おわりの音
一般的に言えば、当たり、なのだろう。
いかにも女が喜びそうなオシャレなイタリアンレストランだった。値段のわりには料理も悪くない。男女三対三、人数もちょうどいい。なによりも見栄えのいい女がそろっていた。
久しぶりに参加した合コンは盛り上がってはいたが、祐次にとってはどこかそらぞらしい感じがして楽しめなかった。
「ちょっと酔っちゃったみたい」
帰りのタクシーでは知り合ったばかりの女が隣に陣取っていた。祐次にゆったりと身体をあずけ、目を閉じている。香水がほのかに香っていた。
「だいじょうぶ?」
内心では、重いな、と思っていたが、うわべだけで優しさを装って祐次は尋ねた。明日は休みだ。だから、この女と楽しむのもそう悪くはない。
「ちょっと酔っちゃったみたい。祐次くんの部屋で少し休ませてもらってもいいかしら」
明確な誘いは逆に祐次をげんなりさせた。
「ごめん。家、かなり散らかってるから」
行くのならホテルと決めている。
「汚くても平気よ」
「他の場所にしない?」
面倒は好きじゃない。一度も部屋に女を連れ込んだことはないし、特定の相手にわずらわされるのもまっぴらだった。
「祐次くんの部屋見てみたいな」
「カオリちゃんだっけ?」
甘ったるい声が「なぁに」と答えを返す。
うっすらと瞼があがり、ピンクの唇がキスをねだるようにかすかに開いた。我慢ならなかった。
まとわりついてくる女の身体を引き剥がし、あからさまな嫌悪をにじませて言い捨てる。
「俺その気ないから」
祐次はタクシーをその場で停車させると車を降りた。
時計の針は十一時を指していた。
祐次の部屋までは歩いても十分はかからない。酔いを覚ますにはちょうどいい距離だった。
さっきまで一緒にいた女の驚いたような、傷ついたような顔を思い出す。
ほんの少しの罪悪感を覚えた。
けれど誰かを傷つけるのは妙に心地良く、いくらか気分が晴れる気がした。
悪趣味なのは百も承知だ。自分が誰かを傷つけられるという事実は、ほんの少しだけ祐次を元気付けた。
レンタルビデオの十八歳未満禁止のコーナーは平日のわりに混雑していた。
ショップの青い照明に惹かれて入ったが、これといって借りたい作品があるわけではなかった。
なんとなく店内を一周して最終的にたどり着いたのがアダルトのコーナーだった。
新作にも話題作にも興味は湧いてこない。 真横で一心に裏表紙のあらすじを読む中年の男を一瞥し、帰ろうとした祐次は一本のDVDに目を止めた。
名も知らない女優がケバケバしい下着姿で微笑んでいた。
悪趣味すぎる。けれど手に取らずにはいられなかった。今の自分にはこれこそ似合っているような気がした。
チャイムの音に、またか、と思う。
確かめなくともドアの向こうにいるのが誰なのか予想はついた。
「祐ちゃん、まだ起きてるよね」
もう夜中の十二時をまわっている。
どういうつもりなのか、彼女の気持ちがまったく理解できない。
「ちょっと待って! いま開けるから」
祐次は慌ててDVDを停止させると、立ち上がり、ドアを開けた。
「夜おそくにごめんね。迷惑だった?」
口先だけは神妙だが、気にしているようすはまったくない。
なにも今夜に始まったことではない。
彼女がこうやって祐次の部屋にやってくるのは毎度のことなのだ。どちらにしても、これでは女は連れ込めない。
「いいけど、こんな時間にどうかした?」
「健一から電話があって、また今日も泊まりになるっていうから来ちゃったの」
「毎日大変だね」
祐次の兄であり由美の夫である健一はプログラマーをしていた。毎日が残業つづきで、仕事が忙しいときは会社に泊まりこむこともよくあった。
「もう、いつものことよ。慣れちゃったわ。煮物作ったから持ってきたの」
かつて知ったる他人の家。義姉は部屋に上がると三畳のキッチンを通りぬけ、その奥にあるフローリングに腰をおろした。
「わざわざありがとう。でも、今日は食べてきたんだ」
「そうなんだ。じゃあ、この煮物はよけいだったかな」
「まさか。ユミちゃんの手料理美味しいから、いつも助かってるよ。明日食べるから冷蔵庫に入れておいてよ」
キッチンで由美が呆れたように言った。
「もう、なにこれ。ビールしか入ってないじゃないの」
「あ、ついでに一本取ってよ」
「飲みすぎじゃないの。これで何本目?」
「忘れた。でも、だいじょうぶだよ。明日は休みだから。ユミちゃんも飲めば?」
「あたしは遠慮しておく」
「なんで? 飲めばいいじゃん。でも、それ一本飲んだら帰りなよ」
しばらく考えたあと、そうしようかな、と言って由美は缶ビールを二本持って戻ってくると祐次の隣りに座った。ごろにゃーん、と甘えた声を出して祐次に寄りかかる。
ドキリとした。
「子供みたいなユミ先生、飲む前からもう酔っ払ってるの? それとも実はキッチンドリンカーだったりするわけ?」
内心の焦りを押し隠し、おどけてみせる。
「やめてよね。家では飲まないもん。それに、もう祐ちゃんの家庭教師は何年も前に卒業したんだから、先生なんて呼ばないで」
「寂しいなあ。それでなに、旦那様の前ではいい子のフリしてるんだ」
「五歳も年下のくせに、大人をからかうもんじゃないわよ」
ユミは身を起こした。缶ビールを手に取ると視線を手元に落とし、半分ほど残った中身を揺らす。
「今日は何食べてきたの?」
「イタリアン」
「彼女と?」
「違うよ」
「じゃー何よ。わかった、合コンでしょう」
「まあね。そんなとこ」
「いい子いた?」
「いないいない。そんなんじゃないよ」
「なにそれ。じゃー、どんななの?」
「ただの人数合わせ。急用で行けなくなったやつがいてさ。そいつの代わりに行っただけ。ただ、それだけのことだから……」
言い訳めいた言葉に「馬鹿みたいだな」と思った。合コンに行った理由がなんであろうと由美にはまったく関係ないし、興味すら覚えないに違いない。
「祐ちゃんは彼女いないの?」
「いないよ」
「えー、うそだぁ。祐ちゃんはモテないタイプじゃないでしょう」
「別に欲しくないから」
「負け惜しみかな」
「興味ないし、面倒なのが嫌なだけだよ」
「強がり言って。彼女いないんじゃせっかくの独り暮らしが泣くぞ」
「帰れよ。変な噂が立っても知らないぞ」
「変な噂なんて立つはずないじゃない」
由美が笑う。
「どうしてさ。ユミちゃんが兄さんの嫁さんだから? ……俺だって男だぜ」
「祐ちゃんはそんなんじゃないでしょ」
嬉しくもない。つまりは安全圏というわけだ。出会ったのは兄よりも自分が先だったのに、と思わずにいられない。
叶うはずのない思いと割り切って、諦めていた。感情を押し殺し、何事もないようにふるまいつづけるのはもう限界だった。
「帰れよ」
「怖い顔して、どうしたの急に。祐ちゃんおかしいよ」
「いいかげんにしてくれよ!」
立ち上がった拍子に缶ビールが転がった。
白い泡が零れて床に広がる。
いつのまにスイッチが入ったのかテレビにアダルトDVDが映し出されていた。
長いストレートの髪を振り乱して女が腰を振っている。
どことなく由美に似た、名前も知らない女優の白々しい喘ぎ。ただ寒々しいだけの行為。いやな笑いが込み上げた。
「知ってた?」
覆い被さるように逃げ道をふさぎ、片方の手首を握り締める。
びっくりしたように見開かれた瞳の色には明らかな怯えがにじんでいる。
もう終わりだ。妙に冷めたもうひとりの自分が囁いた。それは奇妙な安堵だった。
「義姉さん、おれはアンタのことが大嫌いなんだよ」
彼女と本当に寝たいかすらもうわからない。ただドロドロとした感情だけがいまも胸にくすぶり続けている。
「やめて」
ブラウスの襟元に手を掛ける。ほんの少し力を込めただけで簡単に釦がはじけとんだ。
「……祐ちゃん、お願い」
悲鳴にすらならない。あるのは驚愕だけだった。男として一度も意識したことのない、かつての教え子。夫の弟。由美が泣き出した。
これで終われる。形はどうであれ。幸福な未来なんて、くそくらえだ。
何もかもを打ち壊してしまえば、ようやく持てるはずのない希望から解放されるのだ。