたいの』
気にくわないと、そう思った。寂しそうなのに笑う、彼女が。
気にくわないと、そう思った。その理由も知れない、自分が。
中学を卒業すると、完全に杉原未来とは縁が切れた。
結局、中学時代、話らしい話をしたのはあの時だけだ。
それからも僕は自分で手に入れようと求め、失敗し、諦めず、そこそこの位置にしがみ付きながら、世の中には天才が多くいるんだということを学んだ。
一浪して地元の国立大の法学部に入る。両親の勧めもあって司法試験を受け、検事への道を歩んだ。冴えない男なりに結婚もし、妻の不倫に悩み、子供の問題に頭を痛める毎日。鏡を眺めて映るのは、四十を過ぎてくたびれた、陰険な僕の顔だ。
僕はいつしか中学時代の自分を、未来を掴もうと躍起になっていた自分を忘れた。何故だか時たま思い出すのは、苛められていた小学校時代の自分だ。
杉原未来の話は、中学卒業以降聞かない。思い出すこともなかった。
しかし今になって、その思い出を、つらつらと回想している。
泣きながら喘ぐ、杉原未来の当時の姿を、画面越しに眺めながら。
生徒と無理矢理みだらな行為に及び、撮影し、その動画を脅迫の材料として言い包めていた教師が逮捕された。五十七歳。狡猾な男で、三十数年の教師人生の中、生徒の気質を見抜いた上で、気に入った相手にそういう行為に及んでいたようだ。
見覚えのある、その男。
十六歳の女の子の親告で捜査に到った。警察の家宅捜索で、被害者が中学時代に撮影されたものを含め、過去に男が撮影していた数本のデータが見つかり、余罪が発覚する。偶然その事件の担当となった僕が、それと出会った。
いつも笑っていた彼女が泣いていた。「未来」と書いて「みき」と読む彼女が。
瞳を涙に濡らし、嗚咽し、しゃくり上げ、喘いでいた。
手元の資料の撮影日を確認する。中学二年に上がって直ぐのことだと判明した。
「……気にくわない」
「え?」
白紙のように褪せていく心が呟くと、隣の新人が素っ頓狂な声を上げた。
「あぁ、こういう奴がいるなんて、信じられませんよね」
呑気な声でそう言う。心を痛めながらも、被害者の人生から離れた声で。
鈍い色の光を灯した瞳を、彼に向けた。無機質な声で尋ねる。
「君、初恋の子のことって、覚えてる?」
場違いで、唐突な質問だ。
面を食らったような表情をした後、彼は答えた。
「はい、それは……勿論」
「…………そうか」
二秒ばかり睨め付けた後、ゆっくりと視線を画面に戻した。
「それが……何か?」
「いや、何でもない」
その映像を眺めながら、笑っていた杉原の顔を呼び起こす。人間に与えられた時を結びつける能力を、この時ほどに疎ましく思ったことはない。
輪の中心に立ち、人気者で、華やかな、天真爛漫な彼女の顔。
――笑うなよ、杉原。
そう思った。
中学二年の頃、机に頬杖をつき、彼女を横目で眺めていた時のように。
――寂しいのに、笑うなよ……と。
『私、生きてる間くらいは、笑っていたいの』
その言葉が、彼女を覆う鎧にも、呪いにも聞こえてくる。
人間は、寂しい時には泣くんだ。何度寂しくないと言い聞かせても、また、寂しくなることは分かり切っている。誰だってそうだ。僕だってそうだ。
だから、泣くんだ。笑うんじゃない。泣くんだよ。
果たして人間の中で、枕に顔を押し付け、泣き叫びたくなるような経験をしたことがないヤツが、この世にいるだろうか。いる筈がない。与えられた人間でもだ。
『私、生きてる間くらいは、笑っていたいの』
――いや、だからこそ、杉原、お前は……。
静寂の墓場と化した調査室内に時折響く、涙交じりの、くぐもった嬌声。
感情は揺れ動く波を棲み家とし、時に静まり、時に荒れ狂う。
『何か夢とかあるの?』
『私の方こそ、何も、持ってないから』
突然、自分のことが分からなくなる感覚に襲われた。どんな自分も、近寄って見れば複雑なものだ。生きて、感じて、動いている自分を誤魔化さずに見つめる。
そうすればそうする程に、いよいよ、自分のことが分からなくなる。
大切なものも、記憶も、思いも、分からなくなる。
――杉原、ひょっとして、お前もそうだったのか?
問い掛けるも、答えはない。
指先に血が奔るのを感じた。心臓から押し出された赤い血の流れが、昔の感覚を思い起こさせる。気に入らない彼女。気に入らない彼女の笑み。
『寂しくてもか?』
『うん、そうだよ』
『悲しくてもか?』
『うん、そう』
『そうか』
『そうなの』
『なら……』
遠くを眺めるように、目を細める。
視線の先では男が獣じみた声を上げ、杉原の体の上に、精子を吐き出していた。
『あははっ』
懐かしい彼女の笑い声が、悲しい祈りのように僕の中で鳴り響く。
あざやかに、笑えよと、僕は多分、そう言いたかった。