迷探偵 嬉野由莉香の推理
火災報知機が、けたたましく鳴り響いた。
放課後、埃っぽい多目的教室は何者にも侵入されることのない聖域となるのだが、生き物ではない音に対して安っぽいコンクリート壁は全くの無力だった。その多目的教室の中央に座って読書をしていた少女、嬉野由莉香は、報知機の煩わしさに溜息をつきながら向日葵が描かれている栞を小説に挟み込んだ。
音は、上から響いて来ているようだった。校舎は四階建てであり、由莉香が読書をしていた多目的教室は一階の端にひっそりと存在している。何階で鳴っているのかは分からないが、上から聞こえてくるのならばしばらくは安全だろうと高を括る少女の、小説を鞄に入れる動作は非常に緩慢だ。
椅子をきちっと机の下に押し込み、鞄を背負う。踏み出した一歩を受けてゆっくりと揺れる茶色のショートカットから覗けた表情は、なんとも不満そう。火災報知機に読書を邪魔され不機嫌になるのは分かるが、しかしそれにしても彼女の危機感は微塵も働いていないようだ。
そこまで正味二分といったところだろうか。鳴り響く音にアナウンスチャイムが追加され、由莉香は目を瞬かせてスピーカを見やった。別校舎にある放送室から伝えられたのは、多目的教室のある校舎の四階の火災報知機が誤作動を起こしたという内容を伝える生徒の言葉。
小首を傾げ、再び教室の真ん中にある席を陣取り鞄から小説を取り出す。火災報知機の音も止み、挟んでいた栞を取り読み始めようとした彼女だが、静謐の一時はすぐに破られた。
「すみません」
そう零す唇のような赤い顔で入って来たのは、見たことの無い男子生徒だった。
由莉香は怪訝に眉を顰める。彼女の知る限り、この聖域に踏み込んでくる人間はたった一人だった。そしてその一人は昨年卒業していて、新入生が入学してから三ヶ月間この多目的教室は彼女だけの聖域であった。
しかし由莉香が眉を顰めた理由の大部分は聖域を穢された不快感ではなく、男子生徒の言葉にある。誰かが居ることを知っていたかのように、すみませんと言いながら入って来たことが、気にかかるのだ。
「・・・何の用?」
無愛想に、由莉香はそう問う。
少年の反応は、苦笑いだった。だが無愛想に押されることなく由莉香へ近づいて行く。そして目の前まで来た彼はそこで足を止め、ズボンのポケットから一枚の封筒を取り出してそれを向けた。
ラブレター、などとは夢にも思わない。それは茶封筒で、愛の告白としては聊か情緒に適していない。
「これ、姉からです」
「姉・・・?もしかして君は、繋さんの弟さん?」
「はい」
古峯繋。あの鬱陶しいほどに清々しい笑顔が、その弟の表情から思い起こされる。そして喚起される一つ上の先輩との思い出だが、それは決して美しいものではなかった。毎度毎度茶々を入れられ読書の邪魔をされた苦々しい感情が、その思い出を塗りたくるのだ。
悪い人ではなかった、と繋が卒業してから思う由莉香だったが、どうやら思い出は美化されないようだ。
「繋さん、相変わらず元気?」
小説を机の上に置き、茶封筒の封を切りながら、由莉香は繋の弟に尋ねる。勿論その答えは、分かっているのだが。
「ええ。元気をどこかで売却して来てほしいくらいです。あの無駄すぎる元気なら、太陽エネルギーの代わりになると思います」
「エコだね」
取りだした手紙を読む。それから由莉香は本日二度目の溜息をついた。
「そしてどうやら君も、お姉さんと同族らしいね」
「いやー、あの姉ほどじゃないですよ」
「どうかな。火災報知機を鳴らすくらいだしね?」
それまで笑顔を浮かべていた少年の表情が固まった。
「何を言ってるんですか。あれは誤作動って放送がさっき流れてたじゃないですか?」
「誤作動だと分かるまでの時間があまりに早すぎる。あの放送を流したのは、放送部に所属しているだろう君の友達じゃないかな?」
火災報知機が鳴り響いてから僅か二分。そもそも放送室は別校舎にあり、首尾よく誤作動を確かめたとしてもその二分の間に向うことなど出来ない。
「それに君はこの教室に入ってきた時、顔が赤くなっていた。四階から一気に駆け下りて、この多目的教室を見張っていたせいだよね」
「見張っていた?何でそんなことをするんですか?」
読み終わった手紙を丁寧に畳み、茶封筒に収める。そしてそれを机の上に置いて、由莉香は少年を見据えた。
「報知機の音を聞いた私がこの教室から出ていくかもしれないからね。君はそれを確かめなければいけなかった。最も、私の性格を繋さんから聞いているなら、二分の間には出てこないと踏んでいたんだろうけど・・・そう考えるとまた絶妙な時間だね、二分は」
少年は頬を掻いた。そして心底不思議そうに、問うのだ。
「どうして出ていくかどうか確かめる必要があるんですか?」
「私が多目的教室から出ていけば、試せなくなるからかな。繋さんから聞いているんでしょ?」
そう言って由莉香は再び茶封筒を開け、手紙を取り出し少年に見せつけるように開けた。その白い紙の左端には、大きな文字でこう書かれている。
迷探偵さんへ、と。
「確かめたからこそ君は、火災報知機が誤作動だと放送されてから直ぐにこの教室に入ってきた。大抵の人間は誤作動だと分かるまでの二分間、慌てて運動場へ向かう。だから教室に残っている人間は殆どいない。しかもこの使われていない多目的教室なら尚更。けれど君は、すみませんと言いながら入って来た。ここに人が居ることを知っているかのように、そう言ってしまった」
手を口で覆う少年の眼は真剣そのもので、これもまた繋を思わせる。こうやって取りとめもないことを推理する間、繋は決まって今の少年のような眼で由莉香をじっと見ていた。
「大体、誤作動という放送があってからこの教室に君が入って来るまでの時間が短すぎた。誤作動だと知っていたんじゃないかと思われても仕方がないよ」
「流石は迷探偵、嬉野由莉香先輩。ばれてしまいましたか」
朗らかに少年は笑う。由莉香は呆れ、中指に短い髪を巻きつけながら口を開く。
「さっさと職員室に行って謝って来なさい。君の友達は今頃、怒られていると思うよ」
「はい。行ってきます!」
元気よく少年はそう言って、多目的教室から出て行った。
何よりも似てほしくないところが、似てしまっているな。
本日三回目の溜息。しかし、ようやく安息の時間を迎えられる。そう安堵しながら小説を開いたその時、勢いよく教室の扉が開けられた。
「・・・・今度はなに」
「あ、すみません。俺、古峯昇って言います。これからよろしくお願いします!」
「よろしくしたくはないのだけれど」
そんな言葉を跳ね飛ばすようにニカッ、と唇の両端を吊り上げる。
「早く職員室に行ったら?」
「はい。ジャンピング土下寝で、教師の度肝を抜いてやります」
「肝を抜くべきなのは、古峯君の方だと思うけどね」
昇は頭を掻き、それから力強く一礼して扉を閉める。
もう、溜息も出てこない。由莉香はただ黙って小説を開き、それから頬を痙攣させる。
栞が、汚れた床に落ちていた。
どこまで読み進めたか、はっきり覚えていない。
頭を抱える。それから小説を鞄にしまいこみ、由莉香は聖域からとぼとぼと出て行くのだった。
本当にミステリー作家さんは凄いなと思います。整合性がぁ・・・とれない。
またこの二人でちょっとしたミステリー(?)を書いてみたいなと思うので、続編があるっぽく書きました。