猫の恩返し
1.
「姫様は生まれ変わりを信じますか?」
女はそう口にした。
骨の浮かぶ細い腕に、削げた頬。見るからに弱々しい印象を与える女だった。年の頃は十四、五を超えた頃であろうか。少女と云うには幼すぎ、女というにはまだ早すぎる、そんな女であった。
隣に座る別の女の肩にしなだれるように頭を乗せ、呆と眼前に降る雪を眺めていた。夜半から振り始めた雨が雪へと代わり、女の視界を白く染め上げて行く。秋に散らした葉の代わりに白い牡丹を咲かせたそれは、さながら墨絵のようであった。
数刻過ぎれば満開になるだろう。そこから数日も過ぎれば散り逝くだろう。儚い命だった。それも当然、華の命は短い。
その女の様に。
「輪廻転生。そんな教えもありましたね」
雪の降る音よりも更に小さな音が産まれた。
女は、その言葉が聞き取れなかったのか、肩から顔をあげ、声の主に目を向け、問うた。
「えっと?」
「輪廻転生です」
再び小さな声が産まれた。
白い装束に身を包んだ女だった。装束と同じく肌もまた白かった。雪解けと共に溶けてしまいそうな儚い印象を与える程に。あるいは雪像とでも言うべきか。そんな白さとは対照的に髪は黒かった。寧ろその黒さが、女の白さを助長しているかのようだった。
その女は、もう一人の女―――少女とは違い、誰が見ても大人の女だった。健康的な、と付け加えても良いだろう。軒先に正座し、膝に手を置き、女に肩を貸しながら、身動き一つせず庭を眺めていた。はらり、と牡丹雪が女の長い髪に落ちる。それすらも気にせず、口を閉ざしたまま眼前を眺めていた。
女の髪に落ちた雪。嘆息と共に少女は女の黒い髪を汚す白い牡丹を払った。はらり、はらりと女の髪を流れて地面へと。
「ありがとうございます」
牡丹が落ちたと同時に、紅をさした唇が動いた。
「どういたしまして」
口角を少しあげ、少女が笑みを浮かべた。相変わらずだ、とでも言いたいのだろうか。
再び女の肩に頭を乗せ、浮かんだ笑みを消し、そして、
「生まれ変われば、もう一度姫様に会えますか?」
と。
「分かりません。私は仏でも神でもありません。まして、西洋の神でもありません。お嬢を輪廻転生させるような力は持ち合わせていません」
「酷い人ですね。期待ぐらい持たせてくれたって良いのに」
「そうですね。酷い人なので輪廻の輪から外れて地獄へ行きつく事でしょう。ですから貴女とは今生以外では会えません。二度と会えません」
「嫌です」
顰め面を浮かべ、女の袖を掴み、握り締める。次第、爪が肉を破り、袖に血が染み込んでいく。そして、雪のように白い服に紅の牡丹が咲いた。
「痛い、ですね」
「そうですか。痛みは生きている証拠とも言いますよ」
「そんな証拠は願い下げです」
一つ、女が嘆息する。吐息は白く、雪の隙間を縫って天へと昇って行く。真似をするように少女もまた吐息を。次第、二人の吐いた白い息は交わって行く。
交わる事のなかった二人とは違い。
「もう少し早く出会えれば良かったです。そうすれば吐息のように交わることもできたのに」
「品のない言葉ね」
「品がなくても生きていけます」
「死ぬ癖に」
「はい」
寂しげに笑う横顔。
あどけなく笑う横顔。
いつしか、女の視線が少女に向けられていた。
互いに無言。彼女らの思いを伺う事は誰にもできず、ただ互いのみが分かり合っている。
しばし、無言の時が過ぎる。降る雪の音だけが響く静かな夜だった。
「そういえば。あの子……猫さんは大丈夫ですかね?」
「痛みににゃあと鳴いていたから大丈夫でしょう」
「生きている証拠ではありますね」
「でしょう。お嬢よりは長生きするわよ、きっと」
「羨ましいですね」
「神様にでも祈れば良いのよ」
「助けてくれって?」
「いいえ」
もう一度会える事を。
女はそう言って顔を伏せた。白い装束に、白い肌、そこに浮かんだ紅。そんな女の姿を見て、少女は小さく笑った。
「そうですね。そうします。また、会えたら良いなと思います」
例えそこが地獄であろうとも。
少女はそう言って女に抱きついた。
それから数日して、少女は亡くなった。
女と猫を残して。
―――
前世の記憶を信じるか。
そう問われた時に、「はい」と返す女がいた。
友人諸兄からは当然の如く、変人のような扱いをされていた。それがなければ可愛らしいのに。可愛らしくも残念な女、というのが友人諸兄の総意であった。
その女が街中を歩いていた。
ふわふわとあちらへいったり、こちらへいったり。本人にとってはウィンドウショッピングのつもりなのだろうが、どちらかといえば単にちょこまかちょこまかと移動しているだけのようにも見える。
そんな女がクリスマスツリーを飾った……古臭く、前時代的なイルミネーションの一つもないクリスマスツリーの前で足を止めた。
「とても地味。私ならもっと華やかにできるわね」
辛辣であった。
とはいえ、そういいつつも女はクリスマスツリーから目を離さなかった。イルミネーションに飾られ、雑多な印象を受けるビル群よりもこういう朴訥とした物の方が良い、そう思ったのかもしれない。
暫くそれを眺めた後、寂しげな笑顔を浮かべ、女は空を見上げた。
「姫様。……私は生まれ変わったよ」
―――
その日は晴天だった。
肌寒い時期だった。静かに雪が降る、そんな季節だった。
一人の女がコートの襟を締めた。もっともコートの襟を正そうと締めようと、スカートから入って来る風の冷たさはどうしようもないらしく、時折太ももを擦りつけるように変な動きを見せていた。女とすれ違う人達が振り返って女を見るのもそれが原因だったのであろう。本人は全く気付いておらず、無意識の所作であった。傍から見れば美人なだけに残念である、というのは彼女の十年来の親友の言葉だった。
「少し、急ぐとしましょう」
寒さに耐えかねたのか、呟き、少し早歩きで女は自宅へと向かった。
かつ、かつとヒールを鳴らす度に長い髪が揺れる。艶やかな黒い髪がゆらり、ゆらりと揺れる。重くはないのだろうか。きっと重くはないのだろう。
「空が青いわね。爆発すればいいのに」
酷い言葉であった。
横を歩いていたサラリーマン風の男性がびくり、と怖い物を見るような目を女に向け、足早に駆けて行った。
「地獄というには生ぬるい場所だけれど---私は生まれ変わったわよ、お嬢」
―――
前世がどういう物なのかという事を子供のころから良く考えていた。
記憶とは脳の神経細胞のネットワークにより構築されるものであり、極めて科学的な反応である。そこに魂の存在だとかそういった曖昧ないわゆる非科学的な要素は存在しない。であれば、この『記憶』は何なのか?それを考えてもう十数年。結論は未だ出ない。思考実験のみに頼るしかない推論。この『記憶』を例えば昔見た映画のように思えれば、それでも良かったのだろう。あるいは、過去の記憶を思いだす際に多少の装飾がなされるように、想い出が美化されるようなそんなものだと思えば良かったのだろう。けれど、である。この『記憶』を、私は経験として認識していた。
経験として認識している以上、それによって私の性格が作り上げられても仕方なく、共に健在で仲睦まじい両親には聊か罪悪感を覚えたものである。今現在においても、そう思っている。
私は産まれてこの方、両親を両親と認識せず、他人のように思っている最低な人間だと思う。とはいえ、私と両親の仲が不仲というわけではない。ただ、他の家族とは違うというだけだ。例えば一緒に旅行にいけば仲睦まじい親子というのを良く見る。そんな親子を見ると、どうしても罪悪感を抱かずにはいられない。普通の、一般家庭に産まれた子供のように普通に親に甘える事のできなかった私に、両親は手間のかからない子だと言ってくれた。けれど、ごめんなさい、私は産まれて来るべきではなかった。せめて、『記憶』を失った状態で産まれてくれば良かったと、そう思った時も確かにあった。
多少、罪悪感が和らいだのは妹が産まれた時だった。もっとも、別の罪悪感が産まれた瞬間でもあったのだけれども。
妹に、両親の『子』である事を押しつけたのだから。
五つ離れた妹だった。
愛らしい子だった。あの子のように可愛らしい子だった。
妹はすくすくと育ち、今では高校生だ。
対して私は大学生である。専攻は女の行く学科ではないと言われる様な極々理系の学科である。記憶の事を探るためには医学部に行った方が良いかとも思ったが、こんな非科学的過ぎる記憶の存在を現代医学でどうこうできるはずもなく、結果、量子とか素粒子とかそっち方面へ向かった。それで何が分かったわけではないのだけれども。
『えー、つまりシュレーディンガーの猫とは』
100名程が入る事の出来る大学の大講義室。そこで白衣を着た定年間近の教授が猫について語っていた。窓際の席から外を眺めると、大学に住んでいるらしい黒猫が、窓越しに教授の方を睨んでいるのが見えた。猫虐待反対とでも思っているのかもしれない。
ちなみにどうでも良い事であるが、教授が白衣を着るのはチョークの粉でスーツの袖が汚れないように、だという事を知って私は若干幻滅した。
さておき。
シュレーディンガーの猫である。
可哀そうとも可哀そうでないともいえる猫。思考実験に同情を浮かべる程センチメンタルな性格はしていないが、猫と言われると少しばかり思う所があるのも確かだった。
「……」
窓の外でずっと教授を見ている猫をモデルに、ルーズリーフの端にシャーペンで猫を描く。
どこか懐かしい印象を受ける黒猫だった。
そうやって黒猫を描いていれば、自然、懐かしいあの猫の姿が思い浮かんでくる。大して可愛くもない猫。手伝いの者の子供達に虐められていた所をあの子が身を呈して助けた子。強権を発動して猫を住まわせる事にしたものの、生憎と、その後も影で虐められていたようで何度か怪我をしていたが……その度にあの子が手当てをしていた。
そんな猫と私は一緒に長い時間を過ごした。
あの子が先に逝った後もずっとあの部屋で共に過ごした。
猫の名前はない。まだ無いのではなく、ただ無い。私は単に『猫』と呼んでいた。あの子がちゃんと名前を付けないと、と言っていたが、あの子自身は自分で名前を付ける気がなかったようで、遺言のように名付けを託されたものの……名付ける事はなかった。付けるなら、一緒が良いと思ったが故に。
まぁ、猫も猫で、猫と呼ばれて反応してくれたのだから、もしかすると自分の名前が『猫』なのだと思っていたかもしれない。今となっては分からない事だが。
私の最後を看取ってくれた猫。そんな猫に対して不義理な気もするので、もう一度会えたのならば名前を考えてあげようと思った。昔より知識もあるし、良い名前を付けられるだろう。多分。
『---君。---君』
「は、はい?」
名前を呼ばれ、呼ばれた理由が分からず、加えて言うならば、教授に名前を覚えられているとも思わず。一瞬、どもってしまった。
『君は、猫が好きなのかね?』
「はぁ。それなりに」
『それは悪い話をしたね。別段、シュレーディンガーの猫を語る上で猫である必要は―――』
ルーズリーフに猫を描いていた事に気付かれたのだろう。まぁ、つまり教授の話のネタにされたわけである。
くすくすと小さく笑う声が聞こえた。
男であったり、男であったり、男であったり、女であったり。何とも女の少ない学科である。これ見よがしに『---さん、猫好きなのかぁ』『猫カフェとか誘ったら―――』とかそんな野郎共の声が聞こえた。
私が云うべきことではないが、講義はしっかり聞くべきである。そんなだから試験前に単位がどうこう赤点がどうこう言う事になるのだ。まぁ、あれはあれで様式美みたいなものと言ってしまえばそうかもしれない。赤信号、皆で渡れば怖くない、みたいな。当然赤信号中なので事故に遭う者もいるだろうけれど。ともあれ、私は、厚顔無恥に黒点をくれる教師は良い教師と言いたくはない。
そんな事をしていたら、きっとあの子に怒られる。
大人しくて、真面目で、可愛らしいあの子に怒られる。儚く散った牡丹雪のようなあの子に。
苦笑が浮かんだ。
二十余年。
探しても、探しても見つからない。
記憶が私を囃したてる。
早くあの子に会いたいと。
今の大学を選んだ本当の理由は、単にあの場所が---昔は私の屋敷だった-――近いからだった。今は公園になったあの場所に。名残は殆どないけれど……一番大切な想い出、二人で植えた樹は年月を経て大木になっている。それを前に私はずっとあの子を待っている。見つけようと思って見つけられるわけじゃない。だから、あの子があの場所へ来てくれるのを私はずっと待っているのだ。
あの子が現れたら二人で祝おう。
あの大木にクリスマスの装飾をすれば、とても素敵なツリーになるだろう。昔はそんな風習がなかったけれど、今ならそういう祝い方も良いように思う。
らしくないと、そう言われるかもしれないけれど。
『―――翻って、エヴァレットの多世界解釈。この解釈というのはあくまでそう考えたら現象に対して辻褄が合うというものであり―――さておき。この多世界解釈というのは……』
クリスマスツリーを前に、二人で過ごす時間。それを想像していれば、あの子に会いたいという衝動が強くなって来た。昔はそんなでもなかった。あの子が先に居なくなったことで想いが募ったと言えば良いのだろうか。何とも少女趣味になったような気がするけれども……悪くはない。
私は、こんな私が嫌いではない。
両親を両親とも思わぬ不出来な娘ではあるし、現在よりも『過去の記憶』に縋って生きているような女ではあるけれど……それでも、それで良いと、そう思う。
孤独かもしれない。世界の誰よりも記憶にあるあの子を望む私は本質的に孤独なのだろう。孤独に生きることを地獄で生きるようだと称する人がいたとしても、私はそうは思わない。
例え、そこが地獄であろうとも。
そう願ってくれたあの子を、私は……
―――
「メリークリスマス、ミスターローレンス」
「ローレンスって誰?」
「知らない?」
「知らない」
生憎と私に外国人に知り合いはいない。精々、一見、外国人風の目の前の子ぐらいだ。金髪碧眼の両親共にヨーロピアンの日本生まれの日本育ち。日本語しか喋る事のできないこの外国人風のTHE JAPANESEぐらいしか知らない。なお、発音もカタカナである。両親は一体何を思ってこの子に日本語しか教えなかったのだろう。不思議でならない、と私は思う。
「というかまだクリスマスには早いよ。クリスマスは明日」
「閏年を無視すればきっと今日がクリスマスよ」
良く分からない理屈だと思った。変な子である。そんな私の想いに応えてくれるように野良猫がにゃあと鳴いた。黒猫だった。稀に見る子だった。どこかあの子を彷彿とさせる猫だった。
その猫は塀の上で四足をだらっと伸ばして日向ぼっこをしているようだった。寒くはないのだろうか、と少し心配になった。
「目は口ほどに物をいうとはいうけれど、貴女の場合は更に酷い。目が口よ。私が変なら貴女はもっと変な子!」
何も言っていないのだけれども、と思っても今更のことである。長いとも短いとも言えない付き合いだけれど、この子の人となりは良く理解している。
大概他の人には私の方が変だと言われるのだけれども。釈然としない。違うよね?と視線を猫に向ければ、にゃあと鳴かれた。酷い猫もいたものである。
「で、何用?折角のお休みに私の所に来るなんて」
「ふふふ。前世からの宿命のライバルの下へ来るのに理由なんていらないわ!」
「はい、はい」
これで彼女より私の方が変だと認識されるのは彼女の容姿が故だと思う所である、と私は思う。
ちなみに加えて言うならば、前世の記憶がありますか?と問われると『はい』と答える系の私ではあるが、私の前世にこのようなライバルはいなかった。
私の前世。
華の命は短いけれど何とやら。そんな人生だった。
産まれたのはここから遠く離れた寒村。今で云う所の豪雪地帯、そこに産まれた。父と母、兄と弟。ああいう場所では娯楽もない所為か、割と大家族が多かった。私も産めや増やせやを担う予定だったが、口減らしのために家族に売られた。不作の年だった。今よりももっと華奢な体躯だった私でも、畑仕事をするための労働力としてカウントされていたわけであるが、年を越せないぐらいの不作だったが故に、売られた。若い女の方が高く売れるからというそんな理由で弟の代わりに私は売られ、あの人の住む場所に連れて行かれた。その事を恨んだことは……あった。泣き晴らし、目を真っ赤にさせながら屋敷で働いていた。『そういう』目的で買われたわけではなかったのは不幸中の幸いだったといえるかもしれない。
そんな目を真っ赤にしながら過ごす生活も、暫くして終わりを迎えた。両親への恨みもその時、消えて失せた。
『兎のようね』
充血した瞳を見て、あの人がそう言った。とても優しい声音だった。とても寂しげに笑う人だった。
あの人は偉い御役人様の娘だった。もっとも、その扱いといえば流刑をくらった罪人みたいなものだった。閑散とした屋敷にあの人とお手伝いとその家族数人で暮らしていた。質素倹約を目指していたわけではないのだろうけれど、貧しい生活をしていた。ひもじくはなかったけれど。
なぜあの人がそういう扱いを受けるのかといえば、雪のように白い肌が原因だった。私と同じく屋敷で働いていたお手伝いさんが、あの人のことを陰口のように『鬼の娘』と呼んでいたのを覚えている。
あの時代、鬼といえば、言葉の通じない巨漢や雪のように白い怪しげな者達の事を言った。噂話に聞く程度で私も実物を見たことはなかった。けれど、今生になって『ああ、ロシアの人達だったのね』と分かった。幽霊の正体見たり枯れ尾花であった。もっとも、あの時代、鬼を別の国の人だと理解できた者はいなかった。大陸系ならばまだしも、ロシア系の人達は違いが過ぎた。ともあれ、そんな大陸産まれの雪のように白い女。鬼の女と呼ばれた者と交わり子を成した。そこから産まれて来たのがあの人だった。黒い髪は父親の遺伝子、白い肌は母親の遺伝子だった。
望まれて産まれて来たのかも分からない、祝福されて産まれて来たかもわからない。捨てるには忍びなく---鬼の呪いでも貰うと思ったのだろうか―――、遠方に捨てられたお姫様。そんな感じの人だった。
ただ、あの人自身はそれでも誰を恨む事なく、特に何を望む事もなく、あの場に住んでいた。
とても優しい人だった。
とても。とても。
私が病に倒れた時も夜通し付き添ってくれた---もっとも、その後私はお手伝いの人から罵声を浴びせ掛けられたが―――。子供達が虐めていた猫を助けた時には貴重な薬を使わせてくれて、更にはそこに住まわせる事を認めてくれた---もっとも、その後私は以下略。
そして、私の最後も看取ってくれた。
『兎のようですね』
私の最後の言葉はそれだった。
にゃあとなく黒猫とあの人が私を看取ってくれた。
それだけで私の人生は救われたと思う。幸せな人生だったと思う。それだけで十分だったけれど、浅ましくも私はもう一度、あの人に会いたいと願った。
「へーい、ゆー」
「無理に外国人ぶらなくて良いから。で、本当の所要件は何?私今から行く所があるんだけれど」
「永遠のライバルである貴女に、デートを申し込みますわ!」
「帰れ」
「ふっ。ライバルに帰れと言われて素直に退散する奴がいると御思いですか!」
「ライバル相手をデートに誘うライバルも居ないと思うけど。というか、貴女、もてるんだから、私なんかの相手しているんじゃないわよ」
「何を仰る。有象無象の者達よりも前世からの因縁を持つ貴女を私が優先するのは必定。ライバル同士戦い、お互いを高め合いながら、心交わし、次第に嫌よ嫌よも良いの内になって、最後はハッピーエンド。それが私の目指す所です」
こいつの頭がハッピーだな、と思った。
同意するように猫が鳴いた。にゃあと。
ちなみに、この金髪碧眼日本人は大層もてる。老若男女問わずもてる。リア充の鑑である。が、なぜか私に付き纏うわけである。前世がどうとか言って。
もしかして2世代ぐらい前の前世で彼女にあっていたのかもしれないなぁと思った事もあるが、単なる中学二年生がそのまま高校生にあがっただけだった。それと分かったのは彼女の愛読書が、前世が云々みたいなラノベだったからである。私を前世でのライバルとか言っている理由は未だに分からないが……この出会いは運命なの!とでも言いたいのだろうか。お互い女なのに。大層、非生産的である。
「胡乱な眼をしますね、ローレンス」
「だから誰よ」
「実は私も良く知りません」
すがすがしいまでに、からっと笑った。それはとても綺麗な笑顔だった。ついつい見惚れてしまうぐらいに綺麗だった。とくんと胸が高鳴るぐらいに。
「……早く生まれ変わらないと浮気するわよ、私」
ぼそり、と呟く。
瞬間、そんな自分を鼻で笑った。
そんなわけがない、と。
私の思いはそんな簡単な物じゃないのだから。とても重くて、とても年季が入っているのだ。こんなぽっと出の女の子に懸想してしまうような気持ちじゃない。
でも。
でも。
私だけがこの世界に生まれ変わったのだとしたら……
そんな想像に身体がぶるりと震える。恐れだった。脳裏に浮かんだ思いを掻き消すように頭を振れば、心配そうに彼女が私の顔を覗いてくる。
「突然、どうしました?」
「止めて……」
優しくしないで欲しかった。
色褪せぬ想いが、この太陽のように輝く金色の髪の所為で褪せてしまいそうだったから。前世なんて『記憶』だけの存在よりも、現実を見てしまいそうだったから。
瞬間、猫がにゃあと鳴いた。
違うでしょう?とそう言いたげだった。
塀の上でぐっと背を伸ばしながら、再度、にゃあと窘めるように。
うん。そうだ。私は、寂しいからあの人を望んだわけじゃない。孤独だったからあの人を望んだわけじゃない。例え、太陽がなくなったとしても、世界が氷に覆われたとしても、私はあの人と一緒にいたいから、願ったのだ。もう一度会いたいと、あの人と交わりたいと願ったのだ。
だから、うん。
そう。
北風と太陽だったら、私は北風に負けるのだ。いいや、望んで北風の方に向かうのだ。
「んー?今日はいつにもまして変ですねー。仕方ありませんね。ライバルの邪魔をするのは本意ですが、今日は大人しく帰ります。次こそは一緒にデートしましょう」
「嫌よ。ま、でもありがとう。楽になったよ。……じゃ、さよなら」
「こういう時はまた明日ですよ。ローレンス」
「だから、誰よ」
ついつい笑ってしまった。手をふりふり、またねと口にしてから外国人風日本人と別れ、私はあの場所へ向かう。
私の居た場所へ、あの人が住んでいた場所へ。
そんな私に、黒猫が塀の上をとことこ器用に歩きながらついて来た。
―――
うにゃぁんと鳴く声に、寂しげに大木を眺めていた女は振り向いた。
振り向き、笑みを浮かべた。
―――
うにゃぁんと鳴く声に、切なげに切り株を眺めていた少女は振り向いた。
振り向き、笑みを浮かべた。
2.
これはいかん、と猫は思った。
猫は眼前に浮かぶ彼女達の姿を見て、違和感を覚えた。私にはあの時私を助けてくれた愛らしい少女……お嬢と、その主人である姫様が並んでいるように見える。
あの時の様に肩を並べているように見える。見えるのだが……その肩は重なっていた。人間にそういう特性が無い事を猫は知っている。
これでも猫はかなり長生きしているのである。森が森であったときから、公園になったぐらいまで。刀や甲冑を着こんだ男達が居た頃から、ヘルメットを被って金属の巨大な物体に乗り込んでダムと呼ばれるコンクリートの化け物を作るに至るまで。
下手な人間よりも知識を持っていると自負している。所詮、猫であるが故に肉球だが。ふさふさだが。
再び、にゃあと鳴けば、二人が揃って私に向かって来る。
揃って私の頭を撫でる。
変な感覚であった。
女に撫でられているのと、少女に撫でられているのと。同時の様で、同時でない様で。
女を意識すれば女の手の感触がより伝わって来るし、少女を意識すれば少女の手の感触がより伝わって来る。
不思議な感覚である。
さて、ここから導き出される結論とは何か。
知識豊かな猫は知っている。
しゅれなんとかである。
えヴぁなんとかである。
姫様が学び舎で学んでいたアレである。窓の外から板書を眺めるぐらいしかこの身には出来ないが、アレである。アレアレ云っていて本当に理解しているのかと問われれば、こう返そう。実は良く分かっていない。
所詮、猫は猫である。
ただし、ただの猫ではないのである。
久方ぶりに二人に撫でられる感触を堪能しながら猫は考える。考えている。何をすればこの二人は互いを認識することができるのか、と。
仲睦まじかった二人が、互いを認識できずに同じ場所にいる事のなんと不幸な事か。世界を隔てたかのような、重なり合っている二人が互いを互いと認識するためには猫は何をすれば良いだろうか。
猫の命を救ってくれて、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたこの二人に、この世界には悪意だけが存在しているわけではないと教えてくれた二人の為に、この化け猫が何をできる。
にゃあ、と鳴いた。
届かない。
所詮、猫は猫である。
人の言葉を伝える事はできない。
あぁ、いや。
そうだ。
そうさ。
猫は言葉を理解できる。
で、あれば。
―――
大学で教授を睨んでいた猫が、足元でごろんごろんしていた。なぜここにいるのだろうか?全くもって理由は分からなかった。猫の行動範囲はそれほど広くないと聞いたことがあるけれど……と考えた所で分かる様な事ではなかった。
とりあえず、ごろんごろんしている姿を見て、背中がかゆいのかと思って、背中を掻いてあげれば、にゃあと嬉しそうに鳴いた。それが楽しくなってついつい何度も何度も背を掻いていれば、猫の方が飽きたのか、しゅたっと音と立てて四足で立った。
立ったと思ったら前足で地面をかりかり、削り始めた。
かりかり、かりかり。
器用なものだと思う。
本当に、器用だと思う。まるで字を描いているかのような……
「え……?」
―――
この子は何をしているのだろう?塀の上からずっとついてきてここまでついて来た。不思議な猫だと思った。どことなくあの時のあの子に似ているけれど、あの猫が今まで生きているわけもない。もしかしてあの子の子孫だったりするのだろうか。
とりあえず、この子は何かをしたいようで、私はその子を眺めていた。見れば見る程、あの子に似ているなと思いながら。
かりかり、かりかり。
器用なものだと思う。
器用な……本当に……
「え……?」
―――
『姫様はここにいる。お嬢もここにいる。 猫より』
―――
猫が言葉を描く。
その事への驚きは確かにあった。けれど、それ以上に……その言葉に驚いた。
「あなた、あの猫なの?本当に?」
私とあの子が互いを呼ぶ時の掛け声。私は姫様でもないし、あの子はお嬢様でもない。けれど、私達はそんな風に呼び合っていた。それを知っている猫なんて……あの黒猫しかいない。私が逝く時もまだ健在であったのは事実だけれど、だからといって……いいや、それよりも。
それよりも。
「ねぇ、猫。……あの子がここにいるの?」
頷くように猫がにゃあと鳴いた。
瞬間、涙が溢れ出そうになった。
歯を食いしばり、思考を巡らせる。変な顔になっていたのだろう。猫が心配そうに私を見て、にゃあと鳴いた。にゃあ、にゃあと鳴いた。
大丈夫。大丈夫だから。
多元世界。多世界。パラレルワールド。何でも良い。とにかくそんな概念が頭に浮かぶ。生まれ変わり、その辿りつく先が同じ世界である保証なんてあるわけがない。まして同じ時を生きられる保証なんてもっとない。いいや、それ以前に生まれ変わり自体が非科学的な事だ。
猫がそれを認識できる理由なんて分からない。この猫があの猫だとするならば何百年の時を過ごしてきた事になる。そんな非科学的な事。そんな非科学的な事……
かりかり、と猫が前足を動かした。
『姫様、ここにおられるのですか? お嬢より』
頬を伝う、水が冷たかった。
―――
『ここにいるわ 姫様より』
前足が作り出す砂の文字。一字、一字が浮かびあがるたびに涙が零れて行く。
パラレルワールド。そんなSF染みた言葉が浮かびあがる。どうして、同じ世界に私達は産まれて来られなかったのだろうか。理由も何もわからないままに最初に浮かんだのはその言葉だった。何度も何度も、そんな言葉が浮かんでは消えた。
でも、この涙はそんな恨み辛みだけで出て来たものじゃない。
嬉しかった。
例え、その姿を見ることが叶わないとしても、それでも彼女が生まれ変わり、私を覚えてくれていた事がとても、とても嬉しかった。
「猫さん。お願い……あの人に、今、幸せかと聞いて頂戴」
にゃあ、と鳴いた猫さんが文字を形作って行く。
『この世界には貴女がいない。でも、それ以外は幸せよ。あなたはどう?』
「私も同じです。姫様がいない、それ以外は幸せです」
呟くように告げれば、猫さんがカリカリと前足で文字を描いてくれた。ありがとう、と猫さんの頭を撫でる。にゃあと嬉しそうに鳴いた。
そして再びカリカリと猫さんが前足を動かした。
『残念だけれど、でも、良かった。貴女が幸せで』
とても、とても残念だけれど……大好きな人が幸せなことは嬉しい。でも、やっぱり、やっぱり……隣に居られない事が苦しい。
猫さんを通して、何度も言葉のやり取りをする。
今どうしているのか、とか今までどうしてきたのかとか、それ以外にも他愛の無い事を何度も何度も。このままだと猫さんが疲れて寝てしまうまで続けてしまう事だろう。でも、猫さんは何も云わずに私達の言葉を、異なる世界へと伝えてくれた。ありがとう。ありがとう、何度も何度も感謝を浮かべながら私は猫さんの好意に甘えた。
それから暫くして、姫様がこんな事を言った。
『それにしても貴女とこの木を装飾できないのは残念ね』
「木?」
目の前にあるのは切り株。姫様と二人で植えた木。それがこんなにも大きな切り株になっていた事に驚いた。もう少し早く産まれてくれば聳える木が見られた事だろう。けれど、私が幼い頃に誰かが落ちて大怪我をした所為で切り倒されたらしいと聞いた。それを聞いた時残念だという想いと共に、死ぬことはなかったらしく、私達の植えた木が人を殺さなくて良かったとも思った。
そんな木が、姫様の世界にはあるのだろう。切り倒される事なく。もしかして、その誰かが怪我をしなければ、私と姫様の世界は分岐することもなく、今も同じだったのだろか。だったらあの時、植えなければ……ううん。想い出を否定したくないし、きっと、そんな事関係ないのだろう。
あの人の眼前に聳え立つ巨木を想像し、それを二人で装飾するという夢を描く。
楽しそうだった。何だか少しだけノリの良くなったあの人と一緒に二人で作り上げるクリスマスツリー。とても、とても見たかった。
「……来世まで待って下さい。次こそ一緒に」
かりかり、と猫さんが伝えてくれた。
『今度こそ地獄かもしれないわよ 姫様より』
「構いません。姫様がいればどこでも」
―――
かりかりかりかりしていたら、爪に泥が溜まって来た。自慢の爪が泥だらけである。困ったものである。が、そんなものは後で洗えば良い話である。なので休むことなく、二人の会話をかりかりかりかり前足で書く。
中々恥ずかしい言葉の応酬もあったが、この二人の事である。今に始まった話でもない。にゃあにゃあと誤魔化すように鳴きながら、カリカリと前足で文字を描く。
ふと、
『そういえば、姫様。この子の名前は?』
『猫と呼んでいるわね』
『相変わらずというか。らしくて安心しました。けど、名前はつけてあげないと駄目ですよ』
『貴女と一緒に考えたかったのよ』
『嘘ばっかり。面倒だっただけでしょう』
『否定はできないわね』
酷い話もあったものである。
が、猫は別に気にしていない。名前など人間が互いを区別するためだけに付けられる物でしかない。猫である猫にはどうでも良い話である。
が、付けてもらえるなら嬉しいのも事実。
小さな心臓がドキドキしてきた。
『クリスマスにはちょっと早い。慌てん坊のサンタクロース。サンタとかどうです?』
『素敵なプレゼントを持って来てくれたこの子にはちょうど良いかもね』
サンタ。
この国ではこの時期になると謎の赤装束を着こんだ白ひげが大量発生する。それと猫を一緒にするとは……にゃあにゃあ抗議してみたものの、『そう、喜んでくれるのね』とか『気に入ってくれた?』とかいう始末である。
まったく。
『まったく気に入らないので、来世までの宿題とします 猫より』
瞬間、次元を超えた二人が同時に笑っているのが見えた。
まぁ、二人が幸せそうで何よりといえば何よりである。
少しは恩を返せたかなと思う猫である。
とはいえ、もうしばらく恩を返すとしよう。
来世で二人が出会うぐらいまでは。
もっと長生きしないとな、と猫は思った。
了
猫がんばった。